サンセヴェリーの

サンセヴェリーノ公演(5月28日、於渋谷クワトロ)。
ステージに登場するや否や Bonsoir ! Bienvenue a Tokyo ! 「こんばんわ! 東京にようこそ!」だもんね。今日東京に着いたばかりなのは誰なんだろう? (^_^;)
基本的にはマヌーシュ・ジャズのリズムで歌うサンセヴェリーノですが、目を見張る、というか耳を聞張る(?)のは多様な音の引用の洪水です。なまギターのくせに4小節だけファズをかけてエレキばりばりにしたり、猛烈なスキャットを入れたり、客席を走り回ったり、忙しい忙しい。
それから、ひょっとしたら歌っているときより歌の合間の方が気を張っているんじゃないか -- (^_^) まあそんなことはないでしょうけど、一瞬そう思ってしまうほどの秀逸な大道芸エンターテイナーぶり。とにかくお客を退屈させない。歌詞やしゃべくりを理解するためにフランス語はできた方がよかったには決まってますが、この晩のギャグは言葉だけには頼らないものだったですよ。
先日のテテとかこのサンセヴェリーノとか、日本でまこと本当に受けるフランスのアーチストが出てきてます。こんどこそシャンソン、ブランド物のおフランスでない、多様な文化の交差点としてのフランス、という正しい(?)イメージが日本でも定着するといいなあと思います。
この夜サンセヴェさんは朝まで踊ってたんですね。その行状についてはサラーム海上さんのブログをどうぞ。 (^_^)
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rai info/ライ・ニュース 004

"JE VIENS, AVEC MON RAI, ME MELER A CE COURANT JEEL"
マミの新アルバムはタイトルこそ未定ですが、輪郭がだいぶんはっきり見えてきました (Afrique Magazine juin 2005)。まずぎょえっと思ったのは「古典アラブ語」arabe classiqueで歌っているという話。エジプト語のことじゃないかと思ったのですが、どうもほんとに古典語みたいです。これははっきりアラブ全域の上流層をターゲットに入れていることを示します。それでは全然ライでなくなってしまうのでは・・・と心配するのですが、彼ははっきりエジプトのポップ、ジールのシーンを意識していて「僕は自分のライでもってジールの流れに参加するんだ」と明言しています。どういう「ライ」になるんでしょうね? (^_^;)
これだけだとちょっとオリエンタルに興味の薄い人にはしんどいかなと思いましたが、マミはこれからパリで例のRai'n'b Feverの仕掛人 Kore & Skalp のところに行って rai'n'b系の曲を3つ録音してアルバムに加えるつもりなのだそうです。
いろいろ考えますね。成功を祈りますけど、マミやハレドの正攻法のライ新譜も聞いてみたいなと思う今日この頃です。
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日本のおとこ

上智大学というと、わたしにとってはなによりもまずフランス語教育界の「親玉」のひとり、○○さちこはんの居城であり、ついで作家藤原ひとみ氏の母校ということになるのですが (^_^) 、今回は C 先生のお招きで学生さんたちにアルジェリアポップのライについてお話しする場をいただきました(5月25日)。
いつもどおり下手なお話でしたが、ずいぶんたくさん聞きにきていただいて恐縮でした。
しかしそれにしても来られた方は女性が多かったですね。漠然とした印象ですが、こういう遠い遠い土地の文化に興味を示し積極的に取り組むのは、今日の日本ではどうも女性が圧倒的に多いみたいなんです。別に悪いことであるわけはありませんが、ほら、おとこ、もっと外に目を開け! とは言いたくなりますね。
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第二翻訳論

日本経済新聞2005年5月21日の「文化」欄に上田敏『海潮音』刊行100年を機会に、翻訳詩をめぐる最近の動向の紹介が載っていました。

この記事を読むまでもなく分かることですが、翻訳というものには本質的な困難があります。基本的に翻訳は日本語として自然で、読みやすい文体こそ望ましい(正確な理解がどうしてもほしいなら原文にあたるしかない)とわたしは思いますが、そういう傾向があまりに強くなり、多方面に影響を与えるようになるとその反動として,釈超空が『海潮音』について覚えたような「あまり表現の手馴れた、日本的のものになりすぎ」という危惧が優勢になってくるのも当然のことと思います。
そこで「より原文に忠実な」ということを志向した訳が出てくることになりますが、これが日本語として読みにくいとなると、それだけ読者が「愛読する」ことが難しくなり、文学の市場の沈滞につながることになるわけです。

ところでわたしはかねてから「第二翻訳」というものを考えては、と思っています。
ひとつの訳だけで用を足そうとするからいろいろ無理が出てくるのだ、と考えることはできないでしょうか。
たとえば新しい訳ができたら、それに旧訳を「バンドル」して、というか旧訳と新訳でセットにして売り出してはどうでしょうか。そして読む方は好きな方(たぶん読みやすい、日本語としてこなれた方)を選んで読む、ときには片方(原文への忠実さを大事にした方)を参照しながら交互に読むなどして、批判的な読み方をするのです。
そうすれば、読者は楽しく読めて、しかも原文に近い内容をつかみうるように思います。
未訳の作品なら「こなれたきれいな訳」と「原文に忠実な訳」の両方一度に作ってしまうことも考えられます。

・・・というようなことは紙媒体ではやりにくそうですが、デジタルテキストで売ることを考えればできそうな気がするんですけど。両訳の対応箇所も瞬時に出せるよう加工できますし。
旧訳と新訳の両著作権所有者、版権所有者がよく話し合えば、双方が利益を得るような合意点が見つかるように思えます。
訳者の方も「自分の訳が気に入らないときは読者はいつでも別のが読めるのだ」と考えるとかなり自由な、大胆な訳をすることが可能になるでしょう。「こなれたきれいな訳」と「原文に忠実な訳」の両方をいっぺんに作ってしまうなんて不可能みたいに見えますが、案外ひとりの訳者が一度にやれることかもしれない、その方が訳者も気楽かもしれない、という感じもするのです。

そのうち二つと言わずに三つ以上の翻訳、訳者の個性を生かした多数の訳がセットされるようになれば、その読み比べをするというのが多くの読書人の共有する楽しみとなるかもしれません。

こういうのダメでしょうかね・・・ (^_^;)

わたしもいつかスタンダール作品の翻訳を出してみたいのですが、それが大岡昇平、桑原武夫などなど雲の如くたくさんおられる大家の先生方の訳と一緒に売り出されることを考えると・・・ 紙媒体であれデジタルであれ、あまりに恐れ多いところがありますね、やっぱり。 f(^_^;)
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能登の風土

長谷川等伯展(5月8日。於石川県七尾美術館)。
等伯が能登は七尾の生まれとは知りませんでした。それにもうこの七尾美術館が開館以来すでに何度も等伯展をやっていることにも気付きませんでした。
『松林図屏風』はいつもは東京国立博物館にあります(あんまり見せてもらえないんだそうですが)が、七尾で見られたことには意味があったと思います。だって、金沢から七尾に向かう車の窓からずうっと見えるぶ厚い森が含む水気と、等伯の屏風の中にある松の木が発する水気とがたしかに同じ風土のものと感じられますから。見に行った日は晴れてましたが、梅雨の雨の日だったりすると森はもっとしっぽりして、雰囲気が似てくるんでしょうね・・・ 芸術作品とその作者の生地の風土を結び付けていろいろ想像するというのは、かなり月並みでしばしば危険な行為だとわたしは警戒するのですが(つまり、それらしいオハナシをでっちあげてしまいたくなるので・・・)、今回は意外といい経験でした----と思います。
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サークルこもん

昨日大学食堂の前を歩いていたら、去年初級フランス語教えた S さんに突然呼び止められました。「うちのサークルの顧問になってください」というんです。それで、今日紙をもって部長と二人で研究室にやってきました。
なんでももうずいぶん由緒のある軽音のサークルで YFS--だったかな。という名前と思ったらただしくはYFAでした。前の顧問があの三井徹先生(この3月で定年退職されました)だったというので安心して引き受けたのですが、このお二人さん、三井先生がどんな偉い先生か知らないんですよね。やれやれ・・・ 手もとにあった『ミュージックマガジン』渡して部室に置いてもらうことにしました(三井先生が長らく「洋書紹介」コーナーを担当しておられました)。 (^_^;)
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朝日夕刊「闘うフランス語」について 5

(「闘うフランス語」原文はこちらで御覧下さい)

前回「文化資本」というようなことを書きましたので、フランスは本当に「文化」を大事にしているのか、「文化」は看板にすぎず、経済、つまり「儲け」が本当の目的ではないのかという疑念について、もう少し考えておかねばなりません。

「文化多様性条約」について、「闘うフランス語」第二回では以下のように紹介しています。

この条約は、世界中に「娯楽」を輸出する米国に対し、映画や音楽は自由貿易の対象外にすべきだとフランスなどが提唱した。「国内産業の保護」も狙いだが、「保護主義」という批判をかわすため、固有の文化や言語を守ることに力点を置く。

国内産業の保護「も」狙い、と書いてありますが、やっぱり「フランスの口実は文化だが、本音は経済ではないか」という印象を、どうしても受けてしまいます。このあたり「 」付きの言葉が多いのですが、どうも執筆者の真意がよくわかりません。アメリカの「娯楽」にカッコをつけて相対化しているのはフランスということなのでしょうか。これは、アメリカの「娯楽」は本当の娯楽ではない、ということがフランスの主張だということなのでしょうか。それとも「娯楽」自体があんまりよろしくないもので、もっと高尚な「文化」を優先すべきだ、というのがフランス政府の主張で、逆に言うとフランスの「文化」自体はあんまり「娯楽」にはならない、面白くないものだということが暗に示唆してあるのでしょうか・・・ カット写真の解説ではフランスにおいてさえアメリカ映画が観客動員でフランス映画を圧倒している状況(集客上位20本中アメリカ映画14本、フランス映画4本)が報告されているわけですから、そのように解釈することもできます(しかしもし仮にこれが逆でアメリカ4本、フランス14本だったら文化鎖国状態の方が問題になるでしょう。そんなことは起こりもしないし、フランス人も望んではいないと思います。どちらにしろアメリカ映画以外は見ない、というか見るのが困難なアメリカ人の状況とは大きく違っています)。

同じく第二回で、ハリウッドから出資を受けて制作されたフランス映画が、フランス政府の助成を取り消されたという話も示唆的です。
率直に言って、「闘うフランス語」はこの映画の製作に携わった人の不満の声を紹介することで、フランス政府は杓子定規である、あるいはアメリカに頼るような形なら一番大事なはずの文化振興も要らないのかもしれない、と解釈しているように感じられます。
フランス政府が文化保護育成に尽力するといっても、使えるお金には限りがあるに決まってます。この場合、もう少し人間的な言い方でフランス政府の意志を代弁すれば、「『非力な国内資本を支える』のが目的の決まりがあるのだから、ハリウッドの助成のある君たちはちょっと我慢してくれないか」ということであるように思えるのですが。

このような、文化保護の裏にナショナリスムと経済を置いて「正体見たり」という形にするのはあまり適切なこととは言えないと思います。
前回書いたことでお分かりと思いますが、フランスにとって文化と経済は本質的に相反するものではないととらえるべきでしょう。文化はソフトパワー(Joseph Nye)であり、武力による競争が意味を持たない場においては一番強力な武器となるものです。「闘うフランス語」がとっているような「文化か経済か」という二者択一的捉え方をするのは、フランスという国のあり方を理解しづらくすることだと考えます。

経済ということに関していうと、フランスは「市場経済」に抵抗しているのだという見方が「闘うフランス語」にはあるように思われます。第三回のアカデミーによる言語防衛の話においても、

「市場」に任せていたら米英語の書き方や読み方がフランス語圏にも広まってしまう。

という書き方がされているのも示唆的です。
これはさすがに相当真実をついた見方かなと思います。いろんな分野で、たしかにフランスのやり方には非常に「統制経済」的な、政府主導ですすめられるところが多いように思いますから。
しかしこれは、フランスがずっと昔から「二位の国」だということに遠因があるのではないでしょうか。昔はイギリスに、今はアメリカに、軍事的、経済的にはどうしてもかなわないのです。一位の国は、自由放任が一番都合がいいのですが、二位以下はそうはいかない。戦略を練って身を守りながら意識的にことを進めないといけない。フランスはそういう思考・行動パターンが染み付いた国なのでしょう。
二位の国だからこそ、オリンピックやワールドカップみたいなものを主導して作る人物がフランスから出たのだと、わたしは思っています。

これだけ事情の違う日仏両国ながら、歴史の巡り合わせで、現在では利害の一致する分野もはなはだ多くなっているように思えます。
日本も「世界第二の経済大国」と言われながら、いまだに「経済障壁」があると批判される国ではありませんか。フランスの立場は親身に理解できるはずです。

対米協調が日本の基本政治路線であるのはもちろんのことですが、少なくともどのあたりでフランスと日本に利害の一致があるか見定めることくらいは日本人の大半がやっておいた方がいいことではないでしょうか。盲目的にではなく、事情をよく理解した上で、やっぱり最終的にはアメリカと協調しないわけにいかないという思考の段階を、日本の政治家諸氏には踏んでいただきたくおもいます。そして対米関係に支障が生じない領域では、日本と世界に益する形での日仏友好関係の促進に積極的に尽力していただきたいところです。
最終的にはアメリカと協調しないわけにいかないというのは、他でもないフランスのかのドゴールも言っていたことなのです。
親仏と反米とがイコールのように感じるというのも日本に広く存在する傾向ですが、よく見てみればそんなことは絶対ないというのが分かります。そういう単純なことではないのです。これほど基本的価値観を共有する二国、そして互いに優越感と劣等感を抱き合っている二国というのは、そう多くは存在しないのです。

いささか話が大きくなり過ぎました。f(^_^;)


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ちなみにこの「闘うフランス語」の記事は福岡の知人から送ってもらって読みました。金沢には朝日の夕刊がありませんので、そうしないと読めなかったのです。
こういう紙媒体では全国に行き渡らないものこそウェブページに載せるべきだと思うのですが、朝日新聞社に問い合わせても、そういう予定はないとのお答えなので、それではわたしのホームページに原文を載せさせてください、とお願いしましたら、これは受け入れられました。

掲載させていただくことになったのでこの件はいいのですが、新聞社の都合でウェブを使ったり使わなかったりするのは未来のメディアの姿として望ましいとは思えません。少なくとも地方の読者にとっては、という気がいたします・・・ (つづく)

(この記事へのご意見、ご批判はコメントとして書かれるか、または粕谷祐己 raidaisuki@mail.goo.ne.jp(←注意:@が全角にしてあります)までお寄せ下さい)


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rai info / ライ・ニュース 003

CYBER FRENCH CAFEブログにわたくしから投稿しました。現時点でのライ全体の紹介です。なかなか面白そうなブログですから贔屓してあげてください。
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パッチギ!

井筒生幸監督の映画『パッチギ!』(これも5月1日、渋谷の映画館「シネアミューズ」で見ました。ほんとこのあたり、いろいろあるところですね。わたしの東京ってほとんど渋谷のことですね)

印象:60年代末なんていう近現代でも、もう完全に再現することは不可能なんですね。日本てほんとに変化の国です(と思うけど、フランス映画でもやっぱりフランス人が見たら「あっ当時と違う」とか思ったりするんでしょうかね)。
最後の喧嘩シーンはやっぱり出町柳ですか。この映画の時代はわたしの青春時代(!)より当然前ですが、わたしの記憶でも出町あたりの護岸工事はあんなにちゃんとなってなかったと思いますよ。その他どこをとっても背景になんか現在の「こぎれいな」京都が見えるのが気になるんですね。
というようなことはあるけれど、まあこれはしょうがない。映画としては必見だと思います。ハッピーエンドが甘い感じはしますが、しかしハッピーエンドにしなかったら本当に暗~い印象を残す重~い映画になってしまったでしょう。そういうものは今、求められていないと思います。
この映画のおかげで、かの『イムジン河』も映像をもちました。 (^_^)
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原美術館

タピエス展(5月1日)。
タピエスって、正直に言いますが、どこに意義があるのかよく分からないんです(ということは現代美術がよく分からないというのと同じことかもしれません)。でも分からないながらベルギー象徴派と比べると、こっちこそが「われわれの時代の芸術」であるのが明白に感じられるところが面白いですね。
タピエスも、スペインの多くの天才を輩出したカタルーニャの人です。展示作品の名前はカタラン語がトップで、スペイン語、日本語となっています。
分からんのになんで見にいくかというと、まあ見てみたら突然「ストン」とくるかもしれないというのと、原美術館というところが去年「フランコフォニー・フェスティバル」に参加してアフリカの写真家D.J.オハイ・オジェイケレとマリック・シディベの二人展を開いていたところなので、一度見にいきたかったのです。
ブティック、レストラン完備の今風の美術館でなかなかよろしいですね。どういう方がお造りになったのか知らないのですが。ブティックの人もアフリカ写真家展のことをちゃんと覚えていてくれました。 (^_^)
(原美術館は、品川駅西口を出たところで横断歩道を渡って左手の方へずうっといくとホテル・ラフォーレ東京の少し向こうにこんな看板があるので分かります)
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