よく死ぬために、よく生きること

Suite de ceci.
ここから続きます)

 わたしのお義母さんは、かなり見事に死ねことができた、と思います。ただもっと尊厳をもって死なせてあげたかった。それができなかったのはくやまれます。それが現代だということではあるんですか。

 さて、前も書いたかもしれませんが、若いころからずっと取り組んでいるスタンダールStendhalについて、今頃になっていろんなことが「わかった」気がするようになってきました。喜ばしいことです。

 Je me veux libre, et non pressé ; il me plaît de faire attendre les problèmes, je dis tous. Alain.

アランの『スタンダール』の冒頭の段落を締めくくる一文です。「わたしは自分が自由であってほしい。あせりたくはない。問題を待たせておくのが心にかなう。全ての問題を、とあえて言おう」と訳しておきましょう。
 人生、即座に決断を迫られるということは多いものです。そういうときは、早急に、選んで行動しなければならない。
 でももし時間に余裕があると思うなら、問題には「待たせておく」という解決法もあるわけです。
 とくに文学に関することは、あまり急いで、拙速で答えを出すものではないと思います。そういうことをすると自分が発してしまった言葉に足をとられて、一生袋小路から抜けられなくなる危険があります。

 今わたしは、スタンダールの最大の傑作『パルムの僧院』La Chartreuse de Parme について、なんだか複雑な結び目がひとりでにほどけていくように、本当のところが明らかにされていく感じをもっています。

 たとえば・・・

 第8章。主人公ファブリスの心の父ともいえるブラネス師が久方ぶりに彼と相対したとき。

 ”Voici ma mort qui arrive" わたしの死ぬときが来た

と言い、驚くファブリスにブラネスは

 Come face al mancar dell'alimento

とVincenzo Montiのイタリア語の詩を引いて自分の死を形容するのです(「ランプの油が尽きるように」みたいな意味だということですが・・・)

 わたしになぞだったのは「なぜここだけ詩なのか」ということでした。

 スタンダールは、ブラネスの声を借りて、自らの死がこうあってほしいと願い、そういう死を想定して、たたえているのです。
 詩とはそのためにあるのです。

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雨宮まみ氏



 この方の書いておられること、また書き方に、強い印象を受けました。
 でも残念なことに、もうお亡くなりになっているのですね。

 この『女子をこじらせて』のあとの作品、ウェブでの文章はもっとこなれているし、心理分析もますます冴えを見せておられます。

 今、この方は「ライター」「エッセイスト」などという肩書きしか(こう言っては職業差別なのですが)持っていないということで、あるいはすぐに、不当に、忘れ去られてしまうかもしれません。

 「作家」として記憶されれば、それだけ長く記憶に残ることもできるかもしれません。
 そうしてみましょうか。「作家・雨宮まみ氏」。

 制度としての「文学」がまだそういう威光をもっているなら、その価値はあると思います。

(なんか画像がでっかく入るようになりましたね。まあいいや)




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