ハリルホジッチ氏の名誉回復のために



2018年のサッカー、ロシア・ワールドカップの熱狂も、もう昔のこととなりました。

大会直前の、日本代表チームの監督であったハリルホジッチ氏の解任をめぐる騒動も、もうほとんど過去のことです。

ハリルホジッチ氏自身も新天地フランス・ナントで活躍しておられます。選手の方々を始めとする日本サッカー界に関わる方々もそれぞれの場で努力を重ね、研鑽を積んでおられます。

いまさら運命を変えるわけにはいきません。この事件の推移のなかで運をつかんだひともつかみそこねたひとも、得をしたひとも損をしたひとも、もうこの事件について実質的に何も心配することはないし、こだわることの意味もないと思います。



ただ名誉のことだけが残っています。ハリルホジッチ氏が損害賠償額1円の訴訟を起こしてまで守りたく思われた名誉だけが。



ハリルホジッチ氏の業績はたしかにありました。

ハリルホジッチ氏が教えられたことは、日本のサッカー選手のみなさんにはしっかり伝わっています。コミュニケーションはしっかりとありました。日本チームは強くなれたのには氏のおかげが確かにありました。



ここでハリルホジッチ氏の業績が公にずっと否定されたままであるということは、この上ない非礼であり、一番品格を欠くことのように思われます。それは日本にとって、不名誉なことです。



このようなことは選手の皆さんがいちばん分かっておられることと拝察します。

ハリルホジッチ氏の業績をいくら否定されても、選手の皆さんの心の中まではどうすることもできません。それをそのままにしておくことは、これまでに活躍した選手の皆さん、またこれからの日本サッカー界をになう選手の皆さんの心の中で、品格のない日本サッカーの姿を永遠にとどめることになります。


わたくしは署名運動を行い、支持を集めました。集まりました署名は氏とFIFAにお届けします。


わたくし自身はサッカー界には関係のない者です。ただ2014年のブラジル・ワールドカップ、アルジェリア=ドイツ戦のハリルホジッチ氏の素晴らしい戦いに魅了され、この人、好きだな、と思いました。それでこの人のためにひと肌脱ぐ気になりました次第です。

ハリルホジッチ氏の起こされた訴訟に判決が出て決着がつきましたら、もう一度このブログの「ハリルホジッチ氏の名誉回復のために」をご覧になってください。
お願いいたします。





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バロウズ


 Avec tant de traductions de littératures étrangères dont le nombre extraordinaire a pas mal étonné Philippe, on n'a que peu d'exemplaires de traduction de William Burroughs à Kanazawa. Hum.

 バロウズの邦訳って、金沢大学にはぜんぜん無いですね。裸のランチは英語版一冊だけ。
 金沢の町中にもあんましないです。
 そういうもんですか。

 このあたりが日本での知性と反知性主義のせめぎあいと、世界のメインストリームのちぐはぐが起こってるということですが、うん、これはやがて「追いつく」でしょう。バロウズは知性的に、反知性に近いようなことをやってるんですから。

 ただ、言うまでもないことだと思いますが、念のため:バロウズは多くのひとを「魅了」することによって、死へと、悲惨へと導きました。そのことをわたくしは、全く認めません。たとえそれが同時に多くの創造をもたらしたとしても。
 だから、バロウズの本がこのあたりにみあたらないのも、悪いことではないです。
 ただ「免疫」ができたあとでその足跡を確認することは、やっておいた方がいいです。
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全部は無理、なので・・・


 マルローが生涯の最後に書いたのが L'homme précaire et la littérature という「文学論」だというのは意味深です。

 あの波乱万丈の生涯を送り、美術の分野では Le musée imaginaire という、けっして完成することはないけれど常にまぎれもない「全体性」「完結性」をもった作品、テクストを世に吐き出した彼は、文学に関しては「思ったほど読めなかった、もっと読みたかった」と慨嘆しているのです。それがこのタイトル、「はかなき人間と文学」と訳せるこの句をタイトルにしたマルローの真意なのだと思うのです。

 既にフランコ・モレッティ――なぜ彼の名前を出さないといけないのか、わたくしにはいつも不思議に思われますが―― がしっかり宣言しました。誰しもが分かっていることながら、それを言ってしまうと全ての前提が崩れてしまうと恐れて言わなかったこと、「全ての、読まれる価値のある文学作品を全て読むことは、不可能である」ということを。
 それに、文学は一回読んだだけではよく分からない、熟読、味読しなければならない、という考えを真面目に採用するなら・・・


 音楽もまた、時間をとるものですけれども一回の体験でかなり「わかる」度合いは文学よりずっと高いかもしれないです。
 ならば、90分授業のなかで、1分くらいのサンプルのみ聴くことを原則として、たくさん聴けるようにすれば・・・


 文学の90分授業のなかで文学体験をするにはどうするか。
 朗読はたしかにいい手でしょう。
 でもそれ以前にテキストに接する、つまり多くの、多様なテキ(ク)ストに接する、意「義」理解とともに接することを目指すべきです。
 それはMOOCではできないです。著作権のことがあるから。

 映画もまた同じことだと思います。まともに見ていたら120分かかるので――だいたいそれが映画の古典的名作が作られていたころの標準だと思いますが――ハイライトシーンを、前後の解説とともに見る。そのやり方で、何本も見る。

それが過去の「必読書」「必聴『盤』(ん?)」「必見作」つまりは「名作」に対して、ほかにたくさんやらなければならないこと、あるいは、たくさんたのしいこと、がある現代が取ることのできる、むしろ「正当な」態度なのではないか・・・

 以上は、『フランス映画 名画集DVD』が2000円程度で売られているのを見て、思ったことでした。
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