有用性

 ここでちょっとだけまじめなお話を(もっとも他の話が不真面目だというつもりはないんですが)。説教じみていると思われましたらご容赦ください。 m(_ _)m

 このエントリーにコメントをくださった漢江さんのご指摘は、まことにその通りだと思います。

 ただこれは常に理想的に解決するのは難しい問題だと思います。これから少子化が進む中、各大学は教員陣をスリム化すること、専任の教員たちにもっとたくさん、できれば安い賃金で働かせることに躍起であり、これは大学の経営が健全になされるためにはある程度やむを得ないところがあると思います。政府にもっと学術・芸術に力を入れて欲しいと要求は続けていかないといけませんが、それも成果には限度があることで、すべての人を満足させるような解決策はないと思います。

 そして個人の立場から言えば、大学の専門職というのはだいたい勉強が好きで、とくに好きな分野の勉強を極めたいという方がなるわけですが、自分の好きなことをするというのは一般的に言って非常なリスクが伴うものだと思うのです。
 私事で恐縮ですが、わたし自身研究職の道に進むとき、結局専任に就職できないかもしれない、そのうち非常勤講師の口もなくなって商売替えしないといけなくなるかもしれないというリスクを覚悟したうえではじめました。それを考えると、わたしは非常に幸運でした。

 そして社会的観点から言えば、広い意味での「有用性」ありと認められるところがここ数十年でずいぶん変わったということがあります。大学で教えている多くの分野が「教養を高める」という「有用性」で正当化されていた時代はほぼ終わったみたいなのです。今わたしの教えているフランス文学科の学生さんたちに、君たちは何のために勉強しているか、と聞いても「教養を高めるため」という答えはもはや返ってこないです。面白そうだから、「娯楽」だからというんですよね(この答は必ずしもけしからん答えとは、わたしは思わないですが)。

 自分は好き勝手をやっておいて、といわれるかもしれませんが、今の若い方々には、未来の日本や世界のためにどういう勉強が役に立つか、「有用性」があるかということを常に考えていてほしいとわたしは思います。みかけのきらびやかさに幻惑されて既に意義を失いかけた学問領域に安易に入り込むことは、国の少ない人材を有効に活かすという観点からも、避けて欲しいのです。
 今日、日夜粉骨砕身して勉強している人々全員の努力が十分に報われるということは、なかなか難しいかもしれません。ただ世界の未来を切り開く行為 --- そして「自らの伝統」を守る行為(この二つは両立可能のはず) --- を心がけている限り、納得いく人生は送れると思うのです。

 そこで tamonnさんのご指摘に関わるのですが、わたしも世界のために日本、日本人にしかできないことって、やっぱりあるんじゃないかと思ってしまいますね。「それは日本人の思い上がりだ。夜郎自大だ」という声が外から聞こえそうではありますが、フランス人やアルジェリア人、その他の人々の目に映った日本を見ていると、たしかにそういうものはあるんかもな、と思えてしまうんですね。ただそれがどういうところにあるかというのは、人によって考え方が千差万別になっちゃうでしょうけど。

 ちなみに「有用性」utiliteにこだわるというのは、スタンダールの考え方でもありましたね(この「有用性」は、資本主義的意味で利益が上がる、というのとはちょっと違うんですね)。 (^_-)
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