山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

知らない町を歩いてみた・・・西置賜郡川西町小松

2018-06-10 21:58:10 | 旅行、小旅行


この町には40年と少し前に訪れたことがある。しかし一人だけでなく、しかもほんの少しの時間だけだからこの町のことはほとんど覚えていない。また、急いで通過しただけのことも2度ばかりある。だから私にとってはまさしく「知らない町」同然である。
それゆえJR米坂線「羽前小松駅」を起点に街歩きしてみて新鮮さすら感じたのは当然である。
駅前から歩いて15分くらい歩いてみたが、町の全人口がわずか17000人という小都市のご多分に漏れす゛商店街は閑散としており、シャッターが下りている店も多いのに突如として目の前に三層の洋館が現れて度肝を抜かれた。
でも、老朽化している感じは否めない。これを補修しておれば町の観光の目玉の一つとなることは間違いない。
それにしてもどうしてこんな小都市に巨大な洋館が建てられたのかと不思議に思ってみたが、クルマ社会が大衆化するまでは街は賑わっていたからであり、この洋館の他にも幾棟か和洋の堂々たる建物が残され、かつての街の繁栄を偲ばせてくれた。

[写真説明]➀三層洋館の正面 ➁こんな淋しい街の様相ばかりと思っていた ➂個性的な町屋 ➃堂々たる和風住宅

[写真説明]➄文房具店兼書店 ➅近代的店舗も今は昔 ➆「ひげ町」の表示 ➇さすがに人気作家井上ひさし氏の生まれ育った町

ハーブ園の隣の置賜公園は伊達氏の家臣原田氏の居城の跡地。子孫が伊達騒動の重要人物原田甲斐。ゆえに「原田城跡」の石碑(左)。右は草木塔

[写真説明]➈ダリア園の近くのハーブ園 ➉弘法大師の高弟真済上人が入滅したことを記念する石塔 ⒒置賜公園からの川西町小松の眺望 ⒓この橋の近くにコンビニが二つ。中心街の衰微をよそに客の出入りが激しかった。

羽前小松駅に近づいたのに地蔵尊が目に付いた。覆いの白布には「片倉」さんの名が三名も記入。ああ、伊達政宗の重臣中の重臣片倉小十郎の先祖の地であった。

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北の山形は積雪ゼロ、南の南陽市赤湯は雪景色

2014-02-02 23:03:38 | 旅行、小旅行

 今日は南陽市赤湯へ所用ででかけた。
 山形駅からJRの普通列車在来線でわずか30分で赤湯駅に到着する。
 言うまでもなく、南陽市赤湯は山形市より南方に位置する。
 しかも文字的には「南の陽光」がイメージされて雪の少ない温暖な土地と当地方のことを知らない遠方の人たちは勘違いするかもしれない。
 だが、やはり豪雪地帯の置賜地方だ。
 だから案の上、山形よりははるかに多雪であることが確かめられた。
 でも、赤湯の人によると例年よりはだいぶ少ないとのことである。
 なるほど、本当の豪雪ならば、深長靴でしか歩けないはずなのだが、滑り止めのついたクツなら通常のクツでも支障なく歩けた。
 それにしても、最厳寒期の二月初旬なのに山形市の積雪ゼロとはやはり“異常”と申すべきであろう。

 ※ 写真「上」は山形駅前。写真「下」↓は南陽市の赤湯駅前
 ※ 主たる訪問先の結城豊太郎記念館については明日以降に投稿予定[山形駅と赤湯駅の間、及び赤湯市街地の雪景色の写真はFacebook<kazuhiko kobayashi>によりご覧ください。}]
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歩きづくめでも多くの楽しい発見 ①

2013-08-26 09:25:20 | 旅行、小旅行

 まことにしばらくぶりの更新となった。
 体調が悪いわけではないが、今年に入ってからフェイスブックなるものを始めてからどうもブログへの投稿がおろそかになったきらいがあるようだ。

 一昨日、山形市から近いとある小都市にでかけた。
 この小都市は山形県内でも珍しく人口が増加している都市なのだが、その都市名そのままの駅名の駅はまったくの無人駅となっており、トイレもなければジュースなどの自動販売機も置かれておらず、駅前には店らしい店もないきわめて寂れた所である。
 その「発展」を現す地域とはこの駅からかなり離れた地域に新たに開発された所で、現在はその地域に市役所も置かれている。
 この駅から南東方向に十分と少し歩いたら、きわめて閑静な昔の村落の光景を思わせる辻堂と石地蔵などが並んだスポットにでくわした(一番上の写真)。まさしく素朴そのものの無名のパワースポットのような所と言える。

 そこからしばらく歩くといかにも商店街らしき所にさしかかる。
 確かにここはかつてのこの小都市の中心商店街であった。だが、土曜日ということもあるせいか、人通りはほとんどなく、クルマすらちらりほらりでしかない。

 その商店街をさらに少し東の方に向かうとこの街でほぼ唯一のレトロな洋風建築物が目の前に現れる。
 かつて郵便局だった建物で、現在はブティックになっているが、訪れる女性客もほとんど見当たらず、山形市やその他の郊外型量販店のテナントに女性服を送り出す拠点となっているらしい。

 ここを引き返すと沿道にイベント広場のような空地と、その奥の方に真新しい不可解な建物がある。
 左手にはケヤキの切り株のようなものが台車に乗せられたまま鎮座している。
 これはこの街のシンボルとも言うべきケヤキの巨木に因んだイベント用のアイテムのようだ。

 さて、この小都市の名は何であろうか。
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旧製糸工場見学と再びイザベラ・バード史跡へ(3)

2013-03-25 23:28:58 | 旅行、小旅行

イザベラ・バードは完成して間もないこの西洋式の二連石橋の上で蔵王の雄姿を見つめたであろう。ここからいよいよ村山盆地が開けて行く。世界史的旅行家イザベラ・バードゆかりの数少ない構築物である。この景観を守らなければ!!

イザベラ・バードが歩いた旧街道と並行して走る山形新幹線。彼女が渡った堅磐橋は右手に隠れている。この手前の農地に巨大建築物が建つという計画があるようだが、ここは丁度、村山盆地の入口。新幹線の車窓からの眺めが心配になる。

この狭い農地に巨大建造物が建つなんて信じられない。背後の里山の景観もすっかり隠れてしまうことだろう。

上山市の中心街には旧家の長屋門が残されており、右手には空き室を活用したミニ・ギャラリーが開設されていた。そして向かい側には山形板お好み焼きの「どんどん焼き」が食べられる喫茶店があり、そこで休憩した。
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旧製糸工場見学と再びイザベラ・バード史跡へ(1)

2013-03-19 14:33:36 | 旅行、小旅行
 
 一昨日の上山へのグループツァーは感動に次ぐ感動であった。黄砂の飛来など感じさせない抜けるような青空の中に浮かび上がる早春の蔵王の白銀。そして「読書の春」で勉学にいそしむサングラスの二宮氏(次回の写真を楽しみにして)。そして広大な製糸工場の遺構と山形盆地入口の近代化を象徴する西洋式の石橋など、様々な感動の連続であった。
この日は上山まちづくり塾主催の旧製糸工場の見学会に我が歴史たてもの研究会が団体参加したのだが、まずはかつて製糸業で栄えたお宅(蟹仙洞博物館)で当主のお話をうかがう。豪華な雛人形たちにも迎えられた。
 当主の話では、大正期の製糸工場の建物がそのまま残っているのは全国でも珍しいということである。

 中国明代漆器の展示棟前のサンルームから庭園越しに三吉山を望む。
 昔は庭園の向こう側には住宅がなく、上山のシンボル「三吉山」をすっぽりと庭園の借景に取り込むことができた。

 H家(蟹仙洞博物館)の元の表玄関。屋根はスレート葺き。国の登録有形文化財

 製糸工場に付帯の元の繭蔵。4層の巨大土蔵。青空に白壁が映えていた。
 このようにビルディングのような巨大な土蔵は山形市内では見られない。

 続いて旧製糸工場と二宮氏の石造など ⇒ 次回に続く
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最上川峡谷沿いのハイカラ洋館

2012-12-03 07:14:56 | 旅行、小旅行



西村山郡大江町左沢から朝日町南部にかけての最上川流域一帯を「五百川峡谷」と呼ばれているが、その昔、最上川の左沢から上流への舟運は困難で、物資や人員の輸送にはきわめて不便であったために、川面に露わになっていた岩盤や低い川底を砕いたりして川船の通行を容易にする工事がなされ、米沢など置賜方面と最上川中流との間の船便が活発化するようになった。
 こうして左沢も宮宿だけでなく川沿いの集落も栄えるようになった。
 宮宿から鉄橋越しに左岸に渡り、国道沿いに南下してしばらくすると右手に西洋の城館のような建物が見えてくる。
これは農民金融の営業所として昭和3年に建造され、現在は農協の支所となっているが、鉄筋コンクリートの建物としては山形県内でも最も古い方に属する。
 この最上川左岸には宮宿のような大きな集落はないので、このような当時としては時代の先端を行くような近代的建物が出現したことは驚きであるが、大きな集落こそないものの、このあたり一帯がかつて豊かな時代であったことがうかがえる。

 この建物と対面してからは引き返して左岸を北上し、再び鉄橋を渡って橋の上から先ほどまで歩いた農協支所の方向を振り返った。

 ついでに、この宮宿から農協西五百川支所へ至る道とその復路はすべて徒歩であったことをお伝えしておきたい。都会人?としての私には何でもないことだが、朝日町の人たちには往復1時間の徒歩行はいささか驚異であったようである。
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最上川への道下り

2012-11-13 06:28:59 | 旅行、小旅行
 
 柿食えば腹下るなり最上川

 もちろんこれは「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」をもじったものだが、食事しながらの方にはきわめて失礼になることは必至。
 また、最上川は「舟下り」の名所でもあるから、「腹下り」では色気も何もあったものではなくなり、最上川にも失礼。
 それはともかく、朝日町宮宿は最上川中流の河岸に発達した街。
 でも、川岸と街の中心部ではかなりの高低差があるから、街から川岸まで至るにはかなりの勾配の道を下る必要があり、見出し写真の通りである。しかもこれは川岸というよりは橋が架けられている箇所まででしかない。
 だからクルマ社会の到来以前は川岸から街まで荷物を運ぶには急勾配の道をかなりの労力が必要であったと思われる。それゆえ宮宿が舟運で発達した街とは思いにくい。
 さて、これからも何回か朝日町の最上川左岸(西側)の無名の風景を紹介したい。
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ここも新宿のど真ん中

2012-10-22 21:11:39 | 旅行、小旅行
 
 前回記事の「警備所」からほんの少し北に歩いたところで、どでかい二階建ての民家が見えてきた。
 近づけば近づくほど、その壮大さに圧倒されてしまう。
 むろん、50階建てのような超高層ビルではないが、それでもすごい巨大建築に見えるから不思議なものだ。
 この建物は昔養蚕を生業としていた農家であったようだ。
 ここも当然「警備所」と同じ「新宿」のど真ん中である。
 でも、念のため、シンジュクに非ず。
 アラジュクである。
 山形県西村山郡朝日町大字新宿の中心地である。
 ブナの実が不作のため、「クマに注意」が必要な新宿である。
 そして、再び「警備所」を振り返ると、小粋なデザインが施されているのに気付かされる。 

 それにもう一つ。美しい白壁の土蔵がある家。↓
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ここは新宿のど真ん中

2012-10-18 14:58:21 | 旅行、小旅行
 この古風で奇抜な建物の背後の隠れた箇所に「クマが出没、注意」の立て看板があった。
 でも、ここは新宿のど真ん中である。
 つまり新宿の中心部にもクマが出没するようになったということである。
 確かにこの小塔のような建物の正面には「所備警宿新」と記されているが、現代では「新宿警備所」ということになり、紛れもなくここは新宿なのである。
 ところが、地域住民はここのことを「アラジュク」と呼ぶ。
 やはり新宿は新宿でも国際人が交流する街の新宿でないことはわかった。
 でも、ここの新宿は住民とクマとの交流?がなされる新宿である。
 さて、「警備所」と書かれているが、どんな警備だったのであろうか。
 クマを警備する施設なのか、火の元を警備する施設なのか、たぶん昔は後者であったと思われる。
 ところで、この新宿とはどこにある新宿なのか?
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上杉景勝重臣の次男たちの殉教遺跡

2012-10-01 22:18:39 | 旅行、小旅行
 数年前に人気のNHK大河ドラマ『天地人』で主人公直江兼続とともに上杉景勝に仕えた甘粕景継という武将が活躍していたが、彼の次男はキリシタンとして殉教している。
 米沢には一説によれば1万人ものキリシタン信徒が存在していたという。
 これは城主の上杉景勝がキリスト教信仰者に寛容であつただけでなく、上杉氏の前の米沢城主の蒲生氏郷がキリシタン大名であったことも影響しているのかもしれない。
 しかし全国的に幕府によるキリシタンに対する取り締まりが激しさを加える中で、米沢藩もそれに逆らうことは困難となり、領内の信徒で棄教しない者を処刑することとなった。
 その信徒たちの指導者格が甘粕右衛門(洗礼名ルイス)で、合計57人もが処刑され、多くは現在の米沢市役所の西方の北山原で刃により露と消えた。
 その刑場が発見されて遺跡として整備されるようになったのは昭和になってからのことである。
 なお、戦前の昭和史を賑わした甘粕正彦は彼の一族の子孫でもある。

◆新しいブログ『山形街なか大正レトロ館』を紹介します。
 山形市の本町にある大正10年建造の「旧西村写真館」の保存の取り組みに特化したブログです。ご愛顧ください。
   http://blog.goo.ne.jp/kyuu-nishimu-stadio
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