goo blog サービス終了のお知らせ 

らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

高野街道を歩く(2)

2016-09-28 | 趣味

昨日、奥の院の弘法大師御廟にお参りした私たち一行は、戦国大名や有名人の墓・供養塔が約2㎞に亘って並ぶ参道を通って、一の橋口(参道入口)まで戻りました。
今日はその中から数墓をご紹介します。

「上杉謙信霊屋(たまや)」
上杉謙信・景勝の廟墓(びょうぼ)です。
謙信の名は西暦1574年(天正2年)、45歳で上洛した時、高野山を訪れ、その折贈られた法名であると言われています。
建物は江戸初期頃の建立と推測されており、小規模ながら霊屋としては古い方に属するもので、内部は格子天井を張り、須弥壇(しゅみだん:本尊を安置する場所)には二基の石碑を納めています。



「武田信玄・勝頼墓所」
上杉謙信をご紹介すれば、武田信玄を外すわけにはいきません。
武田信玄は好敵手上杉謙信とともに乱世を生きた戦国武将ですが、性格直情の中にも文を学び神仏に帰依し、その墓所を弘法大師空海の御傍(おんかたわら)、この奥の院の一隅に求めたそうです。
簡素な墓石は豪華を誇る上杉家の霊廟に比べ、性格直情な信玄らしさの表れかもしれません。

・向かって左が武田信玄、右がその子武田勝頼供養塔です。


「徳川吉宗の墓」
テレビドラマでお馴染みの暴れん坊将軍こと八代将軍徳川吉宗公の墓です。


「司馬遼太郎文学碑」
司馬遼太郎の代表的な著書に「空海の風景」が有ります。
自身の空海への探求心も深く、幾度となく高野山を訪れているそうです。
文学への業績を称えて、平成20年(2008年)9月に奥の院参道の一の橋から30m付近に文学碑が建立されました。
碑は、香川県産の庵治石(あじいし)を使用しており、碑文(横1.6メートル、高さ90センチ)は司馬さんの著作「高野山管見」の冒頭から抜粋しているそうです。



「碑文」
・石碑にはこのように書かれています。


「苅萱堂(かるかやどう)」
奥の院の入り口、一の橋より西に、朱色の鮮やかな外観の苅萱堂(かるかやどう)があります。
このお堂は石童丸物語の哀しい話で知られる苅萱道心(かりかやどうしん)と石童丸ゆかりのお堂です。

石童丸物語とは、
石童丸の父である加藤左衛門繁氏は、筑紫の国の領主でしたが、わが身の罪の深さに驚き、出家して後に高野山に入山し、苅萱道心と称して修業の生活に入りました。
父の出家直後に生まれた石童丸は十四歳のとき、父に会いたい一心で母千里とともに高野山へ旅に出ましたが、当時は女人禁制であった高野山の掟により、やむなく母を山麓の学文路(かむろ)の宿に残し、一人で父を捜し求めて山に登ったのです。
石童丸は、御廟の橋で一人の僧と出会いました。
この僧こそが石童丸の父、苅萱道心その人だったのですが、浮世を捨てて仏門に励んでいた繁氏にとっては、親と名乗ることもできず、「そなたの父はすでにこの世にはいない。」と偽り、石童丸を母のもとに帰したのです。
学文路に戻った石童丸を待っていたのは、母千里が急病で亡くなったという悲しい知らせでした。
石童丸は高野山に戻って出家し、実の父とは知らずに苅萱道心について厳しい修行を積んだと伝えられています。

この哀しい話は浄瑠璃「苅萱道心」や高野山苅萱堂縁起の仏教説話にも取り上げられ、現在も全国に語り伝えられ人々の涙を誘っています。

・この苅萱堂には、父親・苅萱道心が出家した背景や息子石童丸の下山の理由、その後の二人などが絵と文章で詳しく説明されています。


「千里姫の墓」
父親探しで高野山への長旅に出た母と息子でしたが、当時、女人禁制であった高野山の掟により、母・千里姫は山麓の学文路(かむろ)の宿に残り、息子・石童丸が一人で父親探しに出かけました。
しかし、息子の帰りを待つことなく母千里姫は亡くなりました。

・苅萱堂前に建つ母・千里姫のお墓です。