日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
ラシード・タハ急逝 Que l'âme de Rachid se repose en paix...
アラブ・ロックの雄・・・というのもなんだかおこがましい、フランス在住アラブ移民二世世代の「ボス」、ラシード・タハが亡くなってしまいました。11日から12日の夜のことでした。
パリの自宅で、就寝中の心筋梗塞によるものみたいですから、そんなに苦しまずに亡くなったのではないか、と思えるところがちょっと救いかもしれません。
1998年の『アン・ドゥ・トロワ・ソレイユ』コンサートで成功して、トリオの他の二人が浮かれてふわふわしてしまったところ、彼だけ「家を買って、あとはそのままの生活だ」という話を聞いて、堅実な奴だ、さすが乙女座(関係あるか!)、と思ったものでしたがね・・・
あれでお酒さえ飲まなければ・・・って、人間失格みたいだな。でも、そんな感じです。
フランスのVictoires de la musique賞で入賞した機会に日本にやってきた彼のプレス・インタビューの通訳をつとめたのがわたくしの日本音楽業界デビューでした。2001年10月、ちょうど9.11事件直後で世界が騒然としていたころでした。
あのときには「9.11で世界が変わった、などというのはおかしい。アルジェリアは既に10年テロに苦しんできたのだから」てなことを言ってました。
渋谷のクワトロで一回だけの演奏でしたが、実に聞き応えのあるいい演奏でした。
彼は、作る曲全てになにかしら意味をこめることのできる奴で、全くの駄作という作品がなかったひとだと思います。
フランス語で歌った『ドゥース・フランス』『ヴォワラ・ヴォワラ』などがよく取り上げられますが、アルジェリアの人、そしてわたしにとってはアルバム『ディワン』の『メンフィ』『ヒビナ』そしてもちろん『ヤー・ライヤー』など、それから『ベント・サハラ』『ガラブ』などを思い出します。
ブライアン・イーノたちとの競演では、ロンドンのクラブで違和感ない演奏をこなせる第一級の貴重なアラブ音楽アーチストという地位を確固としたものにしましたね。
でも、そのあたりで酒ともうひとつ、悪い癖も覚えてしまったかな・・・
ヘルシンキ公演のとき酔っ払ってステージ上でぶっ倒れてしまったあたりから、ずっとなんとなくおかしかったかな・・・ あれももうずいぶん前の話なんですが・・・
2年前の「ライ30年」30 ans du rai(アルジェリアのライ・ミュージックが本格的にフランスに上陸して30年という記念コンサート)では、結局彼がトリをとる格好になりました。やっぱりフランスのアルジェリア音楽シーンに、彼は欠かせない存在だったのですね。わたしこのコンサート、舞台袖で見てましたし、タハの楽屋にも行きましたが、ひげも白くなって、ずいぶん爺さんになったなあ、と慨嘆したものです。息子のリエスくん(DJやってるんですか)がずいぶん大きくなってましたしね・・・ あ、そのときの短いビデオがここにありました。ステージ(持ち時間は3曲分くらいしかなかったのですが)の後はこのビデオよりもっとくたびれた感じで・・・
また何か思い出したら、ちょっとずつ載せていきましょう。
まだこれからという年で亡くなったのは惜しいことです。かなり仕事はやれた人生だったかな、とは思いますが・・・
でも、やっぱりね・・・
つつしんでタハの冥福を祈りたいと思います。
コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )
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この10年ぐらいはまったくフォローしておらず、
訃報を聞いてからいろいろと最近の動画などを見ましたが、
見かけだけではなく、声もちゃんと出ていない感じで、
それでも本人は年取ったなりに充実していたのか、
それとも辛かったのか、わかりませんが、
とにかく、冥福をお祈りします。
ご無沙汰しておりました。コメントをいただいたのにもなかなか気づきませんでした。
ライ・ブームもいまや遠く、さて今わたしはなにをすべきなのかな、と模索するばかりです。でも、
とりあえずはやることが、ある、ので、とにかくそれをやります。アルジェリアもブーテフリカ後の時代がようやく来ようとしていますし。(^_^)
お葬式にはリエスくんのお母さん、フランス人の奥様も来ておられて、絶縁とかそういうのではなかったことがうかがわれます。このあたり外部からは計り知れないところなのですが。