山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

◆国道昇格予定地の花畑◆

2014-04-11 23:36:21 | Weblog
分厚く重い雪で覆われていた花畑もすっかり活気を取り戻し、それぞれが各々の彩りで艶やかさを競い合っている。
◆さて、ここは山形市の中心部の現県道沿いで、道路拡幅計画の予定地であり、完成後は国道に昇格するという。この花畑の部分は左側が車道に、右側が歩道になるようだ。
◆でも当面は花壇として市民(特に歩行者)の目を楽しませることになりそうだ。むろん個人的にはずうっと花畑のままであってほしい。色とりどりの花が楽しめる街なかの国道、しかも堰の水流のせせらぎも楽しめる国道。そんな話題性のある国道があっても良いのではないか。
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◆ないしょの話と鶴の恩返しの里を歩く(4)◆

2014-04-11 06:59:32 | Weblog

珍蔵寺の膝元には土蔵を構えた民家が多い。製糸産業で栄えた時代があったことを物語る。

珍蔵寺から降りてまもなく広大な空地があったが、その向こうには前回の投稿で紹介した古色蒼然たる広壮な茅葺屋根の民家が見えた。たぶんこの敷地にも幾棟もの製糸工場が並んでいたのであろう。

再び夕鶴の里がある屋敷の前に戻る。左手の道路が拡幅される際に旧繭蔵(夕鶴の里資料館)は敷地の内側に曳き舞により移動させられたという。

フラワー長井線の織機駅のホームから漆山地区を見渡す。手前の田畑にはまだ深い雪が(3月28日)。珍蔵寺の樹林も見える。

赤湯駅行きの列車がやってきた。この列車にもスウィングガールズたちが乗り込んだはず。ただし、今は昔の話。

上山駅に近づくと東前方に西日に輝く41階建てのマンション「なんじゃこりゃタワー」が目に入ってくる。のどかな田園風景とはミスマッチの典型景観。それにしても北上するほど雪は消え失せている。ここは南半球か?
  ◇このシリーズは今回で終わりです。
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◆ないしょの話と鶴の恩返しの里を歩く(3)◆

2014-04-08 15:18:39 | Weblog

夕鶴の里の施設全景。左が語り部の館(やかた)、右手が資料館。資料館は小さく見えるが近づくと巨大なる三階建て(→次の写真)。

居宅敷地から眺めた資料館(旧繭蔵)。内部には「鶴の恩返し」等の民話、養蚕、機織り、製糸産業の歴史の資料が展示され(二階、三階)、また民話シアターと再現された昔の囲炉裏部屋などが設置されている。建造にはアメリカから木材が取り寄せられたという。

資料館一階に再現された農家の囲炉裏部屋。障子戸に機織りする鶴女房の姿が映る仕掛けがなされている。

二階の資料展示コーナーに掲示された南陽市域内にかつて存在していた製糸工場の所在地図。所在場所が確認されているものだけで54か所。未確認が32工場。まさしく「羽前エキストラ」の一大シルク王国。

鶴の恩返しの伝承が秘められている珍蔵寺の登り口。夕鶴の里からも近い。

珍蔵寺の山門の前後には落雪がうず高くなっていた。山門に「鶴布山」という山号の表札が掲げられ、まさしく鶴の羽による布の伝承を表している。また、奥の本堂入り口の上にも「布山」の額がある。夏には庭園を見たい。


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◆ないしょの話と鶴の恩返しの里を歩く(2)◆

2014-04-07 17:50:01 | Weblog

このシリーズの(1)よりの続きです。

交差点から時代劇で見られるような超古めかしい民家があった。今にも朽ち果てそうにも見えるが、昔はたぶんこの地域を代表する名家であったに違いない。

その「故郷の廃家」のような建物を別の角度から眺めたら、やはり堂々たる風格が感じられた。表札を見たら、明治初期に近代的な製糸産業を興した功労者の家であることが後に判明。

同じ交差点の東側にも広大な屋敷の家がある。その住居の背後に三階建ての巨大な土蔵が望めた。その土蔵がこの日のデスティネーション(主要な目的箇所)に違いないと思った。

いよいよ「鶴の恩返し」伝承の心臓部に突入。その心臓部とは「夕鶴の里資料館」のことで、戦前まで反映した製糸工場の繭蔵を活用した施設と伝承出所の珍蔵寺。資料館は併設の語り部の館(やかた)とともに旧製糸工場の敷地内にあるが、実に広大である。◆屋敷の敷地内に南陽市立の夕鶴の里が在る居宅の門前に石地蔵と思しき尊像。だがマフラーのようなもので覆われているため尊顔が見えない。見えるのは居宅の背後の資料館としての旧繭蔵。

同じお宅の東側に二階建ての長大な土蔵。昔、製糸工場の女工さん(多くが敷地内に寄宿)用の米蔵だったという。
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◆ないしょの話と鶴の恩返しの里を歩く(1)◆

2014-04-06 16:34:31 | Weblog

少し、というか3月中のこと(28日)になるが、南陽市の漆山地区を訪れた。
この地区は民話「鶴の恩返し」の伝承の地であり、また明治以降は生糸生産の一大拠点でもあった所である。
この探訪を22枚の写真により4~5回に分けて紹介したい。

置賜盆地北限の白竜湖の氷もすっかり融けただけでなく、周囲の田圃を覆っていた雪が急速に融解しているために、湖沼と田圃の境目がなくなっているようだ。太古にはこの辺り一帯が巨大な湖であったことが肯ける。

フラワー長井線宮内駅前に立つ「ないしょ話」の碑。同じような碑は山形市の霞城公園内にもある。作詞家の結城よしをは宮内の出身で、後に父とともに山形市に移住したが、若くして戦病死している。

宮内から西隣の漆山地区(旧漆山村)まではほぼ市街地的様相が続き、商店も多い。明治から戦後間もない頃までは生糸産業の一大拠点であった漆山地区の大勢の女工や工場関係者の往来で賑わった名残りであろう。

川の名は織機川、橋の名も織機橋。この川も最上川に注ぎ、日本海に至る。

漆山地区には豪奢な商家が幾つか見られる。やはり生糸産業で賑わった証左であろう。

次回に続く

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