rai infos/ライ・ニュース 040

040 LE RETOUR TRIOMPHAL DE L'ENFANT DU PAYS : RACHID TAHA A ORAN

 ラシード・タハが5月26日、故郷オランでコンサートを行いました。野外会場 Theatre de la Verdure の使用許可が得られず、かなり小さいオペラ用の劇場Theatre Abdelkader Alloula に押し込められたタハですが、逆境をバネにした感じですね。客席に「みんなが知ってる『オランの熱気』はどこ行った?』と挑発してみたり、Abdel Kader の歌詞を挑発的なものに替えて歌ったり、ブーイング寸前状態までいったそうですが、それは彼一流の戦術だったのでしょう。最終的には故郷の観客の心をつかみ、コンサートは成功だったとEL WATAN紙5月28日号は伝えています。

 エル=ワタンの記事の筆者 Djamel Benachour記者は、この成功は美声によるよりも曲目の選択によるものだ、と述べています。タハのような潰れた声は個性的ではありますが、「個性的」というのは西欧的価値であってアルジェリアではなかなかそれだけでは認められないところがあります。それだけ歌手の「姿勢」でアピールする必要があるわけですね。もちろんタハは元々そういう歌手ですが。

 思わず我が意を得たと思ったのは、ベナシュール記者が mandole 奏者に注目して褒めていたことでした。これはたぶん Hakim Hamadouche さんのことでしょうね。タハが手放さないのか、ここ数年ずっとバックバンドにいますから。そう、この人うまいんですよ。(^_^)  5年前に日本に来た時も、無口な彼のことは印象に残っています。

 さてこのツアーの途中でいくつかインタビューがありました。そのなかからいくつかお伝えしておきます・・・
 オランのコンサートのチケットが800ディナールという高値にセットされたことについて、「チケットが高くなる(つまり来れるのは富裕層だけ)か、コンサートの情報が伝わらない(プロモーションにお金がかけられない)か、どっちかだな」と文句を言ってました。
 それから・・・次のアルジェリア大統領選に出たいそうです。 (^_^)y
 またニューアルバムがほぼ完成したと言っているのには注意をひかれました。タイトルは Diwan 2 というのですから、前作 Tekitoiの路線でなく、もっと原点回帰した音が想像されます。わたし個人としてはこういうのの方が期待が膨らみますね。 (^o^)
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rai infos/ライ・ニュース 036-039

036 KHALED, RACHID BOUCHAREB ET LUC BESSON 
 ラシード・ブーシャレブ監督の映画 Indigenes (「原住民」という意味です)は、リュック・ベッソンが製作(ずっと前からベッソンは名前だけ出して、現場で撮るのは他の人という、このパターンばっかしですね。 (^_^;) )、ハレドが音楽を提供するとのことですが、内容はかなり意欲的です。第二次大戦末期、フランスが解放されて行く過程において、それまでフランスのために勇敢に戦って来た北アフリカ出身の四人の兵士が再びフランスの中で疎外を感じて行く、というもので、排外的空気の強い今のフランスに対して、過去の記憶を呼び起こす意図が感じられます。出演が Jamel Debbouze, Samy Naceri, Roschdy Zem, Sami Bouajilaというマグレブ移民二世世代のスターたちというのも注目に値しますね。今年のカンヌ映画祭に参加、一般公開は9月27日の予定ということです。

PS カンヌ映画祭では、上記の四人がまとめて主演男優賞に輝いてますね。これでこの映画も日本公開、ハレドの声が聞けることになりそうですね。 (^_^)y 06.05.29.

037 ZAHOUANIA CONVERTIE ?  Bled Connexionのサイトの伝えるところによると、4月6日にアルジェリア国営テレビに出演したシャバ=ザフアニアはメッカ巡礼をすませた女性としてヒジャブを被って登場、驚いたことに今後は宗教歌、預言者を讃える歌しか歌わない、そのように大統領と約束した、と宣言したのだそうです。彼女の魂の救済のためにはよいことなのかもしれませんが、ライ・ファンとしてはうーん、ちょっと考え直して欲しいですね。リミッティだってメッカ巡礼してhadjaとなりましたが、それで自分の生き方、自分の歌を変えることは全くなかったんですから・・・  
 その後おなじ番組を見た人が「えー? そんなこと言ってたのかな?」とか言っているのを聞きました。というわけで、真相はイマイチ謎です。 f(?_?)

038 RAI'N'B FEVER II  一昨年大好評を博したアルバム Rai'n'b Fever の第二弾が8月26日に Columbia Recordsから発売される運びとなりました。すでにこのアルバムの一曲、Magic System, Akil, Cheb Bilal & Big Aliによる "C'est cho, ca brule"がラジオでじゃんじゃんかかっているとのこと。ライからは他に Cheb Mami, Reda Taliani, Zahouaniaが参加(なんとカビルのスーパースター Idir まで出ているとのこと。どんなスタイルの曲でしょうね?)。一枚目で一躍スターになった Amineは再び Leslie との共演で"Sobri"を録音しています。・・・一枚目にはリミッティばあちゃんも出てたんですよね・・・ 再びグスン・・・ (;_;)

039 BIYOUNA, FEATURING KADA CHERIF HADRIA  女性コメディアンのビユウナが音楽界に進出して2枚目のアルバムが9月発表予定となっていますが、謎のライ・マン、カダ=シェリフ=ハドリアをフューチャーしているとのこと(この人のこと、ほんとよく分かんないんですよね。音はそこそこ面白いんですけど)。



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エル・スール

 ビクトル・エリセのすてきな映画と同じ「南」という名前をもつお店、「El Sur」は、知る人ぞ知るワールドミュージックCDの一大集積地です。 (^_^)

 今月末に、移転のためにいったん現店舗を閉店することになりました。
 閉店パーティーにはいけなかったんですが、先日店長で音楽評論家の原田さんにご挨拶してきました。
 ついでに、いま話題の KhaledとレバノンのDiana Hadadの共演CDをゲット。それから、これまで置いてあるのが気がつかなかった Zahouania, Tahar, Mami が一本に入ったMCPEのカセットも。 (^_^)v

 新店舗はまだ決まってないそうですが、これまで以上に豊かな品揃えを期待したいと思います。

 今月末まで、閉店セールだそうですから、ワールドの基礎コレクション作りたい方は絶好のチャンスですよ。 (^_^)y 渋谷駅から、宮益坂を注意して上って行けば見つかります。
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リミッティのインタビュー


 そろそろリミッティばあちゃんの思い出話ともお別れしないといけません。生者は生者の生活に戻らねば。このエントリーでいちおう最後にしようと思います。

 生前リミッティは「エジプトにはウーム・カルスームが、アルジェリアにはリミッティがいるのさ」と豪語してましたが、たしかに好対照でしたね。
 たとえば、どちらもホテル暮らしが長かったですが、カイロのシェラトン・ホテル上層階から全アラブの民を睥睨していたウーム・カルスームと、昔の自分の伴奏者が経営するパリの安宿に間借りしていたリミッティでは、ホテル暮らしといっても全く意味が正反対ですよね。彼女たちの音楽も対称的で、ウーム・カルスームのが天上のものなら、リミッティのは人間の情欲という地獄から来るものだったかもしれません・・・ こんな風に言っちゃ悪いかな。でもわたし個人的には、うん、地獄の方が魅力的に思えます。 (^_^)y

 リミッティは、稼いだお金は自分の子供(といっても当然ながらもうずいぶん年寄りです)にお小遣いとして気前よくあげていました。リミッティは女性ですが、イスラムの家長的感覚というのはこういうものかもしれませんね。あんまりお金が残らないのも当然です。
 もっともリミッティは、特に晩年は、起きているときは食べているか、歌っているかで、あとは寝るだけという生活でしたから、たいしてお金は要らなかったはずです。日本ではノルディンがコンビニで適当に買って来たパンとかを食べてました。

 2年前にリミッティが行った奇跡の来日公演については『ミュージックマガジン』2004年8月号に書いてありますので、この号を探して見ていただければ幸いです。

 最後に、プレスインタビューのときのことを書きます。
 リミッティの修業時代については、わたしは大変興味がありました。とくにリミッティ(この芸名は「(お客さんたちに)もう一杯お酒を注いであげて」remettez la tournee というフランス語を彼女がアラブ語風に訛って Aya, Madam, rimitti la tourni と発音したのをフランス人のお客たちが面白がってはやしたてたところから来ています)は本来 Cheikha Remettez Relizaniya 「レリザヌのシェイハ=ルメテ」としてデビューしたのですから、レリザヌ(オランの東の方にある町です)でどんな修行をしたかが彼女の音楽形成の重要なポイントのはずなのです。
 しかしそのへんを尋ねても、リミッティは「曲は神様のおかげでできるのです」とかなんとか、結局自分の話したいことしか話さないんですね。自分の嫌なことはしないというのは長寿の秘訣の基本なのかもしれませんが、これには参りました。
 インタビューでこっちの聞きたいことを聞き出すってほんとに難しいですね。多かれ少なかれ相手の気を悪くすることを覚悟しないと、少し立ち入ったことは聞けないものなのでしょう。

 リミッティはアルジェリアのアラブ語しか話さないので、質問の日本語は通訳の石川さんがフランス語にして、それをノルディンがアルジェリア・アラブ語にしてやっと本人に伝わる、本人の答えもその逆経路で伝わるという面倒な手続きになっていました。そのへんにも問題があったかもしれません。

 ところでこのインタビューのとき直接フランス語で、一番活発に質問していたのは、NHKラジオの国際放送(英語放送)から来ていた N さんという人でした。
 この人、インドの人なんです。
 台北大会の報告でもお分かりのように、インドはフランス語の出来る人が多いのです。日本では、インタビューをフランス語でやって放送は英語でする、というような仕事のできる人材が極端に少なくて、インドの人の手を借りないといけないのかもしれません。なんだか情けなくなりますね。 (T_T)

 ということでとにかく、はい、話がフランス語教育に戻ってきましたね。よかったよかった。 (^_^)y
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イスラムの墓

 イスラムのお墓の印象について、思い出を少し書きます。

 以前チュニジアに行った時のことです。フランス、カーンのフランス語教員研修の折に知り合った友人を頼ってチュニスまで行ったのですが、その友人のそのまた友人の若者に市内の案内までしてもらって恐縮しました。

 案内の子に連れられて行ったあるモスクに付属していたと思いますが、ここがチュニスのかつての支配者たちのお墓だという一室を教えられました。

 チュニス歴代のベイの墓所はさぞかし贅を尽くしたものだろう、と思って入ってみたのですが、驚いたことに、あるのはほんとにただの石のお棺だけでした。ベイとそのお妃のお棺がずらっと並べてあるだけなのです。

 (それにそれらの棺はなんとなくバラバラでした。ただ雑然としているだけなら「ランダムという秩序」があるわけですが、ここのお棺は違う。いちおう列に並べてあるようでいて、ちゃんと並んでない。斜めになってたりずれていたり、なんかよくわかんないです。墓所という、どうしても厳粛になってしまう空間の性格を意識的に脱構築しよう、とでもいうのかしら? どなたかこの意味ありげなズレの意味を教えて下さいませんか?)

 考えてみれば、ベイたちのお墓が美術的に高度なものだったら、日本でも写真とかそういうもので伝えられないはずがない。ということは見た目は簡素なもの、観光資源にはなりにくいものであるはずなわけですね・・・ 

 これはよく考えたら妙な話です。なぜならどんなきらびやかなお宝より、このお墓の方がチュニスに対して、イスラムの人々に対してわたしに共感を覚えさせる物なのですから・・・

 とにかくこの質素さは、なにか深いものを感じさせます。人間は死ねば生前の貧富の差もなくなり幸運の多寡も全て精算され、神のもとに裸の存在として戻るという考えがそこにあるのでしょう。

 お棺の真ん中に窪みがあるのですが、それは水を注ぐためのものです。鳥を招くようにしてある、というのですね。「そういうのが、良い」のだ、と案内してくれた子は教えてくれました。死者が生と共にあるから、でしょうか・・・




 ハスニのお墓も、何千、何万というお墓が並ぶ巨大な墓地、アイン=エル=バイダの、他の全てとまったく同じひとつの、簡素な墓でした。

 リミッティも、あれと同じひとつの墓で眠るのですね。



 ・・・やれ墓石だ、戒名だ、院号だと大騒ぎする今の日本のお墓より、イスラム式の方がずっと「仏教的」に思えますね。
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シャラカタ


 結局リミッティが西洋型アレンジ・録音でこの世に残したアルバムは Sidi Mansour, Nouar そして N'ta Goudamiの3枚ということになります。Sidi Mansour はロバート・フリップ、イースト・ベイ・レイ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーらとの共演ということになってますが、リミッティの音のトラックを聞きながらフリップたちが演奏をかぶせただけであり、両者は顔を合わせてもいないので、そんなに音楽としてまとまりのあるものとは思いません。Nouar は Charles Cros 賞も受けた傑作ですが、今の時点から考えるなら、N'ta Goudami の方が断然優れていると思います。
 「繰り返しがあんまり多すぎる」と難ずる人もいるのですが、これは元々のライがそういうものなので、原点回帰なのです。いったんこのパターンに乗ってしまえば、催眠術にかかったように、聞き続けずにはいられないようになってしまいます。

 ところで西洋型の3枚のどれにも、リミッティの名を全アルジェリアにとどろかせた『シャラカタ』は入ってません。ちょっと残念ですね。

 西洋電気楽器伴奏の『シャラカタ』は、わたしは幸せなことにライブで聞く機会がありました。

 場所はフランス、ダンケルクでした。2003年、「フランスにおけるアルジェリア年」ということで、アミアンでベルムーが演奏するのと日程が近接していたこの時期を狙って渡仏したのです。

 時間通り、前座もなしにいきなり始めるのには少しびっくりしましたが、リミッティは自分の気合いが入ったときに即演奏をはじめるからそうなったんでしょうね。彼女は曲目予定はあまり気にせず、そのとき歌いたい曲をうたうんです。周りの者はそれに合わせるわけですね。

 それで『シャラカタ』ですが、ほんとモダンで楽しいんですよ。この曲に関しては繰り返しのテンポがやけに遅くて

 シャラカタ。   シャラカタ。

という感じ。オリジナルでは呪術師の呪文のように早口で

 シャラカタシャラカタシャラカタシャラカタ・・・

と唱えている感じですから、だいぶん余裕があります。

 それでね、間奏部でリミッティは両手を大きく左右に広げて頭を傾け、前の方に

 ぽん。   ぽん。   ぽん。

て、跳ぶんですよ。 (^o^)

 会場からはおおおおおおと大歓声。 \(^O^)/ \(^O^)/ \(^O^)/

 ほんとに楽しいシャラカタでした。

 場所柄、お客の大半はフランス人という会場でしたが、リミッティはあの大声援を心から喜んでいたように思います。

 日本公演は、第一部がガスバとデルブッカ伴奏による伝統バージョン、第二部の現行の電気楽器伴奏バージョンの方という構成にしていました。リミッティも第二部で日本人とアルジェリア人が一緒に踊っているのを見たのをよい思い出にしてくれたものと思います(「第三世界の民俗音楽をかしこまって聞くつもりで来たのに、こんなドシャメシャ・ロックを聞かされるとは」って感じで早々に退散しちゃった人もいたみたいですが)。

 日本ではシャラカタは第一部の方で演奏されました。最近は見られなくなっていた本来のスタイルが見られたので、それはそれでよかったのですが、電気楽器伴奏によるあの楽しいシャラカタも捨てがたかったなあ、となつかしく思い出します。
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リミッティの歌

 中断している台北大会の報告は、来週再開いたします。もうしばらくリミッティの思い出におつきあいいただければ幸いです。 m(_ _)m



 リミッティの歌を知らない方は多いと思いますので、歌詞をいくつかサンプルとしてあげておきます。こんな歌が、アルジェリアの片隅で歌われて来たのです。

 (リミッティの歌詞では視点が細かく交代するし、論理的つながりの薄い突然の主題転換が多くて、筋の通るところだけ抜き出しています。それに、主にフランス語を介した重訳ですし、大きな文化の差もあるので、細かいニュアンスや意図は抜け落ちてしまっていると思います)
 

CHARAK GATTA 裂け、ひきちぎれ

 裂け、引きちぎれ! リミッティが繕ってやる
 裂いたのはわたしだから、わたしが繕ってやる・・・
 ブチュっとやれ、ブチュっとやれ、
 昨日のようにマットレスの上で、まぐわいにまぐわいを重ね、
 わたしは恋人の望み通りのことをしよう・・・


DEBRI うまくやれ

 うまくやれ、うまくやれ・・・
 どこにあんたの恋人を寝かせるか
 どこで彼と楽しむか・・・
 ヴィシー・ホテルは高速道路の脇だ
 キスして、絡み合うんだ


TOUCHE MAMI TOUCHE 坊や、触ってごらん

 触ってごらん、坊や、触ってごらん
 一度だけだよ、二度はだめだよ
 ああ可愛い坊や
 触ってごらん、右も左も。
 わたしを喜ばせてくれる人が好き
 力強くて格好いいわたしの恋人が・・・


NOUAR 花

 愛する人と一緒に、わたしは山の頂まで
 花を摘みに行く
 蜜の味の花は、わが愛する人のためのもの
 タバコに火をつけるように、彼はわたしに火をつけた・・・


OULAD AL JAZAIR アルジェリアの子たち

 アルジェリアの子らよ、
 働いて国を強くしよう
 神様がお守りになる


RASSOUL ALLAH 神の預言者

 アラーの他に神はなく
 ムハマドは神の預言者である
     (イスラムのシャハーダ「信仰告白」がそのまま歌詞になっている)
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rai infos/ライ・ニュース 035  わざとでなければ

LES DERNIERS JOURS DE RIMITTI
 リミッティが亡くなって一週間経ちます。
 もうそろそろ落ち着いたかなと、ノルディンに電話してみました。
 彼はライ業界の一番のキーパーソン(クリエーター、オーガナイザー)であるだけでなく、リミッティの身辺の世話までしていたという、なんとも理解しがたいほど有能な男です。顔はちょっとごついけど。 (^_^;) )。だからお悔やみを言って、リミッティが亡くなった時の様子などを聞いてみました。

 ノルディンはオランにいました(フランスの携帯でも電波はちゃんとオランに届きます)。埋葬は金曜に済ませたそうです。彼女が葬られたのはアイン=エル=バイダ。ハスニも眠る、巨大な墓地です。

 リミッティは、亡くなる2日前の13日に、ハレドやザフアニアと共にゼニット Zenithでのコンサートをこなしていました。たしかにちょっと疲れ気味だったそうです。

 それで15日、彼女はノルディンとパリの街頭を歩いていて、彼の目の前で急にがくっと崩れ落ち、それっきり、ということです。

 「ほんとに、あっけないものだよ」と彼は言ってました。
 

 パリの路上で昏倒する、というのはスタンダールの死に方です(彼の場合はたぶん卒中が死因ですが)。
 彼は生前「わざとでなければ、街頭で死ぬのも滑稽ではないと思う」と言っていました。予感があったかもしれません。

 「わざとでなければ」というのは、フランス人にありがちな、妙な格好のつけ方を皮肉っての言葉ですが、ほんとうにわざとでないとき、それは死に方として最高だと思いますよ。


 リミッティの公式サイトのことを忘れていました。ご参照ください。

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 わたしの書いたところが サラーム海上さんのブログにもありますから、ご覧になってください。



 リミッティの遺作となった N'ta Goudamiをとりだして聴いてみたんですが、なんだか悲しくて悲しくて、仕方がなくなりました。


 ライという音楽自体が、彼女の死でなにか本質的なものを失ったという気がしてます。

 ルネサンスの巨匠ラファエルロが亡くなったとき、イタリアの人々が

「絵画という芸術もまた死に絶えたのかもしれなかった。それというのもラファエルロが眼を閉じたとき、絵画はさながら盲となってこの世にとり残されたから」(ヴァザーリ)

と感じた気持ちは、こんなのだったんだろうな、と思います。

 ごめんなさい、ちょっと喪に服させてください。まあ3日もしたら元気回復すると思いますけど・・・

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シェイハ=リミッティ讃

 リミッティのことをご存知ない方のために、簡単に彼女の生涯をご紹介しておきます。そしてわたしのリミッティへの思いも。

 Cheikha RimittiことSaadia Bediefは1923年5月8日、アルジェリア西部、シディベラベス近郊に生まれました。たいした教育は受けたことがなく生涯文盲でしたが、すばらしい記憶力と創作力を天から授かっていたようです。

 両親を失って孤児になるとフランス人家庭の女中として働くことになりましたが、あるとき旅の楽士たちの音楽に魅了されて長居をしてしまい,遅く帰って来たら怒った主人にクビにされ、腹を決めて楽士の中に身を投じ、放浪の旅と音楽の修行をすることになったのだそうです。この頃のことについては彼女はあまり話すこともなかったようです。おそらく、ずいぶんつらい思い出、嫌な思い出が多かったのでしょう・・・

 リミッティが強烈な性の讃歌を歌って頭角を現したのは、どうも第二次大戦時、飢饉と疫病で人々が苦しみに喘ぐ時代(カミュが『ペスト』を書く素材になったらしい疫病の時代ですね)を経験したことがきっかけになっているようです。のちに「ライ」と呼ばれるようになるこのジャンルはもとからそういう性的内容を含んでいたわけですが、極限状態での彼女の生への執着が性への志向をさらに刺激したと言えるのでしょう。

 このころから独立戦争(54〜62年)の時代まで、何人もの cheikha と呼ばれる女性歌手が活動していましたが、当時からリミッティは曲の質の高さ、旺盛な創作力で傑出した存在でした。
 最初のレコードヒットは1954年の Charrak gatta(裂け、引きちぎれ)で、これは処女喪失、性の快楽への誘いを歌ったものです。彼女は宗教歌、愛国歌も歌っていますが性の快楽を肯定したもの、酒を歌ったもの、つまりイスラム圏で公に歌い、聞くことがはばかられる歌がアルジェリアの人たちに強い印象をあたえたわけです(「イスラム圏で」とは言っても、酒はともかく性の方は、日本でだって「ちょっとこれは・・・」と人をうろたえさせる内容のがあると思いますよ)。

 アルジェリアの多くの人たちはリミッティを愛し、彼女の歌の聞けるラジオ放送を楽しみにしていました。ラジオはアルジェリアのステップ地帯でも聞くことができるわけですから(自然条件の厳しい地域で孤独な生活をしている人たちこそ往々にして性的に抑圧された人生を送っているわけで、その後大きな変貌を遂げて国際的な人気を得るに至ったライですが、本来はこういう人たちのための音楽だったのです)。
 しかしアルジェリアを代表する大歌手としての扱いというのは、リミッティには与えられませんでした。奇声を発しながらワイセツきわまりない歌詞を歌いまくり踊りまくる彼女を悪魔のようにみなす人は多いわけで、既存の音楽界、宗教界の認めるところではなく、政治的支配層の人々も、個人的には非常に愛好していても公的に彼女を支持することはありませんでした。

 70年代からもっぱらフランスのアルジェリア・コミュニティで歌っていた彼女ですがハレド、シェブ=マミ等の歌うライが世界的人気を得るようになって、このジャンルのバックボーンを作った人としてフランス等で大きな脚光を浴びるようになりました。同時に、ようやくアルジェリアでも大歌手として認知される気運が生まれてきました。

 80歳近くなってから彼女は伝統楽器の伴奏をやめて、バリバリのエレキを導入して歌い始めました。これには伝統楽器のよい奏者が求めにくくなったことも関係していますが、新しい音楽に挑戦する彼女の気概を示すエピソードでもあります。

 結局去年発表した N'ta Goudami(上の写真)が遺作になりました。ぜひ一度お聞きになってみてください。60年以上の現役生活を続けた大歌手の音楽が、現代のテクノロジーと見事に調和しています。現代のライのキーパーソン、Norrdine Gafaitiのコーディネートが光る傑作です。

 2年前、奇跡の来日を果たした時には、アリオン音楽財団の方々とともに彼女と身近に接することができました。ノルディン、わたしと一緒に乗ったタクシーの中で彼女が歌った La Camel の素晴らしさ・・・

 わたしはリミッティの音楽から、人間の心の奥底にうごめく暗い思いが、常に早いテンポの呪術的響きの中に噴出してきているような印象を受け、戦慄を感じるのです。
 リミッティとビーズ(頬をあわせる挨拶)をしたときの、彼女のほっぺたの冷んやりした感覚を思い出すと、今も体が震えます・・・

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