日本人と音楽(その2) 「鑑賞」

 

このエントリーから続く・・・のかな?)

さて、ようやくこの本を御紹介できますね。

西島千尋著『クラシック音楽は、なぜ<鑑賞>されるのか 近代日本と西洋芸術の受容』(新曜社)です。

黙っていようと思ったのですがなんと、「あとがき」にわたしの名前が書かれてしまってますので仕方がないです。はい、わたしは著者の博士論文を執筆段階から拝読しています。でも確かにこの本はその博士論文を元にしたものですが、一般の読者に読みやすいようにずいぶん形を発展させています。あーあれを省いちゃったのか、と残念に思う箇所もありますが、あらたに加えられた箇所はそれを補って余りあるでしょう。

内容は、わたしがいつも難癖をつけている日本の「西洋音楽至上主義」のアタマ刷り込みについて、その主要なシステムである学校音楽教育における「鑑賞」概念の変遷とその影響の過程を克明にたどるというものです。

著者の言う通り「鑑賞」という言葉は、日本語にしかないといっていいでしょう。ときにappreciation、geniesenの訳語であるかのような顔をしていますが、論者の主義主張、都合あるいは気持ちによってその意味内容はころころ変わってしまうのです。しかし、この日本語は定まった意味を欠きながらも、日本という特殊な場である強力な機能を果たすようになったのではないか、というのです。

そのことについて、著者は読者に非常に本質的な問題提起をして、一緒に考えてみましょうと誘っているように思います。昭和30年代、<鑑賞>概念が「感動」に重点をおいたとらえ方をされるようになったときでも、<鑑賞>には単なる「批評」とは違うものをもっていたと著者は指摘します:

「[...] 『感じるがままに』とは言っても、本当に感じるがままでよいかと言えばそうではない。『ほめる』『感動する』ということは、鑑賞の対象が予めほめられるべき個所、感動させる何かをもっていなければならない。そのため、『鑑賞は第一級の傑作を対象としてのみ成りたつ』とされるようになったのである。そうなると、『第一級の傑作』は予め第三者に選ばれていなければならない。それゆえ<鑑賞>は、『古典あるいはそれに類し一般的評価を得ている作品に対する賞美』であり、『権威に対する賛仰』『随順の姿勢』とまで言われるようになった。この点が批評と大きく異なる点である。」(31ページ)

「日本では明治以来、すべての国民がクラシック音楽とかかわるべきだと考えられてきた。もちろん当時は理想にすぎない。それを実現させようとする場合、園部(三郎)が言うように、国民全員が演奏者・歌手・指揮者・作曲者としてかかわることなど不可能である。[...]

だが、聴衆としてであれば、かかわることができるのではないか。[...]

すなわち<鑑賞>は、[...] その人々が他の人々をクラシック音楽界に巻き込もうとする際に、クラシック音楽と人々を結びつけるために生み出された言葉であると言える。」(199ページ)

上で述べた通り、著者は「あとがき」で他の先生方と一緒にわたしにも謝辞を述べておられますが、とんでもございません、わたくしとしてはこの本の生成段階に立ちあわせていただいたおかげで素晴らしい勉強の機会を与えていただき、ひたすら光栄に思うばかりです。論の中で引き合いに出されているすべての事実がわたしにとって意味を持ち役にたつ知識と感じられるというのは、そうですね、Philippe Van TieghemのLes influences etrangeres sur la litterature francaise, 1550-1880 読んだとき以来のような気がしました。ちょっと書き足りないか、話が性急過ぎるかというところはありますが、そういう箇所さえ読者のヒントとなる力、示唆を与える力を持っているように思います。

心配なのは、今後わたしがこの本にインスパイアされたことを他所で、別の形で使って行くとき――このブログでも何回か引き合いに出すかもしれません――まわりまわって彼女に迷惑がかかるかも、ということです。このことについては何度か彼女にあらかじめお詫びを言ってありますが。

最後に:まさに可憐そのものという感じの方である著者、西島さんがその細腕で書いた渾身の力作をぜひ皆様もゆっくり、日本のたどってきた道やこれから向かう未来のことに思いを馳せながら、一文一文お読みになりますよう、わたくしからもお勧めさせていただきます。

*****

はい、本年度のブログ更新はこれで終わりにいたします。再開は新年の5日くらいにしようかな、と思います。

みなさまもよいお年をお迎えください。

 

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映画の将来について

 

いわゆるアート系の映画の苦戦はいよいよ深刻です。

今朝(12月29日)の日経に「ミニシアター閉館ラッシュ」という記事が載ってました。恵比寿ガーデンシネマも休館なんですね。あそこには、二人でいったのに・・・という思い出のある方も多いでしょう。

10年ほど前までミニシアター、アート系映画を支えるのは若者だった、としてキネマ旬報映画総合研究所長、掛尾良夫氏は:

「難解な映像作家や知らない国の映画を背伸びして見るのがかっこ良かった。そんなスノビズムは消滅した」

と述べています。

さて。

これ、ワールドミュージックの苦戦と同じことで:

「受けないんだから、売れないんだからしょうがないじゃないか」

では済ませられないのです。

だって、これは世界に対する関心の希薄化ということなので。まさに例の、憂慮されている「内向き」のことなので。

(滑稽なのは、日本人は内向きすぎる、なんとかしないと云々と言っている人の多くが、要するに日本経済のために外国を良く知り外国で働いてくれる人が出てほしいと願っているだけで、自分自身は外国に、とくに外国の文化に全く興味をもつ気がない、という気がすることですね。どうでしょう?)

それに「今の子は映画なんか見ないし」という認識は、日本には相当当てはまっても、そうでない国や地域の方が多いと思うのですよ。

いくら日本マンガが世界的に人気といっても、外国にでた日本人留学生が皆の中で日本マンガの話をするばかりでは、本人にその気が全くなくても自文化を誇っているだけの奴に見られてしまうでしょう。これではやっぱりダメではないですか。相手の文化に興味を持っていることが具体的に示せるのでないと。

外国語を教えている者として申しますが、映画というのは文化の異なる者がお話しできる最高の話題のネタなのです。

「○○見た?」「見た見た! 面白かった!」

と、偶然に、突然に(ここが大事)話題と、感動の共有ができちゃうのですから(文学も共通話題にはなりますが、世界の古今東西の文学というと範囲が広すぎて、文化の違う人同士では読書範囲がなかなか重ならないというきらいがあります)。

こういう偶然の話題共有ができるネタとして十分世界に行きわたっているのは、アメリカ娯楽映画でなければフランス娯楽映画なんですよね・・・(ここでもドイツ娯楽映画というのはない。これも大問題です・・・)。もっともアメリカ人は99%アメリカ映画しか見ていない、というか見せられていないのですが。

とにかくやせ我慢、ええかっこしいのスノビズム――これすなわち教養主義と言っていいと思いますが――は消滅したとして、それに代わる何かのモチベーションで映画は見続けてもらわないといけません。

日経のこの記事では若者層に「本物の良さ」を伝えるためのいろいろな模索例が紹介されていますが、わたしとしては:

かつてはわけわからなくてもカッコつけて見ていたわけだが、それじゃ「わけ分かる」ようにすればいいじゃないか

と思うのです。

たとえば大学とかで、ちょっと分かりにくい外国の(多くはフランスの、になるかなあ)映画の見方について、少し示唆を与える。「作り手」がどういうつもりで作っているかについてちょっと解説する(こういう話の流れになると「作者の死」なんてどこの世界の話だ、という気になってしまいますね)。

そしてそれを、なんらかの形で「勉強」にしてしまってはどうか。

つまり、たけしの平成教育委員会、みたいなノリでやってみる、ということです。今の若者は、ああいう形で物事を提示されるのに慣れているから、才人北野武はああいう形態を考え出したのだと思いますし。

昔は自らを差異化するために――おれは高尚な映画を見ている(少しは分かる。あんまり分かんないけど)、他の奴とは違うという自負をもつために――存在していた映画理解(「鑑賞」?)ノウハウを万民のものにするんです。

その大義は「真の異文化コミュニケーション樹立」のため、です。いくら英語やフランス語がカンペキにできたところで、しゃべることがビジネスのことばかり、では絶対だれとも友達になれないでしょう。そういうことです。


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カンバセーションさん

(前のエントリーから続きます)

つい先日のことですが、ワールド系音楽プロモーション会社のカンバセーションさんが倒産しちゃいました。アマジーグがリーダーをやっていたバンド、グナワ=ディフュージョンを呼んでくれた会社です。

ずいぶん前から、もう一度アマジーグを日本に呼ぶ段取りを進めておられたみたいです。だから、わたしの推測ですがMarchez Noirも来日のタイミングと合わせて日本盤発売、という予定だったのでしょう。

この倒産は、たいへん残念です。ずっとワールドミュージックのために献身的に働いていた社員の方々の無念がひしひしと感じられます。

それに、日本はこれでまた文化的鎖国状態が強まるわけなのです。サラーム海上さんの言葉を借りれば:

「来年以降、ザキール・フセインも、ババズーラも、メルジャン・デデも、アマジーグ・カテブも、ベリーダンススーパースターズも、グスタボ・サンタオラージャも、エミール・クストリッツァも、スアール・アグンも、もう当分は日本で生演奏を聞くことが出来なく」

なるわけなので(もっとも、これらのアーチスト全てが本当にしばらく聞けなくなると決まったわけではないと思います。これ以上のことは今わたくしからは申し上げられませんが)。

「・・・でも、わたしはザキール・フセインとかババズーラとかメルジャン・デデとか知らないし、関係ない。カンバセーションさんとやらの倒産は可哀想だが、そういう音楽の需要がなかったんだから、しょうがないじゃないか」

ってマーケット主義的な声が聞こえそうです。やれやれ、そういう人たちはザキール・フセイン以下の音楽に適切な形で触れる機会を与えられていないからそういうことを言うんだと思うんですが、いかがでしょう? 適切な形で聞いて、その真価の味わい方を体得された方は、いかに日本の多くの人の音楽の聴き方が奇形的かも、同時に理解されると思います。

いちばん奇形的なのは、古い西洋古典音楽が世界最高峰の音楽だとアタマに刷り込まれてしまい、本人にとっては退屈で居眠りするだけの音楽でもこういうのを聞いていればバカにされないから安心できてしまう、という構図です。音楽の持っている本当の力とは、そんなもんじゃない。なのに「マーケット」はその力、人間をこの上なく幸せにしてくれるこの音楽の力を見えなくさせてしまう。

これまた「縦向き」志向の生む恐るべき弊害でしょう。

少なくともこのブログの読者諸氏には、もっと横方向に崇高な美が見つかることを知っていただければ、と思います。

(ちなみに、わたしが「自分は今これで本当に快楽を感じているか」ということに非常にこだわるのは、まさにスタンダールがこういうことに強烈にこだわるのを見て、これこそ正しい態度でみならうべきだと信じたからでもあります)

 

 

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ことしのナンバーワン!

 

『ミュージックマガジン』2011年1月号が、各ジャンルの今年のベスト・アルバムを発表してます。

ワールド・ミュージック部門は原田さん、深沢さん、松山さんの選考で、アマジーグ・カテブのMarchez Noirが堂々の1位に輝きました。

これ、わたしの「2009」年度のベストワン・アルバムです。公に認められてうれしいですが、日本盤が出なかったのはまことに残念です。これにはちょっと事情があると思います。

(次のエントリーに続きます)

 

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みんな

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今日は金沢大学地域連携センターで開かれた奥村美菜子先生(ボン大学・日本語教育)による「CEFRとのつきあい方」というワークショップに行ってきました。

試験のwashback効果とか、「置き換える」のはめんどくさいという学生心理とか、わたくし個人への良いヒントになりました(これだけではこのブログの読者にはなんのことか分からないでしょうね。すみません)。ありがとうございます。

・・・

でも、CEFRを基本的に良いものと認めるとしても、「自分で考える」(自律学習)という目標は良いものと認めても、やっぱり「みんなで考える」(協同学習)というのには、わたしは今でもひっかかります。

「みんな」という言葉が使われる時、けっして本当の「みんな」がそこにいるわけではないからです。いつも必ずだれか、「みんな」からはじき出される人がいると思うのです。何らかの意味で「みんな」に馴染めない人たちが。馴染みたくとも馴染めない人たちが。

孤独の中で組み上げられ彫琢される言語能力というのは厳然としてあります。それはそれで認められなければならない。認められる場がなくなっては、懊悩しながらさまよう魂が増えるばかりです。

話は変わりますが、そういう孤独な場、精神が集中したとき心に聞こえるのが、たぶん、デリダが言っている現象学的声、ということだと思うんです・・・

そういうことならCEFR、ヨーロッパ共通参照枠は、通常の意味でのそれの「作者」、「著作権者」であるJohn Trim, Brian North, Daniel CosteそしてJoseph Sheilsがいくら自らの名前を本の表紙(↑)から消そうとも、厳然として彼らが具現するヨーロッパ思想の流れ、人の流れの中に位置づけられるもののはずです。

内容的にも上から下へモノを「教える」という教育モデルの否定というのがCEFRの根本思想をなしていますが、「作者」を消そうとするそのミブリ自体も現代ヨーロッパ思想史の大波の中の典型的なシグサなのですから。

(ヨーロッパ思想史の持ってきたカリスマ的ビッグ・ネームは、今は空位時代だし、ひょっとしたら水村美苗の言うようにもう金輪際生まれなくなったのかもしれません。でも強いて言うなら、自らの名前を消し去るトリムやノースやコストたちがそれにあたるかも、と思ってます)

 

・・・わたしがこのごろよく偉そうに言っている「精神的高みは横方向にもある」というフレーズは、トリムやノースやコストたちのこのミブリと軌を一にしていると思ってます。

「横方向に『も』」あると言っているわけで、わたしは、縦方向の精神的高みも、追求することが無価値だとは全然思わないです。

ただ縦方向の高み追求だけになってしまうと、非常に弊害が大きい上に、往々にして人は何が悪いのかまるで分からないというドツボにはまってしまうと思います。「自分は真面目に、縦方向に精進しているのに、なんでうまくいかないんだろう?」というわけです。

精神的高みを追いすぎて、楽器演奏者が度を超した練習で手を壊し、スポーツ選手が度を超した練習で腕を壊す・・・というようなのは、その分かりやすい例でしょう。

これがたぶん、今の「日本」の困ったところなのだと思ってます。

 

話が大げさでごめんなさい。年末だし、いろいろ考えることの多い年頃なので・・・

 

 

 

 

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快い敵(その2)

(前のエントリーから続きます)

 

『坂の上の雲』でひとつエントリーを書いたら、次の日27日の日経にエマニュエル・トッドが書いていることとつながっているような気がしました。

インタビューの聞き手、編集委員の藤巻秀樹氏は「ロシアとの協調と核武装はいかにもフランス人らしい発想だ」と書いておられますが、核武装はともかくロシアとの協調の方は当然進めるべきことではないでしょうか。それも、急いで。

これだけ世界情勢が激変したのですから(トッドのインタビューの横に「核心」コラムがあって「冷戦の終結が小さくみえるほど、いまのグローバル社会の激変は歴史的だ」という米国家経済会議委員長という肩書の人の言葉が引用してあるのは、まあ日経の紙面構成のなせるわざでしょうが、印象的です)、トッドが:

「一般論ですが、島の領有争いなど大した問題とは思えない。大事なのは関係を良くしたいという意思です。」

とようなことを言っても、フランス人が何をほざくか、みたいな感じで接することなく、謹聴してはどうでしょう。

しかし、テレビの『坂の上の雲』では、なんか「武士」同士が正々堂々と戦って日本人もロシア人も恨みを残さず、という感じで「快く」終わるのかもしれませんが:

「ロシアは日露戦争の敗北を脳裏に刻み、日本は第2次世界大戦の最後にソ連が参戦したことを許していない」

というトッドの言葉の前半の重みは、それにふさわしい重さを感じながらかみしめたいところです。


 

 

 

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快い敵

 

 おとといはテレビでThis is itやってましたね。わたしも下手なマイケル踊りを踊りながら、この瞬間日本全国で何万人がテレビの前で珍妙な格好をしているだろうかと、ちらと考えてしまいました。

 さて、司馬遼太郎自身が「これは危険」というような意味のことを言っていた『坂の上の雲』、これも30分くらいだけですがテレビ版を銭湯で見てしまいました。

 司馬遼太郎の真意についてはわたしは見解が定まりませんが、日露戦争勝利のいきさつを日本人が反芻する最大の危険は「敵が快すぎる」ことにあるのではないかと思ってます。

 日本の軍人たちはまだ江戸時代の記憶、「武士道」そのものが生きていた時代の記憶がある人たちでした。そしてこの時代の海戦は西洋にも「騎士道」的なものが残っていた時代の海戦でした。だから敵はかなり、彼らが期待するように行動してくれました。その上、最終的に負けてくれたらいうことはない、最高の敵です。

 たとえば昔は、戦艦が沈没する際はその艦長は逃げずに溺死しなければならない、という「風習」がありましたが:

 「なお敵艦艦長○○は、艦と運命を共にした模様であります」

 「・・・そうか」

というような受け答えをするとき、日本軍人たちは心の中に非常に快さを感じていたと思うのです。

 こういうのは武士道と当時「世界標準」だった西洋的戦争ルールとに重なるところが多かったから可能だったので、今日多くの戦争において、また戦争以外のいろんな意味での「戦い」の場において、こういう「快さ」を期待してはならないでしょう。

 でも、そういう「快さ」を期待せず、それでもなんらかの形で矜持を守り、自分のため、全体のためを考えて知力体力を尽くして行動し、後世にさらなる改善の可能性を残していく、というようなことを、人は志向すべきと思うのです。というか、まともな人はなに人でもそうやっていると思います。

 わたしが三つ前のエントリーで「精神的高みは横方向にもある」のではと言っているひとつの意味は、そういうところにあります。

 今日これをうまくやるのはたぶん、上方向の精進と強運とがあれば取ることのできる(科学領域の)ノーベル賞より難しいことだと思ってます。自分のやっていることが間違ってないか常に批判精神をもって客観視していないといけませんし。

 それに報いもあんまりないですしね。報いもまたなにか個人的なレベルで作っておくしかないです。「これができたら満足しよう」みたいな。

 

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アルジェリア人の地理観念(その2)

 

このエントリーに続きます)

 

・・・アルジェリアはイスラム教国のくせにワインも作ってます。もちろんフランス統治時代の遺産なのですが。

写真は某アルジェリアワインのウラのラベルです。彼らの地理認識にはときに、大丈夫かなあ、と心配させられます。

チュニジアなんて、隣国なのにチリかと思うほど細長いという認識でいいんですかね。リビアはどこいったんだろう? イタリアの東、アドリア海は果てしなく広がってるみたいですね・・・

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ホワイト、etc.

 

金沢は、雪です。

ホワイトなんとかというやつです。

写真は、雪の金沢大学角間キャンパスです。

 

キリスト教の祭りではありますが、まあアルジェリアでもなにかやってるかな・・・

 

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日本人と音楽(その1)

 

日本は非常に西洋音楽の上向き傾向(このへん、ヘーゲル弁証法とかアドルノとかと関連付けて論じられればいいんですが、それにはもうちょっと勉強が要ります)に色濃く染まった国だと思いますが、「精神的高みは横方向にもある」し、今の時代の日本で求められているのは実はもっぱらそっちの方じゃないかと思うんです。

 

そういう西洋音楽絶対主義を相対化するような著作が最近二つ出ました。

ひとつは、渡辺裕『歌う国民』です。

これを見ると、今でいう「ワールドミュージック」みたいなものを西洋音楽と日本音楽の伝統の上に作ろうという発想は、日本でも非常に早くからあったことがわかりますね。それがなぜか西洋べったりになっていってしまうんですね・・・

国民創生機能とか歴史参加機能とかは、フランス革命期の歌唱の中に萌芽があり、文部省唱歌や、のちのうたごえ喫茶のロシア民謡に受け継がれていく、ということでしょうね。

西洋古典音楽の演奏単位である「オーケストラ」って、こんなこと言ったら怒る人も多いと思いますけど、軍隊の隠喩だと思います。同じ音楽的志向を持った人が一緒にやる、というのは弦楽四重奏とか標準編成のロックバンドとかのように4,5人が限界で、西洋古典音楽のフルオーケストラほどの大人数が一糸乱れずひとつの美学を追求する、というのは非常に不自然な話だと思ってます。

「卒業式の歌」。『あずまんが大王』終結部でも、歌われるのは『仰げば尊し』でしたね。

 

それにしても渡辺氏も書きにくそうですね。「われわれは音楽というと、ほとんど反射的に『芸術』の一ジャンルだと考えてしまいます」うんぬんとかいう書き方は、わたしが読もうとすると非常に抵抗がある書き方なんですけど、仕方がないんでしょうね。こういうのは、西洋の「芸術」音楽=「音楽」というのを刷り込まれた人間たちが読者の大半を占める、という認識からこう書かれていると思います。

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