“熊野古道を歩く”シリーズ3回目は千里王子です。
岩代王子から古道を3㎞ほど歩くと千里王子に到ります。
その道中には梅畑があちらこちらに見られ、中には1~2輪咲いている木もありました。
・山中の古道を歩む私たちのメンバーです。
・途中、田辺ロイヤルホテルの近くの梅林では、開花し始めた枝もありました。当地は白浜に近く、大阪と比べて気温が高いことが窺えました。
「千里王子」
説明板によれば、
『千里王子の初見は藤原定家が後鳥羽上皇の参詣に随行した時の日記で、建仁元年(1201年)10月12日に参拝しています。また、承元4年(1201年)修明門院の参詣に随行した藤原頼資も4月27日に参拝しています。
この王子社は室町時代には「貝の王子」とも呼ばれたようで、応永34年(1427年)足利義満の側室・北野殿の参詣の際には、浜辺で拾った貝を王子社に奉納しています。
江戸時代には紀州藩主徳川頼宣が寛文4年(1664年)に拝殿を建立して復興に尽くしました。
明治時代には千里王子神社となり、その後、須賀神社に合祀されましたが、安永5年(1776年)建立の本殿は残されました。この社殿は建築年代の確かな王子社として貴重であり、県の指定文化財になっています。』とのことです。
・千里王子です。
「千里観音」
縁起によれば、
『1200有余年の昔、桓武天皇の御世、千里王子社の社人霊夢により如意輪観世音菩薩を祀った。
その後、九十九王子社の一つとして花山法皇を始め歴代の上皇、貴族に尊崇され、小栗判官も観世音菩薩の霊験で一命を救助された事に感謝し、自ら馬頭観世音を彫り、奉納したと云われています。
江戸時代には紀伊藩主・南龍公、田辺藩主・安藤公も参詣し、絵馬、神灯、賽資などを奉献しています。現在、千里観世音は近西国三十三ヵ所観音霊場の一つです。』とのことです。
・千里観音堂です。
「花山院法皇の御歌の石碑」
境内には花山院法皇の御歌の石碑が建っていました。
この歌は、花山院法皇が熊野権現への道中、病に冒され、海人の塩焼く様を見て詠まれたそうです。
「旅の空 夜半のけぶりと のぼりなば 海人(あま)の藻塩火(もしほび) たくかとや見む」 (後拾遺503)
【意訳】旅の途中にあって、夜の煙となって空へ昇って行ったなら、海人が藻塩火を焚いているのかと人は見るだろうか。
「けぶりと のぼりなば」とは、「その場で行き倒れ、火葬されたなら」の意味で、藻塩火とは、塩をとるために海藻を焼く火のことです。
なお、花山院(かざんのいん)法皇とは、第65代花山天皇で、在位は984年11月~986年7月、出家して法皇となられた方です。
・花山(かざん)院法皇御歌の石碑」です。