君のものは僕のもの、僕のものは僕のもの


 「未完の横尾忠則―君のものは僕のもの、僕のものは僕のもの」(於金沢二十一世紀美術館、11月3日まで)。

 横尾忠則という人も「滝」にはまったり、「分かれ道」にはまったり、いろいろなものにはまるのでなかなか面白いです(「滝にはまる」というのは溺れたということじゃなくて、滝の絵葉書収集にすごく凝った、という意味です)。

 『その後の天国と地獄』というのも面白い趣向です。
 1966年に描かれた『天国と地獄』(渋沢竜彦旧蔵)を再制作するということになったのですが、一般公募されたメンバー30名がひとつずつ模写を行い、横尾氏本人による模写もあわせて全部並べて展示してあります。並べられると、横尾氏自身もどれが自分の模写からわからなかったということです。

 さて、こういうのは「作者」の存在をあやしくして「見せよう」という手続きみたいなもんだと思います。

 前のエントリーのオディノのような人が評価されるのも、オディノ(これは本名ではないのですが)という人間の意識的人格の属性やテクニックのゆえではない、はずですね。

 「作品」は「作者」の「持ち物」ではなさそうですね。

 それはともかく。
 先日集中講義に来られていた大阪市立大の福島先生を囲んだ茶話会でのおしゃべり中に、なんともうすぐフランス研修にいく学生さんのひとりが、この「横尾工房」の企画に参加してたというのがわかって、びっくり。模写の一枚は彼女の「作品」(?)なのです。

 実はもうすぐその研修生に同行して、わたしもフランスにまいります。
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アートの意味


 8月19日までやっていた日経最終面の服部正氏による『勝手にアーティスト十選』は面白かったですね。「ワイヤーマン」の作品はぜひ見てみたいです。

 このコラムは要するにいわゆる「芸術家」でない人、とくに精神に障害のある人の「作品」十選ということです。

 18日のエミール=ジョゾム・オディノの細密画についての回で、オーギュスト・マリーというフランスの精神科医のことが書いてありました。

「マリーのような収集家がいなかった時代には、この手の作品はすべて破棄されていた。ある絵が美術として後世に伝えられるか、ゴミとして捨てられるか、それはほんの紙一重の歴史の綾にすぎないことも多い」

と服部氏は書いておられます。

 こういう「妙な」ことを始めるのは、フランス人のお家芸のような気がしますね。政府の文化政策うんぬんより前に、何か「面白いもの」に敏感に反応する精神、またそういう反応をすることを奨励する風土は、この土地に住む人たちに古くからある性向のように思われます。

 さらにいうと、十九世紀末の時期に、ある「ワザ」の極致を意味していたはずの art が、人間の自我や理性の下に眠る「なにものか」を引きずりだしたり、あるいはそういう「なにものか」との関連を予感させるようなもの「でもある」、という意味の広がりをもった、ということも意味していると思います。

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カメルーンからの声


 カレース・フォツォKareyce Fotsoさんは、だいたいワン・ウーマンのパーフォマンスです。ギターを弾き語りしたり、打楽器みたいに扱ったり、あるいは他の楽器(?)を持ち出したり。
 小柄でエネルギッシュなところなど、同じカメルーンのサリー・ニョロを思わせますね。

 シンポジウムでの彼女の発言では、ラップのような形態のリズミカルな言葉にを紡ぎ出すジャンルはカメルーンにも昔からあった、現在ではフランスのマーケットを目指してフランス語でラップするアーチストが多い、というのが関心を引きました。
 アメリカが外国の音楽に非常に閉鎖的である以上(まさに、そうなのです)、フランスのマーケットを目指すアーチストは後をたたず、それだけフランス語というのは世界的に生命を保つことになるわけです。
 このへんが『日本語が亡びるとき』の視野に入ってないところが、困るんですよね(このエントリーなど、一連の考察をごらんください)・・・

 さて、スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールドのお話はこれくらいにしておきましょうか。来年は20周年だそうで、例年以上に盛大に開かれるでしょう。楽しみですね。



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異文化理解


 マンゴーさんは当然ながら日本の聴衆をよく御存知、というかご自分もいわばそのひとりなわけで、聴衆とのコミュニケーションは完璧です。マンゴーさんがばーんと打てば、聴衆にびーんと響きます。

 トーゴ出身のピーター・ソロさんについては、事情が異なります。

 彼は初日はヴードゥーの儀式を披露してくれましたが、演奏では2日目のトリでした。なかなか多彩な音を出す人です。おそらくこれからワールドミュージック界で伸びてくるでしょう。

 日本の聴衆は潜在的に彼に「アフリカ」「アフリカのり」を期待しる感じなんですが(そしてこれは当然ではあるんですが)、ピーターさんはその期待に完全には答えないです。楽器をとっかえひっかえ、レゲエの音も出せばサルサの音も出すし、いろんなスタイルを混在させます。

 ひとことで言ってピーターさん――チウォニーソさんもですが――は「いろんなことをやろうとして」いて、それらいろんなことを「統合しようとしている」のだと思います。

 わたしとしては、若い人たちに、異文化理解っていうのは、ある他文化にたいしてこちらが持っているイメージに合致した物を見つけて楽しもう(あるいは、難しい顔をしよう・・・)、ということではないことに気付いてほしい、と思うんです。

 最初は博物館に珍しいものを見に来るような感じでもいいと思います。ただいつか、はっと気がついたら陸上トラックにいて自分と抜きつ抜かれつして走っているライバル・ランナーを見出す――異文化理解とはそんな感じだと思うのですよ。

 先生口調で申し訳ありません。

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カメル・エル=ハラシ


このエントリーに続きます)

 カメル・エル=ハラシの新アルバム、邦題を『偉大な詩人に祝福あれ~ダフマンに捧ぐ~』として、店頭に並んでます。

 ライナーノーツを書かれた菊地達也さんとは、スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールドの会場でお会いしました。1日目、2日目とお会いしたので当然3日目もお会いできるものと思っていたら空振りでした。お別れのごあいさつもせずに、どうもすみません。
 なんかわたしは常に急ぎすぎです・・・

 菊地さんはカメルの経歴も書いておられますし、実際にカメルに会ってパーフォマンスも聞いておられますから、非常に詳しいライナーですよ。

 カメル本人からのメッセージも載ってますし。
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サカキ・マンゴー、GO !


 スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド2日目の、サカキ・マンゴーさんのステージ、すごく楽しめました(前日にお会いしていたので、ステージ写真ブログに載せていいかお聞きしておけばよかったです)。

 二つ前のエントリーで出ていたピックアップ付きの親指ピアノの、音が割れる寸前くらいにアンプリファイされた音(そういえば最新アルバムのジャケットも、親指ピアノにプラグがつけてあるデザインですね。↑ 親指ピアノ本体と同じくらいプラグも本質的重要性を持つことを暗示してます)、そしてずしーんと会場全体を震わせ聴衆の体に振動を届かせるエレキベースの音は、ライブにしか存在しないものです。

 そして親指ピアノという特異な楽器を弾くマンゴーさんの姿が、聴衆と一体の「場」を作るんです。

 サカキ・マンゴー凡手ならず。

 こういうの、音楽のなかでもトランスミュージックにみえる強い傾向と言えるかも。
 シンポジウムのとき、サカキさんはチウォニーソさんに、あなたのやってるのもトランスミュージックだよね、と聞いて、チウォニーソさんが一瞬間をおいてyesと答える場面がありました。
 直接ピックアップがついているサカキさんの親指ピアノと違って、チウォニーソさんのは、タンバリンみたいな丸い箱の中に親指ピアノを固定して、共鳴させた音をピックアップする構造にしてました。


 
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スキヤキ夜店


 スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールドのお話、もう少し続けますね。

 野外ステージの前は立派な夜店が立ち並んでます。

 お盆の流れだから、業者さんも集まりやすいんでしょうね。

 考えましたね。

 わたしは氷見カレーというのを食べてみました。美味しかったですよ(ちなみに氷見というのはここです。で、南砺はここ)。



 氷見うどんというのは前から知ってました。富山空港にあるお店のがシンプルながら美味しいんです。
 氷見カレーというのは知らなかったので聞いてみたら、氷見カレー学会とかいうのがあって、そこで練り上げた自慢のカレー味なんだそうです。

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身体性、場の共有


 さてスキヤキ・ミーツ・ザ・ワールドが今年初めて企画したシンポジウム:「ジンバブエの現実。アーティストたちができること」(22日16時、於円形劇場ヘリオス)。

 名古屋大の松平さんによるジンバブエの歴史概観のあと、都市大学東京の平尾先生とチウォニーソさんとの対談、それにカメルーンのKareyce Fotsoさん、サカキ・マンゴーさんがコメント、という感じで進行しました。

 チウォニーソさんは英語で、カレースさんはフランス語で発言してました。カレースさんの通訳はこのイベント運営の中枢、ニコラさんが勤めざるをえないですね(↑はその様子です。黄色い服がチウォニーソさん、緑がカレースさんです。ワールドミュージックの世界ではよくこういう感じになります。金沢大学国際学類でフランス語履修した学生さん、このイベントのインターンしようよ)。

 シンポジウムの主眼、ジンバブエの現実に対してアーチストができること、というのはちょっと議論が煮詰まらなかったかな、と思います。
 でもチウォニーソは疑いなくアンガジェengagerするアーチストなので、その活動をフォローしていけば彼女の真意は明白に分かるはずです。彼女は「自分は自分が日常に出会うものを歌うだけだ」といっていました。そうするとおのずから政治は彼女の歌の中に入ってくるのです。

 ところでシンポジウムは、チウォニーソの演奏を聴く前日だったのであまり気にしてませんでしたが、書きとめたノートを見ると、彼女は「アルバムでは、自分の作るのは常にトラディショナルなもので、ただ心の中で自分がどこにいるか、そしてどういう人と一緒に演奏するかによって変わるだけです」「でもパーフォマンスではわたしはクレージーです。違う音を出します」と言ってましたね。
 たしかにアルバムとライブは別物でした。

 サカキ・マンゴーさんはピックアップのもたらした変化に言及していました。
 親指ピアノにピックアップをつけて音が増幅されると、楽器の周りにいる数人にしか聞こえなかった音が一挙に数百人、ときには数万人に聞こえるようになったのです。
 つまり、それだけの人数の人が「ひとつの場」にいることになった、アーチストとひとつの場、ひとつの時間を共有することになったわけですね。

 ふたつ前のエントリーで、チウォニーソが体を旋回させるときに発する「気」、というようなことを書きました。
 これを感じるということが、すなわちアーチストと場を共有するということで、これはCDやMP3媒体の音が持ちえない、生身のアーチストがそこにいないとえられない音の統一感なのだと思います。
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リズムの普遍性?


 スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド締めくくりはヘリオス前庭での「フィナーレ」でした。

 出演者たちによる太鼓の乱打、競演です。
 これはすごい。
 楽しかったですよ。

 セネガル太鼓、トーゴ太鼓と韓国太鼓は、一緒にやれるんですね。

 ・・・でも去年横浜で聞いたような日本太鼓は、ちょっと一緒は無理じゃないかなあって感じてしまいました。
 「気」の入れ方がほかの太鼓と逆になってしまうように思うんです。

 まあ工夫の余地はあるかもしれないし、実際にやってみないと本当のところはわかんないですけど・・・

 ・・・ただそれでも、日本の「聴衆」はかなりセネガル、トーゴ、韓国太鼓のリズムに「のる」ことはできていると思うんですよね。
 日本の素人の方々が、指導されればかなりセネガル太鼓演奏をマスターでき、それを楽しめているということからもそれは明らかです。
 外国の音楽のリズムに既に十分慣れているからでしょうか?
 
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チウォニーソ


 23日、スキヤキミーツザワールドのオオトリはジンバブエのChiwonisoでした(↑ 開演前の会場です)。

 これはすごい。
 こんなこと言っちゃうと最新アルバムRebel Woman出してるライス・レコードさんに悪いかもしれませんが、CDよりライブパーフォマンスの方が抜群に良い人です。
 なんでこの人を東京に呼ばないのか不思議。

 チウォニーソは、ジンバブエ人の両親からアメリカで生まれた女性シンガーであることもあって、いろんな音楽傾向がミクスチュアされた音を出していて、その意味ではかなり複雑。恥ずかしながらわたしこういうの、どう説明していいか分からないです。
 でも彼女がその体をステージ上でぐるっと旋回するとき発する「気」が、それらをすべてを統一し、肯定します。

 ラスト近く、バンドメンバーを紹介するときの曲がマイケル・ジャクソンのOff the wallだったのは、今は亡きKing of popへオマージュをささげたのでしょうね。
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