山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

追悼 我が家の最高実力者

2010-09-30 22:16:07 | Weblog
 ああ、淋しい、なんとも淋しい。
 もうこの姿が見られないなんて。
 こんなに愛くるしい姿なのに、人間で言うと90歳くらいにはなるのだという。
 あの長く続いた猛暑は9月に入っても繰り返されたが、中旬には漸く涼しさが感じられるようになり、よくぞこの長い猛暑を乗り越えたものだとねぎらった。
 ところが、今度は一転コタツに電熱器を入れて布団でくるまねばならないような寒さがやってきたため、彼はこの気候の激変に体がついていかなくなったのであろうか、急激に体調が崩れ、足腰も立たず、どんな食料も受け付けず、薬石効ないまま、この27日に・・・・。享年18歳。正確には17歳10か月。
 当ブログでも時折登場したので、結構ウェブ上のアイドルでもあったようだ。
 でも、彼の姿は当ブログが続く限り拝謁できるし、これ以上老けることはないので、いつまでも可愛がってほしい。
 ともかく彼は「まったくの役立たず」のようでいて、人間どものようにあくせくせずとも存在感たっぷりにして、人生(猫生?)の教師然であった。

◆写真は9月17日撮影。まだこんなおちゃめな姿の居眠り姿であった。
 下記ブログの追悼記事もご覧あれ。
 http://tecology.blog73.fc2.com/blog-date-20100928.html

◆シリーズ「自転車レーンはなぜ必要か」は下記姉妹ブログによりご覧ください。
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まほろばの高畠紀行(4)

2010-09-28 20:17:19 | 建物

 旧高畠駅にほど近い高畠中心市街には「昭和ミニ資料館」なるものが存在するが、なぜ「ミニ」なる語が使われているのか不可解なほど「ビッグ」である。
 つまり約1kmほどの沿道の中に昭和レトロの店舗や施設が20箇所ほど点在しており、街全体が昭和レトロを味わえる資料館となっている。
 その中で代表的な建物を3つほど紹介したい。
 すなわち「昭和五号館」「昭和十八号館」「昭和二十号館」である。
 昭和五号館(上の左右の写真)には昭和三十年代の茶の間が再現され、当時の生活用品が展示されている。三丁目の夕陽ならぬ「高畠の夕陽」である。
 そして昭和十八号館と昭和二十号館(下の写真の左右)はともに蔵店であるが、どういうわけか間の十九号館が抜けたまま建物は連結している。
 たぶん「九」は「苦」に通じるものとして避けたのかもしれない。
ともかく十八号館は現役の荒物屋であることが一層レトロ感覚を掻き立てる。
 いずれにせよ、数十年前まではどこでも見られた外観の建物であるから、無性に懐かしさがこみ上げてくる。

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まほろばの高畠紀行(3)

2010-09-24 22:45:38 | 風景

 高畠石で建てられた旧高畠駅舎から東に行くとまもなくユニークな形の橋がある。
 その橋の下を流れているのは奥羽山脈を水源としている屋代川である。
 この屋代川を渡れば高畠の中心市街地から離れることになるが、この橋からは眺望が良く、いかにも「まほろばの里」であることを実感できる。
 この屋代川こそがまほろばの風土を育んできたのであろう。
 川の右岸を少し歩いて再び別の橋にさしかかり、もう一度屋代川を渡れば再び中心市街に入り、昭和三十年代を思い起こさせるレトロな商店街を歩くことになる。

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まほろばの高畠紀行(2)

2010-09-23 00:19:27 | 建物
 高畠は「日本のアンデルセン」浜田広介の出身地であり、それに因んでJR高畠駅もきわめてメルヘン調の外観である。それがどうして西洋城館風なのかがわからないのだが。(浜田広介記念館の写真は前回記事のとおり)
さて、写真は「旧高畠駅」であるが、JR高畠駅の前身かと問われれば、さにあらず。
 前身ならばJR高畠駅の構内のどこかにあるのか、それともすぐ近くにあるのかと多くの人は推測するであろう。
 ところが、この旧高畠駅はJR高畠駅から約4kmも東に離れている所にあるのだから、話はややこしい。しかも現在ではJRとは無関係の駅だという。
 しかし、昭和49年までは奥羽本線とほぼ連結していた鉄道の駅であった。
 その鉄道とは旧「山形交通高畠線」という私鉄の路線であり、その連結地点とは現在のJR高畠駅の前身「糠野目駅」である。
 その高畠線はクルマ社会の進展による利用者の減少のゆえに廃線の運命となったが、その跡地は現在サイクリング・ロードとして少し有名な「まほろば緑道」となっている。

◆写真「上左」これが旧高畠駅舎 ただしこの写真は3年前のもの 正面のユニフォームの女性たちは高名なサイクリストが率いるチームメンバー
「上右」と「下左」旧駅舎の周辺は緑地公園だが、客車と機関車が展示されている
「下右」旧駅舎の一部 昭和9年建造のレトロ建築 地元産の高畠石が主たる建築素材

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まほろばの高畠紀行(1)

2010-09-20 23:54:50 | Weblog
 先日みごとな七色の虹を見た高畠町で目にした他の光景を紹介したい。
 高畠駅に着いたばかりの時は酷い土砂降り状態であったが、十数分駅内で待機していたら、雨はあがり、逆にすぐに青空が広がった。
 駅から出てすぐの所に「まほろば緑道」と言われるサイクリング道路があるが、それは昭和49年まで「私鉄」つまり山形交通高畠線が走っていた跡地である。
 だが、レンタサイクルを借りずに、この緑道を徒歩で目的地(後述)まで歩くことにした。
 緑道の名の通り、並木道が延々と続く。
 樹木の大半は桜のようだから、春にはさぞかし桜並木はみごとであろう。
◆写真「上左」これが「まほろば緑道」 ここが鉄道路線であったのは三十年以上以前のこと
「上右」並木の間からは黄金の湖水が置賜盆地を埋め尽くすのが見られる
「下左」日本のアンデルセン、浜田広介の記念館
「下右」この山も信仰の山 神社が2つほど鎮座している でも高畠の中心市街は間近

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自転車レーンはなぜ必要か(1)

2010-09-17 22:28:45 | 街づくり
 前回の記事で予告した「大事件」とは以下のことである。

 山形市の中心商店街は大揺れになりそうである。
 昨年の11月から「自転車レーン社会実験」が始まり、まもなくまる一年を迎えようとしているが、それに向けて一部団体(街づくりNPO)がこの自転車レーン廃止運動を始め、署名運動、国、県議会、市議会に対する廃止要望や請願をやろうとしている。
 この団体には知人も多く、当ブログ主も設立に少しだけ協力してきた経緯もあるので、署名依頼の文書を見て驚愕仰天した次第である。
 このNPO法人は中心市街地の賑わい回復を目指す活動と事業展開のために近年設立されたのだが、何度かそのためには歩行者や自転車に優しい環境を整えることが不可欠で、そのためには増え過ぎたクルマの通行抑制を図る必要があることを訴えてきたつもりであるが、どういうわけか唐突に「自転車レーンの廃止」を強く主張し始めている。
 彼らの署名依頼の趣意書を見ると、「運転者の立場からは、大変通行しにくい・・(略)・・渋滞がひどくなり、交通量の割には混雑しています」とあり、自転車レーンの設置は並行する県道の拡幅工事が完了してからでも遅くない、クルマでの来街者が多いので彼らを遠ざければ商店街の衰退は一層顕著になるとの主張である。
 中には「交通弱者を保護することは素晴らしい提案」との記述もあるものの、概してクルマ利用者重視の発想であり、自転車レーン廃止の後、自転車と歩行者の危険度が再び高まることはほとんど考慮されていないと言える。

 ⇒ 以下の姉妹ブログに続く ぜひ、ご覧いただきたし!
http://blog.goo.ne.jp/ezoben-k/d/20100917 ←クリック
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七色の光景で癒された

2010-09-15 23:26:14 | 風景

 一昨日は山形市で私にとって山形市民全般に対しては言うまでもなく日本全体に問いかけしたいほどの社会的大事件が発生したので、そのことについて当ブログの記事にしようとも考えたが、所要で高畠町にでかけ、疲れも吹き飛んでしまうほどの「癒しの光景」に接したので、それを皆様に写真で紹介したい。
 山形駅を発った頃は晴れ間と部厚い雲が複雑な斑(まだら)模様になって空を覆っていたが、高畠駅に近づいたら、列車の窓に雨が叩きつけるようになり、高畠駅に到着したらそれこそ駅の外に一歩でも出たらズブヌレになるほどの激しい雨が十数分ほど続いた。
 でも、それからしばらくは概ね晴れ間がひろがっていたが、帰り道を歩いている頃には再び頭上には黒い雲が覆うようになり、振り返って黄金の稲穂のはるか遠方の丘陵地帯を見渡したら、そちらはいかにも激しい雨が降っている様子が見てとれた(写真)。
 だから、いま歩いているこちらも土砂降りになるかと気が気でなかったが、もう一度背後の丘陵方向に振り返ってみたら、それこそ鮮やかな七色の虹が巨大な弧を描いていた。

 さ~て、その虹の写真はどごさあるんだべ? ※写真をクリックすれば、その見事な虹を見られるよ。

 ※冒頭に述べた「大事件」については近日中に記事にします。
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ボクは黒幕氏に遣わされた初秋の“役者”

2010-09-11 11:24:16 | 時評
 これは去る9月6日の夕刻近くに発達した入道雲。
 間もなくこのような光景も懐かしく思われることになろう。
 入道と呼ばれるからには「仏門に入った者」という意味になる。
 彼、入道雲氏は既に悟りの境地に入ったのであろうか?
 それとも目下悟りを目指して懸命な修行中というところか?
 彼はともかく、人間どもはなかなか悟りにはほど遠いようだ。
 彼はあまりにもの“遅出”の入道雲なのだが、ともかく9月に入ってからのこれほど“見事な”形になること自体がいかに今年の夏の猛暑が異常であるかを示している。
 これほど異常な猛暑が続いても、人間どもは猛暑の“主犯”を特定できないでいる。
 特定できないというよりは、わかっていながら互いに知らないふりをすべきであると“協定”しているかのようでもある。
 猛暑の要因として、偏西風の蛇行、北極振動、エルニーニョ現象、ラニーニャ現象、熱帯高気圧などが挙げられ、それらが複雑に絡み合って猛暑を引き起こしていると言われている。さらには大気中に大量に拡散したススも要因だとする説もある。
 だが、これらはすべて実行部隊と言うべきであろう。
 それでは“主犯”もしくは“黒幕”は何なのであろうか。
 いち早く主犯なり黒幕を突き止めなければ、来年以降も同様な、否、今年以上の猛暑が繰り返される恐れが強い。黒幕氏の凶暴ぶりはますます顕著になっていくのではないか。
 主犯の特定をいつまでも先延ばししていては市民は安心できないことになる。
 気象庁も、多くの関連の“識者”たちもなかなか主犯を「地球温暖化」であることを名言しようとしない。彼らの多くは猛暑など異常気象の主犯を地球温暖化と特定することについて「慎重に、慎重に」を合言葉としているようだ。
 これは与野党ともに「景気浮揚」を政策の第一としているのと無関係ではなさそうだ。
 アクセサリー程度に「環境技術の開発と実用化」を政策に掲げただけでは温暖化は抑制できないどころか、来年以降一層の猛暑の年が繰り返されることになり、猛暑の犠牲者たる熱中症による死者はますます増加する可能性が大である。
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「遼」に立ち向かう女戦士

2010-09-08 21:25:45 | 郷土史

 右側の坊ちゃんは言わずと知れたゴルフ界の天才少年の石川遼君であるが、どういうわけか左側の女性は恐ろしげな顔で彼の方を睨んでいる。
 彼女は韓ドラ歴史劇「千秋太后」で韓国女優のチェ・シラさんが演じている主人公の高麗王朝の前王妃であるが、実在の人物で朝鮮史上のジャンヌダルクとも呼ばれている。
 彼女は前王の死去に伴い王宮から離れたが、彼女が住まう地は北辺部のため国境外の女真人(後の満州人)や更にその北の契丹人からの脅威を受けやすく、とりわけ「」という王朝を形成して中国の「宋」を脅かすほどまでに強大化した契丹人は女真族をも飛び越えて高麗をも脅かしていた。[※この遼が女真人王朝の「金」に滅ぼされたが、逃亡先の西方に「西遼」を建国し、西域や中央アジアの諸民族を支配しロシアまで脅かした。]
 兄である高麗王も彼を取り巻く貴族たちも多くは戦わずに遼に阿(おもね)ようとしているが、彼女は“主戦派”であった。
 えっ、これと山形の郷土史とは何関係あるんだべ?とごしゃがれ(叱られ)そうであるが、まったく無関係とは言い切れないのが環日本海の歴史である。
 日本海沿岸を広く領有した渤海国を滅ぼした契丹は当然日本海対岸の日本との交易などにも関心を示したであろう。少なくとも民間レベルでの交易はありえたと思われる。
 ちなみに、山形市史を開いてみたが、契丹が興隆した年代(10世紀)に相当する年表では千歳山萬松寺に墓碑がある宮廷歌人の藤原実方が陸奥国司として死亡した年(九九八年)くらいしか記載されていないが、庄内海岸に上陸した沿海地方人が交易先を求めて最上川を遡上し豊穣な「最上」まで訪れた可能性も皆無ではなかろう。
 ※ 写真をクリックすればドラマの契丹軍(遼軍)の様子が現れる。
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天高く入道雲肥える秋

2010-09-06 22:41:17 | 風景
 山形は9月に入っても昨日までは連日最高気温が30度以上の真夏日。
 幸いというべきか、「20世紀日本最高気温」の山形にしてはちょっぴり口惜しいというべきか、西日本や東海、南関東のように連日35度以上の猛暑日ではないし、朝の最低気温が25度以上、つまり熱帯夜にはならないから、比較的過ごし易いのかもしれない。
 それでも、最高気温は34.4度、34.8度、33.5度、32.9度、34.4度だから、猛暑日すれすれの連日であり、そしてとうとう今日は35.4度の猛暑日となった。
 夕刻近くになって東の空の方を眺めてみたら、宮城県境の雁戸山系を越えて入道雲がにょきにょきと発達していく様が観察できた。
 真ん中あたりの西陽を受けた部分は蔵王の樹氷そっくりの華麗な姿を見せていた。
 華麗は華麗だが、これではまさに真夏の空で、今頃は本来なら入道雲が活躍する季節ではないのだ。
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