日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
ベトナム
会場の東京ステーションギャラリーというのは東京駅の建物の中にあります。ステーションホテルの横っちょです。場所をここにしたというのも勝因ですね。いい雰囲気でした。 (^_^)
ポスターに使われたフィン・ヴァン・ガムHuynh Van Gam作『リエン嬢』も好感がもてたし、歴史を反映し、思想性をはらんだ作品群は、単なる政治的プロパガンダだけではなく、たしかにベトナムの人たちの肉声を発している気がします。わたしにはたぶんその 1%くらいしか聞こえてはいないでしょうが。
漆絵なんていう独特のものがあるんですね。ファン・ケ・アン Phan Ke An 作のは特に見事で、絵の下の方から見るとほんとに、収穫される豊かな稲穂(『ヴィエトバックの稲刈り』)とか夕陽に映える山の尾根(『タイバックの夕べの思い出』)とかが金色に輝いて、それはそれは奇麗ですよ。それだけでなく、西洋技法で描かれた絵画もほんと面白いですね。日本とか日本の「洋画」とかも、そういう文脈の中で位置づけて考えてみたいです(「ピカソの意義」もご笑覧ください)。
ところでわたしは少し前から、アジアの中でも特にベトナムというのが日仏関係という観点からも注目できる国だし、そのことはこれからますます意識されていくだろうと考えるようになっています。ご存知の通り、日本企業は今どんどんヴェトナムに進出しているところです(あんな(ん)をご参照ください)。そのとき、この地が持っているフランスの記憶と、短かくはあったけれどもその後の歴史に決定的な意味を持った日本の存在の記憶が共存している土地だ、ということが効いてくると思うのです(もちろんヴェトナム人の大部分はもう「実際の」記憶は持っていない世代ですが)。佐藤卓也『八月十五日の神話』(この本も面白いですよ)を見て、フランスでは2000年になってから国防省主催で9月2日の「対日戦勝記念日」を初めて祝った、という話を知りました。これ、けったいな話ですね。だいたい日本とフランスは交戦してないのですから。ベトナムには日本軍が進駐しましたが、それは対独協力ヴィシー政権との防衛協定での話でした。日本から見るといかにも汚い話です。
フランスは本国が独立を回復した後、インドシナの植民地も回復しようとのこのこ戻ってきたわけですが、これはもうそういう時代じゃなかったというのは歴史の示す通りです。
(1954年のフランスからの解放を描いたレ・タイン・ドゥック Le Thanh Ducの『解放の夜のハノイ』もすばらしかったです。なぜかポップアートやマンガを連想させる浮き浮きした「軽快さ」がうらやましい。日本の「洋画」というのが、傑作と呼ばれるものも(そういうものほど?)なんだか「重々しく」なってしまっているように感じるのと好対照な気がします・・・)
フランスは往生際が悪く(というのはまあ後からだから言えることかもしれませんが)、1956年にスエズ運河国有化を宣言したエジプトに対してもイギリスと共に派兵して、エジプトとの長い友好的関係に決定的ダメージを与えてしまいました。それまでは大学の文科系の授業は多くフランス語でなされていたのだそうです(エジプトのスタンダール研究者たちはそう言ってました)
ただ今の問題はたぶん、日本の人の心の奥で整理されずに残っている反西欧的感情が嫌仏という形で発露するとき、今の国益と世界益が冒されないだろうか、ということだと思うのです。日本では嫌仏感情という現象そのものを正面からまともに考えたり議論したりすることがなかったように思うので、フランスあるいはフランス語に関しては事実誤認、先入見等々がほとんど素通りで通用している場があるような気がします・・・ 別にフランスを偏愛して弁護する気は毛頭ないつもりですが、そういう嫌仏感情が日本の国益、あるいは世界益を損なうことはないのかということは、よく考えてみた方がいいように思います。というか、嫌いなら嫌いでいいのですが、現実は正しくとらえておかないといけないはずです。
追記:ウェブを検索してみたら、ベトナム近代絵画展は高知県立美術館に巡回していて3月5日まで見られることが分かりました。 06.01.30.
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お酒
わたしは以前からお酒を飲み過ぎるとすぐ寝るたちなのですが、これが最近は疲れているせいか、あっというまに寝てしまいます。
一昨日は小さいビール2本で眠気に襲われてしまいました(翌日の日本フランス語教育学会の会合でもうとうとしてました。こっちの方はホテルであまり熟睡できないせいです。枕が合わないみたいなのは分かってるのですが。ホテルって枕は貸してくれるんでしょうか?)。
これは尋常じゃないな・・・ (^_^;)
もうそろそろ宣言しておいた方がいいので、無理に宣言します。
公の場では(良質の音楽のかかっているところは別として)お酒は「一杯」以上は飲まないことにします。(^_^;)/
厚かましい話で恐縮ですが、わたしと接触のある方はよろしくご理解お願い致しまーす! (^_^;)/
ところでこういうの、何か療法をご存知の方がおられましたら、どうかお教えください。 m(_ _)m
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rai info/ライ・ニュース 027
LE RAI EST-IL MACHO ?
NHKテレビ『フランス語会話』2月号テキストをぱらぱら見ていたら、74ページに Le Rai と書いてあってびっくりしました。「南仏文化を学ぼう」のコーナーで出てくるらしいのがなんとも変な気がしますが、(^_^;) それより興味がひかれる(?)のはライの紹介文の中に「ライのどちらかというと男性優位主義という伝統的側面」と書いてあることです。
これはなんのことかな、と思います。f(?_?) たしかに今フランスで活躍しているライ歌手はなぜか男性が多いのですが、女性ライ歌手はたくさんいますし、ましてライの精神的始祖、支柱というべきはリミッティというれっきとした女性です。
歌の内容も、わたしにはとくに男性優位とも見えません。男のライも女のライも等しく愛が満たされないのを嘆く恨み節が主であるはずです。
放送は2月27日(月)23:25-23:50、3月2日(木)6:00-6:25ですからまだだいぶん先になりますが、忘れないようにチェックしたいと思います。
おそらくある種のフランス人はそう思っている、くらいの話だと思いますが、そういうのが往々にしてアルジェリア人を怒らせるわけです。かの大ヒット『アイシャ』さえ、ゴルドマンの作った歌詞がアラブ人への偏見を含んでいるとして、これを歌ったハレドを罵倒する人もいるくらいです。
○『フランス語会話』の放送終了時間、11:50となっていたのを23:50に揃えました。06.01.26.
NHKテレビ『フランス語会話』2月号テキストをぱらぱら見ていたら、74ページに Le Rai と書いてあってびっくりしました。「南仏文化を学ぼう」のコーナーで出てくるらしいのがなんとも変な気がしますが、(^_^;) それより興味がひかれる(?)のはライの紹介文の中に「ライのどちらかというと男性優位主義という伝統的側面」と書いてあることです。
これはなんのことかな、と思います。f(?_?) たしかに今フランスで活躍しているライ歌手はなぜか男性が多いのですが、女性ライ歌手はたくさんいますし、ましてライの精神的始祖、支柱というべきはリミッティというれっきとした女性です。
歌の内容も、わたしにはとくに男性優位とも見えません。男のライも女のライも等しく愛が満たされないのを嘆く恨み節が主であるはずです。
放送は2月27日(月)23:25-23:50、3月2日(木)6:00-6:25ですからまだだいぶん先になりますが、忘れないようにチェックしたいと思います。
おそらくある種のフランス人はそう思っている、くらいの話だと思いますが、そういうのが往々にしてアルジェリア人を怒らせるわけです。かの大ヒット『アイシャ』さえ、ゴルドマンの作った歌詞がアラブ人への偏見を含んでいるとして、これを歌ったハレドを罵倒する人もいるくらいです。
○『フランス語会話』の放送終了時間、11:50となっていたのを23:50に揃えました。06.01.26.
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rai info/ライ・ニュース 021-026
ブログ休業中に書いたライ情報をまとめて載せておきます。
026 CHEB MAMI REND VISITE A BOUTEFLIKA 音楽的には生涯最大の転機にあると言えるシェブ=マミですが、国際的スターとなって得た政治的存在感は失われていません。去る12月15日、マミはパリで入院中のブーテフリカ大統領に面会して「大統領は本当に元気になっていて、疲れた様子もなかった」とコメントしました。今の時点でこういう役割を演じることができるのはマミくらいなものでしょう。政府のあいまいなコミュニケなんか誰も信用しませんからね。大統領は11月26日から入院しているのですが、病状についてほとんど情報が公表されていません。かつて社会主義側、ソ連ブロックについた国として体質的に持っているアルジェリア政府の秘密主義が国民を不安に陥らせていると言えます。またブーテフリカ大統領にもいろいろ批判がありますが、現在この国の正常化、発展の可能性が彼一人の双肩にかかっているのも確かなのです。なんとか無事健康を回復していただきたいものです。 ・・・と思ったら昨日(17日)退院したというニュースが入ってきました。アルジェリア国営テレビが大統領のインタビューを放映したそうです。El Watan の記者の目からはあまり元気そうには見えなかったようですが大統領とその周囲は、単なる潰瘍の手術で経過は順調であると言っています。なんとかこのまま元気になってくださいね。 05.12.18. なお現地からの報告によれば、大統領の退院は「マミのおかげだ!」と報じた新聞もあったとか。 (^_^) マミが見舞ったとき大統領は「新アルバムはいつ出るのだ?」と質問したそうです。われわれもそれが知りたいですね(022をご参照ください)。05.12.23.
025 GITANS EN ALGERIE ところで 雑誌『ラティーナ』1月号に映画『愛より強い旅』についてのアルジェリア出身のジャーナリスト Tewfik Hakemと木立玲子さんの注目すべき対談が載っています。大げさなことを言いますが、「アルジェリアのジプシー」の実態について日本語で書かれた初めてのものかもしれません。関口義人さんの『ジプシー・ミュージックの真実』も出ておりますし、今年2005年は日本語の読める人にとってジプシー/ロマについての知識・情報が飛躍的に増大した年になりました。05.12.25.
024 N'TA GOUDAMI DE REMITTI シェイハ=リミッティCheikha Rimitti のニューアルバム N'ta Goudami (「あなたを離さない」くらいの意味)やっと出ました。これは前作 Nouar をしのぐ出来です。最近ライ全体としてダンサブル・タイプが多くなる傾向を見せていますが、このリミッティの新作ならどこのクラブでもガンガン使えそう。西洋楽器の使い方も全く自然になり、以前のSidi Mansour に見られたリミッティの声とロバート・フリップたちの演奏のちぐはぐさみたいなものは完全に解消されていますから。50年来歌われてきた Debri が面目を一新、21世紀のバージョンで生まれ変わりました! 05.12.04.
023 EMISSION SUR REMITTI TELECHARGEABLE DU SITE FRANCE CULTURE そのリミッティを扱った部分のある最近のラジオ番組(フランス語)がネットで聴取可能だそうです。まだわたしは内容を確認しておりませんが、FRANCE CULTUREのサイト でお聞きください。シェリエフさん、情報ありがとうございました。 m(_ _)m 05.12.04. ああ、もうかたづけられましたかね。見当たりません。残念です。06.01.25.
022 MAMI, ES-TU LA ? 一方シェブ=マミCheb Mami の新作は夏前から出る、出ると言っていてまだ出ません。もう12月なんですけどね。タイトルも発表されてないし、マミはこれ、お蔵入りにするつもりじゃ・・・ (^_^;) 実は以前から、マミは「今度のアルバムがコケたら歌手廃業する」と言っているという噂が流れていました。本人は、そんなことはない、と否定していましたが、たしかにマミにとっては面目をかけた勝負アルバムのはずなのです。大部分エジプトで録音され、全アラブ諸国をターゲットに正則アラブ語で歌っているとのことですし・・・ でもねえ、こけてもいいよ、マミ。むかしみたいに普通のライ歌えばいいじゃない。なまじっか「デザートローズ」のヒットとかで世界シーンに引っぱり上げられて、いろんなことしないといけないと思うようになって、原点忘れ過ぎなんじゃないの? 05.12.04.
021 KHALED, RACHID BOUCHAREB ET LUC BESSON ラシード・ブーシャレブ Rachid Bouchareb 監督の Indigenes という映画、リュック・ベッソン Luc Bessonが製作となっていますが(ずっと前からベッソンはこのパターンばっかしですね。 (^_^;) )、ハレドがこの映画に音楽を提供するとのことです。05.12.04.
026 CHEB MAMI REND VISITE A BOUTEFLIKA 音楽的には生涯最大の転機にあると言えるシェブ=マミですが、国際的スターとなって得た政治的存在感は失われていません。去る12月15日、マミはパリで入院中のブーテフリカ大統領に面会して「大統領は本当に元気になっていて、疲れた様子もなかった」とコメントしました。今の時点でこういう役割を演じることができるのはマミくらいなものでしょう。政府のあいまいなコミュニケなんか誰も信用しませんからね。大統領は11月26日から入院しているのですが、病状についてほとんど情報が公表されていません。かつて社会主義側、ソ連ブロックについた国として体質的に持っているアルジェリア政府の秘密主義が国民を不安に陥らせていると言えます。またブーテフリカ大統領にもいろいろ批判がありますが、現在この国の正常化、発展の可能性が彼一人の双肩にかかっているのも確かなのです。なんとか無事健康を回復していただきたいものです。 ・・・と思ったら昨日(17日)退院したというニュースが入ってきました。アルジェリア国営テレビが大統領のインタビューを放映したそうです。El Watan の記者の目からはあまり元気そうには見えなかったようですが大統領とその周囲は、単なる潰瘍の手術で経過は順調であると言っています。なんとかこのまま元気になってくださいね。 05.12.18. なお現地からの報告によれば、大統領の退院は「マミのおかげだ!」と報じた新聞もあったとか。 (^_^) マミが見舞ったとき大統領は「新アルバムはいつ出るのだ?」と質問したそうです。われわれもそれが知りたいですね(022をご参照ください)。05.12.23.
025 GITANS EN ALGERIE ところで 雑誌『ラティーナ』1月号に映画『愛より強い旅』についてのアルジェリア出身のジャーナリスト Tewfik Hakemと木立玲子さんの注目すべき対談が載っています。大げさなことを言いますが、「アルジェリアのジプシー」の実態について日本語で書かれた初めてのものかもしれません。関口義人さんの『ジプシー・ミュージックの真実』も出ておりますし、今年2005年は日本語の読める人にとってジプシー/ロマについての知識・情報が飛躍的に増大した年になりました。05.12.25.
024 N'TA GOUDAMI DE REMITTI シェイハ=リミッティCheikha Rimitti のニューアルバム N'ta Goudami (「あなたを離さない」くらいの意味)やっと出ました。これは前作 Nouar をしのぐ出来です。最近ライ全体としてダンサブル・タイプが多くなる傾向を見せていますが、このリミッティの新作ならどこのクラブでもガンガン使えそう。西洋楽器の使い方も全く自然になり、以前のSidi Mansour に見られたリミッティの声とロバート・フリップたちの演奏のちぐはぐさみたいなものは完全に解消されていますから。50年来歌われてきた Debri が面目を一新、21世紀のバージョンで生まれ変わりました! 05.12.04.
023 EMISSION SUR REMITTI TELECHARGEABLE DU SITE FRANCE CULTURE そのリミッティを扱った部分のある最近のラジオ番組(フランス語)がネットで聴取可能だそうです。まだわたしは内容を確認しておりませんが、FRANCE CULTUREのサイト でお聞きください。シェリエフさん、情報ありがとうございました。 m(_ _)m 05.12.04. ああ、もうかたづけられましたかね。見当たりません。残念です。06.01.25.
022 MAMI, ES-TU LA ? 一方シェブ=マミCheb Mami の新作は夏前から出る、出ると言っていてまだ出ません。もう12月なんですけどね。タイトルも発表されてないし、マミはこれ、お蔵入りにするつもりじゃ・・・ (^_^;) 実は以前から、マミは「今度のアルバムがコケたら歌手廃業する」と言っているという噂が流れていました。本人は、そんなことはない、と否定していましたが、たしかにマミにとっては面目をかけた勝負アルバムのはずなのです。大部分エジプトで録音され、全アラブ諸国をターゲットに正則アラブ語で歌っているとのことですし・・・ でもねえ、こけてもいいよ、マミ。むかしみたいに普通のライ歌えばいいじゃない。なまじっか「デザートローズ」のヒットとかで世界シーンに引っぱり上げられて、いろんなことしないといけないと思うようになって、原点忘れ過ぎなんじゃないの? 05.12.04.
021 KHALED, RACHID BOUCHAREB ET LUC BESSON ラシード・ブーシャレブ Rachid Bouchareb 監督の Indigenes という映画、リュック・ベッソン Luc Bessonが製作となっていますが(ずっと前からベッソンはこのパターンばっかしですね。 (^_^;) )、ハレドがこの映画に音楽を提供するとのことです。05.12.04.
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遠くから(グリッサン、シャモワゾー)+GT
セカンドアルバム発表直前のGTことジェラルド・トト(もう曲の一部は彼のサイトで聞けます! (^_^)v )君が Edouard GlissantとPatrick Chamoiseau の書いた De loin のテキストを送ってきました(といってもこのテキストはネットのあちこちに見つかりますが)。有名な二人のマルチニク作家が昨年末の例のフランス暴動の際、フランス海外県マルチニク島を訪問しようとしていたサルコジ内相に送った公開書簡です。結局内相の訪問が延期になったのは記憶に新しいところです。
格調高くていい文章だと思ったので、とりあえず訳してみました。
「遠くから」De loin です。
まだまだ誤訳、不適当な訳もありそうですし、そもそも厳密にどういう現実を指しているのか分からない箇所もあります(とくにFace a une existence, meme brouillee par le plus accablant des pedigrees judiciaires のところなど)。御示唆たまわれましたら幸いです。原文のあるサイトを3つ、このページの下の方にあげておきました。
それからこれを置いておくのは、かなり重要と思えるこのテキストの日本語訳が現時点でネットにみつからない状況を鑑みて、なによりも情報として活用していただくためであって、ここに述べられている思想すべての射程をわたしが吟味しているということではありません。これはご了承ください。それから翻訳掲載にあたり筆者お二人に了解をとってはいませんから、十分正当性のある御主張があればすみやかにこれをネットから取り下げ、必要があれば謝罪させていただくことをお約束致します。
さてそれで一応訳してみたわけですが、「これでは固い。『教養主義』のない若い読者にこの日本語で理解してもらえるか?」という思いがします。定訳の訳語を使い、できるだけ原語の構文を尊重した「直訳」の存在を前提にした上で、できるだけ広範な理解可能性、コミュニケーション可能性に主眼を置いたもう一つの、あるいはそれ以上の訳を共存させるという第二翻訳論の考え方を追求したくなるゆえんです。
皆さんはどうお考えでしょうか?
ちなみに GTもマルチニク系ですが、植民地主義については Le vrai sauvage(本当の野蛮人)なんていうかなり激しい言葉で糾弾した歌を作る男です。
でも、それでは彼が白人全部を恨んでいて憎悪に燃えて生きているかというと、そういうことは絶対ないことをわたしが保証します。 (^_^)v GTの友人たちには白人系、黒人系などいろいろいて、みな彼のことが好きだし、彼も彼らが好きなのです。GTの闘いは思想的なものなので、白人だったら自動的に嫌悪する、というような人種差別とは関係ありません。
なんべんも繰り返しますけど、ジェラルドは実に気持ちのいい奴で、すばらしい才能の持ち主なんです。彼を知る人はみなそのことが分かってます。でも仕事でなかなか妥協しないために業界では損をしてるんです。
日本に来て歌ってくれたらどんなにいいことか。
格調高くていい文章だと思ったので、とりあえず訳してみました。
「遠くから」De loin です。
まだまだ誤訳、不適当な訳もありそうですし、そもそも厳密にどういう現実を指しているのか分からない箇所もあります(とくにFace a une existence, meme brouillee par le plus accablant des pedigrees judiciaires のところなど)。御示唆たまわれましたら幸いです。原文のあるサイトを3つ、このページの下の方にあげておきました。
それからこれを置いておくのは、かなり重要と思えるこのテキストの日本語訳が現時点でネットにみつからない状況を鑑みて、なによりも情報として活用していただくためであって、ここに述べられている思想すべての射程をわたしが吟味しているということではありません。これはご了承ください。それから翻訳掲載にあたり筆者お二人に了解をとってはいませんから、十分正当性のある御主張があればすみやかにこれをネットから取り下げ、必要があれば謝罪させていただくことをお約束致します。
さてそれで一応訳してみたわけですが、「これでは固い。『教養主義』のない若い読者にこの日本語で理解してもらえるか?」という思いがします。定訳の訳語を使い、できるだけ原語の構文を尊重した「直訳」の存在を前提にした上で、できるだけ広範な理解可能性、コミュニケーション可能性に主眼を置いたもう一つの、あるいはそれ以上の訳を共存させるという第二翻訳論の考え方を追求したくなるゆえんです。
皆さんはどうお考えでしょうか?
ちなみに GTもマルチニク系ですが、植民地主義については Le vrai sauvage(本当の野蛮人)なんていうかなり激しい言葉で糾弾した歌を作る男です。
でも、それでは彼が白人全部を恨んでいて憎悪に燃えて生きているかというと、そういうことは絶対ないことをわたしが保証します。 (^_^)v GTの友人たちには白人系、黒人系などいろいろいて、みな彼のことが好きだし、彼も彼らが好きなのです。GTの闘いは思想的なものなので、白人だったら自動的に嫌悪する、というような人種差別とは関係ありません。
なんべんも繰り返しますけど、ジェラルドは実に気持ちのいい奴で、すばらしい才能の持ち主なんです。彼を知る人はみなそのことが分かってます。でも仕事でなかなか妥協しないために業界では損をしてるんです。
日本に来て歌ってくれたらどんなにいいことか。
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月
寒々とはしてましたが、いい月でした。
写真はきのうの朝、金沢大学教育学部の上に浮んでいた月です。
月はどうしてもこのくらいの大きさにしか写らないですね。
この月の右側に、ひっくり返った格好ですがウサギさんの耳がはっきり見えました。 (^_^)
月では「ウサギが餅をついている」というのは聞くんですが、どこが「餅をついている」ところにあたるのか、いまだに分からないままです。
どなたか教えてください! m(_ _)m
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作品/作者
『愛より強い旅』の話に関連して、作品/作者についてこんなふうに考えてみました。
星空というのは、美しいものです。(「星見会」なんて会を作っておられる方々もいました。 (^_^)y )
でもまあ、星はランダムに散らばっているんだと思って、見ますね。この世の全ては神の御技だと信じている人だって、青い○○星の横っちょに赤い△△星があるのはどういう「意図」だろうか、とか考えたりはしないでしょう。
星空は美しいけど、背後に人間はいない、ということです。
(猿にタイプライターを与えてランダムに打つことを覚えさせる。猿がでたらめに打っているうちに、シェイクスピアの作品と同じものを偶然打ち出すことはもちろんありうるわけだが、それは「宇宙の寿命をはるかに超える時間」に一回の確率だ、てな話を読んだことがあります。
そういうテキストの背後には「人がいそうでいない」わけです)
でも「ゲイジュツ」作品は、自然物ではないのですから、作った人がいるはずなのです。そのことが感じられるから「ゲイジュツ」なのです。
その作った人に「ミケランジェロ」とか「北斎」とかいう名前がついているかどうかというのは、まずはどうでもいいことです(ここはちょっと言い過ぎかなと自分で思いますが)。
(もっとも、たしか法隆寺夢殿の救世観音像についてだったと思いますが、「この像を見ていると、この像の作者というような観念は思い浮かばない」というようなことを誰か言ってましたね。この言葉も、なぜそうなのかは分からないのですが、なんだか言えているようにも思えます。この時代の仏師たちの名前や生活のことをわたしが全く知らないということ以上に、ミケランジェロや北斎のような「人間の時代」のものではない、ということが大きいのかもしれません・・・)
そういうときに、先に「ミケランジェロ様というのは・・・」「北斎様というのは・・・」という絵画界の権威としての物語、あるいは即作家の生きた時代、社会状況の物語から入ってしまうのがよくないことだったのだ、ということのように思います。
かつて、とくに文学の分野で、解説というのがそういう権威的物語、あるいは作品を作家を生んだ歴史的社会的背景からでてきた結果みたいなものとして提示する物語ばっかりで非常に弊害が大きかったから、できるだけ「作者」を排除した解説を志向した方がよろしいというのが文学研究界でコンセンサスのようになっていったのだと思います。
しかしそれもこれまでずいぶんいき過ぎがあったと思います。
美術界の権威としての「ミケランジェロ様」のように物語がまつわりついた、物語で出来上がっているような「人」じゃなしに、たとえばほっぺたをくっつけ合って「ビーズ」の挨拶をするとき、自分の頭の数センチ横にある、なんか芯みたいに感じられる「もの」、これがとりあえず相手にすべき「人」じゃないかなと思うのです。わたしが「作者」というのは、そのくらいの感じの「人」のことです。
その「人」が人間として何をしたのか、これは先にも述べたように、推測の範囲内にあると思うのです。それに、推測なのではずれるかもしれませんが、真摯である限り、基本的にははずれてもいいことのように思えます。
そういう態度に少し歩み寄るだけでひとつの「面白さ」が感じられるようになるかもしれないとしたら、頑に拒否していては(損得勘定だけみたいな言い方で申し訳ありませんが)損だ、ということにならないでしょうか。
その「作者」について情報、あるいは「物語」があれば、その推測の助けになるかもしれません。しかしひょっとしたらそれはミスリーディングなものであるかもしれないです・・・
だから、この『愛より強い旅』という映画の場合「作者」にあたるガトリフがフランス人だというので、反射的にガトリフ=おフランス=自己中=怠け者=高尚な(というより高尚気取りの)ゲイジュツ的ブンガク的映画=値段分ほど面白くないが「分からないのはお前が馬鹿」という顔をする・・・ という物語(これ、日本にわりとがしっとはまりこんだ物語です)に直行するとしたら、それはあんまり得じゃないのでは、ということです。態度を変える、見方を変えることがもしできて、そしてそうすることによって料金分の快楽が得られるんだったら、その方がいいはずではないか、と思うんです。
星空というのは、美しいものです。(「星見会」なんて会を作っておられる方々もいました。 (^_^)y )
でもまあ、星はランダムに散らばっているんだと思って、見ますね。この世の全ては神の御技だと信じている人だって、青い○○星の横っちょに赤い△△星があるのはどういう「意図」だろうか、とか考えたりはしないでしょう。
星空は美しいけど、背後に人間はいない、ということです。
(猿にタイプライターを与えてランダムに打つことを覚えさせる。猿がでたらめに打っているうちに、シェイクスピアの作品と同じものを偶然打ち出すことはもちろんありうるわけだが、それは「宇宙の寿命をはるかに超える時間」に一回の確率だ、てな話を読んだことがあります。
そういうテキストの背後には「人がいそうでいない」わけです)
でも「ゲイジュツ」作品は、自然物ではないのですから、作った人がいるはずなのです。そのことが感じられるから「ゲイジュツ」なのです。
その作った人に「ミケランジェロ」とか「北斎」とかいう名前がついているかどうかというのは、まずはどうでもいいことです(ここはちょっと言い過ぎかなと自分で思いますが)。
(もっとも、たしか法隆寺夢殿の救世観音像についてだったと思いますが、「この像を見ていると、この像の作者というような観念は思い浮かばない」というようなことを誰か言ってましたね。この言葉も、なぜそうなのかは分からないのですが、なんだか言えているようにも思えます。この時代の仏師たちの名前や生活のことをわたしが全く知らないということ以上に、ミケランジェロや北斎のような「人間の時代」のものではない、ということが大きいのかもしれません・・・)
そういうときに、先に「ミケランジェロ様というのは・・・」「北斎様というのは・・・」という絵画界の権威としての物語、あるいは即作家の生きた時代、社会状況の物語から入ってしまうのがよくないことだったのだ、ということのように思います。
かつて、とくに文学の分野で、解説というのがそういう権威的物語、あるいは作品を作家を生んだ歴史的社会的背景からでてきた結果みたいなものとして提示する物語ばっかりで非常に弊害が大きかったから、できるだけ「作者」を排除した解説を志向した方がよろしいというのが文学研究界でコンセンサスのようになっていったのだと思います。
しかしそれもこれまでずいぶんいき過ぎがあったと思います。
美術界の権威としての「ミケランジェロ様」のように物語がまつわりついた、物語で出来上がっているような「人」じゃなしに、たとえばほっぺたをくっつけ合って「ビーズ」の挨拶をするとき、自分の頭の数センチ横にある、なんか芯みたいに感じられる「もの」、これがとりあえず相手にすべき「人」じゃないかなと思うのです。わたしが「作者」というのは、そのくらいの感じの「人」のことです。
その「人」が人間として何をしたのか、これは先にも述べたように、推測の範囲内にあると思うのです。それに、推測なのではずれるかもしれませんが、真摯である限り、基本的にははずれてもいいことのように思えます。
そういう態度に少し歩み寄るだけでひとつの「面白さ」が感じられるようになるかもしれないとしたら、頑に拒否していては(損得勘定だけみたいな言い方で申し訳ありませんが)損だ、ということにならないでしょうか。
その「作者」について情報、あるいは「物語」があれば、その推測の助けになるかもしれません。しかしひょっとしたらそれはミスリーディングなものであるかもしれないです・・・
だから、この『愛より強い旅』という映画の場合「作者」にあたるガトリフがフランス人だというので、反射的にガトリフ=おフランス=自己中=怠け者=高尚な(というより高尚気取りの)ゲイジュツ的ブンガク的映画=値段分ほど面白くないが「分からないのはお前が馬鹿」という顔をする・・・ という物語(これ、日本にわりとがしっとはまりこんだ物語です)に直行するとしたら、それはあんまり得じゃないのでは、ということです。態度を変える、見方を変えることがもしできて、そしてそうすることによって料金分の快楽が得られるんだったら、その方がいいはずではないか、と思うんです。
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わたしの修論
このところこのブログにエントリーがないな、と思っている方がおられるかもしれませんが、実はこの前のエントリーの「コメント」のところでリスケさんとかなり議論してますので、そちらの方もご覧になってください。 (^_^)y
(このブログの「カテゴリー」に「ニッポンと世界をどないしましょう?」というのを追加しましたが、ううむ、「ゲイジュツ?」というのも加えた方がよさそうですね。でもどう分けても結局全部相互に重なって、つながってるんですけど)
リスケさんと議論していて、なんだか昔むかし書いたわたしの修士論文のことを思い出しました。書き上げたときには「わあ、書けた、書けた!」とえらく気分が高揚していて、年始でおうかがいした柏○先生のおうちでビートルズ Abbey Road全曲を鼻歌で歌い切って七○さんにあきれられた記憶があります。 (^_^;)
さてその修士論文、内容はほとんど忘れてしまいました。若書きで、当然今から見直したら恥ずかしいものでしょう(または現時点のあまりの進歩のなさに慄然とするか・・・ (X_X;) )。
でも中心テーマはスタンダール『赤と黒』の、まさに「物語」に関するものだったです。つまり主人公のジュリアンは、なんだか自分の実力で社会をのし上がっていっているつもりのようだけれど、それは本当はどうも幸運な偶然の助けによるもので、そのあたり読者はその因果性のすり替えについのせられてしまう構造になっている、てな論旨でした。
柏○先生にはたしかに「君のもまあなんちゅうかそのー・・・デコンストラクション(脱構築)ですなあ」という評価をうけました。先生の言葉に対するわたしの内心の感想は「そんなたいそうなもんかいな」というものでしたが。 (^_^;)
それはともかく、『赤と黒』みたいな強烈な力を放つ「物語」には、なにか仕掛けがある、というのはわたしの、わりと本能的な警戒心に根ざしてます。
(ただ『赤と黒』は、エジプトではまだ有効らしいんですが、今の日本の若者にとっては時代も土地も遠い遠いところのもので、登場人物の心理もまるでピンと来ないものになってしまっているようです。「賞味期限が切れた」かもしれませんね。もっとも、たとえば登山という営みで言えば、ある山の頂上が征服されても、ルートを別にした登頂が試みられたりしてその山に対する関心が次の世代に伝えられていく、人間の営みの蓄積が無意味にならないようにする、世代間が完全に断絶しないようにしていくというようなことは、文学でも実践されているし、意義のあることだと思います)
(このブログの「カテゴリー」に「ニッポンと世界をどないしましょう?」というのを追加しましたが、ううむ、「ゲイジュツ?」というのも加えた方がよさそうですね。でもどう分けても結局全部相互に重なって、つながってるんですけど)
リスケさんと議論していて、なんだか昔むかし書いたわたしの修士論文のことを思い出しました。書き上げたときには「わあ、書けた、書けた!」とえらく気分が高揚していて、年始でおうかがいした柏○先生のおうちでビートルズ Abbey Road全曲を鼻歌で歌い切って七○さんにあきれられた記憶があります。 (^_^;)
さてその修士論文、内容はほとんど忘れてしまいました。若書きで、当然今から見直したら恥ずかしいものでしょう(または現時点のあまりの進歩のなさに慄然とするか・・・ (X_X;) )。
でも中心テーマはスタンダール『赤と黒』の、まさに「物語」に関するものだったです。つまり主人公のジュリアンは、なんだか自分の実力で社会をのし上がっていっているつもりのようだけれど、それは本当はどうも幸運な偶然の助けによるもので、そのあたり読者はその因果性のすり替えについのせられてしまう構造になっている、てな論旨でした。
柏○先生にはたしかに「君のもまあなんちゅうかそのー・・・デコンストラクション(脱構築)ですなあ」という評価をうけました。先生の言葉に対するわたしの内心の感想は「そんなたいそうなもんかいな」というものでしたが。 (^_^;)
それはともかく、『赤と黒』みたいな強烈な力を放つ「物語」には、なにか仕掛けがある、というのはわたしの、わりと本能的な警戒心に根ざしてます。
(ただ『赤と黒』は、エジプトではまだ有効らしいんですが、今の日本の若者にとっては時代も土地も遠い遠いところのもので、登場人物の心理もまるでピンと来ないものになってしまっているようです。「賞味期限が切れた」かもしれませんね。もっとも、たとえば登山という営みで言えば、ある山の頂上が征服されても、ルートを別にした登頂が試みられたりしてその山に対する関心が次の世代に伝えられていく、人間の営みの蓄積が無意味にならないようにする、世代間が完全に断絶しないようにしていくというようなことは、文学でも実践されているし、意義のあることだと思います)
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オハナシ
三匹の迷える羊たちさんからTBをいただきながら、ブログをお休みにしたためにずいぶん間が空いてしまいました。
白状しますと、三匹の迷える羊たちさんの書いておられることには一行ごとに反論を入れたくなってしまうところなのですが (^_^;) まあ前のエントリーをご覧になればわたくしがどのようなことを言いたいかだいたいお解りになると思いますので、ここでは繰り返しません。
でも、この映画を理解するには予備知識が不可欠だったのか、アルジェリアのことを知らなかったら見てはいけない映画だったのかなどと言われるとしたら、それは違うと思います。人がそういう風に考えてこの映画、またはこの種の映画から身を引いてしまうとしたら、それはまさしく教養主義の悪弊で、誰のプラスにもならない話だと思います。
なので、ここで少し「この映画が面白くない」という一般的意見に対してわたしの思うことを書いてみますので、ご感想をいただければ幸いです。
問題は、映画というものは必ずオハナシの面白さで楽しませることが要求されるというわけではないんじゃないかということだと思うのですが、いかがでしょうか。オハナシの面白さの追求を最初から捨てている、あるいは少なくともそれが主たる面白さではないという映画があるなら、それをオハナシの面白さだけを期待して見るのでは、評価が低くなって当然だと思います。
だからといってそういう映画を作る人は、できるだけ多くの人に面白いと感じられるオハナシ、ヒットし商業的に成功するオハナシを作るという難しい作業を放棄したインテリ気取りの怠け者だ、と決まったわけでもないと思いますよ。映画の目的は他にもいろいろあるし、またどんな映画を作るにせよ克服すべき困難は限りなくあると思います。オハナシとは別の目的をもった映画をこそ期待している観客もたしかにいるので、客を無視したひとりよがりだ、ということも言えないはずです。
たしかにハリウッドで商業的に生産される映画の多くはオハナシに凝っています。これが大多数の映画館で上演されるので、どうしても映画はこういうのしか見たことがないという人も多くなるはずです。そういう人は、違う原理で作られた映画を予備知識なしで見せられたら、とまどうに決まってます。
そういう場合(映画に限りません。文学とか絵画とか・・・みんなそうですが)は、面白く見るためにあらかじめ一定の心構えが要ると思うのです。
で、この映画の場合その心構えとは「この映画は夢の世界、別世界をスクリーンの上に作ろうとしてるんじゃなくて、できるだけ実世界、『この』世界に近いものを作って現実、『この』世界についての体験に近いものを観客に体験して欲しい、知って欲しいという態度で苦心して作られているんだという感覚を持つこと」と言えるんじゃないかなと思うんですが・・・
はやくオハナシの続きが知りたいという気持ちがあまり強かったら、映画の中で音楽が15分も続いてはイライラするばかりでしょう。15分も続くということは、この音楽が添え物じゃなくてこれ自体がメインディッシュだということのはずです。なんというか「その場」にいるような気分で聞ければいいんですが、それがどうしても無理だったら・・・うーむ、困りましたね。 (^_^;) 音楽は、なんというか、3分の音楽だったら3分で味わうものです。はしょれないです。実際の人生も同じことのはずです。
映画というのはツクリモノのはずなのに、ある種の映画を見ていると、ときどきなんだかまるで現実がそこにあるみたいにどかっと生々しく感じられる瞬間があります。なんらかの意味で「現実に触れた!」という感覚をもつ時があります。そういうときは思わず「おおお」と心の中で叫んじゃいます。
そういうのは、オハナシの面白さとは別の意味で、面白いです。
そういう心構えで見たら、ずいぶんこの映画も見え方が違うのではないでしょうか。
たぶんわたしはそういう心構えで見て、『愛より強い旅』が面白かったんだと思います。
こんなことは全く釈迦に説法かもしれません。その場合はご無礼お許しください。 m(_ _)m
白状しますと、三匹の迷える羊たちさんの書いておられることには一行ごとに反論を入れたくなってしまうところなのですが (^_^;) まあ前のエントリーをご覧になればわたくしがどのようなことを言いたいかだいたいお解りになると思いますので、ここでは繰り返しません。
でも、この映画を理解するには予備知識が不可欠だったのか、アルジェリアのことを知らなかったら見てはいけない映画だったのかなどと言われるとしたら、それは違うと思います。人がそういう風に考えてこの映画、またはこの種の映画から身を引いてしまうとしたら、それはまさしく教養主義の悪弊で、誰のプラスにもならない話だと思います。
なので、ここで少し「この映画が面白くない」という一般的意見に対してわたしの思うことを書いてみますので、ご感想をいただければ幸いです。
問題は、映画というものは必ずオハナシの面白さで楽しませることが要求されるというわけではないんじゃないかということだと思うのですが、いかがでしょうか。オハナシの面白さの追求を最初から捨てている、あるいは少なくともそれが主たる面白さではないという映画があるなら、それをオハナシの面白さだけを期待して見るのでは、評価が低くなって当然だと思います。
だからといってそういう映画を作る人は、できるだけ多くの人に面白いと感じられるオハナシ、ヒットし商業的に成功するオハナシを作るという難しい作業を放棄したインテリ気取りの怠け者だ、と決まったわけでもないと思いますよ。映画の目的は他にもいろいろあるし、またどんな映画を作るにせよ克服すべき困難は限りなくあると思います。オハナシとは別の目的をもった映画をこそ期待している観客もたしかにいるので、客を無視したひとりよがりだ、ということも言えないはずです。
たしかにハリウッドで商業的に生産される映画の多くはオハナシに凝っています。これが大多数の映画館で上演されるので、どうしても映画はこういうのしか見たことがないという人も多くなるはずです。そういう人は、違う原理で作られた映画を予備知識なしで見せられたら、とまどうに決まってます。
そういう場合(映画に限りません。文学とか絵画とか・・・みんなそうですが)は、面白く見るためにあらかじめ一定の心構えが要ると思うのです。
で、この映画の場合その心構えとは「この映画は夢の世界、別世界をスクリーンの上に作ろうとしてるんじゃなくて、できるだけ実世界、『この』世界に近いものを作って現実、『この』世界についての体験に近いものを観客に体験して欲しい、知って欲しいという態度で苦心して作られているんだという感覚を持つこと」と言えるんじゃないかなと思うんですが・・・
はやくオハナシの続きが知りたいという気持ちがあまり強かったら、映画の中で音楽が15分も続いてはイライラするばかりでしょう。15分も続くということは、この音楽が添え物じゃなくてこれ自体がメインディッシュだということのはずです。なんというか「その場」にいるような気分で聞ければいいんですが、それがどうしても無理だったら・・・うーむ、困りましたね。 (^_^;) 音楽は、なんというか、3分の音楽だったら3分で味わうものです。はしょれないです。実際の人生も同じことのはずです。
映画というのはツクリモノのはずなのに、ある種の映画を見ていると、ときどきなんだかまるで現実がそこにあるみたいにどかっと生々しく感じられる瞬間があります。なんらかの意味で「現実に触れた!」という感覚をもつ時があります。そういうときは思わず「おおお」と心の中で叫んじゃいます。
そういうのは、オハナシの面白さとは別の意味で、面白いです。
そういう心構えで見たら、ずいぶんこの映画も見え方が違うのではないでしょうか。
たぶんわたしはそういう心構えで見て、『愛より強い旅』が面白かったんだと思います。
こんなことは全く釈迦に説法かもしれません。その場合はご無礼お許しください。 m(_ _)m
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アルジェリアの傷
でもこの映画に共感する方がたくさんおられることがわかって、非常にうれしく思いました。 (^_^)
ところで、わたしが何の気なしにささっと書いたものをcoolfrenezieさんに大きく引用していただいたのを見てびっくりしました。でも、学術的に研究したわけではありませんが、日本人にはジプシーとその文化に引かれるメンタリティがあるように感じるのは確かです。
引用していただいたその下にお返事を書くのは気恥ずかしいし f(^_^;) 長くなりますので、新たなエントリーとして書きます。
以下は、coolfrenezieさんも疑問に思っておられる「傷」、『愛より強い旅』の映画の中では謎のまま残っているナイマの体の傷についてわたくしの考えたことです。間違いなどありましたらご指摘いただければ幸いです。映画を見ていない方にもできるだけ分かるように書いたつもりですが、分かりにくいところはご容赦ください。筋で見せる映画ではないので「ネタバレ」は問題にならないと思います。
ナイマはずいぶん奔放な女性のようです。ということはアラブ系の両親や家族とはおそらく険悪な関係にあると思います。coolfrenezieさんの疑問はそういう背景をふまえて、ナイマのような「素行の悪い」娘の体に傷の残るような、ちょうど「やいとをすえる」みたいな風習がアラブ世界にあるのかどうか、ということだと思いますが、どうでしょう? わたし自身はそういう習慣の存在は聞いたことがありません。あるいは本当にあるのかもしれませんが、なにか象徴的なものということでいいようにも思います。なぜなら、この傷は女性だけに関わるものでもないようにみえるからです。
形の上では彼女の旅は自発的なものではなくザノについて行っているだけなので(映画の冒頭でナイマは、アルジェリアに行くというザノを笑い飛ばしていましたね。映画の中で彼女のルーツを示すものはナイマというアラブ名だけです。もっとも彼女の役をアラブ系のリュブナ・アザバルに演じさせて設定をはっきりさせているということはありますが)、あまり強くは意識しませんが、たしかにこの旅はナイマの旅でもあります。
ナイマは、たしかに両親、家族、ルーツの国古来の文化伝統、宗教、道徳規範を裏切って生きています。彼女自身心の底では、そういう生き方は自然なものではないと感じているはずです。そのことは、行きずりの男と関係を結んだ彼女にザノが、お前はどこでこんなセックスのやり方を覚えたんだとなじったとき、彼女が「あんたと同じで、ポルノ映画よ」と答えるところにも現れていると思います。自分は人工的に覚えさせられたものに踊らされている・・・彼女の傷はこの意識と関係しているように思います。
でもここで「あんたと同じ」という言葉が示すように、この意識は男性にも関わってくるもののように思います。
彼女はアルジェリアで人目をはばかってヴェールを被らされますが、こんなのやってられるか、と我慢できなくなって脱ぎ捨ててしまいます。
映画の最後に延々と演奏される音楽『トランス』によって彼女は恍惚として、癒しを得ています(もっともこの種の音楽はアルジェリアというよりモロッコで盛んなジャンルですから、その点が少しフィクション臭い気がしますが)。彼女は北アフリカ型の癒しを実践することで彼女なりのルーツ回帰を果たしているようにも見えます。でもこれが限界です。旅が終わってパリに帰っても、彼女が生活を「改める」ということはないはずです。人工的なものかもしれないけどそれが彼女の生き方であり、彼女はアルジェリアでは生きられないです。
彼女の居心地の悪さには、アルジェリアの特殊性というものも関係しているように思います。
たしかにこの国はアラブの国(本当はベルベル系人がいるので事情はもうひとまわり厄介ですが、ここではその問題は触れません)ですが、100年以上もフランスの完全な植民地になっていたためにアラビア語、イスラム教の文化の大きな部分が破壊されてしまいました(両隣のモロッコとチュニジアは「保護領」で、名目的ではありますが国としての体裁を保っていました)。だから独立のあとアラビア語教育、イスラム教の教えを再導入する政策がとられたのですが、これは特に女性の立場からすると解放とは逆の方向にしか働きませんでした。独立闘争では大勢の女性が近代的精神をもって祖国のために命がけで戦ったのに(このあたり映画『アルジェの戦い』をご参照ください)、独立したアルジェリアはイスラム教を国教のように扱い、原理主義勢力が政治力をもった後では悪名高い「家族法」を成立させて、法的に女性を男性より劣る地位に置いてしまいました。隣のチュニジアのようなれっきとしたイスラム教国でも男女同権が達成されているのに、です。
映画の中で通りがかりのアルジェリア女性がナイマを見て激しく非難するシーンがありましたが、あそこは普通のイスラム教国の保守派の人が行う近代化批判より、なんというかもうひとひねり入っているために「過剰反応」的なところがあるように感じられました。祖国自身が意識的に伝統を回復しようとしているのに、お前はなんだ、というわけです。
もっとも『トランス』でナイマだけでなくザノも癒されることで示されているように、ナイマの傷は女性だけではなく、(ガトリフ監督自身のような)男性を含めたアルジェリア系人全てに関わるものでもありうると思うのです。監督がアルジェリアに感じた違和感というのは、他ならぬこの映画がアルジェリアで受けた拒絶に如実にあらわれていると思います。アルジェリア人にとっては「アルジェリア独立時にフランスに逃げていったコロンの家の家具調度が40年以上もそのままに残してあるという設定は、植民地時代へのノスタルジーを示すもので、受け入れがたい」ということなのです(アルジェリア人全員一枚岩的にそう感じるというわけではないはずですが)。ガトリフ(そしてザノ)にとっては40年前のアルジェリアこそが自分の記憶に残る祖国なのです。ガトリフも、というか彼こそが、確固たる居場所のない人なのです。
映画の最後でザノがお祖父さんのお墓に聞かせる曲は、フラメンコというジプシー音楽、流浪の民の音楽です。そこにタイトル EXILS という字が大きくかぶさりますよね。この言葉は「自分は、本来いるべき場所にいない」ことを意味する言葉のはずです。でもザノもナイマも、そういう生を選びとって肯定しているのでしょう。
・・・こんな風に書いてしまうと映画もキャラクターもずいぶん重たく感じられますが、ナイマやザノはこういうことは心のどこかに秘めながら、楽しい人生を心がけて生きているのです。これもこの映画のいいところです。フランス的感覚のいいところと言うべきかもしれません。
『フランスニュースダイジェスト』のWho's whoのコーナーでどなたかが「フランス人の良いところ」として「深刻にならないこと」をあげているのを見て、我が意を得たという気がしたことがあります。
というか、不必要な深刻さは避けるべきものなのだという考えは、フランス人とつきあわなかったらわたし自身、絶対もたなかったと思います。
日本の人は、なんだか深刻にならないと人生に意味が与えられないみたいな感覚を持ちがちのように思うのですが(これも教養主義の影響かもしれません)、深刻になることと人生を真剣に生きることとは別のことではないでしょうか。・・・
あーやっぱりブログ、いったん書くとなるとわたし、一生懸命書いちゃいますね。ううむ。 (^_^;)
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