あずまんが大王


 『あずまんが大王』の「改訂版」が出てますね。
 
 第二巻『二年生』(↑)を買ってきました。第一巻は品切れで、近所に見当たりません。

 榊の描き直しがめだつ気がします。
 新しく描かれた榊の顔は、なんだかやんだに近くなってますね。

 たしかテレビで(ですけどネットに映像が載ってます)『よつばと!』の紹介があったとき、前作の『あずまんが大王』が批判されていて、特に榊の顔の描き方がやり玉にあげられていたと思います。
 作者のあずまきよひこ氏はこれに反発したのでしょうか。

 それはともかく。

 このまんが、『よつばと!』に劣らず完成度の高い作品だと思いますが、まずはでてくるキャラの名前が気になります。
 日本人の意識の古層につながっている感じですから。

 榊と神楽は、どっちも名前に「神」が入っていることからも、神事に関わりの深い名前であるのは一目瞭然。
 猫大好き人間ながら猫に嫌われるという悲しい運命の榊に唯一なつく猫は、南洋の島に残された古い種族であるイリオモテヤマネコのマヤーですし。

 滝野智(とも)というのは、那智の滝のアナグラムかしら? この滝は、これ自体が御神体で信仰の対象であることはご存知の通り。

 水原暦(こよみ)という名前からは、水時計と暦の創設ということで近江宮の天智天皇を連想します(こんなもん連想するの、わたしだけか?)。天智天皇の「智」の字つながりで、彼女とともが小学校からずっと同級という縁の深さがあることが正当化されているような。
 また彼女の通称「よみさん」て、どうしても日本古代の冥府、「黄泉」を連想しますね。このマンガ、よく見るとかなり「死」が出てきてますしね。 

 大阪の本名「春日歩」は、当然春日大社のある春日山を歩く意味でしょう。

 美浜ちよ、だけ由来がよくわかんないんですが・・・

 この本には複製原画プレゼントのちらしが入ってましたがその中の、六人が嬉々として海辺に殺到する図柄のやつで、スイカ割り用のバットを持って跳び上がっている日焼けした神楽を見て、一瞬アメノウズメノミコトのことを思いました・・・



 
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がばっとしか動かない


(↑は会場の早稲田大学の国際会議場です。さすがに立派な建物を持っておられますね)

 中等教育における多言語教育について、中等教育に詳しい方からいろいろご指摘をいただきました(まあ指摘されただけで、多言語教育自体に否定的ということではないと思います)。

○本人の負担感。現行の受験科目だけでしんどいのにその上に何かをやらされる話はパスしたい。
○保護者にとっては、もちろん評価に入らない科目ならそれは無駄という感じ。それに科目が増えて塾の値段が上がるのは困る。
○学校にとっては教員の確保が大変。外国人教員なら相手をするだけで大変。なによりも評価が問題。受験につながる科目にするならそれだけ評価基準作りがものすごく大変になる。
○教育委員会にとっても評価基準が問題。あと授業時間数が足らない、先生と保護者からのクレームへの対応の大変さが予想されて積極的になれない、など。

 大学勤めしているとほんとにこういう中等教育の現場に疎くて夢みたいなことを言いがちになってると思いますが、わたしにはこう思えます:

 教員は、いまフランス語教員免状をもっていて国語や英語の先生だけをやっている方はそれなりにいるので、そういう人が仕事の増加を受け入れてくれるなら、その辺から始めては? 何も一挙に堂々たる受験科目にしようという話ではないので(そんなことはできない)。いまフランス語教員免許を取る(もちろん国語、英語等の免許にプラスして、ということです)人はそれなりに増えているし、もしそれが教員採用の際考慮されるポイントになる、というようになれば・・・
 評価基準、絶対評価基準作りというのは確かに大変そうです。でもフランス語その他の言語で絶対にやるんだ、という意志を政府が持ち続けるなら、できないことはないのでは?  

 あと本人の負担感、保護者の負担感、時間増の困難等といったものは、日本の他の子たち、他の学校もみんな同じ条件にする、ということを政府が保証して、これまた強固な意志をもって実現を目指すなら、乗り越え可能のように思います。
 ただこちらは、少しづつ動かすというのは無理です。
 がばっとしか動かせないでしょう。

 「いくら自分の子供を英才教育して名門校に送って日本社会のトップに送ったところで、その日本自体が国として衰弱して見る影もない弱小国になってよその国の完全属国になっちゃってたら、子供も苦労するだけだ」

 「日本が西洋に対抗する経済大国でなんとなく東洋の代表みたいな気分でいれた時代と違って、中国や韓国と世界全域で競争しなければならない現代には、世界に味方を作る力、コミュニケーション力の育成がどうしても必要だ」

 そんな意識が日本の保護者たちにある程度いきわたったとき、
 そして、自分の子だけが負担が増えて不利になるということには絶対ならないと確信できたとき、

 多言語教育をめぐる状況ががばっと動く可能性はある、とわたしには思えるのです。

 明治のときだって「あかん、このままでは外国の植民地にされてまう」という認識を日本全体が共有したとき、がばっと事態は動いた、ということじゃないですか?

 ただこういうのは、がばっとしか動きようがないと思います。
 がばっと動くところまで持っていけなければ、ダメだということです。

 以上あほなこと言っていると思われましたら、ご指摘ください。
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日本で多言語教育が世論の支持を得るとき


 国際シンポジウム「東アジアとフランス」:東アジアの中等教育におけるフランス語―いかに21世紀の複言語能力を育てるか―(於早稲田大学国際会議場。7月26日)。
 名前も長いですが時間の方も長くて、朝の10時から夕方19時までというものでした。
 わたしは午後の3つのパネルディスカッションしか聞けませんでしたが、それだけでもなかなか意義があったと思います。

 聞けなかった午前のセッションのために台湾のぺイワPei-Whaさんがいらしてましたのでごあいさつだけしときました。内容はいずれ報告書に載るでしょうが、台湾では(でも)中等教育(つまり高校以下)のフランス語はこれからの存在、というようなお話だったそうです。

 午後最初のセッション(↑)には韓国、香港の先生方から現地の中等教育フランス語の現状についての報告もありました。
 どちらもかなりシビアな状況にあるのには違いないですが、肝心なのは、どこの国も日本よりは多言語教育に理解があるんじゃないかなあ、という印象を与えることです。
 というか、語学教育の意義というものが分かってる感じだと思うんです。

 このシンポ開催のために尽力された方々、多くのパネリストの方々に大変申し訳ないことながらわたしの興味に限定して書かせていただきますと、午後第二のセッションの、今高校の現場でフランス語を教えておられる先生方のお話が一番興味深く思いました。

 日本では受験というものがネックになって(これはぺイワさんが台湾の現状についても指摘されたようですが)、フランス語のようにあまり受験科目とみなされていないものは中等教育に組み込まれるには決定的にハンデを負っているわけです。

 フランス語で大学受験することはできなくはないですが(現にセンター試験の「外国語」をフランス語で受ける人はそこそこいます)、高校3年間で受験レベルまで持っていくには、たしかにかなり頑張らないといけないです(もっともフランス語を始めた生徒でも受験レベル到達は無理と思った時点でいつでも英語受験に戻れる形をとっている高校もあるので、工夫のしようはありますが)。

 最初から受験科目をめざさないフランス語というと、どうしても肩身が狭い。
 高校でのフランス語既習者が大学に入学しても、一年生からフランス語中級クラスに行ってもらったりという対応ぐらいでは、学生さんにとってはそんなにありがたいという感じではないかもしれませんしね。

 そして高校の先生方、そして保護者たちは、生徒たちが受験に関係しない営みに時間と労力を費やすことにどうしても不安を覚えるわけです。これは当然のことですね。

 高校によってはフランス語などの第二外国語をある程度必修化しているところもあるわけですが、学生自身としても「どうして自分の学校だけ第二外国語をやらないといけないか」という思いにとらわれるのも仕方のないところです。

 この日聞いたお話全体を通じて思ったのは、そういう意識を変えるきっかけとして一番有効なものは、交換留学(日仏の高校レベルではColibriという制度があります)で日本にやってくる外国の高校生の存在そのものじゃないか、ということです。

 たとえばフランスの子たちが実際にやってきて、ホームステイし、教室の中に迎え入れられると、彼らがだいたい英語以外にスペイン語とか、日本語とか、第二、第三の言語を楽しげに勉強しているという現実を目の当たりにすることになります。

 それに接した生徒、学校関係者、そして生徒の保護者たちは多かれ少なかれ多言語教育への理解をもつことになると思います。つまり「これだけいろいろ言語をやっている人間を作っておけば、英語を介さない、直の友好的関係がいろんな国、地域の人とネットワーク的に結べることになる。こっちが相手の文化に直に興味をもっていることを身をもって示していることになるからだ。日本の中等教育で英語しかやってないのでは、世界における友達の輪を限定することになって、将来的にかなりやばいんではないか」という気持ちが自然な反応として起こるようになると思うのです。
 まさにこの日のご報告ではそういうお話がでていました。

 このような「日本には受験というものがあるわけでなかなか難しいけど、やっぱり言語教育が英語オンリーでは、日本国の将来的にちょっとやばいんではないか」という思いが日本社会である程度の広がりをもったとき、案外状況がガバッと動く可能性はあるように思います。

 この日はフランス語関係の催しではありますが、関東国際高等学校の黒澤先生から中等教育の韓国語教育のお立場からお話をいただきました。韓国ではのべ80万人の中・高校生が日本語を履修しているのに、日本ではわずか9000人しか韓国語を履修していないというのでは健全な形の国際交流があるとは言えない、と趣旨のことを言われたと思います。まったくその通りだと思います。
 そして、まさにそういう自然な印象がヨーロッパにおける欧州評議会の言語政策の基にあるのだと思います。

 だけど、それでも日本とアルジェリアが未来永劫知らない同士であっていいわけはないですから(だって今やグローバル化の時代なのですから)、使われている地域は地理的に遠くても、やっぱり日本でアラブ語やフランス語もやらないといけないとわたしは思うわけですよ。

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女性のパワー(2)


 さて、女性のパワーというと、Fortune500が2008年度のもっとも力のある(puissanteな)女性(世界9位、ヨーロッパ3位、フランスで1位)としたAnne Lauvergeonを思い出します。

 原子力産業大手、仏Arevaの総帥です。

 上は、Jeune Afriqueのコンゴの原子力ビジネスを報じた号の表紙で、カビラ大統領の後にある写真がアンヌ・ローヴェルジョンです。さすがにやり手そうな顔してるでしょう?(あ、小さくてよく見えませんね) でもForbesの2007年度"100 Most Powerful Women"のこの写真ではもっと親しみやすい感じですね。

 彼女がどんな人柄の人かは全然知りません。
 ただはっきりしているのは、彼女は有能だ、ということです。

 彼女はWikipediaで見る限り、物理を専攻してエコル・ノルマル出てますが、特に外国でお金のかかる教育を受けたということはなさそうです。基本的にフランス国内で、フランス国が与えた教育と、あとは実地の体験によって有能な人材に育った人なのでしょう。
 そしていま、きれいごとだけですむはずのない世界で、フランスの国益のために大企業の舵をとっているわけです。

 わたしは、フェルメールのレース編み女性の使っているエネルギーはアンヌ・ローヴェルジョンがAREVAを牽引するエネルギーと、ひょっとしたらさして変わらないものかもしれない、と思ってしまいます。

 フランスは6000万国民の半数を占める女性の中から有能な人を育て、国のために尽くしてもらえるシステムを作っているわけです。フランスはそれでもまだ欧州でも女性の進出が少ない方の国だと言われているのですが。

 そして日本では、女性はばんばん働いてますが、ローヴェルジョン氏ほどのパワーのある人物は見当たらないように思います。それに日本は教育にお金がかかる。

 さらに、イスラム教国だと、お金持ちの良家の女性でない一般家庭に生まれた女性が、国内の教育システムだけで有能な人材に育ってそれを活かせるポジションにつけるかというと、ちょっと難しいのではと思えてしまいます。
 たとえば3000万アルジェリア国民の中の半数を占める女性のパワーがフルに生かされているかというと、うーん残念ながらちょっとそれは、と感じるわけです。

 ちなみにローヴェルジョン氏はオルレアンのヴォルテール高校を出てますね。地元では名門なんでしょうか?  このあたり9月に研修同行でオルレアン行きますから、余裕があれば様子を見てきたいです。

 ちなみにちなみにコンゴ(フランス語国です)の原子力ビジネスの実態、みたいな話は英語情報ではどのくらい詳しいのがとれるんでしょうかね?
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女性のパワー(1)


(前のエントリーに続きます)

 それで、今回のルーヴル展の目玉のひとつがフェルメールの『レースを編む女』なんですが、例によって本物が目の前にあるからといって、巷に氾濫する複製から受けるもの以上のものを受け取るのは至難の業です。だいいち展覧会って人がたくさんいるから、有名な絵にはなかなか近付けないし。(本家ルーヴルの『モナリザ』についてのエントリーもご覧になってください)

 会場の解説パネルには、レース編みというのは複雑で集中力を必要とし、フェルメールの時代では未婚女性や主婦がよこしまなことに気を向けないために有効ということで推奨された、というような趣旨のことが書いてありました。
 だいたいフェルメールにはこういう集中力を見せる女性の絵が多いんですね。
 そしてそれはたしかに非常にうまく表現されてます。

 しかし一方この集中力って、ずいぶんつまんないものに向けられていたという気がしますね。

 この日は、京都市立美術館の前の京都国立近代美術館でやっていた「京都学 前衛都市・モダニズムの京都 1895-1930」というのもざっと見てみました。
 ルーヴル展とこっちと二つを通じて一番印象に残ったのは、浅井忠(ちゅう)の陶器図案だったです。これが一番、現代を感じさせました。

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ルーヴルの使用法


 京都市美術館でルーヴル展(9月27日まで)やってます。

 こういうの、いい商売です。いくつか目玉になる絵さえあれば、あとはそれを倉庫にうざうざたくさんある絵に混ぜて適当に送っておけば、日本でずいぶんたくさんお客が入ってお金を払ってくれるわけで。
 しかしフランスにとって文化商売はなくてはならない商売であるともいえます。何度も書いている気がしますが、経済力、軍事力では世界の第一とは絶対ならないフランスが、世界内で非常に大きな顔をしているのは、文化、芸術をうまく使っているからです。

 とにかくこういう商売の規模の大きいやつが、フランスがアブダビに作る例のルーヴル分館というわけですね。

 このルーヴルの話が、5月にフランスがアブダビにこの地域最初のフランス軍基地をおかせてもらったことと全然無関係だとは、わたしには思えないです。(たとえばこれとかこれをご覧ください)

 ちなみにルーヴル・アブダビの概要については、いまフランス語演習で扱ってます。こういうものこそ、今授業で扱うべきだと思いましたので。

 フランスは世界の文化の創造者、永遠の文化保護者というわけでも、世界政治における永遠の正義の味方というわけでもないです。
 ただフランスが文化大国の美名のもとに悪行の限りをつくす偽善大国であるとしてことさらに嫌おうとするのも、やっぱり間違いだと思います。

 21世紀のフランス文化研究は、偏りのない冷静な態度で行うべきものだと思います。

 そしてそのようにやる方が、ぜったい面白いです。

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芸術の意味。言語エリート。

 過酷に忙しいことしの前期授業もあと少しにはなりましたが、最後がまたシビアに忙しいです。その間にちょっとだけ京都に帰らないといけない用事もありまして。

 でもある方から「芸術ってもともとどういう意味だったんですか」という質問を受けたりしたので、ちょっと考えました。
 なんか難しくてポイントの定まらない変な文章になりそうですけど、まあご寛恕ください。

 小学館『日本国語大辞典』第二版――わたしが「こんな高価で紙媒体のかさばる本を私費で買うのはこれが生涯最後だろうな」と思って買った本――の「芸術」の項を見れば、この言葉自体は『続日本紀』にも見える言葉ながら現在の用法は、明治のころに英語(フランス語)の artの訳語として使われるようになったことがもとになっている、というわけですね。よくあるケースです。
 『日本国語大辞典』の現義の文例の冒頭には『和英語林集成』(再版、1872)、福沢諭吉『通俗国権論』(1878-79)からのものがあげてあります。

 ・・・話はそれますが、こういう「この言葉は西洋語の○○の訳語として」みたいな言い方は、やっぱり教養主義の好きな言葉使いのように思います。
 勉強しないと得られないこの種の歴史遡り型知識、タテ型知識には、さらにartが――教養主義が偏愛する――ラテン語のarsに由来しているという知識が付け加わります。
 Ars自体には、今日からみて異様に見える意味はわたしがちょっと調べた限りはないみたいで、結局「術」とか「手段」とかいう日本語でだいたい了解できると考えていいように思います。
 
 ・・・さらに話がそれますが、そういうラテン語とか古典ギリシャ語とかが跳梁跋扈する世界こそ、前のエントリーで触れた欧州評議会的言語教育思想が背を向けるもののはずだと思います。
 ・・・ただ、わたしの理解が足りないのでなければ、どこかにからくりがあるに違いないと思うのです。
 というのは欧州のどの国も、自国の国語、最優勢言語の研ぎ澄まされた高度な使用法を身につけ、それによって新たな言説をつむぎ出していける言語的エリートを形成することを止める、とはとうてい思えないからです。
 そして特にフランス語のようなことばの場合、ラテン語の知識のない使い手で知的世界が覆い尽くされる日がくるとは考えにくいように思います。
 
 なにしろベルチエ先生たちの前任者をさかのぼっていくと、アベラールまでいってしまうのです。21世紀の教育関係者がいくら躍起になってもソルボンヌの権威はびくともしないでしょう。ならばフランスの知的伝統、フランス語エリート形成の伝統というのは存続してしまうと思うのですが・・・

 それはともかく。
 「芸術」のような訳語起源の言葉というのはもちろん、西洋語の語源を云々するだけでは日本語の中での実際の使用の正しい理解には至りません。
 日本、あるいは東洋に昔からある意味や、組み合わせた漢字の字面、そして日本語の文脈の中で背負わされた思い入れが、西洋語の該当する「元の言葉」の意味の理解度とあいまって、実に複雑な様相を呈していると思います。
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日本におけるフランス語とドイツ語


このエントリーに続きます)

 西山さんとの議論(というほど長いものではなかったですし、これまでもちょこちょこと話題には出ていたのですが)はおおざっぱに言って、「欧州評議会の言語政策はいろんな意味で非常に重要なものだが、ヨーロッパ内、近隣諸国の相互理解を目指して構想されているものなので、これにのっとるなら、たとえば日本からフランス語やドイツ語を勉強するモチベーションを高めるような方向性はでてこないのではないか」ということなんですね。

 ↑は有名な『外国語の学習、教授、評価のためのヨーロッパ共通参照枠』の日本語版です。欧州評議会の言語政策のひとつの到達点を示すものと言えます。
 それがよってたつ思想を吟味していくと、相当に射程の遠いものだと思えてきます。

 たとえばそこでは、外国語学習の目標はその言語のネイティブスピーカーと同じように話したり書いたりすること・・・ではない、と考えられているわけですが、こういう考え方をつきつめるなら、結局は日本的な教養主義志向への(最後の?)打撃となるようにわたしには思われます。
 そしてそれは越境と混交、グローバリゼーションの21世紀の世界の現状からして不可避のことであり、欧州評議会はその動きに理論的表現を与えているのだと思います。

 ただ、その理論化が日本のフランス語教育の振興に寄与しないというのなら、わたしには納得いかないです。それは単に、まだヨーロッパがヨーロッパに関わることを扱うだけで精一杯な段階であることを示すにすぎないと思います。
 これは別に、わたしがフランス語系人だから、という身びいきの感情から出た考えではないと思います。

 この議論についてはまた折に触れて、いろんな角度から考えてみたいと思ってます。
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2005年の暴動・・・は遠くなりにけり


 きのう、例のライ・ゼミでフォーデル紹介とともに2005年の暴動のことを扱いました。討論してもらって、いろんな意見を紙に書いてもらいました。

 フォーデルが移民系アイドルとして人気の頂点にあり、ジャンルとしてのライも最大の支持を集めていた1998年と、その反動が爆発した2005年との対照は、1990年代のアルジェリア危機の紹介とともにこの授業のポイントです。

 あの「暴動」に関する考察はこのエントリー以後、わたしもずいぶんたくさん書いてますが、日本の大学一年生はこの事件のことをほとんど知らないんですね。彼等はまだ中学生だったわけですからテレビで見ても意味は分からなかっただろうし無理もないです。

 もうあれも歴史の一ページなんですね。

 ただ歴史の一ページではあるけれど、教科書で勉強してそれで終わりという歴史ではないですね。だいたい「世界史」を選択していたってこんな現代に近い事件まで触れられるとは思えない。それじゃ、なんの時間に教えられることになるんでしょう?・・・
 いまもフランスには問題は厳然と残っているし、この事件の背景にある「移民」現象全体を視野に入れるなら、日本も無関係どころの話ではない大事な大事な話なのですけど。

 彼らにとっては、あの"racaille"発言で暴動に火をつけたサルコジ内相がすんなり大統領に就任してしまっているのが奇異に感じられるようです。

 もちろんサルコジを非難する意見は多かったのですが:

 「サルコジさんみたく失言した後も(本人は失言とは思ってないですけど。粕谷注)強気でガツガツつっかかっていくような頑固な人は日本の政治家にはなかなかいない。そういう人がいた方が今の日本のgdgdな(原文のママ)政治よりましになると思う。
 逆に政治家の失言に反応する行動力も日本人に必要だと思う。もちろん暴動までやるのはやりすぎだとは思うけど、「その発言は間違っている」という意思表示をはっきりさせることも、今の日本人にはないものだと思った。」

 というのがありました。うむむ。言えてる。
 
 ところで日本もやっと選挙ですね。予定日はわたしの誕生日です。でも、なんかだるいですね。
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金澤巴里祭 番外編


 おはなしがあっちいったりこっちいったりですみません。
 こんどは金澤巴里祭の打ち上げのお話です。

 場所は金沢某所、隠れ家スポット「T」。高台から見える素晴らしい夜景をバックに田ノ岡さんのフレンチ・アコーディオンを聞くことができました。
 まあ当然ではありますが、演奏家も聴衆もリラックスして音楽を楽しむことができたと思います

 上の写真で、永瀧さんとTのママさんの左にアコーディオンを持った田ノ岡さんがおられるんですが、残念ながらほとんど見えないですね・・・
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