フランス語圏マンガ研究は

 さてmidiさんのコメントへのお答にも書きましたが、シュぺールデュポンみたいなのは、たぶん日本のマーケットに放り込んでも売れないと思います。絵が「きれい」を志向していないし、ユーモアはフランス現代文化がかなり分かってないと笑えない。それにフランス語圏マンガ全体が日本のマーケットでもつハンデ、つまりなじみがないし、色刷りで上質紙で単価が高くて売れないだろうと判断されるというのがここにも当てはまりますから(シュぺールデュポンは白黒ですが、日本のマンガ単行本みたいに判を小さくしたらすごく読みにくくなるでしょうね)。

 こんなふうに、フランス語圏マンガはいろんなネックがあって日本市場ではしんどいのでだと思います。
 ただ大学みたいなところで研究の対象にする手はあると思います。というか、誰かやっておいてほしいです。文化的鎖国が成立してしまわないためにも。

 話は変わりますが、日経けさの「今を読み解く」のコラムは「自由が生んだジャパンクール」という題で、マンガ、アニメのことを取り上げてました。筆者は編集委員の石鍋仁美という人です。それでこのコラムで紹介されている中村伊知哉ほか著『日本のポップパワー』という本では:

「米国に数百の映画学校があり韓国でも大半の美大に漫画やアニメの学科があるのに対し、『マンガ、アニメ、ゲームを日本で学びたいという世界の若者たちの欲求はいまだほとんど満たされていない』とし、留学生受け入れを拡大したいならこうした分野を充実せよと提言」

しているんだそうです(もっともこの本、日経さんが自分とこで出している本ですから、これを取り上げるのはちょっと宣伝ぽいですけど)。

 新しいジャンルをプログラムに加えるというところでフットワークがきわめて重いのが日本の大学ですね。でもまあ、少しづつそういう動きがでないこともないでしょう(同じ日経新聞のちらしに、近所の金城大学短期大学部芸術学科の宣伝が入ってまして、ここには「マンガ・キャラクターコース」というのがありますね)。
 充実したマンガ学科みたいなものが日本中に十分たくさんできるころ、世界有数のマンガ大国フランスのマンガ界について的確に講義できる人材があれば、(よその大学と差をつけるためにも)ちょっと雇ってみようか、という大学も出てくるかもしれない(たぶんこの「芸」だけで雇われるのはしんどいだろうという気はしますが)。日本のマンガ界自体が停滞ぎみなだけに、そういう方向性は出てきておかしくない気がします。「よそではどうやっているのだろう?」と探索しているうちにはっと打開のヒントが浮かぶのを期待する。これ、よくある心理じゃないですか。

そういうスペシャリストの道を狙う人、出ませんかね? なんらかの形でマンガ業界の中にいながらアカデミックな見地からも評価できる仕事をしておくとか(これはたぶん時間がなくて大変むずかしいでしょうけど・・・)、あるいは大学の既成の学問領域のポストについて食いつないでおいて機が熟すればそちらの分野に打って出られる準備をしておくとかいうような人生スケジュールをたてるわけです・・・

 未来はどうなるか分からないのでわたしは全く責任を負う気はありませんけど (^_^;)y  もし一生金銭的、地位的に報われることがなくても「まあいいか、自分の好きなことができたんだから」と自分は納得できるはず、と思う若い方なら、そういう人生を考えてみるのもまたよいのでは、と思います。
 そしてそういう人がいてくれた方が、日本としても文化の懸け橋役の人材を持つことになって大変いいことだと思うのです。

 で、なんべんも繰り返しますけどわたしアルジェリアのことで手一杯だし、こっちの方を愛してます。いまちょっとマミ事件でげっそりきてはいますけど。(T_T)
 マンガはそんな夢中になるほど好き、というほどではありません。
 だからフランス語圏マンガ研究の方は誰かほかの人、がんばってくださいね。(^_^)y

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鳥だ! 飛行機だ! いや・・・ (^_^;)


 正義の味方、ならぬフランスの味方、フランスを守るために悪い外国勢力と戦うヒーロー(?)がこのSUPERDUPONT。Dupontデュポンというのはフランスに大変多い姓ですから、日本なら「スーパー山田」とか「スーパー鈴木」とかにあたるところです。

 シュぺールデュポンは、ワインの飲みすぎか赤鼻になった中年のおっさんでありそのいでたちは、はげた頭にベレー帽をかぶり、「ぱっち」みたいなズボンにランニングシャツ、でっぷり肥ったお腹には三色旗のハラマキときたもんだ。(^_^;) もっともフランスでハラマキと言ったって、日本でバカボンのパパがはめているやつのような文化的意味は持ってないはずですが。
 彼はいちおう空も飛ぶんですが、なんせカッコ悪い。 (X_X;)
 フランスの伝統的価値にこちんこちんに固まっちゃってる。

 このシリーズも、ジスカールデスタン大統領がでてきてシュぺールデュポンにお礼をしているくらいですから、ずいぶん昔のものです。さすがにこれはもう新作は出てないかな・・・ と思ったらFluide Glacial 2007年5月号に載ってますね。しぶとい。作はSole/Gotlib/Lefred-Thouronとなってます。

 このマンガの意義というのは、フランスの敵、「外国の悪いもの」から護らねばならない

「フランス的価値」

とはどういうものなのか、ということを意識させられるところですね。
 エッフェル塔とかならまあ別になんということもないですが、

「メートル原器」

が出てきたのには驚きましたね(Maitre supremeというのとひっかけてもあるわけですが)。今はもっと科学的な方法になってますが、まだこの時代には世界の物差しをこれに合わせて作る建前になってたその大本の物差しです。メートル法って、大革命のころフランスでできたものでした。
 このへんがフランスの右翼が他の「普通の国」の右翼と決定的に違うところじゃないかと思います・・・

 それでそのフランスの大切なメートル原器が、Anti-Franceっていう仮面ライダーに出てくる「ショッカー」みたいなのに盗まれちゃうわけですが、それでどうなったかというと・・・
 そおっ! 新築の建物が珍妙な格好になり、たてつけがむちゃくちゃになっちゃうんです。ひゃははは。 (^o^;)

 シュぺールデュポン・シリーズは、「こういうのがフランス的価値である」とフランスの保守派が思っている、とフランス社会全体が思っているようなものを、保守派ならこんな風にいやらしーく守ろうとするであろうという、その姿をパロディ化して笑いのめす、というかなり複雑なことをやってるわけですね。

 このシリーズは白黒です。これも描き手が途中で変わってますがGotlibは一貫して関わってます。最初登場した時のシュぺールデュポンは『ルパン三世』の銭形みたいな顔で、なんだかへたくそな描き方でした。
 その後も、見た目が美しいようには全然なってません。これはFluide Glacial系全般に言えることかなと思います。それにそもそもが、これも「外国の悪いもの」である(?)アメリカのコミックのタッチをパロディ的に踏襲して描かれているわけですから・・・ ややこしいですね。 (^_^;)
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つの・ようこさん(つづき)


(↑)これは表紙の裏で、宇宙船に乗っているようこさんと、和服を着て正座しながらテープデッキ(ツートラサンパチとか言ってた時代がありました)聞いているようこさんです。・・・いつも思うんだけどこの人、○○○綾さんに似てるな・・・ あ、いやこっちの話でした。 f(^_^;)

 つの・ようこさんは「Spirou 系」--- スピルーをメインキャラクターに据えた、かつての有力なマンガ雑誌から登場したキャラクター --- の中でも有力なものではありましたが、フランス語圏漫画界の中で別に日本ばかりが特別扱いになっているわけじゃないということは気をつけないといけないでしょう。つのようこさんは、たとえばアラビアン・ナイト時代、盛時のバグダッドの狡猾な大臣イズノグードIznogoudとか、アメリカ・インディアンの子供ヤカリYakari --- この子は動物とお話ができるんです (^_^) --- とかいったさまざまな「他者」--- 多くはヨーロッパ・フランス語圏の人のエキゾチスムをかきたてる土地と時代の典型とみなされるキャラクター --- たちの中にいる、ということなんだと思います。
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rai nfos/ライ・ニュース 101

LE PROCHAIN ALBUM DE FAUDEL SERA DU "RAI ROOTS" !

 El Watan7月10日号でフォーデルは「次のアルバムはルーツ・ライのアルバムにする」と宣言してます。
 このエントリーでお伝えした通り、先のフランス大統領選でサルコジ候補を支持したフォーデルが「自らの出自を裏切った」と一部ファンからすさまじい反発をくらったのは記憶に新しいところですが、Star Accademy Maghreb(何これ?と言われたらすごく説明大変ですね・・・ (^_^;) )のフィナーレ出演のためチュニスに滞在していた彼はインタビューを受けて:

 『音楽の祭典』でブーイングされたのは僕だけじゃないさ(他はだれがブーイングされたんだろう?)。反発しているのは少数派にすぎないよ。別に僕はすべての人に愛されなきゃいけないわけじゃないしね。・・・ 音楽界の外にも僕は友達がいる。(サルコジは)ずっと前から知ってるんだ。僕の友情を指図する権利なんか誰にもないよ。・・・それにサルコジ大統領がファシストだなんて言うのはもうやめるべきだ。彼の選んだ司法大臣(Rachida Dati。マグレブ系)を見たらわかるだろう?

というようなことを言ってます。まあニコラ・サルコジは大統領になったのですから、ほとぼりが冷めさえすれば彼がフォーデルにとってこの上ない強力な後ろ盾になることは間違いないわけですね・・・

 それで次のアルバムですが、Beur FMでためしに流してみた Darou s'hour darouという曲がそこそこ良い評判を得たのに気をよくしたか、本格的に本物のライのアルバムを作ってみる気になったみたいです。

 言うまでもなく「ライの貴公子」フォーデルは、100%ライ、といえるアルバムをこれまで出したことがありません。
 それを考えると、たぶんそういう時期なのでしょうね。大統領選のときのごたごたでかなりのファン(かなり、といってもどれくらいなのか様子を見てみないと分かりませんが)に離反されたはずの現在、彼もアルジェリア・ルーツを強調しておかないとただのフランス歌謡曲歌手になってしまう。そうなると彼の独自性がなくなって存在価値がなくなってしまいますもんね。
 「ライの天才少年」として頭角を現したフォーデルです。いちどその本来の力量を世界のファンに示してほしいものです。

 それに彼が『ダルー・スフル・ダルー』はアレンジ(Mohamed) Maghni、歌詞 Ahmed Hamadiで作ったと言っているのを見ておっ、と思いました。マミやハレドの華々しい活躍がなければ、彼らこそモダンな「ライ」の立役者と目されてもおかしくはなかった人たちです。
 この面子でのアルバム制作が実現するならかなり高度な、そしてモダンなライのアルバムが期待できそうですよ。 (^_^)
 でもそれだとほんとに「ルーツ・ライ」になるのかな? f(?_?)
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つの・ようこさんのぼうけん


 midiさんのリクエストにお答えして、日本に置いておいて意義のありそうなフランス語圏マンガ、いくつかご紹介しておきます。

 まずちょっと古いところでRoger Leloup作「つの・ようこ」さんの冒険から。

 これ、1972年の登場以来24巻を重ねていて、最新刊が2005年ですからまだ続いているシリーズです。
Yoko Tsunoはベルギー在住の日本人エレクトロニクス・エンジニアですが、ハイテクを駆使してすごい大冒険をしまくるんですよ。 (^_^)y
 非常に肯定的な日本人イメージと言っていいでしょう。72年の登場ということは、当時(今でもかな?)有名だったバイタリティあふれる日本人女性、小野洋子さんをイメージしているかもしれません。
 こういうのがヨーロッパ人にとっての「美しき日本女性」のイメージなんでしょう。少なくともこのキャラクターがフランス語圏ヨーロッパ人の日本人イメージと大きくかけ離れているわけではないでしょう。

つの・ようこ公式サイトもあります。ようこはやっぱり洋子と書くんですね。 (^_^)

 あとの方の巻になっていくとようこさんもぐんと「個性」が出てきているようですね。わたしはそこまでフォローしてないです。誰かご存知の方、お教えください。 m(_ _)m

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有用性

 ここでちょっとだけまじめなお話を(もっとも他の話が不真面目だというつもりはないんですが)。説教じみていると思われましたらご容赦ください。 m(_ _)m

 このエントリーにコメントをくださった漢江さんのご指摘は、まことにその通りだと思います。

 ただこれは常に理想的に解決するのは難しい問題だと思います。これから少子化が進む中、各大学は教員陣をスリム化すること、専任の教員たちにもっとたくさん、できれば安い賃金で働かせることに躍起であり、これは大学の経営が健全になされるためにはある程度やむを得ないところがあると思います。政府にもっと学術・芸術に力を入れて欲しいと要求は続けていかないといけませんが、それも成果には限度があることで、すべての人を満足させるような解決策はないと思います。

 そして個人の立場から言えば、大学の専門職というのはだいたい勉強が好きで、とくに好きな分野の勉強を極めたいという方がなるわけですが、自分の好きなことをするというのは一般的に言って非常なリスクが伴うものだと思うのです。
 私事で恐縮ですが、わたし自身研究職の道に進むとき、結局専任に就職できないかもしれない、そのうち非常勤講師の口もなくなって商売替えしないといけなくなるかもしれないというリスクを覚悟したうえではじめました。それを考えると、わたしは非常に幸運でした。

 そして社会的観点から言えば、広い意味での「有用性」ありと認められるところがここ数十年でずいぶん変わったということがあります。大学で教えている多くの分野が「教養を高める」という「有用性」で正当化されていた時代はほぼ終わったみたいなのです。今わたしの教えているフランス文学科の学生さんたちに、君たちは何のために勉強しているか、と聞いても「教養を高めるため」という答えはもはや返ってこないです。面白そうだから、「娯楽」だからというんですよね(この答は必ずしもけしからん答えとは、わたしは思わないですが)。

 自分は好き勝手をやっておいて、といわれるかもしれませんが、今の若い方々には、未来の日本や世界のためにどういう勉強が役に立つか、「有用性」があるかということを常に考えていてほしいとわたしは思います。みかけのきらびやかさに幻惑されて既に意義を失いかけた学問領域に安易に入り込むことは、国の少ない人材を有効に活かすという観点からも、避けて欲しいのです。
 今日、日夜粉骨砕身して勉強している人々全員の努力が十分に報われるということは、なかなか難しいかもしれません。ただ世界の未来を切り開く行為 --- そして「自らの伝統」を守る行為(この二つは両立可能のはず) --- を心がけている限り、納得いく人生は送れると思うのです。

 そこで tamonnさんのご指摘に関わるのですが、わたしも世界のために日本、日本人にしかできないことって、やっぱりあるんじゃないかと思ってしまいますね。「それは日本人の思い上がりだ。夜郎自大だ」という声が外から聞こえそうではありますが、フランス人やアルジェリア人、その他の人々の目に映った日本を見ていると、たしかにそういうものはあるんかもな、と思えてしまうんですね。ただそれがどういうところにあるかというのは、人によって考え方が千差万別になっちゃうでしょうけど。

 ちなみに「有用性」utiliteにこだわるというのは、スタンダールの考え方でもありましたね(この「有用性」は、資本主義的意味で利益が上がる、というのとはちょっと違うんですね)。 (^_-)
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マンガについて(2)


 マンガ家のペティイヨン Petillon が去年、かなり意義深い作品を出してます。「『迷』探偵ジャック・パルメール」シリーズの『ヴェール事件』L'Affaire du voileというやつです。筋は単純で、突然失踪してイスラムに改宗したらしい娘をパルメールが母親の依頼で探す、というものです。

 これだってたいして笑える作品ではないです。そもそも無邪気に大笑いできるようなギャグは全くありません。
 だけどフランスにおけるイスラム、女性のヴェール、アラブ系若者の社会統合などなどわんさかある問題、矛盾をひとつひとつ扱って、苦い笑いを誘うのです。
 フランスのこういう現状をあまり具体的に知らない方には啓蒙的価値があると思います。なんといってもイメージの説得力は強力です。

 さらに面白いことにペティイヨンはこのマンガにアラブ語版を作って同時に発表してるんですね(↑の右)。中のページの絵は、日本のマンガのフランス語版によく見られるように、左右反転印刷になってます。アラブ語は右から左に読む言葉ですから。

 訳者のタハル・ハディ氏が巻頭にこう書いてます:

 「ジャック・パルメールがその貧弱なアラブ語力を通じてイマーム・ボゾボゾの論理を理解できたなら? あるいはまたボゾボゾがぺルラン夫人の生活の仕方を少しでも理解できるようになったなら? もしそうならこのマンガはその目的を達したことになります。イデオロギーや宗教が人間たちの間を遠ざけてしまう傾向があるのに対して、このマンガの目的は人間たちの間を近付けるということにあるのです」

 その意気やよし。 (^_^)

 ペティイヨンは、たぶんかなり売れている作家です。アングレーム国際漫画祭で賞もとったことは度外視しても、彼のL'Enquete Corse が映画化(日本題:『コルシカ・ファイル』)されてるくらいですからね(日本公開を見に行った人はアクション映画を期待してたみたいですね。そういう宣伝の仕方をしてたんですね)。サトラピの『ペルセポリス』とは受容のされ方が違っていると思います(ちなみに出版元は大手のAlbin Michelです)。

(それにしてもJack Palmerなんて名前は全然フランス的ではないです。わたしはあまり読んでないので知らないのですが、このヘッポコ探偵はなに人という設定なんでしょう? 名前を除けばマヌケなフランス人にしか見えないですが・・・ 探偵という存在自体がそもそもフランス人の感覚ではアングロ=サクソン的なものだということなんでしょうか?)

 さてさて、このマンガにも一瞬日本人が登場します。イスラムの某教団に捜査に来たパルメールの目の前で、責任者が日本のテレビ取材団に教団の案内をしているんですね。彼は:

「ご安心くださったと思います。わたしたちは日本の若い女性の方々にヴェールを着させる陰謀をしているわけではないんですよ」

てなこと言ってにこやかに一同を送り出してるんです。 (^_^;)
 まったく日本人てなんなんですかね? というか、なんだと思われてんですかね?・・・ (T_T;)

 最近発表されたばかりの作品というのはマンガに限らず、今いくらおもしろく、評判になっていても10年先、50年先には全く忘れられ、歴史的価値もさほどなくなっているかもしれません。つまり、安心して長く研究できる対象ではないです。

 でも・・・ そういうことを言って「今」をパスしていると日本の目は、テレビで面白い番組を見たいだけという好事家の目、観光客の目になってしまう危惧を覚えるのです。テレビや観光が悪いわけではありませんが、面白いもの見てそれでおしまいでは、フランスのイスラム教団にいいようにあしらわれちゃうでしょう・・・

 で、フランス(に限らないですけど)の「今」って、かなりマンガの中に詰まってると思います。 (^_^)
 これは日本で少なくとも何人かの人がフォローして紹介していく労をとる価値があると思うんですよ(日本でフランス語圏マンガ、世界のマンガの今を扱う人はまだまだ多くないように思います。わたしはアルジェリア紹介で手一杯なので、なんとか他の方に頑張ってほしいです)。

 ちなみにL'Affaire du voileフランス語版とアラブ語版は、金沢大学の図書として入れてありますから、ご覧になりたい方は公立図書館の相互貸借を利用されれば、送料数百円で手にすることができます。 (^_^)y

[追記] おっと、いま気がついたんですが、この2冊は登録が消耗品扱いになってますね。事務の方の判断です。これじゃ学外から借りだせないです。困りました・・・
 誤解のないよう申し上げときますけど、わたしは別にマンガ本わんさか校費(元をたどれば国民の血税!)で買いこんで読んでるわけではありません。これは日本国に一部あったらのちのち資料として財産になると判断したものだけ校費を使って学校に所蔵してもらっているわけです。たとえば前のSpirou et Fantasio a Tokyoはそこまで大層なものと思わなかったので私費で買ってます。 07.07.11.

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rai infos/ライ・ニュース 100

CHEB MAMI : "JE SERAI EN FRANCE"

6月29日のLiberationに、マミの電話インタビューが掲載されています。ほんとだったら驚くべき内容ですね・・・ まず、噂されていた"J'ai vu ton sang, tu n'as plus de bebe ! "「おれは血が流れるのを見た。子供はもういない!」という声の電話録音について、マミはそれを自分が言ったことを肯定しました。ただ彼は「それはただのはったりで、私はなにも見ちゃいなかった。堕胎手術のときには現場にいなかったのだから」と言うんです・・・ こんな言い訳は、フランスでも日本でも通りそうにない気がします。でもアルジェリア人のものの言い方としては、これはありうるんですよね・・・ (^_^;) そしてLe Quotidien d'Oran紙における反ユダヤ的発言については「そんな風に表現したのは私じゃない。ジャーナリストが編集したのだ」Ce n'est pas moi qui l'ai formule' ainsi. C'est le journaliste と断言しているのです。・・・そして、自分は逃げる気はないから裁判のためにフランスに戻ると宣言しました。歌手人生を終わりにする気は毛頭ない、という態度ですね。・・・キャリアを続けたいならこれは不可避の判断でしょう。ただ前途は多難なはずです。とにかく事実はそこにあるので、マミに責任がないんだったらレヴィにあることになる。レヴィは必死で責任回避するでしょう。この有能なマネージャーを法廷で負かすのは、たとえマミが無実であっても至難の業です。その上彼はマネージャーとしてマミの身辺のことはみな知っているはずの人間なのです。つくづくマミにとっては相手が悪いと思います。
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マンガについて(1)


 さてマンガですが、midiさんのご教示に従って京都マンガミュージアムで勉強するのは少し先のことにさせていただくことにして、このエントリーのy jadeさん、漢江さん、yamafbaさん、tamonnさんたちのご指摘の全体に関してお詫びと感想をかかせていただきます(みなさん、コメントありがとうございました。m(_ _)m )。

 漫画の扱いについて、わたしは自分の周りのワールドミュージックの世界とちょっと重ねすぎて、的をはずしたかなと思います。どうもすみません。m(_ _)m

 だいたい現在マーケットが細分化されているというのは、どこの国のどこの分野でも似たようなものなのだと思います。おたく化、と言って悪ければ専門化が進んでいるわけです。
 ただ、日本のワールドミュージックのマーケットがあんまり小さいので、マンガ(以下ではこの語をフランスのBDも含んだ一般的言葉として使います)もそういうものかな、と想像してしまったのですね。それでワールドのマーケットがなぜ日本で小さいままに押しとどめられているのか、その話をまた始めちゃったわけです。

(ちなみに、わたしがこの間解説を書いたあるCDは初回発売が200部くらいだと聞いています。1億2千万人の中の数百人というレベルでしかこういうものを商品として興味を持つ人はいない、ということでしょうね。
 またエルスールでアルジェリア音楽のあるCDを買おうとしたら店長(兼音楽評論家)の原田さんに「こんなの買う人、粕谷さんとあと2人くらいですよ」とあきれ(?)られたことがあります。エルスールで3人ということは、日本全国で3人というのとほぼ同じのはずです。1億2千万人のなかで3人です。 (^_^;)  )

 それはさておき、どんな分野でもプロ、あるいはそれに近い人たちが世界の同業者の動向に興味をもって交流するというのは自然なことと思います。日本とアメリカの間ではそういうことが活発に行われているわけですね。
 しかし一般の大多数のマンガ・ファンがどれだけ世界のマンガ情勢に目を向けるかということ、および「バランスのとれた」紹介がされているか、というのがわたしには気にかかります。
 たしかにHergeみたいな日本でもよく知られた古典的作家や Moebiusみたいな一定のファンをもつ作家はいますが、フランス語圏マンガのおおまかな全体像みたいなものはやっぱり知られていないのではという気はします(これ、マンガのように巨大な領域ではなかなか難しいことなのですが)。
 たとえばフランス語圏では知らぬ者のないほど有名なSpirouとFantasioのキャラクターはあんまり日本で知られているとは言えないと思うんですが、いかがでしょう。
 何人もの作家によって描き継がれた(こういうことは日本ではやりませんね。たぶん人気キャラクターには使用権みたいなものが設定されているのでしょうね)この二人のキャラクター(スピルーのキャラクター初出は1938年です)についての情報が全く欠落している「フランス(語圏)マンガ」というのは、ちょっと偏頗すぎるもののように思うのです。
 
 (↑)上はこのシリーズで去年出たSpirou et Fantasio a Tokyoです。冒頭ではスピルーとファンタジオが江戸時代の日本を着物着て闊歩しているので、なんちゅうアナクロニスム! と思ったら、これは現代の東京にある江戸時代生活再現のテーマパークだった、という設定であることが分かってなるほど、やるな、と納得しました。画は今はMunueraという人が描いてます。

 しかし困ったことがあります。それはこのマンガ読んでみても、セリフ(テキストはMorvanという人が書いてます)の意味は分かりますが、どこが面白いのかわたしにはさっぱりわからない、ということです。 (T_T;) 現代日本風俗とオリエンタリスムの交錯自体がフランス人には面白い、ってことでしょうかね? どなたか解説してください! これ分からないと、現代フランス文化の一側面が理解できていない、という気がしてしまいます。

 わかるところ、面白いところをつまみ食いするだけ、というのは本当の異文化交流ということとちょっと違うと思うのです。全員ではなくても誰かが、とっつきやすいところを超えた「全体像」把握を試みていてほしいわけです。

 たとえば大学の「フランス文学史」の授業では、教員が面白いと思うところだけおもしろく教えて終わり、というわけにはいきません。たとえ退屈なところが多くなっても、一応の「全体像」が受講生諸君に把握されないといけないでしょう。

 マンガ文化に関しても同じ事が言えると思うのです。
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滅失絵画

 いま日経新聞の最終面で「滅失絵画十選」というのをやってます。

 「滅失絵画」というのは、要するに災害などにあって今は存在しなくなってしまった作品のことですね。

 この言葉、なんというか現実の裂け目みたいなものを感じさせる言葉のように思います。だって絵画というのは物理的に存在するものであって、ひとは現実に存在するものについて語るのだから、存在しない絵画に関してはほんらい語りえないものであるような感じがするからです。それでも人が語るということは、すでにその絵画に関して言説が営まれはじめてしまっていて、たとえそれらの言説を支える元の作品が滅失しても言説は自らのメカニスムで生き続けるからです。

 それに写真というものがある。ダヴィドが『マラーの死』と対で描いたルペルチエの絵、政治的嫌悪感から王党派の人が買い取って自ら破壊してしまった絵みたいに跡形もなくなってしまった絵というのは名しか残っていないわけですが、19世紀半ばからこちらは写真が残っていて、最小限の視覚映像を残している可能性がある。するとなんだか、滅びてしまった作品の切ない声が冥土から聞こえるような気がしますね。ちゃちな白黒写真であればあるほど・・・

 わたしの家には角川(だったかな? こんなことも覚えてない・・・)の『世界美術全集』がありました。子供のころはよくこれを眺めていたものです・・・
 この全集の日本・平安時代の部の巻頭に、金剛峰寺の塔頭旧蔵の「金剛吼菩薩」が載せられていました。なかなか迫力のある絵なんですが、解説を読んでいると一番最後に:

「焼失」

と書いてあって、なんだか特異な印象をわたしに与えたものでした。今はもう存在しない絵の写真をあえて巻頭に載せるとは、編者に強い思い入れ、哀惜の念があったのでしょう。

 それでその日経のシリーズ、7月3日号ではマチスが自ら破壊した自作が載っていました。それまでに紹介された日本の滅失絵画は震災や空襲で焼けて消滅してしまったんですが、これは作者が、こういう作品を自分のものとして後世に残すまいという意志をもって廃棄したわけです。日本は災害国で、フランスみたいなアーカイヴ国にはなかなかなりにくいというのはこんなところにも見えますね。

 でもこうやってずっと考えたら、やっぱりすべての絵画は、別に滅失しなくてもどんどん失われていくものなんだな、と分かっていくように思います。
「人間と同じで、絵画も死ぬものだと思います」てなことをマルセル・デュシャンが言ってました。絵画の側も時間とともに必ず変質するわけですし、見方のわかっている人の方だってどんどん死んでいくわけですから。

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