PARIS(2) 「人種差別」


(前のエントリーからつづきます)

 さてわたしが一番面白く思ったのは、カリン・ヴィアール演ずるパン屋のおかみさんのせりふです。彼女は、雇ってくれと言ってきたブーレットbeurette(アラブ系二世の女の子)の子にいろいろ難癖をつけて、いかにもという感じの人種差別意識をみせてるんですが、次のシーンではお客とのおしゃべりでこれまで雇った店員について「ノルマンディー人はこうだった、アルザス人はああだった、ブルターニュ人、コルシカ人は駄目だ、それでこんどはブーレットでなかなかやるのよ」という話をするんです。日本で言えば「石川県系人はこうだ、愛媛県系人はこうだ、それで中国系は・・・」みたいな言い方にあたると思われますが、日本人はこういう並べ方はまずしないでしょう。

 あんまりフランスのことをよく知らないかな、と自分で思われる方は、ここのところをよく見てほしいです。フランスに関して「人種差別」ということを云々する場合、このパン屋のおかみさんくらいの感覚のフランス人が明らかにたくさんいるということは認識しておかないといけないです。もっとも、結局このおかみさん、あんまり感じのいい人ではないですけど。
 このセリフは、案外クラピッシュがかなり考えて作ったように思います。

 このパン屋とブーレット(演じるのはサブリナ・ウアザニ)のシークエンスに加え、現在のパリが世界の人の動きの内で持っている重要な様相をカメルーンからパリにやってくる不法移民ブノワのシークエンスがしっかり支えています。
 全編でカメルーンでのワンシーンだけ英語が使われているのは、この国が複雑な政治的過程を経て旧英領、旧仏領地域の融合で出来上がったことを示していますね。

 ヨーロッパに渡るボートに乗る前のブノワに密航業者が語る言葉は、パンフレット所収の採録シナリオでは「大変だが、やる価値はあるんだ」となってますが、ここはMalheureusement, ca vaut la peineじゃなかったかな(はっきり聞こえなかったんですけど)・・・ 「不幸なことだが、やる価値があるんだ」ということで、それなら一層含みがあります。世界の現状がこの不正行為をあえてやる値打ちのあるものとしている、ということですからね。そして同時に、ちょっとつきはなした感じになってこのシークエンスを、この映画に無理に入れたという違和感から救っている気がします。
 
 さてわたしは秀逸だと思うこの映画ですが、物足りないという感想を述べる人がかなりいるらしいです。

 「巴里のおしゃれな恋愛」を見に来て肩透かしになったということなんでしょうか。たしかにこの映画の描くパリの諸相に、「おしゃれな恋愛」だけは入ってないのです。

 日本においてフランス・イメージの大きな部分がこれ、「恋愛、おしゃれのフランス」であり、その発する虚の力がたいへん強い力を持っている、ということが目下フランス理解のちぐはぐの大きな源泉になっているのは明らかです。
 こういう虚像は「隣人」だったらすぐ是正されるところなんでしょうけど、フランスはやはりちょっと遠いのです。

 ただ、それは単に是正されるべきもの、というだけではないのでしょう。フランスは明らかにこの虚像にのっかった商売も(を?)しているわけなので。
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PARIS (1)


 セドリック・クラピッシュの『パリ』。
 これ、いいですね。秀逸です。
 クラピッシュがパリを題材に撮るというのでもうほとんど成功は約束されたようなものだった感じがしますが、さらにビノッシュ、デュリス、ルキーニをはじめとする芸達者の出演で2008年の掉尾を飾る作品に仕上がっています。

 予想されるとおり複数の人物群による複数のストーリーが同時進行して絡み合う形式の映画で、大きな縦糸の主はロマン・デュリス演じる重病の若者です。映画全体が死を予感した彼の目に映る人々の生、という感じで観客の目に入ってきます。

 しかしもうひとつ、ファブリス・ルキーニの歴史学教授が紡ぎだす糸も別次元で全体を統括しています。彼は齢二千年を超える町パリの時間を喚起する役割を司っているのですから。彼個人の時間の流れは、彼が60年代のヒット曲に合わせて老醜丸出しで踊る痛々しいシーンが見事に表現しています(このシーンはあっはっはと笑ってすぐ先に行きたかったところですが、クラピッシュはかなり長く引き伸ばしていました。よく見て、考えてくださいと観客に言いたいのでしょう)。

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フランスは二位では年季が入ってます(1)


このエントリーに続きます)

 さて水村美苗著『日本語が亡びるとき』の核心部分について。

 一読してお分かりのように、この本は日本語の没落ということがフランス語の没落ということと重ねて論じられる形になっています。フランス語は衰退の過程にある言語であり、奇跡的な発展をたどった日本語も、断固とした決意をもってその維持を図らない限り没落するであろう、ということですね。

 日本近代文学を子供、若者に徹底的に読ませることを教育の根幹とすべし、というこの本の結論はまことにもっともだと思います。大学で学生を教えている身として、「ちゃんとした」日本語ができる人――それと世界に資する日本人意識を持った人――を育てるためにはおそらくそれが唯一の道であろうと感じられます。おそらく。

 ただこの「フランス語系人のボヤキ」ブログは、例によってフランスの立場から物事を眺めますので、やっぱりちょっとこの本におけるフランスについての見解には留保をつけたくなります。先のエントリーにも書いたとおり、水村さんはフランスを主眼とした本を書いているわけではないので、フランスに関する記述には少々単純化されたところがあると思います。
 その辺を考慮に入れるとこの本はもっとずっと複雑になってしまっていたでしょうが、そうすると日本の取りうる方向性の選択肢にもいろんなヴァリエーションが提示できたかもしれない、と思うのです。

 フランスというのはけっして一位にはなったことがない国です(この話はこのブログで何度も扱ったつもりでしたが、探してみると見つからないです。他に書いている箇所を指摘していただけると幸いです)。『日本語が亡びるとき』ではルイ十四世時代から18世紀のフランスについては、その文化的栄光、輝かしい側面しか書かれていませんが、肝心なのはこの時期でさえ対外的にはイギリスにはどうしても勝てなかったこと、戦争では負け続けであり、産業の発展でも常に遅れをとっていたことだと思います。
 つづく十九世紀にはドイツの勃興があって、英独にはさまれたフランスはかなり苦しい立場にいたということもあります。ヨーロッパ内でも三位の位置づけになっていたでしょう。
 そして二十世紀には米ソの冷戦時代があってフランスはその狭間にいたわけですし、冷戦終了後今日に至るまではもちろんアメリカ合衆国という巨大な存在があって他の国同様フランスもこの国を凌駕するなど全く問題にもなりません。

 ただフランスは、このように常に上に見る一位国があったために、歴史上相対的に存在感が落ちることはありましたが完全に落ち込んだこともなかったのではないでしょうか。
 二、三位慣れしているだけに、頂点を極めてついやりたい放題をやってしまって衰退するということがなかったわけで、ある意味でこの国は二、三位につけながら持続した繁栄を得るためのノウハウを豊富にもっていると言えると思うのです。
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スタンダールとマンガ(8)


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 やれやれ、このスレッドは一年ぶりの続編ですね。
 なんでこんなに長く中断しちゃったかというと、この本(↑)の写真を載せたいと思ったのに、本が見当たらなくなってしまっていたからでした。
 決意を固めてボール箱ひっくり返しまして、やっと見つけました。

 里中満智子著の『赤と黒』マンガ版です。

 要するに、2003年のStendhal a Cosmopolis 学会はわたしがこれをフランスで紹介した学会なので「スタンダールとマンガ」というシリーズ名で思い出を綴ってみようと思ったのでした。

 わたしがお話をしたシンポジウムはÉcrire en Stendhal, traduire Stendhal「スタンダール語で書く、スタンダールを訳す」というもので、Maison des sciences de l'homme –Alpesというところに場所を移して開かれました。大層な名前ですけど、ただの校舎です。

 このシンポは、困ったところの多かったこの学会でも特に問題が集中した企画だったと思いますよ。ずいぶん狭い部屋で参加は少なかったし、司会(なんという名前の人だったかもう忘れてます)は明らかに自分が何をするのか分かってなかったし。

 そもそもプログラムで、わたしがスタンダールの韓国語訳の話もすることになっているのを見て唖然としました。恥ずかしながら韓国におけるスタンダール紹介の状況についてはわたしは何も知らないので、どこから出た話か全く分からないのです(ただ、こういうところを勉強することによって隣国との交流を広げていくのは疑いなくよいことだし、極東地域におけるフランス語のステイタスアップのためにもなるんじゃないかとは思います)。いまさらながらフランス人の仕事のやり方のアバウトさを慨嘆したものでした(ただわたし、こういうの全然気にならないたちなので、日本では生きにくいだけフランスでは腹立てずにいられるってところがあると思います)。

 ちなみにプログラムに「東京大学」のMISHIWA先生という名前が載ってますが、これがほんとうはどなたのことだったかと言うと・・・いや、口にするだに恐れ多い話ですね。
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スタンダール研究会です。


 例の事件で全国的に名が知れちゃいましたね、とみなで苦笑している日本スタンダール研究会でございます。

 26日京都での研究会は非常に人が少なくて、発表の小林さん、山本さん以外には下川さん、近藤さんとわたししかいなかったです。

 このエントリーでお話しした通り、わたしはセルジュの論文の紹介をやりましたがその中で、アメリカの某学者がフランスの著名な物語論学者Gerard Genetteの理論を英訳本一冊だけで論じているというセルジュの指摘があって、慨嘆しました。昔だったらいくらアメリカ人だからといってジュネットほど著名な学者の著作を、フランス語だから読まないでいて、しかも平然と学者でいられる、なんて考えられなかったでしょうにね。(と書いて、ちょっとこれ言いすぎかなと思いました。文化系の学問のあり方もいろいろあったのだと思います)
 『星の王子さま』にも『アルジャーノンに花束を』にも支配的言語で書いていない学者が報われないエピソードが出てきましたね。
 フランス語もそうなりつつあるのは明らかです。水村さんの言っている通りです。

 さてスタンダールの会の最後は、下川さんは先に帰っちゃったし小林さんもわたしもすぐ帰るので、ことしは「鍋」は無しでした。

 寂しい年の暮。
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フランスは二位では年季が入ってます(0)


 まだ読んでなくてアキレスさんのご催促を受けてしまった水村美苗の話題書『日本語が亡びるとき』、恒例のスタンダール研究会で京都に出た折に思い切って買いました。
 金沢大生協に頼んだ分ももうすぐ届いてダブっちゃいますけど、そちらはだれかにあげましょう。

 さて、ざーっと読んでみて、この本の感想のエントリーのタイトルを上のようにしてみました。これがいちばんふさわしいと思いましたので。
 水村さんはフランス文学を専攻された方であり、フランス語の現勢は誰よりも詳しい方ですが、日本の大学の実態と、フランスの、なんというか突拍子もないことをやりはじめる能力のことは一応考慮しないで書いておられると思います。
 まあこの本はフランスやフランス語についての本ではないのですから当然です。あんまりいろいろ詰め込んでは訳が分からなくなりますから。

 さて本題に入る前に。
 水村氏がアイオワ州の作家会議に出席して、最初に言葉をかわした参加者が、「(自分は)モンゴルからです」と自己紹介するところは、ちょうどわたしがサランと最初に会ったとき思ったこととおんなじなので、思わず微笑んでしまいました。
 なんか、東洋系の子がいる。日本人ではないだろう。南方系の人でもない。なら中国人か韓国人か・・・でもちょっと違うみたい。何人だろう・・・?

 "Je suis Mongole."

 日本人にとって、モンゴル人ってそういう存在なんですね。
 でも彼女の方は、わたしを見ただけで日本人とみたてたみたいです。
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「シルク」2 キャラクター


このエントリーから続きます)

 Zedの注目点のひとつは「ランゲージフリー」なこと。つまり、なにやら歌っているんですが、言葉は基本的に何語でもないんです。
 聞いていて意味のあるらしき音列は "bellissima"という言葉だけだったですね。
 これならどこの国でも平気で上演できます。
 こういうのはいかにも英仏語の両立が常に問題になるカナダで生まれたスペクタクルらしいところです。
 ただ、これ見ているときは全く肯定的にのみ見てましたが、しばらく時間をおいてみると、てばなしで肯定すべきことかどうかちょっと考えてしまいました・・・

 それともうひとつ。このスペクタクルには「キャラクター」という役柄があって、ひとつのシーンを統括するのですが、彼ら自身はたいした芸はやらないのです。「クリオネの女王」(という名前ではないと思いますがわたしには他の名前は考えられないです)とか「シャーマン」さんとかがそうです。レダ・ゲルニックさんの演じるこのスペクタクル全体のメイン・キャラクター「ゼッド」(↑)も、芸自体はしないと言っていいですね。

 彼等は精神的存在なのでしょう。何もしなくても、彼らがいないと実際にアクロバットをする人たちの芸がなにかしらまとまりを、意味を失ってしまう、そういうものだと思います。

 全然はなし変わりますけど、こういう「キャラクター」の代表的なもののひとつが「神」なのだと思います。

 このシルク・ドゥ・ソレイユの劇場から帰る途中、ディズニーランドの結婚式場(キリスト教の教会であるようでないようで・・・)の横を通りました。当然ながらここで式を挙げる方は多いのでしょうけど、そこにおける神は、東京のすぐ近くにある夢の別世界ディズニーそのものなのでしょうね。

 前のエントリーのコメントでアキレスさんとクリスマスイブの話をしてますが、「クリスマス」もキリスト抜きで日本社会に「使われている」代表的存在なのでしょう。その機能を大真面目に綿密に調べておられるから堀井憲一郎師は偉い、と思うのですよ。
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ガチンコ


 「杉本博司 歴史の歴史」(於金沢二十一世紀美術館、2009年3月22日まで)。

 今の季節、金沢はだいたい天気が悪いんですが、これを見に行った日はご覧のように心地の良い晴天でした・・・

 さてこの展覧会、ポスター自体は日本の仏画になっています。こういうポスターを見ると当然過去の仏教美術の展覧会、展示会であると思うのが普通でしょうが、この展覧会はそうではありません。
 
 四億年前のウミユリの化石、Timeの表紙、能面、人体解剖図、十一面観音と水平線の写真群などなどなどなどが、同列に並んで、何かを醸し出すのです。それを手に入れるのにお金がどれだけかかるか、などということは考えないでほしい、と言われているような気がします。
 仏教美術に関してもどこそこ寺、なになに博物館所蔵、というクレジットがないので、古書や化石と同様多くは杉本氏自身の所蔵品なのでしょう(正倉院や法隆寺関係の出品物はそうとは思えませんが・・・)。

 ということは、それぞれの「モノ」が通常持っているさまざまな種類のオーラを剥ぎ取られ「ガチンコ」で勝負している、という感があります。
 意味作用はそれなりにみなあるのですが、なんというか、「ありがたみ」みたいなものがカッコに入れられています。

 話は変わりますが、いまわたしは「文学概論」なんて授業をしております(厳密には「文学研究概論」ですね、この授業は)。70人以上いる受講生の中にフランスの文芸批評家はおろか、柄谷行人読んでる子さえ一人もいない、という教養主義の死に絶えたような場で、バルトさんやバシュラールさん、トドロフさんたちにどれほどガチンコの力があるのか、わたしがそれを伝えうるのかと考えます。
 ものごとを根本から考え直さないとやっていけない、そういう時代になったという感慨を新たにします。
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なにを勉強するか


 今週16日火曜は、金沢二十一世紀美術館フュージョン21(↑は外側から見たところ)で「フランスにおけるアラブ音楽」というお題でお話をいたしました。金沢日仏協会というところの催しです。

 ところでその前の週、機器の接続を確かめるために現場に行ってみたら、わたしの「ライ」についてのゼミに来ていたK嬢がいてにこにこ立ってるじゃありませんか。
 びっくりしました。
 ここでアルバイトしてるんだそうです。
 実はフュージョン21は以前にも初級フランス語の教え子T嬢が働いてました。さすがにここは全国的に知名度が高いこともあって人気のバイト場所のようですね。T嬢は教室で居眠りばかりしてた子でしたが、K嬢はかなり成績いいみたい。

 金沢日仏協会の会員の方々には、彼女のことや、ライで卒論を書いて某大新聞に就職した東大卒F嬢のお話をして、「今の時代は、こういう未知の文化に好奇心をもつような子こそが、よくできる子なんです」と宣伝しておきましたけど、分かってもらえたでしょうかねー・・・
 というのは、日本の年配の方の多くには、勉強というとやっぱりヨーロッパのハイ・カルチャーであり、アルジェリア音楽みたいな「第三世界」っぽいものは得体がしれないもので、こういうのをやっている人はなんか胡散臭い、という頭があると思うんです。
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キャラメル


 来年1月31日公開のレバノン=フランス映画『キャラメル』、先日試写を拝見しました。

 映画として、思いがけず(と言っては失礼ですが)遠い射程をみせてもらった気がしました。

「第三世界」の物語と思われるのは最悪、という、まだ真意が多くの人に意識されていないのじゃないかと思われるマルジャン・サトラピの言葉が、この映画を見ながら頭に浮かんでいました。

 これ、たぶん現時点で世界の芸術の最大の問題のひとつなのです。
 「第三世界」の物語となると、どんなにコミカルタッチでも、根はとにかくまじめな話なのです。まじめな話となると、敬意を欠く批評が表の場でされることはまずないし、観客はまじめに見て、まじめなことを言うでしょう。
 だけど映画のあと家に帰って、どれ、DVDでも見ようというとき、人はそういう映画を見はしないのです。
 こういう状況はほんとうは困ったことなのだという意識が、まだ多くの人には欠けていると思うのです。

 現代世界文学の大問題も結局同じことで、人類の大部分の人々にとって切実な現実であっても、その現実が世界の「先端の」現実ととらえられないならば、それは芸術にはしにくいものだ、というところがあります。

 レバノンは第三世界なのかどうかわかりませんが、とにかく戦争で長い間苦しんだ国であることは確かです。レバノン、ベイルートを舞台にしたこの映画のことを「戦争のことを語らない初のレバノン映画」というひともいます。戦争をしているときは世界の前線であったレバノンが、戦争がないとただの国になってしまうとしたら・・・

 この映画には、既婚男性との不倫とか処女性とか、いかにもアラブ社会に生きる女性に関連して出てきそうなテーマがでてきます。それが本当に彼女たちの切実な関心なのだから仕方ないのですが、それはたとえば日本社会がそういうテーマにむける関心と質が違うのはいかんともしがたいです。

 年老いた仕立て屋女性ローズさん。お姉さんの介護はたしかに大事なことかもしれないけど、お姉さんは少しの間ひとりでいてもらっても支障のある状態では全くないのだから、ローズさんがほんの少し、自分が女であることを感じることのできる、罪のない、ささやかな時間をもつことをためらう必要はないように思えるのですが・・・ この映画を見る人は彼女に深く同情はしても、その同情をもっていく場所がない感じがするのです・・・

・・・と思ってたんですが、ラストシーンまできてそのもやもやした気持ちを「わ、かわいい!」という驚きが救ってしまいました。見てない方に悪いですからあまり詳しいことは申しませんが。
 「可愛さ」が映画全体をぎゅっと締めて統括し、諸々のテーマがわたしにとってさえ切実なものに思えた気がしたのです。

 主役も演じたナディーン・ラバキー監督としては案外なんの気なしに放ったラストシーンだったかもしれません。でも実に女性監督らしいこういうシーンが案外、「世界映画」が「ほんとうに」世界の観衆に共感され、愛されるような時代への突破口になっているのかもしれないなと思います。

 昔のパトリス・ルコントの佳作『髪結いの亭主』同様、人間の地肌の触れあう場、エステサロンを舞台にしたのは正解。タイトルの「キャラメル」というのはかの地ではキャラメルを脱毛に使うからです。

 屋号がSi Belleとなっていて看板のBの字がひっくり返っているのですが、「こんなに美しい」を意味するフランス語→Cybelleとの同音、『シベールの日曜日』、オリエントの異教の女神、フェニキアと、連想がつながっていくのも興が深いところです。

 将来、「世界映画」が本格的に姿を現すとき、この映画はきっとその成長の歴史のなかにささやかながら位置を占めることになる、と思います。


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