山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

偉大なり征夷大将軍! 蝦夷弁根絶は間近

2006-05-09 07:08:51 | 郷土史
 出羽国分寺と称せられる薬師堂の祭礼は植木市と露店で大賑わいとなる。
 とりわけ近年は露店めあての高校生など若者や子供たちが多い。むろんほとんどが山形の子供たちだ。だが、あれよ、彼らの会話からは山形弁がほとんど聞こえてこない。口調もほぼ東京と同じだ。
 確か10年ほど前までは中高生の会話にはまだ方言や訛りが残っており、金髪茶髪でも会話が山形弁だとほっとしたものだが、現在ではこれが山形の子供たちかとかなり淋しさを感じてしまう。(下に続く)

    ↑ 国分寺薬師堂(以前は真言宗寺院の本堂だったが、明治の末に移築され天台宗の堂宇となる。明治前期は県会議事堂としても使用された。)
 ↓ 毎年お馴染みのお化け屋敷の前は中高生と子供たちだらけ

 ↓ ケヤキ林の若葉と女子高生たち。 どちらも若い若い!!

 国際化の時代に方言衰退を嘆くとは何とも時代錯誤かとも言われそうだが、山形弁が堪能な米人タレントのダニエル・カール氏も方言の多様さに日本語の奥深さに感動したと述べているように、たとえ粗雑な響きの言語でも、古代、否、縄文時代から連綿と続いて来た蝦夷?!風の言語文化が消滅するのは惜しいことである。(下記に続く)

 ↑ 植木市が開かれているここは年長者が多い。「日本三大植木市の一つ」の幟旗が見える。他に、熊本と大阪らしい。400年の伝統がある。
 ↓ ビルの間から龍山(蔵王主峰の前衛の峰、1364m)の残雪が望める。この雪が消えるか消えないかの時期に植木市が開かれる。

 朝廷からは坂上田村麻呂などの征夷大将軍が蝦夷人の征討のために何度も派遣され、精神的鎮撫の拠点として「国分寺」が設置され、中世、近世にも幕府のトップは征夷大将軍と称した。また、近代の文明開化の時代、戦後と現代の民主主義とITの時代になっても方言は子供たちの間でも話されていた。それが、ここ10年ほどの間に方言は急激に衰退しているのは何故か。
 蝦夷文化の根絶は蝦夷風言語の根絶をもって完結する。歴代征夷大将軍の強力な遺志は現代になって成就したかのようである。みちのく奥羽の原風景、言葉の上でも失われつつある。
コメント
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