Sukiyaki 2018 その1

今年もスキヤキ本番となりました。

台風も去っていくようで、まだ風が少し残ってますが、オープニングステージのころには支障ないでしょう。

今年は金沢大学国際学類在学生・OBからの有力参加があって、この投稿のカテゴリーを「かなざわ・だいがく」にしたいくらいですね。



オープニングステージ(19時より)がフェイスブック・Sukiyakiオフィシャルページでライブ配信されます。
このページのことかと思うんですが。これってことはないですね・・・
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パリ同時多発テロの犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。


 多くのライ歌手たちが歌ったあのバタクランが殺戮の舞台になるとは。

 愕然として、悲しんでいるフランスの人たちに、前のエントリーで朔太郎の詩を送りました。
 これもご参考にしてください。

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サラバンド


 ランコントルの次の日、夙川の「ギャラリー小さい芽」というところで、西垣林太郎さんによる「ギターの歴史コンサート 春のサラバンド」聞きに行きました。

 西洋音楽の長い歴史のなかから「サラバンド」系の曲を集めたレクチャーコンサートです。

 カミングアウトしますが、ライやワールドミュージックに夢中になる前は、わたしはクラシックギターにはまってました。きっかけは京都の福田レコード――寺町と新京極のあいだにあるお店――でかかっていたセゴビアのレコードに魅了されたことです。

 『セゴビアの夕べ』というやつでした。その中のタンスマンのカヴァティーナ

 わたしもずいぶん音楽遍歴がありますから、いろいろ人にお勧めしたい良い曲を知っているつもりですが、この曲のインパクトは凄かった。

 この世にこんな美しい曲があるかと思うほど、美しかったです。

 それで、かかっていたレコードを、新品がなかったので現物を買って帰りました。そういうことしたのはあとにも先にもこの一回だけ。

 いま聞いたらそんなでもない――だろうなと思いますが、それは年をとって「感じる力が弱まった」からだろうと思いますよ(これ、スタンダールのフレーズです)。

 聞いたことない方には、ぜひ一聴をお勧めします。

 西垣氏のマニアックな(?)コンサートの途中で突然この曲(組曲になってます)の二曲目が出てきて、時間が30年ばかり逆転する思いを持ちました。ああ、この曲もSarabandeだったね・・・

 西洋古典音楽は、こういう洗練された曲をなにげに持っているから、強いんだな・・・

 会場では平山照秋さんとか佐々木滋隆さんとかに会いましたが、彼らとも20数年ぶりでした。

 ・・・といっても「くらぎ」業界詳しくない方には、わかんない話でしょうね・・・

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かなだはなかなかだ~その7  音楽学部


 あんまり詳しくお話聞けなかったんで残念ですが、これがモントリオール大学音楽学部。コンサートホールがついてます。

 これについてはじっくり実態を調べたいですね。これを見たら、民族音楽もやってるみたいですから。

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はるさい


 きのう(9日)の日経文化欄に「『春の祭典』100年 輝き健在」というのが載ってました。
 そうか、ということは来年が第一次世界大戦――フランス人が「14-18の戦争」と呼ぶあの戦争――の開戦100年なんですね。

 この記事をみて『はるさい』がすぐに聞きたくなり、高いですけどCD買ってきました。ソニーが「Blue-ray Disc製造技術のすべてをCD製造に投入した『Blu-spec CD2』」というんだそうですが、そうですね、こういうふうにしないといまどきこういう曲のCDが一枚1890円では売れない。こうやってもそんなたくさんは売れない。
 またこのジャンルでいういわゆる「現代音楽」は、やってもあまり聞いてもらえず、相当過去のレパートリー(『はるさい』がすでに100年前なわけで)が売り物の主力なわけですが、昔の名曲にはすでに「決定盤」が出尽くしています(このブーレーズ指揮、クリーヴランド管弦楽団演奏のも「もはや歴史的名盤」だと出谷啓氏によるライナーノーツ(1996年のもの)に書かれていました)。『のだめ』でその気になってこの道に入った若手は音の上で過去の巨匠の演奏と対比されてしまうのでとてもかなわない。演奏家として売れるにはイケメンとか美女とかそういう、音楽とは本来関係のない話題に頼るしかない。(ちなみにライは「顔」関係ない。これもわたしがライ大好きである理由のひとつです)

 それはそれとして、出谷氏のライナーには「明らかにこの曲は80年前には前衛音楽だったのである。だが現代では既に、ポピュラー名曲の仲間入りをしてしまっている。もう誰もこの音楽を聴いて驚く者もないぐらいに、年月が経ってしまったのである」と書いてありますが、「世界の」誰もかれもが驚かないか、またこの曲が何か次の段階の音楽の誕生を触発しないかどうかは、定かではないと思います。


 『春の祭典』は、アルジェリア系人のブラワンくんがサンプリングして見事に使っていたのを思い出します(確かめてみると彼は第二部、第一部のそれぞれ最後の曲からとってます)。彼のこのCDは一般にはほとんど出回らないようなものですけど、音楽的価値はかなりハイレベル。「のってる」アーチストの作というのは、そういうものでしょう。

 「ビバ・アルジェリア!」の主催者なちさんが、以前モロッコのバスでこの曲がかかっているのを聞いた、と言っておられてような気がします。21世紀のモロッコ人の耳にはどういう風に聞こえるのか、実に興味津々です。

 くだんの日経記事は、この曲をこれよりさらに100年前にできているベートーヴェン交響曲七番と比較して「100年単位で音楽を比較するのも面白い」と結んでいるのですが、西洋音楽の単線上の話――日本人は本来この線の上にはいなかった人たちです――ばかりでなく、横の拡がりの方も視野に入れたら、『春の祭典』にも新たな存在意義が見えてきそうな気がします。
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こんなの始めました――フランス語民謡の会


 忘れてました。
 フランス語民謡の会というのを始めました。
 興味のある方はどんどん入ってください。入会金無料、会費無料、なんもなしです。
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「音楽」自体が弱体化したかも


 すでに『ミュージックマガジン』の2012年年間ベストも出てしまいました。
 ワールドミュージック部門の第一位はハッサン・ハクムーンですか。まあ順当です。
 けど、わたしにはあんまりしっくり来ません。なぜかっていうと・・・

 ・・・いろいろ理由はありますが、ひとつには「音楽」そのものがなんだか時流にのらないものになってしまったような感じがする、ということがあります。
 時代に密着し、時代を表現し、時代をリードするものとしてずっと輝いてきた「音楽」そのものが、ずいぶん弱くなっちゃったような気がするのです。

 文学が世界に何かをなすことをあきらめてしまってからずいぶん時代が経ちました。
 音楽もまた時代の牽引役を降りるんでしょうか。

 ダウンロードという伝播法が一般化したせいか、記録音楽がどんどん「安っぽい」ものになっていきます。どんな有名アーチストでも、その新アルバムのリリースは昔ほど「大事件、大イベント」ではなくなっているのは明らかです。
 生演奏、生身の肉体をさらすスペクタクル、コンサートの場で作るCDなどなど、「現実での触れ合い」を重要視した活動を志向する向きが多くなったと思いますが、こっちの方はどうしても固定ファンたちの閉じたコミュニティ相手の活動、ということになってしまう危険をつねにはらんでいるような気がします。

 ・・・というようなことは、Jeune Afrique 誌の音楽欄、音楽関係記事が明らかに減ったな、と感じたことから、なんとなく思いました。


 で、今年のわたしのベストアルバムですが・・・
 アルジェのコンセルヴァトワールで共に音楽を勉強していたアラブとユダヤのアーチストたちが50年の歳月を経て再び集うという感動的な物語から生まれた映像と音の記録、El Gustoにしようと前から思っていました。シャアビの演奏としてたいへん見事なものです。

 でもね、年末の土壇場にきて、やっぱり違うか、という気になりました。
 粕谷さんはノスタルジーには耽らないひとなので。

 それじゃ今年のベストは何かというと・・・  

 ・・・その前に先週末のことをブログに書いておきます。久しぶりに余裕がありますので。

 
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くりかえし


 ときにはフランスに留学したりして西洋音楽の理論を身につけたルイジアナの黒人、クレオールの人たちが、やがて被差別的立場になったときにジャズやブルースをうみ、発展させたのだが、アドルノにとっては、そういう音楽さえ「進歩がない」として価値を否定したのは、ヘーゲルの流れを汲む哲学者としては当然のことだったのか。

 そうやってできた「西洋音楽」ブルーズが記録音楽となって大西洋を渡ると、イギリスの労働者階級の人たちは、とつぜんブルーズに「リフ」をつける形態を生み出した。
 坂本龍一もピーター・バラカンさんもなぜこうなったか分からないというこの変化は、労働者階級の本能の生み出した変化ではないか。
 リフとは、文字通り「繰り返し」だから。
 「進歩」とはヨーロッパの上流階級の価値観なのではないか。

というようなことを今朝、車の中でコントーションズ聞いてて、思った。

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キューバ音楽+フランス映画


 7 Days in Havana も秀逸でした。
 7人の監督がハバナという対象に思い思いに肉薄してます。

 この映画についてのデータはあまり見ていないんですが(パンフレットにあんまり書いてなかった)、まとめ役は7日目=日曜日を担当したLaurent Cantetではないかな、という気がしました。

 彼の担当部分の最後(ということは映画全体の最後、締めくくり部分でもありますが)に出てくるグノーの『アヴェマリア』独唱―みんなが神妙に聞いている西洋クラシック―の感動的へたくそさと、集合住宅の住民がみんなで歌うキューバの歌の身震いするほどの素晴らしさの対照が際立っていました。
 これこそワールドミュージックの原点のようなイメージです。
 ぺトルチアニだって、西洋クラシックの教育をしっかり通り抜けているのです。

 『戦艦ポチョムキン』と同じように、『セヴン・デイズ・イン・ハバナ』も主役を民衆にして作られた映画です。
 カンテたちはそれを狙っていたはずです。

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フランス音楽+フランス映画


 音楽自体はわたしはすごく興味があるというわけではないのですが(そもそも現代のジャズにはあんまり興味がない。うーごさんみたいなのは別として)、このミシェル・ペトルチアニのドキュメンタリー映画『情熱のピアニズム』 Michel Petrucciani Body & Soul には感心しましたです。

 ペトルチアニは小さな体で大成した人ですが、なんとなく大きな体で大成したアンドレ・ザ・ジャイアントのことを思い出してしまいました。
 どちらも移民系のフランス人なんですね。
 どちらもアメリカで成功をおさめた人ですね。

 そしてどちらも旅先で、ろうそくの炎がふっと消えるように、亡くなってるんですね・・・

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