山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

◆信じられない!!◆

2016-12-29 17:01:12 | Weblog

某グループの忘年会。普段はあまり一緒になることのない若い娘さんたち三人も加わった。大いに盛り上がっていたため茨城県で震度6弱の地震があり、山形でもかなり揺れたことすら気づかないでいた。それにしてもこの三人が日本文化の体現を職業としているとはとても信じられないほどのごく普通の現代的娘さんたちであった。彼女たちの職業についてはコメント欄に記入してくだされ。

これではますます信じられない。それでも「昼の顔」は完璧な大和なでしこ。

ついでに、土蔵の外のようだが、この写真で会場がどこか分かる。この厳冬期、決して屋外ではないし、薪ストーブもがんがん。
 
そして、彼女たちの身分は「会社員」。社名は(株)山形伝統芸能振興。
   ※写真は関連HPより

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◆茅葺屋根の材料は激増。しかし茅葺職人は・・◆

2016-12-26 23:00:33 | Weblog

米沢市の郊外では(むろん県内どこでもだが)耕作放棄地が増えて原野化し、一面に背丈の高さより高い茅が一面に生え茂る。しかし、一方では茅葺職人は激減し、しかも高齢化が著しい。茅葺屋根の建物は現代建築が覆いつくす中にあって今や地域住民の公共財産にしてふるさとのシンボル的存在。しかしその茅葺屋根の建物も激減。これでは地方から「ふるさと色」が消滅してしまう。いわば「日本沈没」に等しい。
◆このような危機的状況の打開が行政はむろん政治家たちの「公約」に挙げられることは稀といえる。「保守」を自認する政党すらむしろ無関心のようだ。
◇上山の奇習「かせ鳥」やアメリカ先住民の住居のような形のものは茅葺屋根の葺き替えに備えて束ねて養生させている茅。

この茅葺屋根の古民家は居住用ではなく、裏手の方に現代型の住宅が建てられている。居住用でなくても茅屋根は維持されている。決して観光や蕎麦屋などに用いられているわけではない。
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◆要介護老人は実は「小判」、否、「大判」◆

2016-12-26 09:01:33 | Weblog

 旧木村邸は小判どころか大判の価値があるのに、寄贈を受けた山形市職員にとっては「要介護老人」のようにしか思えず、しかも介護の仕方もわからず、7年間も「介護放棄」の状態を続け、ついには「死刑を宣告」に至っている。市役所の近所なのにほとんど訪れることもなく、雑草は伸び放題、屋内は塵埃まみれ、窓を開けて空気の入れ換えもやらず、ただでさえ“ご老体”は衰弱を加速させていた。
◆[0:05附記]むろん寄贈時にも決して頑健な青壮年であったわけではないが、精々後期高齢者前半の程度であった。でも7年後には80代。多少は要支援か要介護の症状が出てもおかしくない年齢。それでも親族や周囲との交流や見守りがあるだけでも、心身の衰えは鈍化する。要介護状態になっても丁寧な介護により寿命はかなり延びていたのだ。この場合は「計画的衰弱死」を狙っていたと思われても無理はあるまい。結果的には死亡の前の「処分」のようだが。
遠方に住む息子が一人暮らしの老親の死後に空き家化した実家の手入れや清掃に通うことは困難だが、この屋敷と市役所は徒歩でも五分以内の距離なのに、長年管理放棄の状態が続いていた。

写真は山形市に寄贈の前の撮影。ボランティア学生たちが清掃や除草をやって多くの市民に公開できる施設を目指していた。でも市の所有になってからは市民が立ち入る機会は失われた。市職員すら担当課以外は内部の良さを知らないまま七年間経過してしまった。
今後、他の残された歴史的建造物に対する多くの市民の関心、そして行政職員の価値の理解を高める方策を考えるべきかと思う。このままでは地元から貴重な歴史遺産が本当に多数失われてしまう。

そして、◆市民との「共創のまちづくり」???◆
山形市役所駐車ビル側面のウィンドウディスプレイで目についた山形市の広報記述。でも、旧木村邸に関しては「市民との共創」は成らず、むしろ拒絶され続けた感じ。ただし、特定企業との共創は好調だったようだ。母屋の解体開始は来週か、年明け後か。
「市民との共創」に関して言えば、母屋保存派は担当部課長、副市長、そして市長とも(こちらからの要求により)面談している。でも、いずれの場合にも彼らの個人的見解は聴けないで終り、とても市側から「忌憚のない」考え方を聴くことは叶わなかった。本来の「市民との共創」とは行政側から積極的に「公開」での意見交換会を重ねることである。事業者選定でのプレゼンテーション(某建設会社と個人からなるグループの2者がエントリー)も「非公開」だったため、多くの一般市民が2者の提案内容を知ることは不可能で、その後審査委員の「密室協議」で建設会社側の提案が採用されたという次第である。


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◆後藤又兵衛が倒れ、木村良達も・・・◆

2016-12-18 10:26:29 | Weblog
まさしく半年ぶりの投稿となる。

◆後藤又兵衛が倒れ、木村良達も・・・◆
後藤又兵衛と言えば言わずと知れた戦国末期の豪傑武将。大河ドラマ『真田丸』では哀川翔が演じていたが、大坂の陣で戦死している。さて、木村良達とはほとんど聞いたことのない名だが、江戸時代から昭和にかけて医家として山形の中心部で近年まで存続した木村家の歴代当主が襲名してきた名である。特に明治前期の文明開化期の西洋式病院「済生館」の医師として貢献した良達は「逸堂」とも名乗り、霞城公園内郷土館敷地の巨大な石碑で顕彰されている。
◆しかし、歴代良達の家屋敷は七年前に山形市に寄贈されたが、母屋はいよいよ解体されようとしている。また、後藤又兵衛とは縁もゆかりもないが、単に豪傑の名を旅館名とした「後藤又兵衛旅館」は山形市内きっての老舗旅館として威風を放ってきたが、20年ほど前に廃業し、風雅な本館と庭園、数多い土蔵、洋館棟について市民による保存の声が高まったものの、すべて解体され、今は一帯が武骨な駐車場と化している。
■※後藤又兵衛旅館跡地(山形銀行の駐車場)は旧木村邸の東100m

なお、下記は2007年5月と投稿の再掲です。
 後藤又兵衛旅館の跡地がいかに殺風景になっているかもご覧ください。

 山形市の中心街に位置する旅籠町には現在一軒の旅籠屋(旅館)もない。
 だが、かつては文字通り旅籠屋が軒を連ねていた。
 中でも「後藤又兵衛」という豪傑と同じ名の旅館は明治の政治家陸奥宗光や山県有朋、森鴎外などの歴史上の人物も泊まった名門旅館であったが、ホテルの進出に押されて廃業、そして建物は解体、土地も今では銀行の駐車場(無人ATMも設置)という殺風景な平面施設と化している。
 堂々たる塀と風格のある玄関、軒を連ねる土蔵、一部には洋風意匠もしつらわれ、緑豊かな中庭・・・と、まさに現在朝の連続テレビドラマの『どんど晴れ』の主たる舞台となっている盛岡の老舗旅館(※)の山形版であり、山形の伝統文化の集大成ともいうべき見事な建造物であった。(※実際の建物は東京にあるらしい)
 むろん、解体の前に一部の市民から保存を望む声があったが、今ではご覧のとおり無粋な景観となっている。背後のビルは「歴史の文脈を生かし、風格と奥行きの感じられる都市づくり」を標榜する山形市役所であり、またそのすぐ手前の無骨でしかない薄茶色のビルは市営駐車ビルであるのは皮肉か。
 なお、旧後藤又兵衛旅館の写真を持ち合わせていないのが残念でならない。
 
コメント (2)
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