コンサートをやらない


 『アビーロード』を出したころのビートルズ、解散寸前のビートルズは公の場でのコンサートはしない、という宣言をしていました。だから『アビーロード』に入っている諸作は、いずれ劣らぬ傑作揃いではありますがなんとなく、これらはもう生の場で聴くことはないのだろう、という気がしていました。そのことは「レコード」にそれだけの神秘性を与えていたような気がします。

 まあそれは少年のあさかはな考えで(わたしはビートルズ世代とは言えません。ほとんど全ての曲は発表のずっとあとで知ったものです)、ビートルズ自身はスタジオにこもっても、解散しても、作曲者がソロで歌う分にはもちろん構わないはずなので。

 ジョージが『バングラデシュ救済コンサート』3枚組――これ、たしか『ビート・オン・プラザ』で田中まさみさんがかけてましたよね(それで田中まさみさん、どうしているかな・・・と思ったら、現在ではスマホですぐにウィキれてしまう。あ、お元気なんですね。現代の凄いところは「そういえばあの人、今なにやってんのかな? 生きてんのかな?」と思ってから数秒でかなり詳しいところまで調べがついてしまう、ということですね・・・ なんなんだろう、これって)――でHere comes the sunのイントロを弾き出すのをきいたときには、ほんとに背筋に寒気が走ったのを覚えています。

 ところで、同じころ「クラシック」の方でもコンサートを辞めてスタジオにこもっちゃった方がいました。グレン・グールド。
 彼が亡くなる直前に録音した『ゴールドベルグ変奏曲』もすごかった。この曲に他の弾き方がありうるとは考えられない、と思わせてしまうほどの、圧倒的な説得力の演奏でした。
 このアルバム、というかこの曲も、わたしは聴くのが遅かったですね。曲名の「ゴールドベルク」「変奏曲」というのがなんだか重々しい感じがして、まじめくさった暗い曲のようなイメージがあったのです。実際は、なんというか生を讃える、生きているというのはこんなにも素晴らしい、と宣べ伝えているような、楽しくも輝かしい曲だったので・・・ (わたし、むかしこんなことも書いてますね。このころはまだワールドミュージックというものを信じていたんですね・・・)

 でもこのアルバムも、今きいてみるとやっぱり少し録音が古いかな、という気がしてしまいますね・・・
 また「ミュージックキャッチャー」に入れると、曲間の長短の絶妙さがまるでぶち壊しになってしまうのがどうにも我慢できない。第9変奏と第10変奏の間がこんなに切れちゃったら、もう身をよじりたくなるほど気持ち悪い。というわけでこのアルバムはミュージックキャッチャーからはずしてしまってます。

 ちなみに、この畢生の名録音がヤマハのピアノでなされたというのは、どうもある種のクラシックファンには痛恨事であるみたいです。わたしには痛快に思えますけど・・・ グールドがどうしてこのヤマハと巡り合ったのか、これまたネットを調べてみると、これはウィキじゃありませんが、こんなのが見つかります。
 ここまで書いてあるからには、これは本当のことを書いておられると思います。なんだかいい話ですね。
 これが日本語でしか読めないというのは、ちょっと世界のグールドファンにとっても、可哀想なことかもしれません。
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ウェーバーの『イタリア』 vs アルベニスの『イベリア』


 ・・・ウェーバーの『イタリア』という曲がラジオでかかっているのをきいたことがありまして。
 思ったことは、「この曲はよくできているし、どこもおかしなところはない。でもたとえこの曲がこの世に存在しなくても、わたしは痛くもかゆくもない。わたしに何の影響もない」ということです。

 (ウェーバーを高く評価する方、ごめんなさい)

 それに対して、たとえばこの世にアルベニスの『イベリア』、『ノー・ニューヨーク』に入っているコントーションズの四曲・・・などがなかったら、わたしは「困る」。わたしの「生」のかたちが、かわってしまう。・・・もちろん、ある曲が最初から存在しなければそういう曲が「ない」ということは人間には分からないのですが。人間界で全ての可能な名曲が"invent"(discoverの意味)されているわけではないので・・・

 そういう曲が、いまでは指でミュージックキャッチャーの画面を触るだけで、きけてしまう。

 これって、悲しいことじゃないかな。

 人生の織物 weave of life というものの文様のあり方が変わってしまっている・・・

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Abbey Road on "Music Catcher"


 わたしの車には「ミュージックキャッチャー」というのがついてまして、いまでは『アビーロード』もこれに入れてあるのですが・・・ミュージックキャッチャーの小さなメモリーに、ほんとにいろんな曲が、わたしの大事な曲が、いくつもいくつも入るんですね。
 音楽はどんどん小さく、軽く、そして安っぽくなっていくんだな・・・

 これの欠陥は、曲の切れ目に無音部分が入ってしまうことです。The EndとHer Magestyがきけないカセットも凄いけど、Mean Mister MasturdとPolythene Pamの曲の間でリスナーに一瞬フリーズさせてしまうミュージックキャッチャーも凄い。
 すべての時代には、その時代の欠陥があるものですね。

 ききたい曲が、ききたい曲だけ、ききたいときにきけすぎてしまう、というのも、なんだか・・・

 ご覧のように、うちのミュージックキャッチャーでは、Abbey Roadが終わると、すぐにDomenico ScarlattiのK306番が出てくることになっています。何の必然性もなく、適当に音源を放り込み続けたのがそのままにしてあるだけですが、もうわたしのあたまの中では Her Magestyが終わるとScarlattiのK306番が出てくるのが、全く自然な繋がりのようになって、刷り込まれてます。

 ちなみに、このブログを始めたころから、最後のエントリーにしようと思っているのは(さいとうたかを氏は超ロング連載『ゴルゴ13』のラストシーンを最初から決めているそうですが)、Scott Rossの演奏するこのドメニコ・スカルラッティ・ソナタ全集CDから受けた、ある不思議な印象についてのものです。
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最初のカセット音源


 
 先日ポール・マッカートニーが来日公演をしたときに引っ張り出したAbbey Roadをうちの同居人さんがいたく気に入ってこればかり聴いているのを見て、音楽の言い遺しをしておく気になりました。同居人さんについて書くのはこれが最初で最後にします。

 このアルバム、わたしがはじめて買ったちっこいカセットテープレコーダで聴いた、最初のカセットに入っていたものです。
 同級生の「ちょぼ」(ドラムやってた)ってやつがわたしに入れてくれた90分テープでした。
 裏面には何が入っていたかというと・・・Blood Sweat and Tearsのサードアルバム! こんなもん、もう誰も覚えてませんよね。でもこのアルバム、ちっこいカセットテープレコーダで聴いていたときはかなりいい出来だと思えていたのが面白い。こんないいアルバムがなんで一般の評価が低いんだろう、ってね。
 後になってレコード(そう、アナログの、LPレコード)で聴いてみて、納得した気がしました。なんか音が薄っぺらいんですよ。ちっこいテープレコーダで聴いていたわたしは、悪いSN比の音から現実以上の出来のアルバムを想像してしまっていたみたいです。

 まあ、それはいい。『アビーロード』。
 このアルバム、長いもんだから90分テープ片面、すなわち45分では全部入らない。The Endの最初の和音のところでぶっつり切れちゃってました。そういうしろもの。
 でも「カセットテープ」というメディアで聴いた、最初の本格的音楽(最初に聴いたのは付属の試聴テープ!)がこのアルバムの音だったのが、45年後も他のひとを感動させるなんて、感慨深いものがあります。

 間にどれだけテクノロジーの変化で音楽のメディアも変化したことか。
 振り返れば、ずいぶん忙しい人生だったな、と思います。


 はなしはかわりますが、梅棹忠夫『知的生産の技術』を見ていると、パスカルのころからわたしの若いころまで知的生産の基本的技術はほとんど変わっていなかったことが分かります。
 それが、わたしの生涯の間にコピー機、コンピュータ、インターネットの飛躍的発展によってどんどん変わる、変わり続けることになっちゃった。なんてことだろうか・・・




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『チボー家の人々』問題


 「『問題の』って、なにが問題なんですか?」という方が多いんだと思いますが、わたくしは『チボー家の人々』が象徴する文学上の大問題があると思うのです。

 今月の日経の「私の履歴書」はトリシェ・・・さんですね。欧州経済をリードする重責を担った、有能な人であることは疑いないと思います。
 月の最後の方は経済の話ばかりになりましたが、上旬ころ、つまり生い立ちの頃の述懐はこの方が素晴らしい教養の持ち主であることを明確に示すものでした。
 そりゃこの人も書きたいことを書いているだけで都合の悪いことは書いてないでしょう。彼が完全無欠の聖人で見習うべきだ、というわけではないんですけどね。

 だけど日本も、彼ぐらいの「教養」をもった人材が作れないのでは世界をリードする役をつとめるなど、とてもとても。「白人の支配は去った」というのが、代わりに日本人が、という話だったとしたら、それはちゃんちゃら可笑しいです。
 頭の中がカネのことばかりでは、日本にいるカネの亡者たちはついてきても、世界の心ある人々はぜったいついてはこないですよ。

 それはさておき。

 じゃ「教養」とは一体何か。

 ここを間違えやすい。

 わたしが確かかなと思うのは、「21世紀の日本人が世界の中で存在感をもちリスペクトを得られるために持つべき『教養』というのは、20世紀前半までの日本人が『こういうのが教養だ』とみなしていた『もの』とは違うだろう」ということ、もうひとつは「そういう21世紀に求められる『教養』というのが20世紀前半までの『教養』と違うのだ、ということにあまり日本の人たちは気が付いていないだろう、単に『教養』は崩壊したと思っているか、『教養』を元に戻さねばならないと思っているか、だけだろう」ということです。

 「教養」を20世紀前半型に戻すというのは、歴史を逆行させることでそれは無理だしやってはいけないことだから、21世紀型の教養を模索し、作らなければならないのだと思うのです。

 27日の「わたしの履歴書」でトリシェ氏は親友として内海あつし(この字はどうやって出そう?)氏という元財務官の方を「仏文学に深く通じ『チボー家の人々』を原語で読む」人として紹介しておられます。

 『チボー家の人々』。これは20世紀前半まで型の教養主義が生きていた時代には、フランス文学の目玉商品みたいな作品でした。白水社さんはこれでかなりお儲けになったはずです。『チボー家』を「原語で」読めるようになりたい、というのがフランス語学習動機の強力なものになっていたのです。

 いまはそういう状況は完全に消えました。トリシェ氏自身、自身の教養を語るときランボーやマラルメの名はあげていますが、『チボー家』の作者マルタン=デュ=ガールの名は出していませんから、フランスでは日本より早く『チボー家』の凋落が始まっていたことが理解できます。言ってみるならフランス人たちは『チボー家』を静かに葬っていたのです。
 『チボー家』はよく書けた、面白い作品です。ただ面白いだけに、その影響力が忌避されるようになったとき、急いで葬られることになったのかな、と思うのです。

 なぜそうなったかという原因はおおざっぱに言って「作品内で高められている道徳がうさんくさいものになった」ということでしょうか。しかしここではそれ以上原因には触れないことにしておきたいです。ここで言いたいのは『チボー家』は21世紀型の教養には属さないだろう、ということです。

 この小説はいわゆるroman-fleuve、「大河小説」というジャンルに属するものですが、その底流にはAntoine, Daniel, Jacquesなどそれぞれの登場人物――若者たち――の「自己形成」というテーマが厳然として存在します。つまり世界の文学界においてBildungsromanというドイツ語で指し示されるジャンルの特性があるのです。日本ではこのドイツ語に「教養」小説という定訳がかぶせられているのはご存知の通りです。

 実はこの「自己形成」という言葉が、「文学」という言葉と結びついて、いま金沢大学の中にいるわたくしにひとつの大きな問題として存在しているところなのですが・・・
 でもそういう言い方をすると問題を矮小化することになるかもしれません。
 あくまでもお話は一般論として続けますが・・・

 今必要とされている教養、Bildungで指し示されるものとは違う(そして――先日ちょっとわたくしの近辺でお話が出たので付け加えておきますが――もちろんself-fashioningとも違う)、何かだと思うのです。

 



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ハスニ没後20周年記念パーティーはいよいよあさって28日!


 東京におられて、時間のある方はぜひ。
 日中ですし、イスラムですからお酒はでません。お食事、おしゃべり、踊り、という会です。
 よろしく。


シェブ=ハスニ没後20年記念~わたしたちは忘れない


アルジェリア・ライのカリスマ歌手シェブ=ハスニがイスラム原理主義者の兇弾に倒れてから、この9月でちょうど20年になります。彼をはじめとする多くのテロ犠牲者を悼む会をひらき、日本とアルジェリアの友好を育てる機会としたいと思います。多数のご参加をお待ちしています。

とき:2014年9月28日(日) 12:30-15:00
ところ:bonobo 渋谷区神宮前2-23-4(原宿駅より徒歩13分)
会費:1000円(フリーソフトドリンク+軽食付)

アルジェリア料理を食べながら、在日アルジェリア人の方のトーク、ハスニをはじめとするアルジェリア・ポップの紹介、DJをお楽しみいただきます。
会場に余裕があれば飛び入り参加もOKですが、あらかじめ以下のメールアドレスにご予約いただけると助かります。

**************************************************
問い合わせ&お申し込み
・粕谷祐己Kasuya Yuichi:yuichikasuya★gmail.com
・ウアムリア奈津江Ouamria Natsue:natsuex★hotmail.com (★を@に変えて下さい)
**************************************************


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音博会場内。写真撮ったら怒られますわな。だから空を仰ぐのみ。


 わたしは雲が好き。過ぎゆく雲が。ほら、あそこを行く、素晴らしい雲が。
J'aime les nuages... les nuages qui passent... là-bas... là-bas... les merveilleux nuages
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音楽、足洗いますよ・・・


 おととい日曜日は「京都音楽博覧会」に行ってきました。

 もちろんわたしは去年の私的ベストアルバムのYasmine Hamdanを聴きにいったのです。ヤスミンさん、超かっこいい、美しい姐さんでしたね。それはいいんですけど。

 他の多くのお客は、ヤスミンをはじめとする世界の音楽にほとんど興味がないみたい。
 ペンギン・カフェがちょっと受けたかなと思いますけど。

 オープニングにサラーム海上さんが、いつになくかっこいい髪型でDJ登場してましたけど、そもそもお客さんたちはサラームさんがどれだけ現日本の音楽シーンで重要な存在か、知ってるんでしょうかね。こころもとないなあ・・・

 要するに、来ていたのは最後に登場する「くるり」を楽しもうという人ばかりだったんでしょうね。あ、わたしはくるりの演奏開始前に会場出ちまいました。

 ヤスミン・ハムダンもわたしはステージ前で見てましたけど、後のライトがまぶしくて困った。あれって、たぶん写真を撮ろうという不埒な輩への対抗のために、ステージの写真を逆光にしてしまうための措置だと思うんですが。 
 でもねえ、ちゃんとチケット買って見に来ているお客の目を焼いてしまっては・・・

 ちなみに、椎名林檎氏のステージがあって石川さゆり氏がサプライズゲストで出て『カーネーション』の主題歌うたってましたけど・・・
 あえて言ってしまいますが、椎名さんの歌ってる曲とか『カーネーション』とかはあまりに難しすぎる、不自然な感じがすると思ってます。
 こういう不自然なところに、日本の大部分のリスナーが「モダン」を感じ、その「モダン」に「自分たちは進んでいる」という妙な自負を感じて、その自負ゆえに「支持」しているとしたら・・・  (これ小室哲也から始まった傾向なんだろうか)

 日本国が亡びるとしたら、こういうところからという気がしますよ、本気で。

 でもわたし、ミュージシャンでもプロの音楽評論家でもないし、もう抵抗する気力もうせた感じです。へなへな。
 お客はみんな、高いチケット代払って来てるんだから、楽しませてもらうのが当たり前だと言われたら、はいごもっともとしか言えないし。

 廣瀬さんの作られた諸ユニット、馬喰町バンドさん、滞空時間さん、アラゲホンジさん、その他日本の歌とはなにか真剣に追求している方々、頑張ってくださいね。

 わたしゃもう、フランス語教育の防衛の方だけで手いっぱいですわ。
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追及の手



このエントリーのつづき。
 安部首相はどんどん追及してますね。14日にはNHKで、朝日新聞自身がもっと努力せよ、と求めていたそうです。
 朝日が30年以上間違ってましたと謝罪したら、今度はそれが間違いだったことを自分の責任で全世界にしっかり周知せよ、ということですね。
 そんなの無理です、って朝日新聞が泣きごと言ったら・・・



 
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途中からしかしっかり見られなかった映画は


 しこたまお酒を飲んでから見に行った映画。やっぱりすぐに寝てしまって、ちょっと起きてはすぐ寝る、というパターンを繰り返し、それでも後半はなんとか目が覚めてみてました。

 それでも不思議に違和感がなく、全部見たのと同じような気になった映画、『マダム・イン・ニューヨーク』。インド映画。一家のなかでひとりだけ英語ができない主婦のはなし。

 これ、すごい。
 なぜなら、各場面各状況が「現代」の「アレゴリー」になっているから。

 アメリカ合衆国の価値観、Sex and the city、摩天楼の林立するニューヨーク・・・そして言語=英語が世界を覆う時代。
 その周縁の人間、英語のできない人。しかし、インド人は自分たち固有の価値観というのはしっかりあるのです。

 主人公の主婦、二児の母に愛を覚え、愛をささやくのが・・・フランス人なんだなあ! いろんな国の、いろんな人種の人がでてくる映画ですが、このポジションは、やっぱりフランス人。既成の秩序に動揺を与えてくる。そして、英語+ヒンディー語の映画の中にフランス語をシンボリックな形で聞かせるのです。
 主人公は英語も苦手だから、フランス語が分かるわけではないのですが、それでも、だからこそ。

 フランス語って、こういう位置にあるのですね。おそらく、昔も今も。

 それでいいのかも、って思ってしまいました。

 この映画に日本人は出てこないと思います(見逃した前半にも、たぶん出てないと思う)。これこそ、わたしが「日本というのは究極のアンチであるかも」という理由に繋がってくるのですが。
 日本人は今はここに場を持ってないと言えそうなんです。今のところは、ね。


[追記] 売り切れだったこの映画のパンフレットを金沢・シネモンドさんにしつこく頼んで(すみません)、やっと手にいれました。「フランス人」の役のひとはMehdi Nebbou、父がアルジェリア人、母がドイツ人という人ですね。まさに「フランス人」です(これは皮肉とか、そういうのでないことに注意してください)。

 監督のGaouri Shinde(女性)も、素敵なひとですね。

 今のインドは、こんなキラキラ輝く映画が作れるんですね。

[2012年/インド/ヒンディー語・英語/スコープサイズ/134分/英語:English Version]ですか。言語のところには[フランス語]も入っていいところですね。


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