山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

緑の芝生に茜(あかね)空

2010-07-30 22:58:56 | 建物
 確か10年ほど前までは映画館があった所が現在は芝生が敷き詰められている。
 その向こうは遊歩道と御殿堰。
 さらにその背後には新築の和風商業ビルとごく最近開店した古い土蔵利活用の喫茶店。
 ここまでが山形市が力説する中心市街地賑わい回復のための「3つの新名所」の中の最後の名所ゾーンである。(※左側の和風商業ビルについては前回の記事の最後の写真参照)
 だが、さらにその向こうに2階建の和風住宅と豪壮な土蔵が見えるが、この2つの建物は山形市が言う「新名所ゾーン」には含まれないようだ。
 だから、この2つの建物がどうなろうと、このままでは市は関与しないことになろう。
 でも、この2つの建物をも含めたこちらからの眺めがなかなかのものであり、かつての山形商人たちの豪勢さが偲ばれる歴史的景観を形成していると言えるのだ。
 それゆえ市も何とか残り少なくなった山形市の歴史的景観の大切な形成要素としてこの2つの建物の保存についても「関与」してほしいものである。
 十日町の紅の蔵、一小旧校舎、そしてこの復原された御殿堰界隈の3つの新名所の整備でもって「歴史的資産活用の街づくり事業」を完成させたと自負してはならない。
 あくまでも、この3つの新名所の整備は歴史的資産活用の街づくりのスタートであるべきなのである。

 さ~て、これらの和式建物群の背後は茜(あかね)色に染まって(実際はブログ主がほんのりとだけピンクっぽい背景色をもっと鮮やかに染め直したのである)いるが、茜空にしては所々に小さな突起があり、横線が見えるのはどうしてであろうか。
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天然打ち水、後、人為打ち水、ゆかったです。

2010-07-25 17:12:16 | イベント

 今日、7月25日は栄えある!?20世紀日本最高気温記念の日
 ところがどうして、連日続いた真夏日の翌日なのに、今日に限って朝からどんよりとした曇り空で、気温はなかなか上がらないどころか、正午間近になってかなり激しい降雨があった。
 いわばこれは“天然の打ち水”だが、午後になってやや気温が上がり、3時に中心商店街で開始される“人為打ち水”のイベントにどうやら相応しい天候になった。
 デパート前の歩道には浴衣姿の若い女性たち(ほんのわずかの男性や子どもたちも)が銭湯の洗い桶のようなものをたがて(←山形弁で「手に持って」の意味)片手を桶に入れながらずらりと並んでいた。
 主催スタッフの開始の合図の声により、一斉に片手で水撒きを始めた。

 これにより商店街界隈の気温が若干低下し、涼感を味わえたことは確かである。
 まさか、夢よもう一度とばかり、多治見市や熊谷市に負けじとばかり日本最高気温の更新を狙っているわけではあるまい。
 どうせ、多治見や熊谷の“王位”は、この地球温暖化のご時勢、はかない“短期政権”のようなものであり、そんな“王位の回復”を狙うよりは、涼感溢れる街づくりに励んで、その意味での王位を狙う方が有意義であろう。打ち水はその一つの方策ともいえよう。

 ↑ 「水の町屋」に繰り出した打ち水に参加した人たち
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後期高齢者の猛暑対策

2010-07-24 10:13:11 | Weblog
 ああ、暑い暑い。
 連日の真夏日にはうんざりだ。
 でも、「20世紀最高気温記録の山形」にしてはなかなか「猛暑日」にはならない。
 他県の都市では38度とか39度台にまでなったことがニュースになっているのだから、「21世紀最高気温40.9度」の更新も間近な感じだ。
 でも「20世紀最高気温40.8度」は絶対に破られることはありえないから、山形の明日のイベント企画のおじさんたちは心配することはない。もう、今は21世紀だからである。
 ところで、この20世紀の記録が達成された年に生まれた方々もすでに「後期高齢者」の年齢になっている。ボクは平成生まれで御年十ン歳だから、多分猫年齢でとっくに後期高齢者の部類であろう。飼い主は盛んにボクのことを「末期高齢者」と揶揄し通しであるが、ふだんは「元気はつらつ」である。
 それでもこの連日の猛暑日寸前の猛暑は辛い。
 山形弁で言うと「がおった」状態にならざるをえない。
 少しでも涼を求めて屋敷内を色々探し回り、ついに連日の定席にしたのが、真夏の熱射が当たらない屋根と別の屋根との間である。

※ 山形弁の「がおる」とは、「心身が弱る」との意味である。
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山辺のメルヘン工場とヴァチカン

2010-07-20 14:24:16 | 建物
 昭和20年代といえばまったくの「建築不作」の年代。
 終戦の年だから、日本国中いたるところで建築ラッシュ。
 この年代ほど新しい建物が建造された年代はないだろう。
 でも、当然のことながら「建てれぱよい」の風潮が支配し、建築においても「質より量」が優先された時代で、構造的にも意匠的にもやや見劣りする建造物が多かったことは否めない。
 そんな時代的風潮の中でもこの写真にある建物は昭和24年の建造でありながら、構造的にも意匠的にも優れているが、特に意匠においてはレトロという以上にメルヘン的であり、このような建物が複数並んでいるから、見学者は「おとぎの国」に迷い込んだような錯覚に陥る。
 この建物群は昭和10年創業の絨緞(カーペット)製造・販売の会社であり、山形市近郊の東村山郡山辺町の代表的企業でもあるが、製品は皇居やローマのヴァチカン公国にも納品されているし、昭和天皇を始めとする多くの皇族の視察も受けている。
 創業時には中国人熟練職人数名の指導を受けたということだから、そのうち経済発展が目覚しい中国の大富豪の目にも止まるようになるかもしれない。
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いと小さき城下町山辺で見た2つの洋傘

2010-07-16 18:08:38 | 風景
 JR山辺駅の西側一帯は東村山郡山辺町の中心街であり、その西側部分のやや小高い丘陵部は江戸初期までは山形城の支城の山辺城が在った所であるが、山形藩主の最上家がお家騒動により改易となるや、山辺城は廃城となった。
 山辺城主の山辺右衛門大夫義忠は最上義光の子息であるが、廃城により岡山藩主の預かりとなりながら最終的には水戸徳川家の重臣となり、家老職にまで昇りつめた。「水戸のご老公」である水戸黄門こと水戸光圀の少年時代には教導役となり、光圀が藩主になると仏門に入ったが、義忠の子の義堅は藩主が光圀の時代の家老となっている。
 テレビドラマの『水戸黄門』で時々登場する家老の山辺は最上義光の孫ということになる。まさしく「人生楽ありゃ苦もあるさ」というよりは「人生苦もありゃ楽もあるさ」である。
 こんな歴史ある山辺を歩くとさすがに今でもご大家ともいうべき豪壮な屋敷を幾つか目にする。その中の一つの立派な塀で囲まれた屋敷を左手にして歩いていたら、正面の丁字路の突き当たりの祠の前に石段を挟んで2つの黄色い洋傘が何かを雨から守ろうとしていた。
 この時点ではまだ青空が見られ、汗をふきふき歩いていたが、山辺駅で山形行きの列車を待っている間に大粒の雨が降り出し、山形駅に近くなった頃にはまさしくゲリラ豪雨的状態にまでなっていた。
 洋傘が守っていたのは何であったかはわからない。石地蔵のようなものだったのかもしれないが、ともかく当地方でも頻繁になった激しいにわか雨に少しでも濡れないようにとする地元の人のやさしい気持ちの表れなのであろう。

※ 正面の小祠の左手の木立の所に山辺義忠公の菩提寺がある。[墓所は茨城県内]
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スペイン、オランダと江戸時代の山形

2010-07-12 11:51:31 | 郷土史
 またまた不可解な組み合わせ写真とタイトル。
 しかも、タコが軍配を左側の三角山の写真の方に軍配を差し上げている。
 タコといえば、世界史上最も有名になったパウルが今やマスコミ取材で引っ張りダコ。
 さらに当記事のカテゴリーが「郷土史」となっているが、山形の歴史とスペイン、オランダとは一体どのような関係があるものか、おおかたの県外人はむろん、山形市民とてほとんど見当がつないことであろう。
 しかも、ここにタコが登場しているから、当ブログ主のアタマの中はやはりかなりごちゃごちゃしているのであろう。
 読者のアタマの中までごちゃごちゃしてきそうだとお叱りを受けそうである。
 でも、我慢が肝心。以下の説明を読んでいただければ、再度アタマの中はすっきりと晴れること間違いなしである。

 約380年ほど昔、西日本でのキリスト教迫害を逃れてきたフランシスコ派修道士会などの宣教師たちの東北地方伝道が本格化し、山形盆地でもディエゴ神父というスペイン人宣教師の活発な伝道により多くの入信者が出た。
 左の写真のピラミッド状の山の名は富神山(トガミ山)であるが、この山の頂でトーガ(マント状の外套)をひらひらさせた西洋人神父(バテレン)たちが火を焚いていたという。また、この地で死んだあるバテレンの遺骨は山麓の寺院の本堂内に安置されているという。
 右の写真は山形市内の神社社殿に奉納された絵馬であるが、何やら横文字らしきものが数多く記されている。その横文字とはオランダ語で、山形城下民の学習仲間(塾)による百人一首のオランダ語訳なのである。年号は天保だから、開国以前のみちのく山形の城下民の間でもオランダ語熱や蘭学熱があったことを物語る。
 江戸時代の山形の歴史においてもスペインとオランダとは無関係でなかったのである。
 サッカーは観戦するには退屈なスポーツだと言い張るブログ主なのに、ワールドカップの決勝戦でオランダを破ったスペインの勝利を「予言」したタコちゃんにあやかり、この記事を考えついた次第である。
 もし、パウル君が参院選での民主党の敗北を予言していたら、菅直人首相に食べられていたかもしれない。 パウル君、読者の皆さん、お疲れ様!
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やっと視野に入った成沢の城山

2010-07-09 03:41:20 | 郷土史
 成沢城については6月26日と7月2日にも記事にしたが、旧本丸部分の山頂からの眺望は抜群だが、高く伸びた樹木がなければ、眺望はもっと素晴らしかったに違いない。
「樹木がなければ」などと勝手なことを述べたようだが、山城が山城として機能するには樹木など極力無い方がよかったのである。
 特に敵兵が襲来した場合は樹木は「敵兵隠し」になるからである。
 さ~て、成沢城跡を下界から撮影しようと思い、麓に下りたが、むろん直下の麓には昔からの民家が建ち並び、城跡は山頂など上の方の部分だけがほんの少しだけ眺められる程度であるが、麓からだいぶ離れ、片側2車線の国道13号の反対側(西側)の歩道に立っても国道の東側には国道事務所のビルや学校などばかりでなく、スーパーなどの様々な商業施設や自動車の販売店などが連綿として建ち並び、城跡の全容(とは言っても上部の70%以上)をカメラのファインダーに収められる場所は歩けども歩けども見つからず、20分以上歩いてようやく立ち止まることができたのが写真の位置である。
 昔の旅人や忍びの者たちは成沢城に見下ろされながら北は山形城下へ、南は上山城下や米沢へと足を進めたことであろう。
 ただし、最上家の改易により、この城は廃城となった。
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カカ天下ならず、しずまる芭蕉宿泊の町

2010-07-05 21:31:15 | Weblog
 ワールドカップ南アフリカ大会で日本選手以上にブラジルの選手に対して熱い声援を送り続けてきた住民集団が山形県内に存在する。
 だが、ブラジルがベスト4にも入り込めず、しかもその中のお目当ての期待大の選手が全試合を通してほとんど不発に終わったことに彼らは現在かなり気落ちしているようだ。
 もし、優勝に輝き、しかもその選手が決定球を放ったとしたら、それこそ花火を打ち上げ、彼を特別名誉町民にでも推挙していたのかもしれない。
 もしそうであったなら、文字通りその小さな町は2007年の時と同じように「カカ天下」になっていたに違いない。

※ 写真には芭蕉の姿や世界的冒険家の顔写真もあるが、そのブラジル選手が少年時代に滞在した町の名と経緯については、2007年12月29日の記事の通りである。
  http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20071229←クリック
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長谷堂城跡はお隠れあそばす

2010-07-02 22:45:13 | 郷土史
 成沢城跡公園の城山から山形城跡方面はよく見える(6月26日の記事)。
 だが、直江兼続が総大将の上杉の大軍が山形城攻撃の前に攻撃した長谷堂城の城山はここから見えるはずだが、ほとんど見えない。それもそのはず、長谷堂城跡のすぐ手前には谷柏楯の城山が立ちはだかっているからだ。
 でも、上杉軍が陣営を敷いた菅沢の丘陵と関が原での西軍の敗北を知って米沢方面に撤退しようとした上杉軍と追撃した最上義光の軍勢が激突した富神山方面(上杉方の孤高の武将前田慶次の奮戦ぶりは後世の語り草になっている)、そして最上軍の加勢のため駆けつけた伊達軍(伊達政宗叔父の留守政景が大将)が陣を敷いた須川の右岸方面はよく見渡せる。
 もっと好天ならば、出羽のマサダの砦とも言うべき畑谷城方面の向こうに東北アルプス朝日連峰の白い稜線も眺められるのだが、この日はあいにく望めなかった。
 最上・伊達連合軍と上杉軍が激突した頃、成沢城で戦況を見守っていた最上方の武将は誰であったかは把握が難しいが、ともかく両軍の動きはここからはよく見えたことであろう。南の上山方面での両軍の戦いは最上方のゲリラ戦により上杉軍は撃退されていたから、ここ成沢はほとんど無傷のままであったと思われる。
その三十年ほど前に直江兼続が入部する以前に米沢に居た伊達輝宗(政宗の父)の軍勢と最上義光の軍勢が戦ったと伝えられる柏木山古戦場(史実としては疑問の“幻の古戦場”。当ブログ09年9月6日の記事参照)方面も左端前方に望むことができる。
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