山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

勝手連指定「史跡」 イザベラ・バードが渡った堅磐橋

2012-12-17 23:55:51 | 郷土史
 二連アーチの石橋の下の濁流が轟音をたてて、周囲に響き渡っている。
 これはかなりの大雨の雨上がりの時のことだが、この橋が竣工したのは明治11年だから、それ以降もこの橋には数限りなく豪雨による激しい濁流が押し寄せているのだが、欄干には補修の跡が見られるものの、石積みの橋脚部分にはほとんど補修の跡が見いだせないから、百三十四年間持ち堪えてきたことになる。
 それに加え、すぐそばに新しく国道が切り開かれる以前は「旧羽州街道」にかかる橋としてトラックなどのクルマもかなり多く走っていたから、重圧もかけられ続けてきたのにもかかわらず大した補修も加えられることがなかったようで、これにも驚嘆してしまう。
 そして、この橋は世界史的旅行家のイザベラ・バードが渡ったことでも記念すべき橋である。しかも、明治11年の竣工直後のようだから、いわば渡り初めのようなものである。
 この意味でもこの堅磐橋(かきわばし)は立派な「史跡」と言える。
 できれば国の史跡や少なくとも県の史跡であってほしいが、今のところは「勝手連」指定の史跡ということでも構わない。
 一日でも早めに「史跡」にでも指定しておかないと、このままではすぐそばに巨大な清掃工場が建てられて、せっかくの歴史的記念物がうずもれてしまいかねないからである。

◆参考までに下記10月13日の記事を是非ご覧いただきたし。
   http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20121013
また、12月7日および11月15日の記事も参考にしてください。
   http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20121207

http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20121115
  
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イザベラ・バードが歩いた二連アーチ橋

2012-10-13 06:33:13 | 郷土史
 
 清掃工場の建設候補地となっている農地のすぐそばに日本の近代史を象徴する構築物がある。
 それが上山市川口地区を流れる前川にかかる明治11年3月に竣工した堅磐橋(かきわばし)である。
 むろん、明治以前の日本には石造りの橋はほとんど見られなかった。
 まさしく石造りのアーチ型の橋の建造は日本の近代化・欧風化を象徴する事象であり、堅固な石橋は重い馬車や重い建材や穀物を輸送するのに不可欠な交通インフラである。
 山形県内、特に上山市界隈にはこの種の石造りのアーチ橋(めがね橋)は数基現存する。
 しかし大半が1連だけで、2連はこの堅磐橋だけである。
 その意味だけでも堅磐橋は貴重であると言わなければならない。
 それに加えてこの橋が完成して間もなくの同年にかの有名なイザベラ・バードが通り、上山の温泉街に向かっている。
 むろん、この橋はかつての羽州街道に架けられてているから、まさしく「歴史の道」の上に架けられた「歴史の橋」である。
 しかし、・・・・(↓ 写真の下に続く)

 この堅磐橋のすぐ向こう側に武骨な外観の清掃工場が建てられたら、上の写真のような武骨でしかない景観に変貌するだろう。
 たぶん、清掃工場の建設によりこの橋までが壊されることはないであろうが、ともかく歴史的景観が壊され、ますます忘れ去られてしまうことだけは確かであろう。
 えっ、そんな歴史的景観が破壊されたって「痛くも痒くもない」って?
 それに、大気汚染の心配もないとお役所のお墨付きだから、いいではないか、という声も聞こえてきそうだ。
 だが、自然景観と歴史的景観の破壊は「日本全体をゴミのような景観」にしてしまいかねないのだ。
 現代人が量産した「ゴミ」の蔓延は同時に日本の国土全体を「ゴミ的景観」にしてしまうようだ。
 まさしく、たかがゴミ、されどゴミである。
※ 写真の清掃工場は某都道府県の某市の清掃工場
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山形市史と縁ある街を訪ねて(2)+山形の桜

2012-05-01 06:42:32 | 郷土史
 
 これは北関東随一の人口51万人の“大都市”宇都宮の市街地観光の目玉となっている大谷石造りのカトリック教会堂である。
 そして次の写真(↓)は宇都宮市役所の展望室から眺められる宇都宮城跡公園である。

 宇都宮城と言えば名高い「宇都宮吊り天井事件」で譴責された当時の城主、本多正純のことが想起されるが、彼は徳川家康の側近中の側近、本多正信の子息としてしばらく江戸幕府初期に幕府内で権勢をふるった人物であり、山形城主の最上氏の改易の際に改易作業の指示のために山形にかけつけている。
 彼は幕府から出羽の庄内に追放される憂き目にあっているが、この「吊り天井事件」なるものは後世の創作によるもので史実にはないものとして宇都宮市民には理解されている。

 宇都宮城は明治維新後破壊されたうえ、城跡はすっかり荒廃していたが、近年本丸部分が土塁と堀、二棟の櫓(やぐら)と城壁が“復原”され、城跡公園として整備された。
 訪れたのは4月20日。桜は終わり頃となっていた。

 だが、城跡公園として整備?されたのはよいが、上の写真の珍妙さにはどうしても違和感がある。土塁の下にトンネルがあるが、これまた「吊り天井事件」と同様に史実とはかけ離れたものである。
 土塁の向こう側の高層ビルは宇都宮市役所であり、「いざ鎌倉!」否「いざ宇都宮!」としいう場合、つまり大災害が発生した場合、宇都宮市役所職員が避難する市民をこの城跡広場に即座に誘導するための利便のためにトンネルを通したのである。
 つまり、宇都宮城の歴史ではここには城門はなかったが、市民の安全安心のためには史実に逆らってでも城跡広場と市役所とを直結するトンネルが必要とされたのである。
 まあ、宇都宮城は武士のための城から市民のための「民主的城郭」となったわけである。

 さて、山形の桜も今朝あたりはほとんど葉桜状態になったが、3日前は満開。満開から葉桜への移行が猛スピードであり、これも異常気象の現れと言うべきか。
 最後に満開の桜花と同様に「華も盛り」のあでやかな「山形舞子」の姿を紹介したい。(↓)
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浅井三姉妹でなく最上三姉妹(5) 竹姫

2011-02-21 23:55:34 | 郷土史
 最上家関係の系図は8通りほど知られているが、たいていは「氏家尾張守妻」として記され、「竹姫」としてではないが、最上義光の3人の娘の第一番目の位置に記されているから、あたかも長女のようであるが、実際はむしろ末娘の三女と思われる。
 長女の松尾姫は延澤城主の子息(後に城主となる)に嫁ぎ、二女の駒姫は豊臣秀次のもとに輿入れしたものの、三条河原にて秀吉により惨殺されてしまった。
 そして竹姫であるが、成沢城主の氏家尾張守に嫁いだ。
 松尾姫も竹姫も父義光の重臣の中の重臣に嫁いだわけだが、二人とも必ずしも常時それぞれの夫の居城である延澤城や成沢城に居住していたとは思えない。
 竹姫の夫の氏家氏の城は山形城に至近距離の成沢城であるが、山形城の絵図を見ると、山形城三の丸内の、しかも二の丸東大手門のすぐそば(元の県立中央病院敷地)に広大な屋敷を与えられており、竹姫もそこに住まいすることが多かったと思われる。[同じことは松尾姫の場合についても言え、延澤氏の山形屋敷も三の丸内の西北部にあった。]
 つまり、二人の姫はともに他家に嫁いだとはいえ、父が住む山形城本丸のすぐそばに住むことが多かったようである。

※写真は成沢城跡公園の旧本丸広場から望まれる山形市の中心市街地 霞城セントラルビルがひと際目立つが、その辺りは三の丸部分で、二の丸と本丸はその背後右手前方
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浅井三姉妹でなくて最上三姉妹(3) 駒姫(1)

2011-02-13 03:21:49 | 郷土史
 最上義光の次女の駒姫は戦国時代末期の姫君たちの中でも最も悲劇的な運命の姫と言うことができそうである。
 1月から放映なっているNHK大河ドラマ『江』にあやかり多くの出版物が売り出され、中でも主人公の「お江の方」を特集した単行雑誌が多く目に付くが、その中には同じ時代の関連人物として駒姫のことが2ページにわたり記事となっている。
 むろん駒姫とお江の方が京都あたりで直接対面したという史実はほとんどかんがえられないが、徳川将軍の妻という近世初期の女性として最高の地位にまで昇りつめたお江の方と最も悲劇的な運命の中に露と消えた駒姫はなるほど好対照である。
 この駒姫については当ブログでも過去に何度か記事にしているので、“復習”として再度お読みいただきたく、下記に各アドレス(URL)を列記している。
http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20061120
http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20081211
http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20081212
   次回に続く

◆写真説明 駒姫の菩提を弔うために山形城下に移築されたという専称寺の本堂の大屋根が家並みの中に一際威容を呈している。背景の山並みは雁戸山(蔵王連峰北側部分で背後は宮城県側)
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浅井三姉妹でなくて最上三姉妹(2) 松尾姫

2011-02-09 22:26:59 | 郷土史
 山形城主で初代山形藩主になった最上義光には家系図などから3人の娘が確認される。
 しかし、家系図では今日伝えられている名前が記載されているものはない。
 明治以前の武家の家系図では嫁ぎ先が記されていることによって人物が特定されるものの、ほとんどは名前が記されず、「女子」とか「女」とだけ記されているにすぎない。
 それゆえ最上義光の娘たちについてもすべて今日伝えられている松尾姫、駒姫、竹姫の名がそのまま記されている家系図はない。
 ただ、長幼の順序はここに記載の通りであることは確かと考えてよい。
 今回は長女の松尾姫を紹介するが、彼女については昨年11月に当ブログにて記事にしているので、下記アドレス(URL)をそれぞれクリックのうえご覧いただきたい。
◎11月20日の記事  
  http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20101120
◎11月22日の記事
  http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20101122
◎11月24日の記事
  http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20101124
◎11月27日の記事
  http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20101127

◆上の写真は松尾姫が嫁いだ延沢氏の居城「延沢城」の城山 国の史跡 [再掲]

上の記事には直接関係ありませんが、姉妹ブログ「島国ニッポンの山国から」(下記URL)をご覧ください。
 相撲界の八百長メール事件にちなんでクルマ社会の問題を記事にしています。
  http://blog.goo.ne.jp/ezoben-k/d/20110209 
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浅井三姉妹でなくて最上三姉妹(1)最上義光の3人娘

2011-02-07 23:42:55 | 郷土史
 一昨年のNHK大河ドラマは我が山形県に大いに関係のある直江兼続が主人公の『天地人』であったが、今年の大河ドラマの『江』も少しは山形の郷土史と関係及び関連性があると聞けば、多くの山形市民はかなり意外に思われるかもしれない。
 主人公の「お江の方」は浅井長政の3人の娘の末娘で、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の夫人となった女性であることは言うまでもないが、秀忠の“隠し側室”つまり正式に公認されていない側室ともいえる「お静の方」の位牌が置いてある寺が山形市内にある。
 そのお静の方が産んだ子が後に会津若松城主松平家の祖となった保科正之であり、お江の方の子で3代将軍となった家光の幕政を支えた有能な補佐役となっている。
 なぜお静の方の位牌所の寺が山形にあるのかと言えば、子である保科正之が会津若松に国替えになる以前に山形城主になったことがあるからである。
 それはそうとタイトルの最上三姉妹のことであるが、当然、浅井三姉妹から連想されるという意味で、山形城主最上義光の3人の娘たちの存在も紹介すべきと思われるからである。
 最上義光の娘といえば駒姫の名がダントツに知られているが、駒姫の他にも姉として松尾姫、妹として竹姫の名も挙げられるのである。
 次回では長女の松尾姫について紹介したい。

◆写真は山形城跡二の丸部分 3人の姫たちはここで生まれ育ったのか
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愛の援助はこちらにも、伊達直人様

2011-01-18 23:57:01 | 郷土史
 またまた出ましたMr.Tiger Mask,伊達直人様!

 伊達様は全国各地に出没なされましたが、ほとんどは「恵まれない人たち」、とりわけ児童施設の子どもたちの援助のためのようである。
 むろん、それはそれで大いに結構である。
 だが、愛ある援助の手を期待しているのは人間たちばかりではない。  
 モノはモノでも「者」ではなく「物」とて同じことである。
 しかし、「物」であるだけに「モノ」を言わない。
 それでも愛ある援助の手を待ち望んでいることは確かである。
 写真はかつては繁栄を極めた商家の土蔵造りの建物であるが、いずれも今では寂れ果て、店を閉じたままの状態になっている。
 でも、かつての奥州街道沿いの栄えし時代を物語る貴重な歴史遺産でもある。
 なんとか保存のうえ利活用が図られ、永らく住民の宝として愛され続けてほしい。
 ここは伊達様の領内で、仙台からも遠くない。
 しかも藩政以前の領主は伊達様と最上様との抗争の際に最上様により「人質」として山形に幽閉されたこともあるという。
 そこでMr.Tiger Mask,伊達直人様!
 是非、これらの建物にも援助の手を差し伸べてくだされ!

※ 写真は宮城県岩沼市の旧中心街(旧奥州街道)沿道の土蔵造りの商家の建物
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悲劇の城跡(6) 九戸城(2)

2010-12-06 23:21:21 | 郷土史

 奥羽の地全体を揺るがし、激しい攻防戦のために夥しい流血で染められ、しかも既に戦前に国の史跡となった名高い古戦場でもあり城跡でもありながら、九戸城跡を実際に訪れてみるとまことに平板でただの公園広場のような感じでしかなかった。
 ここが凄惨な殺戮の場であったとは信じにくいほどののどかさである。
 この城が陥落後、一時だけ南部氏が三戸からここに居城を移したが、さらに盛岡に移ってからは廃城となり、土塀、櫓などもすべて解体され、石垣も崩壊していくのみであったし、東西と北の三方が深い河川で囲まれ、それらに挟まれた河岸段丘の上に構築された平山城であったためということもあり、山城のように平地から一際目立つ景観をなしているわけでもない。
 というと、普通は天守閣や豪快な石垣と人工の堀を連想するものだが、九戸城跡にはいずれも欠如している。だから、古城好きの歴史ファンにとってはさほどインパクトが感じられない城跡なのかもしれない。
 でも、ここは岩手県南部の平泉とともに時の中央権力に刃向かいながら滅ぼされた地としての共通点があるのだ。
 ◆写真説明 A:二戸駅前通り 新幹線も停車する駅だが、何とも物寂しい光景 B:馬渕川 右手前方に九戸城跡 C:九戸城跡の傍で見つけた土蔵 D:近代日本物理学の大御所、田中館愛橘の生家 E:九戸城二の丸入口付近 F:城跡広場での説明絵図 左の市街地のすぐ脇に天然の深堀の馬渕川があるのだが残念ながら描かれていない
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悲劇の城跡(5) 九戸城(1)

2010-12-04 23:08:22 | 郷土史

 ↑ おっきい画面で見っだい場合はクリックしてけらっしゃいス

 今日の記事のカテゴリーは「郷土史」とされていながら、ジャンルは「岩手県」となっているのはこれいかに? 
 写真撮影は岩手県最北部だから、今日あたりは新青森駅発または新青森駅に向かう本日全線開通の東北新幹線車両の轟音がこの城跡にも響きわたっていたはずである。
 だから山形とは少し離れているのにどうして「郷土史」なのか。
 この九戸城跡は山形の歴史と大いに関係があるからである。
 それは我が山形市民が愛してやまない駒姫の悲劇の発端となる日本史上の大事件の大舞台となった場所だからである。
 慶長19年(1591)、南部氏の一族の九戸政実が宗家の南部信直に反旗をひるがえし五千人の将兵とともにこの城に立て篭もったが、小田原の北条氏を屈服させて天下を統一したつもりでいた豊臣秀吉には奥州の小さな戦国大名家一族の内紛とはいえ、秀吉に臣従した南部信直に武力反抗した九戸政実を許すことはできなかった。
 それで、養子の羽柴秀次を総大将に任じて6万人とも10万人とも言われる大軍を鎮圧のために差し向けたわけである。
 九戸は果敢に抵抗したが、多勢に無勢によりついに九戸城は陥落した。
 その帰路に羽柴秀次(後に関白となる)が山形城に立ち寄り、まだわずか11歳ながら花のように美しい駒姫を差し出すよう父の山形城主最上義光に所望したという。義光は数年先にと約束した。これが彼女の悲劇の始まりであった。 ⇒ 続く

◆写真説明 A:九戸城跡二の丸外郭の断崖 B:二の丸広場から望む本丸跡 台地上に築かれた城だが、ここでは平坦に見える C:二の丸東部外郭の堀跡(水がない) D:地方裁判所支部敷地から望む本丸跡 E:北側に流れる白鳥川 九戸城の外堀の役割を担っていた F:九戸城を守った馬渕川 右側に秀吉が差し向けた大軍が集結し何度も渡河を試みたが九戸軍から鉄砲や弓矢で狙い撃ちにされた この九戸城跡は既に戦前に国の史跡に指定されている。
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