ハレドのニューアルバム

(前のエントリーから続きます)

 この番組でも話題にあがっていた「ライの王様」ハレドKhaledですが、3月30日にニューアルバムLiberteを出すんですね。
 彼の公式サイトにはたいした情報はまだ載ってませんが(たぶんこのとき録音されたものでしょう)、すでに収録曲が聞けるサイトもあるようです。
 なつえさん、情報ありがとうございました!

 それじゃアルジェリア行ってきます。3月9日に日本に帰る予定です。
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「テレビでフランス語」にライが


 この前の水曜夜、NHK教育テレビ「テレビでフランス語」で、数分ライが話題になったそうです。
 そういう予定は聞いてませんでしたが・・・

 28日土曜日の朝6時から再放送がありますから、見てみましょう。

 中村さん、情報ありがとうございました。

[追記] これはちょうど3年昔の番組の再放送でした。そのときのコメントがここにあります。ちょっと誤解のあるライ解説だったわけです。

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モダンアート


 「Light InSight ライト・[イン]サイト 拡張する光、変容する知覚」(於東京・新宿・NTTインターコミュニケーションセンター、2月28日まで)。

 突然ですが、モダンアートの成立というのはわたしにとってはこういうことになります:

 マルセル・デュシャン(裕福とは言っても公証人の息子で兄弟も何人もいたのだから、これだけいい教育が受けられるというのは20世紀初頭のフランスは豊かだったと言えるのでは)というきわめて変わった男が、テレピン油はもうたくさんだとかなんとか言いながら腰掛の上に自転車の車輪を置いたものが「アート」でありうる、という発想を得て(こんな「アホな」ことフランス人しか考えつかないし、またそれをおおまじめに人に言ったりしないのでは)、ただの小便器を展覧会に出品するなどという破廉恥なことをやったところが、アメリカ人たち(彼等は独立戦争のときに助けてくれたということで(本当は文化的伝統への羨望だと思うけど)フランス人には一定の敬意を払う)がこの、『階段を降りる裸体』という、キュビスムなんたらという難しげな試みにのっとってはいるけれどある意味で分かりやすい絵(そう、階段を降りる裸体が描いてあるのは明白だから)を描いているからそこそこの画家であるのは疑いない男が妙なことをやりだしたというので面白がってはやし立てたおかげで、すでにアメリカは世界の中心だったから世界的に「アート」とはそういうものだ、ということになっちゃった。

 さてこの展覧会?は光というお題でいろいろ出品されているわけで、まあなかなか面白いですよ。

 でもそろそろわたしには、この作品は触ってはだめです、こっちの作品はここまで触っていいです、枠の中に入って「自由に」参加してください、でもここから先はだめです云々が、なんだか不条理に思えてきました。
 それから会場案内の方々は、みんなやっぱり多かれ少なかれアートに関わる学生や業種の人たちのように思うんですが、この人たちの対応がファミレスの従業員みたいにマニュアル化されているみたいなのにも違和感を感じるようになってきました。

 デュシャンが今の世に現れたらメタ展覧会みたいなものを構想しないかな・・・

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大統領選挙


 アルジェリア大使館にビザを取りに行きました。

 間近に迫った大統領選のポスターが貼ってありました。

 事実上、現職ブーテフリカ大統領が高齢をおして、憲法改正してまでめざす三選を国民がどの程度認めるか、という選挙です。

 こういうのはよくあるケースで、そのたびに独裁政権という言葉が外国人の頭に浮かびますが、アルジェリアの現在の国情、ある程度経済発展の軌道に乗るところまでいかないと話が始まらないこと、代われる人がいないことを考えると、ここはどうしてもブーテフリカさんに頼るのも仕方ないところがあると思います。

 アルジェリア国民の選択を見守りたいと思います。
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アルジェリア行ってきます


 28日からアルジェリアに行きます。
 オランで『ライの冒険』の著者ハジ・ミリアニさんと会ってきます。モスタガネム大学の学生に金沢大の話をしてきます。

 遠い旅に出る前はいつもユウウツです(今回はユウウツが始まるのが早いですが)。
出発前にすべての仕事をこなさないといけないと思って、一生懸命働くのと気があせるのとで睡眠がむちゃくちゃになって、頭が重くなります。
 それで疲労困憊で飛行機にころがり込んで、眠れるかというと、どういうわけか全然眠れなかったりするんですよね。ああなんという人生だ・・・

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ガチンコの力は人間力だ


このエントリーを参照してください。

 バルトさん自身はご存知の通り『作者の死』なんて文章を書いている、作者消去の親玉ですから、バルトという「人」について書いている人たちにはみな、なにかしら後ろめたい、引いたようなところがどこかにあります。

 でも、ハスニさんと同じように、バルトさんやフーコーさんたちにちゃんと人間としてのガチンコの力があるからこそ、彼らの「人間の死」思想に納得させられるのですね。
 なんともひっくり返った、ねじれた話ですが。

 今年の「文学概論」は、彼らのガチンコの人間力に思いきり頼ってみたのです。
 授業としてうまくいったかどうかは分かりません。受講生の判断することです。

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ラジオに出ます

 少し先の話ですが、4月2日(木)午前10時15分から一時間、ラジオに出演することになりました。
 金沢の誇るレコード店「レコードジャングル」の中村さんが持っておられる番組「あいうえ音楽ファイル」のゲストです。

 「アラブ音楽」特集ということでお招きいただきました。

 この番組は石川県のコミュニティFM局「えふえむエヌワン」の放送ですが、この局はインターネット放送をしてますので世界中どなたでも聞くことができます。
 上記のページの上の方にある「FM-N1をWebで聴く!」というところから入って、えふえむエヌワンのところをクリックしてください。

 期日が近づきましたらまた詳細をお伝えいたしますが、やっぱり最新の本場アルジェリアのライのヒット曲を多めにしたいですね。乞ご期待です。

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ICT


 今日は大学のICTセミナーでした。

 ICTを大学の教育だけでなく教室管理、学生、教員管理その他もろもろに使っていく、使っていかなければならないという時代です(結局どんどん「人間」が希薄な時代になりますね。フーコーは正しかった――これは別に社会が「非人間的」な悪い世界になっていく、という意味ではないですから念のため。近代的な人間概念が消えていく、ということですね)。

 「文学概論」なんてのには、ITは伝達以外になんか使える余地ありますかね? 
 でもITなんか文学には要らんと言いきっちゃうと、長い目で見たとき文学がますます相対的に存在感を薄くすることにつながるとわたしは考えます。文学もどこかでITにかんでおかないと(ところでITとICTはどうちがうのかな?)。

 ところで語学の方ですが、こちらはわたしも相当フランス語練習問題を自作して大学のポータルにアップしてます。
 でもね、こっちの不満は「これは万人のものでしょう?」といいたくなる、ということですね。
 ひとつのクラスで特定の課題をこなすためにクラス単位にくぎったウェブ利用形態をとるというのは分かりますが、フランス語なんてのは世界中どこでやってもたいして変わらないもののはず。わたしの作った練習問題は世界の学習者に使ってほしいですし、使われるべきものです。
 だけど、大学という枠は厳然として存在しているので、どんな優れたシステムを作ってもその枠を出ることはない、みたいな感じで話がすすむわけですね。「うち(の大学)では」「おたく(の大学)では」・・・

 もったいない。
 というか、ITの本質に反することをやっている気がします。
 インターネットは本質的にアナーキーなものです。

 わたしの練習問題も、ランダムさえ発生できれば外のシステムでも稼動させられるんですけど。
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ウィキペディア


 ちょっと必要があって、14年前に作った自分のノートを出してみました。「静寂主義」(17世紀にはやったキリスト教の一傾向)についてのものです。
 でも念のためこの項目を日仏英ウィキペディアで引いてみたら、なんだか暗然としちゃいました。

 ウィキペディアの方が詳しいし、内容も正確なんです(その正確さを確認するために労力がいったわけですが)。
 わたしがノートを作ったときに参照したのもそんなに権威のない文献じゃなかったと思うのですが。あの労力はなんだったなんだろう?

 理論的に言うと、ウィキペディアがどんどん増殖して精密になって完璧の域に達して、情報更新の態勢も確立したあかつきには、大学で「教える」「こと」ってなくなるのでしょうか。ウィキペディアは学生さんにも完全に開かれた情報なのですから。
 
 今でさえ、とくに専門家になる気もない分野の知識については学生さんにはウィキペディアをプリントして渡してしまってどこが悪い、という気にもなってきますね(問題は情報の正確さの確認ですが・・・)。
 それから自分も知識を自分の頭に入れてストックしておく労がだんだんめんどくさくなってしまいますね。  
 でもそうなったときにウィキペディアに誰かがあやしい情報を忍び込ませてもなかなか気づかれなくなる、というか、自信をもってウィキペディアが間違っていると言いうる知性がそのうち根絶させられるかも・・・ 
 ただ、現代にもっと関わりの深い項目なら権力者による書き換えとかも警戒されますが、もう何百年も前に決着のついてしまっている話だとそこまで心配することもないことになるのかな。

 あ、スタンダールの項目に関しては、私の目からもウィキペディアはまだまだ不十分だと思います。よかったよかった(なにが?←ここにもまた大問題があります)。
 静寂主義の項目も、専門家から見たらたいしたことないんでしょうかね。

 ウィキペディアあるいはその発展形が「知」というものに迫るラジカルな変更にはいろんな面があると思います。
 「権力」と「知」との結び付きということにたいして肥大したウィキペディア的なものがもたらす影響について、フーコーならなんて言ったでしょうね・・・

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歌がうまい!


 アルジェリアで出ているこんなコンピ↑を人からいただきました。
 「ライのカリスマ歌手」亡きハスニのヒット曲を今のトップ歌手たちがカバーしたものです。

 Najim, Mohamed Lamine, Anouar, Hicham, Bouarfa, Reda, Hasni Sghir, Houari Manar, Otman, Abbes, みんなうまいです。抜群にうまい。
 ハラスKhalassがいつになく重みのある歌い方ですごくいいし、ヘーラKheiraもすごいモダンなかっこよさをみせてます。
 ただひとりポップ=ライ第一世代から参加のヒンディHindi(もっともマズージMazouziも同じくらいの歳かもしれません、よくわかりませんが)も充実してます。彼は数年前に、もうそろそろやめたい、とかボヤいてたんですけどね。

 ところで、中でもいちばん光っているのはライヤンRayanですね。
 だって、まるでハスニその人が生き返ったかと耳を疑うほど似てるんですもん。ハスニのシャウト、節回しの絶妙さ、そのまま再現してます。
 そして(だから)、うまい。

 だからでしょう、Baida mon amour、Tal ghiabek、El Visaと、ハスニの名曲中の名曲3曲がライヤンにゆだねられています。
 自分のナンバーを歌っているときには気がつきませんでしたが、おそらく彼はハスニに酷似した歌い方ができるところが受けて名をあげたんでしょう。
 ファデラがこのアルバムでライヤンをデュオのパートナーとして選んだのもむべなるかな、という感じですね。

 このCDはアルジェリアでそのへんに売ってる、なんてことない、ただのCDです。
 それがこれほどわたしの心にビンビンに響いてくるというのは、アレンジとか録音とかがハスニの時代よりよくなっていることはたしかにありますが、とにかく明らかに歌手たちがハスニの曲の魂に触発されて、実力以上のうまさを引き出されたからに違いない、という感じがします。

 これって、ハスニの人間的力だと思います。
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