「グランドオープン」


 (このエントリーから続きます)

 ありゃー白梅町のパチンコはとうとう取り壊しですか。
 でも・・・

 「エンターテイメント オメガ白梅町」

というのができると書いてありました。結局似たようなものになるんですね。

 看板には「近日グランドオープン(予定)」って書いてありました。
 この「グランドオープン」って、なんなんでしょうね。
 英語のようで、英語でない。英語にはgrand openingという言い方はあるようですが・・・

 こういう言い方は、日本語を学ぶ外国人の頭を悩ましているでしょうね。

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若い人たちの龍安寺


 少し京都に帰りました。

 また龍安寺へ。石庭へ。

 朝一番、8時過ぎに行ってみたのですが、どうもこの時間は修学旅行生がたくさん来る時間帯みたいですね。こんな朝から入ることができる場所は一部のお寺だけなのでしょう。だから修学旅行のスケジュールに入れられやすいのだと思います。

 パンフレット見ながら「見る人の。自由な解釈に。」なんとかと読んでいるおじちゃんもいました・・・

 修学旅行生たちは「人が黒くなる」「逆光か?」「14個しかない」「15個あった」等々騒々しいですね。

 でもこういうときも、ええいやかましい、「瞑想」ができんではないかみたいなことは思わなくなりました。
 たとえこの子たちが高尚なことは何も考えなかったとしても、この場に来て、この場を見たということは間違いなく「良い」ことのはず、という気がしますから。
 
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アルジェリアは成熟しました


 自分の仕事が忙しくて、アルジェリアの大切な総選挙のことが書けていませんでした。
 これではウォッチャー失格ですが、アルジェリア・ウォッチングでお給料をもらっているわけではないのでお許しください・・・
 
 5月10日の国民議会選挙(ね、アルジェリアは金曜日が休日だから木曜日に選挙なんですよ)では462議席のうちの221議席が改選されました。「アラブの春」の後のチュニジアやエジプトの動向からアルジェリアもイスラム教勢力が台頭するのではと予測する向きもありましたが、これはなかったですね。悪夢の90年代、原理主義テロの殺戮を経験したアルジェリア国民はイスラミストに多くの議席を与えるようなことは、やっぱりしませんでした。あの苦難の時代の教訓を、アルジェリア国民はしっかり生かしていると言えます。

 大統領の与党、FLNとRNDでらくらく過半数です。
 ブーテフリカ大統領は次回2014年の大統領選への不出馬を事実上表明して、後継者候補の間での正々堂々たる戦いを準備しました。
 Jeune AfriqueはAhmed Ouyahiya, Abdelaziz Belkhadem, Mouloud HamroucheとAli Benflisの四人の名前をあげていますが、たぶんウヤヒヤかベルカデムかということになるでしょう。

 いずれにせよ、テロを終息させ、インフラを整備し、アルジェリアが本格的に「発進」できる土台を築いたブーテフリカ大統領は、偉大な大統領として後世に名を残すでしょう。
 そしてアルジェリアは、より成熟した政治をもってアラブ世界、アフリカで指導的役割が果たせる国になっていくことが期待されます。
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Steve Jobs' Commencement adress (2005)


 後期から英語での授業を始めるわけなので、さびついた英語をブラッシュアップしてます。その一環として、TOEFL受験用クラスに出させていただいてます。

 きのう先生から参考ということで、有名なSteve JobsのStanford大学卒業式スピーチのテクストをいただきました。

 はじめて全文を読むのですが、これは素晴らしいですね。さすがにスタンフォード大学が © つけておぽんぽんに入れてしまうテクストだけのことはあります。

 フランス語も素晴らしい言葉ですけど、英語も当然ながらに素晴らしい。
 もっとも世の中に、どの面から見てもぜんぜん素晴らしくないという言語は存在しないように思いますけどね・・・

 Don't let the noise of other's opinions drown out your own inner voice.

なんて、ほんとそうだと思いました(てなこと言ったら、だからあんたはジコチューなんだよ、という声がその辺からうわーっと来そうですが。)。

 ところで、わたしが前から英語で気になっているのは、たとえばこの文の"drown out"みたいな言い方なんですね。これが「なぜフランス語を英語で教えるか」ということにも関わってきます・・・ (つづく)
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英語でフランス語を教える理由(その5)


このエントリーから続きます)

 いわゆる「第二外国語」教育が日本であまり意義が明白に感じられないものになってしまっている最大の原因のひとつは、教育の枠組み自体が明治のときに作られたもののままで、21世紀の現実に対応した形になっていないということであるように思います。

 明治のときは、脱亜入欧、それもドイツをモデルに国づくりするから、ということで英独仏語が教育外国語ということになったわけですね(もっともフランス語はやってもあんまり就職なかったんですよ。英語、ドイツ語をやった人たちは食えた。フランス語は食えなかったんです)。
 あとの国・地域は「後進国」なわけであまり顧慮されなかった。日本は上の方を見るんだ! という感じだったと思います。横とか下の方とかは見ない。それが精神的高さを希求する心とうまく合っていた。

 21世紀の今はそうではないです。BRICSはくるし、二番手の新興国がどんどん出てきます。Bのブラジルのポルトガル語は日本と移民による繋がりもあるのだしもっと振興されていいはず。Rのロシアは近隣国でもありコミュニケーションを密にすれば日本にプラスになる関係を結んで行けるはず。Cの中国は言うまでもないです。あとアルゼンチンとかトルコとかメキシコとかインドネシアとかベトナムとか・・・ 日本は多方面のことを知らなければならないです。というかむしろそういうのを楽しく学べて活用できる時代になっていると思うのです。ひとことで言って:

「精神的高みは、横方向にもある」

と考えてコミュニケーションを進めることに意義を、価値を見出していく方がいいと思うんです。

 そうすれば、この国は簡単に中国や韓国に負けたりはしないと思いますよ。
 わたしは、若い人たちを信じています。

 いまの日本は、広範囲の、多数の国・地域で通用し、情報がとれる言葉の教育を優先すべきだと思います。それがとりもなおさずグローバルに通用する人材を育てることになると思います。

 英語が最優先で教育されるのは、当然この理由からのはずです。
 ならば第二外国語についても、仏西中露アラビアを同列に並べたような教育をデザインしてはどうかと思うのです。
 英語を特権的な位置に置き(現状では英語はその扱いを受けるに十分値します)、あとの広範囲使用言語を明確に「サブ」の位置に置いて外国語教育をデザインするのです。
 わたしが英語でフランス語を教えたいというのは、ひとつにはそういう考えがあるからです。

 もちろんドイツ語には、これまで日本を知的に牽引してきてくれた功績へのリスペクトを持つべきです。ドイツ語には、それなしには理解が難しい明治以降の日本の大きな部分への導入言語としてしかるべき地位を得てもらわないと困りますが、基本的には広範囲コミュニケーションの言語を中心に言語教育を考えた方がいい、そういう時代に日本は入っていると思います。

 わたしはとくにスペイン語を中心に据えて第二外国語教育を構想してみたいです。
 多数の国、広大な地域でコミュニケーションに用いられるスペイン語のあり方をどのように若い世代に教えるかというところから思索・議論を始めるのがよいと思います。
 (同様にフランス語も、まずは広い地域で用いられている言語としての現状から教育をデザインした方がいいと思います。フランス語は、国家としてのフランスの植民地主義・帝国主義を憎むあまりできるだけ軽視・無視したいという願望が日本には潜在的に存在してしまうわけですが(これ、ほんとですよ)、あまりその願望が大きくなると、当のフランス植民地主義への最大の抵抗者だったアルジェリア人と一対一で腹をわって話しすることができなくなる、という変なことになるわけです)

 明治のころにはスペイン語文学にはあまり活気がなく重要性がなかったのですが21世紀の今は事情がぜんぜん違います。ラテンアメリカ文学が世界の大文学として確固たる地位を築いたという事実を見据えて、それにふさわしい顧慮をラテンアメリカ文学を支える言語、スペイン語に与えるべきだと思います。

 ただこれがすでに難しい。
 日本の大学にはスペイン語の先生があんまりいなくて、スペイン語の意義・重要性を主張する声自体が上がらないのです。たとえスペイン語の先生のポストを増やしましょうという話になっても、目下の情勢ではどこかのポストを削らないといけないことになるでしょう。どこを削りますか?
 フランス語の先生の数はもう十分減らされてますからこれ以上減らさない方がいいとわたしは思うのですが、それは日本の全ての人の一致するコンセンサスということにはなってないでしょうね・・・
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ワルダ追悼


 アルジェリアの大歌手Warda al Jazairia (Ouardaとかel Djazayriyaとか、例によって表記法はいろいろです)が17日にカイロで亡くなりました。72歳でした。
 謹んで冥福をお祈りいたします。Que son ame se repose en paix.
 
 パリで父の経営する伝説的クラブTam-Tam(これはTunisie, Algerie, Marocの頭文字を並べたネーミングです)で子供のころから歌い始めた彼女は、アルジェリア独立戦争のときに国民解放戦線FLNを支援、フランスを出てアラブ世界で活躍します。
 アルジェリアはアラブ世界のなかでは周縁になりますから(もっともフランスとの関係はずっと緊密だし、今となっては「世界」から見る視点ができて話が別になりましたが)アルジェリア歌手がアラブ世界のトップスターになるにはなかなか難しいところがあります。
 でもワルダは別格でした。カイロで大成功をおさめ、アラブ世界全体の大歌手として君臨していました。

 というような人なのですが、残念ながら日本ではほとんど報じられないですね・・・
 
 おととい昨日は他に有名人が数人亡くなられていて、日経にたくさん死亡記事が並んでました。

 ディートリッヒ・フィッシャー=ディスカウさん、ご冥福をお祈りします。
 邱永漢さん、ご冥福をお祈りします。
 ドナ・サマーさん、ご冥福をお祈りします。

 15日にはカルロス・フエンテスが亡くなってることに今気付きました。日経、紙媒体の方には死亡記事が出てたかな・・・? 見た覚えがないんですが・・・
 カルロス・フエンテスさんも、ご冥福をお祈りします。

 ともかく、遠いアラブ世界の人だといっても、ワルダさんくらいの大物の逝去は当然ながらに日本の新聞でも報じられる、そのような時代になってほしいと思います。
 
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神様がみてたら


 すげースピードでいろんな仕事やってて、それでもおっつかなくておおあわてで走り回ってるわたしを神様がみてたら苦笑するだろうなと思います。でも鈴木先生も言う通り「仕事ってのは、忙しいときほどできるもの」だということにしておいて。

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フランス語を英語で教える理由(その4)


 とくに、日本からグローバルな場で活躍できる人材を育てるというような観点からは、フランス語教育のことを、第二外国語十把ひとからげの中でなく、フランス語教育そのものとして、その意義、手段等を考えることを避ける、というのはちょっと不可能だと思います。

 どうしても十把ひとからげにするというなら、英語以外の国連公用語、仏西露中アラビアの五言語のひとからげなら、この場合まだ話が分かります。
 国際機関や、国際協力の世界でいちばんニーズがあるのがこの五言語だからです。これは『国際協力師になるために』の著者、山本氏など現場の多くの人が指摘していることです。

 日本の現状として、英語教育はかなり完備されていると言えます。英語を学べる教材はたくさんあるし、教える人もたくさんいる。教える機関もたくさんある。
 国際的な場で働くという気概をもった若者というのは、当然ながら英語は勉強してます。
 英語が相当できるのでないと、世界で仕事などできない。
 そんなの、あたりまえです。
 つまりこれは日本の人もみんなよく分かっていて、社会的認知が行き届いているわけです。

 フランス語はそうはいかないです。仏西露中アラビアの中でも、たぶん中国語はかなり社会的ニーズが高くなってきて、日本社会もそれを認識していると思います。中国語が抜群にできれば就活に有利な場が多くなっていることでしょう。でもその他の言語は、そんなに就職力には関わらないでしょう。

 そういうことならそういうことで、日本におけるフランス語教育をこんな風に捉えられないでしょうか?・・・

 いやしくも国際的な場で働く気概のある若者は、英語の勉強はしっかりやって、かなりマスターしているはず。
 ならば、英語と文法も、語彙も非常に似通っているフランス語というのは、英語の実践(つまり英語「で」なにかをやる、ということですよ)と合わせる形で、英語にプラスするみたいな形で、やる気と能力のある人にある程度のレベルまでマスターしてもらえばいい、という発想が可能ではないか。(それに、フランス語とうまく対比することによって相当英語自体が分かりやすく、覚えやすくすることができるはず、ということも付け加えておきます。このあたりはintercomprehensionの議論が参考になるかなと思います)

 どうせ目先の就職には直接関わらないのだから、そしてどうせ全ての人が国際機関職員になるわけではないのだから、実際に国際機関への就職や国際協力が視野に入ってきた人がそのときに集中勉強して高いレベルに持っていけるようなフランス語力を維持していればいい。
 フランス語を仕事に活用できる見込みはあまり高くなくても、勉強すればフランス語文化とフランス語が仲介する文化――ライみたいな!――の産物の享受は相当できるようになるから、少なくともこういうのが楽しいと思える人にとっては、フランス語は勉強して損にはならない、苦にならない・・・

 少なくとも英語とフランス語が共存する場を作れば、疑似的に国際機関空間を現出させることになるんじゃないかと思います。

つづく)
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フランス語を英語で教える理由(その3)


 うーんこのスレッドは、多方面のことを考慮にいれないといけないですから、なかなか書きにくいです・・・

 きのうも大学で、最近お話が出てきた「グローバル人材育成推進事業」についての説明会とかがあったのですが、一般参加者にすぎないわたしからいろいろお話しすることは難しかったです。これは仕方がないなあ・・・

 それはとにかく。

 わたしのこの試みは、日本における個々の外国語の社会的ニーズにふさわしい教え方、というのを考えると自然に出てくる発想でもある、とも思います。

 日本で外国語教育の話をするときには、英語というのが別格の存在であるのは論を待たないのですが、フランス語以下の「第二外国語」がいつも英語への付けたしとして扱われてしまっていて、ぜんぜん意味のある議論にならないのですね。
 英語教育についてのお話は延々となされるのに、第二外国語については最後に「あー、第二外国語についても、ちゃんと配慮します」というのでおしまい、というのが日本の多くの言語教育議論の現状かなぁ、と思います。

 日本にとって英語とはどういうもので、今後どういう英語教育を構築するのが学ぶ本人のため、日本のため、ひいては世界の将来のために良いことなのか、英語教育の世界の人はもちろん、その外でも多くの人が真剣に考え、実践しておられます。
 ならば、日本にとってフランス語はどういうもので、今後どういうフランス語教育を目指すのが学ぶ本人のため、日本のため、ひいては世界の将来のために良いことなのか、ということも考え、実践しなくてはいけません。フランス語教育の内輪の世界では真剣に考え、活発に議論し、実践しているんですが、これが一般社会の問題意識に全然なっていかない。

 そうですね、日本の一般社会にとっては、ちょうど「ライオン堂」の幹部の方々が「Lion d'orってフランス語の音がうちの店名に似ている。フランス語だし、洒落てる」と考えられたのだと思いますが、それくらいの認識かなあ、と思うんです。
 フランス語って、日本ではそれ以上のものではないし、する必要もない、と。

 結局、フランス語教員が内輪でしている議論は我田引水的議論にすぎず、フランス語教育は日本では全然要らないものだ、ということが客観的に証明されるなら、さっさと廃止にしてしまうべきなんです。

 だけど、わたしには、自分の損得は別として、そうは思えないです。

つづく)
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フランス語を英語で教える理由(その2)


(このエントリーから続きます)

 このあたりはまだ理論的に詰め切れていないので、感覚的な言葉で語るしかないのですが・・・

 学び手が、英語、フランス語が現行の形になっているのは、ある意味「たまたま」そうなっているのだという感覚を持てるようにすること――これが留学機会もなくもっぱら日本で勉強しながらでも、フランス語も英語も高度に使いこなせるようになるための道ではないか。

 そのためには、英語とフランス語の間――あるいは横――にある、無数の中間的言語を意識してもらうことが有効な手段ではないか。そのためには英語とフランス語の間のひっきりなしの往来を体験してもらう方が、日本語による概念分析に誘うより効果をあげると思います。
 うまくやれればの話ですが。

つづく
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