山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

メルヘン駅舎から伊達家墓所へ

2009-11-30 22:59:43 | 建物

 山形県の置賜盆地の東部に位置する高畠町は日本のアンデルセンとも称せられる童話作家浜田廣介の出生地であり、また亀岡文殊堂などの寺社や古代や先史時代の遺跡などでも有名で、みちのくの「まほろばの里」と自称しているが、それらの有名な箇所は中心街を含めほとんどがJR奥羽本線の東部に位置している。
 だが、天下に勇名を轟かせた伊達政宗の少年時代の教育の場であり、政宗の父輝宗や伊達家中興の祖夫妻の墓所であったかつての巨刹資福寺の跡地は奥羽本線のはるか西側に位置している(夏刈地区)。
 ここは歴史スポットとしてはかなり重要な所ではあるが、決して観光客で賑わうような所ではない。だから先月訪れた時もそれこそ静寂そのものであった。
 ましてや、高畠駅から往復ともにたった一人で徒歩で訪れた者など近年では自分を除けば皆無ではないかとすら思える。ほとんどの場合はマイクロバスなどを利用した史跡巡りのご一行がたまに訪れる程度であろう。
◆写真 ①西洋メルヘン調の高畠駅西口を背にして夏刈地区に徒歩で向かう ②路傍には置賜風の複数の窓穴がある墓石が並ぶ ③この松の向こうが夏刈集落 ④東京の大資産家のような広大な屋敷が見えてきたが、これも夏刈集落内の住民宅 ⑤古風な民家が美しくリニューアルされていた ⑥貫録充分の古色蒼然たる民家 ⑦もはや立派な歴史的建造物 ⑧最上川河川敷のススキの群落の背後に浮かぶ資福寺跡の樹林 ⑨伊達政宗の父にして最上義姫の夫輝宗の墓 写真をクリックにより画面拡大
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伊達政宗一世の墓所

2009-11-28 19:56:50 | 郷土史

 超有名な伊達政宗は独眼流の異名もあって代表的な戦国大名でもあるが、伊達家には彼以前にも同名で字も同一の政宗が居った。
 外国の君主にはリチャード一世とかリチャード二世のように呼ばれている君主たちが多いが、これらの外国君主たちの流儀で呼ぶならば、独眼流政宗は「伊達政宗二世」ということになりそうである。
 それならば「伊達政宗一世」とはどのような人物であったのだろうか。
 「政宗二世」は伊達家17代であるが、「政宗一世」は9代だから二世より約200年ほど昔の14世紀末から15世紀初頭の人物である。
 二世は後に貞山公と呼ばれ、また一世は儀山公と呼ばれたが、また大膳大夫とも称された。一世は父の宗遠とともに伊達郡から置賜盆地を攻略して長井氏を滅ぼし、ついに高畠に城を構えて拠点として伊達家を大いに興隆させたために「伊達家中興の祖」として後世の尊敬を集めた。16代の輝宗は長男の藤次郎(幼名梵天丸)の元服の際に一世にあやかって「政宗」と名を改めさせたという。
 旧資福寺は高畠城に近い大寺院であったために伊達家の教育施設としても用いられ、政宗二世も幼少期から少年時代にかけてここですごした。
◆写真 ①この路傍の松の後方が旧資福寺跡のある夏刈集落 ②墓所を包む旧資福寺跡の樹林(再三掲載) ③16代輝宗墓 ④9代政宗の墓 ⑤政宗一世夫人紀氏の墓 ⑥輝宗重臣遠藤基信の墓 ⑦手前が遠藤の墓、向こうが輝宗の墓 ⑧すぐそばの最上川 ⑨資福寺を去り路傍の松を過ぎて高畠駅に向かう。10月28日、片道が徒歩で45分、往復とも徒歩)クリックにより画面拡大 次回に続く
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ここに義姫の夫にして政宗の父輝宗が眠る

2009-11-26 17:31:46 | 郷土史
 のどかにして何とも重厚な景観が目の前に広がっている。
 手前は食用菊「もってのほか」(※注)の畑だが、背後の鬱蒼とした樹林はかつて奥羽有数の禅寺があった跡地である。(撮影は10月下旬) 右手の道路の脇は群生するススキでおおわれているため見えにくいが、最上川上流部の河川敷である。
 その禅寺の名は資福寺。
 最近の当ブログでは何度か文字や写真で目にした寺院名であるが、そう、仙台市北山五山の一つの資福寺の前身の寺である。
 まさしく伊達家ゆかりの寺が在った所である。
 奥羽の覇者にして秀吉や家康にも怖れられた伊達政宗はこの寺で少年時代に名僧の虎哉禅師を師として厳しい訓導を受けた。
 仙道(福島県中通地方)で謀略により非業の死を遂げた父の輝宗の遺骨はここに埋葬された。[11月21日の記事の写真参照]
 しかし、仙台で輝宗の位牌が祀られているのは妻の義姫の墓がある覚範寺であって仙台の資福寺には位牌はない。
 この最上川の川べりにある資福寺跡には輝宗の墓ばかりでなく、彼の重臣で殉死した遠藤基信(かつての大河ドラマ「独眼流政宗」では神山繁さんが好演)の墓と、それにもう2つの墓があり、いずれにもナント「伊達政宗」の名が読み取れた。
 義姫の子である政宗は廟所である仙台の瑞宝殿に埋葬されているはず。
 さ~て、どうして高畠町夏刈に政宗の墓があるのか?・・・続く・・・

※注:観賞用の花と思われているのに、食べてみたところ「思っている以上に」美味しいことから、この名で呼ばれるようになったと言われている。
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伊達政宗の母の墓所を訪ねて(7)最終回

2009-11-23 17:34:50 | 郷土史

 下記は政宗の母保春院の墓所の前に立つ仙台市教育委員会で建てた説明標である。

『保春院の墓』説明標
向って右、俗名を義姫(義子)といい、伊達政宗の生母。山形城主最上義守の娘で義光の妹にあたる。米沢城主伊達輝宗に嫁ぎ、政宗(梵天丸)と小次郎(竺丸)をもうけた。輝宗の死後、仏門に入り、保春院と号している。小次郎を偏愛した保春院は、天正18年(1590)政宗を毒殺し、次男小次郎を擁立しようとしたが失敗、政宗みずから小次郎を成敗し、保春院は山形の実家へ去った。この事件については、小田原城攻めに遅れ秀吉の機嫌を損ねた政宗を殺さねば伊達家が危ないと、兄の義光に入れ知恵されたためとされているが、政宗が自分の出立後小次郎を擁立して背くものがあるのを恐れ、一芝居を打ったのではないかともいわれており、真相はさだかでない。事件のほとぼりがさめると、政宗は保春院と文通をしており、最上家のあと継ぎ争いにより領地を没収されたときには、保春院を仙台に迎え入れている。元和9年(1623)政宗は京都で保春院死去の報を受けた。保春院は夫輝宗の牌寺である。この覚範寺に葬られ、その後政宗は南小泉に保春院を開基して牌所とした。   平成3年12月 仙台市教育委員会

 これを読んだだけで、母が政宗の毒殺を図って失敗したという“事件”の“史実性”を仙台側でも疑念視していることが知られる。
 ここでは保春院が小次郎斬殺後に「山形の実家へ去った」と記されているが、前回の記事で彼女の菩提寺である保春院住職が記した『由緒』碑の記述では「岩手山から」(岩出山の誤記)となっており、数年の開きがあるが、その岩出山とは秀吉から国替えを命ぜられて居城とした古川と鳴子の間の土地のことであり、次回以降の記事で紹介したい。

◆写真の向かって「右」が保春院の墓、「左」は政宗三男の供養塔  背後は西隣の資福寺の建物(改築中) それにしても彼女の墓は小さく質素そのもの
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伊達政宗の母の墓所を訪ねて(6)

2009-11-21 17:12:22 | 郷土史

 前回の複数写真のうち最後の7番目は政宗の母(義姫、お東の方、保春院)の墓と誰かの墓との合成のようであったが、このシリーズの最終回は仙台の義姫ゆかりの寺院と山形県内の某墓域の写真との組合せにより伊達家と最上家との関係を紹介したい。
 その前に、前回の複数写真の中の「由緒」碑には義姫について記されているので、以下に紹介したい。[後半は省略]

『由緒』 保春院殿花窓久栄尼大姉 諱は義姫 山形城主最上義守公の女なり 伊達十六代左京大夫輝宗公の室と為り仙台藩祖政宗公を産む 故ありて天正十八年岩手山を去り最上に帰る 雖然その間文禄役中在韓の政宗公との間に取り交はされたる消息は如実に心懐家に在るを偲ばるものあり 元和八年最上義俊改易せらるゝに及よび仙台に移り同九年七月十六日茲に生涯を閉じず 法号は覚範虎哉禅師の謚るところなり 享年七十六歳 荼毘に付し此の地に葬むる・・[以下略]・・昭和六十年 保春現住 恭道誠之識

 この「由緒」でも彼女が伊達家から離れて山形に遁走したのは米沢からでなく岩出山からであることが記され、政宗毒殺未遂事件(会津・米沢時代)から数年後のことであることがわかる。また、その後も政宗と母の義姫との間で情愛溢れる手紙が交わされていたことが記され、彼女が政宗毒殺を図ったとは考えにくくなる。

 次回は『保春院の墓』説明標の文面を紹介したい。

 前回の記事で義姫の墓は覚範寺の境内にあることを記したが、この寺は彼女の菩提寺ではない。菩提寺は彼女の位牌が安置されている仙台市若林区の法号と同じ名の保春院にある。
 そしてこの覚範寺は彼女の夫伊達輝宗の菩提寺で、輝宗の位牌がある。
 しかし、輝宗は仙道(現在の福島県中通地方)で死を遂げて米沢領内の資福寺に埋葬されたはずであるが、同じ名の資福寺は覚範寺の西隣にあり、やはり伊達家ゆかりの寺でありながら輝宗の菩提寺ではない。義姫の墓の隣に並んでいる巨大な墓石はむろん輝宗の墓ではなく、政宗の三男宗清の供養塔である。
 その資福寺とは米沢領内に在った時代、政宗が虎哉禅師により教育を受けた寺としても知られ、かつては出羽国最大級の禅寺であったらしい。
 それにしても近世初頭の大名家の葬制はややこしくて分かりにくい。

◆写真 ①伊達輝宗の墓所「資福寺跡」は最上川上流のすぐそば(山形県高畠町夏刈) ②資福寺跡の樹林と手前の食用菊畑 ③正面が輝宗の墓 他に伊達家数名の墓も ④仙台市保春院門前 ⑤資福寺本堂 ⑥⑦輝宗の墓[左]と義姫の墓[右]☆直江兼続夫妻の墓に倣って写真の上だけでもと並ばせてみた  写真をクリックにより画面拡大

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伊達政宗の母の墓所を訪ねて(5)

2009-11-20 20:21:05 | 郷土史
 仙台市若林区南小泉に静かにたたずむ伊達政宗の母の位牌所「保春院」を皮切りに、同じ仙台市ながら方向違いの北山五山を巡拝しながら、ようやく彼女の墓がある覚範寺に辿り着いた。
 位牌を置いてある寺と墓がある寺が別々であるというのは現代の感覚からは不可解な感じがするし、私もつい最近までは伊達政宗の母の墓は彼女の出家名の保春院と同一の名の保春院に在るものとばかり思い込んでいたほどである。
「戦国の鬼姫」とまで呼ばれたほどの勝気な気性の行動派女性であった彼女は婚姻前は義姫と呼ばれ、伊達輝宗との婚姻後はいつしか「お東の方」とか「お東さま」或いは「最上御前」とも呼ばれていたようである。
 従来、彼女は息子の伊達政宗の毒殺を図って失敗し、すぐさま山形に遁走したと伝えられてきたが、そのことについてはかつてより多くの識者から疑問視されてきた。
 そのことについては彼女の墓所の前にある「由緒」碑(写真4)と「保春院の墓」案内標(写真7)にも記されている。
 記載内容については、次回以降の記事にて紹介したい。
◆写真 ①覚範寺の山門前も他の北山五山寺院と同じく長い石段の参道が続く ②山門内には左右に仁王像が睨みを効かしている ③左が政宗の三男で黒川郡を任せられた宗清の供養塔 右の小さいのが保春院の墓 ④墓前の「由緒」碑 ⑤覚範寺本堂前の2つのダルマ ⑥覚範寺の鐘楼から望む仙台駅方面 ⑦墓所の説明標 ⑧ダルマの拡大 ⑨右の写真は保春院の墓だが左は誰の墓なのだろうか。⇒次回の記事写真が回答

※ 写真をクリックにより画面拡大
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伊達政宗の母の墓所を訪ねて(4)

2009-11-17 21:35:59 | 郷土史
 仙台市の「北山五山」の最も西側の輪王寺は東北有数の庭園美で有名である。
 その庭園は美しいだけでなく、かなり広大だから、境内の広さはおそらく仙台でも最大級なのかもしれない。
 この寺は伊達政宗の夫人の祈願により現在の福島県の梁川に建てられたというが、その夫人とは有名な愛姫(めごひめ)なのだろうか。
 でも、創建年代は嘉吉元年(1441)創建というから、愛姫が生きた時代ではない。
 ならば、伊達政宗が死んだのは寛永13年(1635)だから、彼は200年以上も生きたことになる。
 そんなはずはない。
 政宗は政宗でも伊達家九代目の政宗であって、独眼流政宗とは別人ではあるが、伊達家を興隆させた名君として代々尊敬され、それにあやかり伊達輝宗の長男の梵天丸は元服して政宗と名乗ったのである。
 輪王寺も伊達家の拠点の変遷とともに転々と移転したが、仙台は6回目の移転地ということになる。すなわち、梁川、西山、米沢、黒川、米沢、岩出山、仙台の6箇所である。
 藩政時代はむろん伊達氏の庇護により繁栄し続けたが、明治以降は庇護を失い荒廃の一途を辿ったが、明治の末期から大正の初期にかけて復興し、昭和10年代に庭園もほぼ現在の形までにできあがった。
 ◆写真 ①輪王寺本堂 大正4年の建造 ②③輪王寺の庭園 三重塔は昭和56年建造 ④輪王寺の山門から参道と仙台市街地と青葉山方面が見渡せる
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最上義姫の長男がオバマを制圧!

2009-11-14 22:45:26 | 郷土史

 ちぐはぐな感じのタイトルと写真の組合せで、ご覧になる方もかなりアタマが混乱されるのではないかと心配になるが、また当ブログの管理者兼著者のアタマもかなりおかしくなっているのではないかと心配されておられる方も多いのではないだろうか。[もっとも小生はもともと少々アタマがおかしいところがあるのだが・・・]
 今日は昨夜来日したアメリカのオバマ大統領が鳩山首相と会談し、かつサントリーホールでアジア政策の演説を行ない、皇居で天皇らと昼食をともにした。午後にはシンガポールに向けて飛び立ったのだが、どうしてタイトルに最上義光の妹の義姫の名が登場するのか不可解に思われるのも無理はない。
 その不可解さは写真の画面をクリックすることにより解消するかもしれない。

◆写真(表画面)はオバマ米大統領と少年時代に訪れた鎌倉大仏及び好物だったと語った抹茶アイスクリーム
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姫君ご回復して錦の姿に

2009-11-13 21:40:48 | 郷土史

 かつてここにとてつもなく大きな寺院があった。
 ところが明治維新の際にあっさりと寺院をやめて、住職は神官になった。
 いわば明治政府の神仏分離の徹底政策の嵐がここまで吹き荒れていたのだ。
 東北有数の名園とも言うべきこの池泉回遊式庭園も明治以前は更に広大であってもっと深い樹木に囲まれ、さながら深山幽谷に居るようであったと思われる。
 今や現代住宅やに囲まれて、すっかり市街地の中の緑地公園と化している。
 伝承によれば江戸時代前期に山形城主が病気の姫君の快癒を祈って京都のモミジを植えたのだという。
 きっとその姫君は城主である父の祈りにより回復し、この庭園の如くまばゆいばかりに美しく成長したのであろう。

◆山形市東原町、もみじ公園 江戸末期まであった寺院は真言宗の宝幢寺
 庫裏であった建物は登録文化財 茶会等に使用されている(清風荘)
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伊達政宗の母の墓所を訪ねて(3)

2009-11-11 10:46:55 | 郷土史
 古い歴史ある寺院・神社が集中する仙台市北山ではあるが、これらの寺社のほとんどが伊達氏ゆかりであるが、伊達氏発祥の地である福島県北部や伊達氏が勢力を拡大した米沢、秀吉の命により国替えの地となった岩出山から移転したものが多い。
 いずれも深い樹林に囲まれて、それぞれの寺社が独立的に配置されているが、それらの寺社を結ぶ回遊ルートは分かりやすいわけでもなく、かつ徒歩で回遊するには必ずしも快適であるとは言えない。
 境内への入口はいずれも自動車交通が頻繁でありながら歩道も未整備な道路に直面し、いちいち長い石段を昇り降りしなければ次の寺社の本堂に辿りつくことはできない。石段や参道の中間あたりになるとさすがに閑静になるが、境内への登り口付近はいずれもはまさに都会的喧騒が耳をつんざく。
 このあたりは仙台では超有名な仙台城(青葉城)跡に次ぐ歴史観光スポットのはずであるが、この日は観光客らしき姿も散歩する市民の姿もほとんど見受けられなかった。これも回遊ルートの整備に「ひと工夫」がなされていないせいだろうか。
 つい、苦言を述べるクセが出てしまった。写真説明をどうぞ。
 ◆写真(1)この青葉神社だけは近代になって創建されている。仙台藩祖伊達政宗を祀るために明治7年に建てられた。五月の仙台青葉祭りはここを起点として開催される (2)初夏には参道の紫陽花で賑わう資福寺 伊達氏の米沢時代は奥羽有数の巨刹で、虎哉禅師により幼少時代の政宗が厳しく躾けられた。(3)資福寺本堂の前は優美なイベントが開かれるのにふさわしい佇まい (4)政宗母の墓所であるか覚範寺の門前を飛び越えて輪王寺参道に入る 教化のねらいもあろうが、整備され過ぎの感があり




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