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らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

熊取探訪(その6)「雨山城」

2009-03-04 | 地元紹介

今日は、熊取探訪(その6)として「雨山城」をご紹介します。

雨山(312m)は熊取町の南端にそびえ、雨乞いの山として山頂には雨山龍王社(雨山神社跡)があります。
頂上に築かれた「雨山城」は紀州と泉州を結ぶ粉河街道をおさえる山城として戦略上重要な城であり、南北朝時代には北朝と南朝の争奪戦の場となりました。

・雨山城本丸跡です。


雨山城は、1346年(正平元年)楠木一族の橋本正高が築いたとされる南朝方の和泉地方の拠点でした。
1388年(嘉慶2年)南朝方の広橋経泰らが兵を起こし、雨山城に拠ったが、山名義理の来攻で落ち、その後、根来寺衆の拠るところとなった時期もありましたが、
1617年(元和3年)に城郭が取り払われたと言われています。
遺構としては、登城道に残る堀切、千畳敷の広い削平地、今も満々と水をたたえる井戸、月見の亭、馬場跡、射場などが本丸周辺にあって往時を忍ばせています。

・雨山城井戸です。


雨山には、橋本正高の埋蔵金伝説も残っているそうです。
「雨山城」は山城としても歴史的に有名で、名称として熊取町の指定文化財となっています。
平成4年には山頂に橋本正高の顕彰碑が立てられました。

・歴史的背景
 鎌倉時代には熊取荘と言う荘園が存在しており、南北朝時代には雨山(312m)の頂上に築かれた雨山城が北朝と南朝の争奪戦の場となりました。
 雨山城は紀州と泉州を結ぶ粉河街道をおさえる山城として、泉州北部の宮里城(和泉市)と並んで戦略上重要な城であったようです。
 正平3年(1347)、北朝方から任命されて和泉国守護に着任した高師泰(こうのもろやす)は、日根野荘を拠点とする武士・日根野時盛にこの城の固めを命じました。
 このあと足利尊氏、直義兄弟の争いから高師泰は追われ、一時的に南朝方が勢力を盛りかえし、正平8年(1353)に、雨山城は南朝方の橋本正高の手に渡り
 ました。














橋本正高は南朝方の楠木正成の武士団に属した武将で、1352年(正平8年)に北朝方の日根野氏より土丸城を奪取し、城郭を整備すると共に自らの勢力を拡大しました。
しかし、その後、城は足利義満の軍の攻撃を受けて落城し、正高は天授6年(1380年)高名里(今の貝塚付近)で戦死したと伝えられています。