日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
嫌弗嫌佛
嫌弗嫌佛
mot de sagesse de Lucy Van Pelt In all of mankind's history, there has never been more damage done than by people who "thought they were doing the right thing".
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いま必要なこと 1.女性への配慮
Ben, à mon avis, le Japon ne doit plus être si machiste institutionnellement après la crise coronavirus, comme avant. N'oubions pas que la culture proprement japonaise a été inaugurée par les femmes intellectuelles comme Sei Shonagon ou Murasaki Shikibu (Lady Murasaki)...
わたくしが最近変なことを言っておりますのは、要するに「まず」これです。800年くらい前に北条氏が権力を握って以来、日本の指導層は女性の力を低くみようとする「武」のひとたちがやってきたんだけど、いまや女性の力を生かさなければ日本社会はにっちもさっちもいかないところまできたのではないでしょうか。ただ現指導者層の政治家のひとたちのバックにはたぶん非常に男性優位的傾向のひとたち、団体が控えていて、たぶんそのひとたち、それら団体の構成員は平均年齢が高くて、自分たちが消えてしまう前に女性を押し返さないと「日本」自体が潰れると信じておられるのだと思いますよ。安倍首相の振る舞いはそういうひとたちの考え方についのってしまっているもの、なんではないですか。あとはネットの発達と若者の徹底した平和志向ですね。アルジェリアの日本ファンの方々、よく見ておいてくださいね。
この記事、すぐ消えちゃうかもしれませんが。
これ
わたくしが最近変なことを言っておりますのは、要するに「まず」これです。800年くらい前に北条氏が権力を握って以来、日本の指導層は女性の力を低くみようとする「武」のひとたちがやってきたんだけど、いまや女性の力を生かさなければ日本社会はにっちもさっちもいかないところまできたのではないでしょうか。ただ現指導者層の政治家のひとたちのバックにはたぶん非常に男性優位的傾向のひとたち、団体が控えていて、たぶんそのひとたち、それら団体の構成員は平均年齢が高くて、自分たちが消えてしまう前に女性を押し返さないと「日本」自体が潰れると信じておられるのだと思いますよ。安倍首相の振る舞いはそういうひとたちの考え方についのってしまっているもの、なんではないですか。あとはネットの発達と若者の徹底した平和志向ですね。アルジェリアの日本ファンの方々、よく見ておいてくださいね。
この記事、すぐ消えちゃうかもしれませんが。
これ
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Direction de notre préfet 谷本石川県知事の方針
M. Tanimoto, préfet de Ishikawa, déclara, le 20 mars, la levée de demande officielle d'annulation des manifestations organisées au niveau préfectoral, dès le 1er avril, sous quelques conditions. Il est à remarquer la prolongation en principe de demande d'annulation ou de report des manifestations dont la plupart des participants sont des personnes agées, les plus exposées à l'aggravation en cas de contamination des covid-19.
現在日本で、この文脈で使われている「自粛」とか「要請」とかを英語やフランス語でどう訳したらいいか、これは非常に難しいと思うのですが、こういう無力感は結局のところ恥ずかしいと思うべきことではないかもしれません。とにかくこういう言葉の使い方で社会が回っているので・・・ わたしだったらフランス語には上のようにします。これでも完璧には程遠い感じがします・・・ 「へたくそ、こういうときはこう言うんだ」と教えてくださる方は歓迎いたします。だって、日本の外にいるフランス語話者の友人たちに日本で起こっていることを正確に伝えたいじゃないですか。そもそも伝達が可能なことならば。
専門者会議からは「全国一律の自粛要請はせず、地域の感染状況に応じて主催者が判断してほしい」という話なので、谷本知事は別に国に逆らっているわけでもないはずです。ただわたくしとしては「新型コロナウィルス感染症対策本部会議・本部長」という立場で知事が発した「方針」の中で「感染すると重症化しやすい高齢者が中心となる催しについては原則、中止または延期とする」(『北國新聞』2020.3.21)というのは、かなりつっこんでいて注目に値するように思えるんですが、他国の方、他県の方、いかがでしょう?
知事さんは「自粛による副作用で地域経済が奈落の底に落ちていくようだ」(同)ということも言っておられますから、結局経済第一主義ですか、という声も出るかもしれません。でもわたくしとしては知事さんの言葉の下には「文化権」「文化に対する権利」le droit pour la cultureみたいなものがある、と思うのです。文化というものについて人間はひとりひとり、「作り」「享受する」権利とともに「伝える」権利も持っているんじゃないか、ということです。
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紙媒体の本、雑誌を残すことについて(再改稿)
そろそろわたくしも退職に向けて大学の研究室の整理を考える年頃ですが、今の時代には紙媒体の書籍というものの価値がとてつもなく下落しています。単純に考えれば、捨ててしまうのがいちばん合理的です。
稀覯本を買う趣味のないわたくしの持っている本などは、日本のどこかの大学に所蔵があるはずで、要るときにはそれを借り出して――ありがたいことに図書館相互貸借・複写システムというのも急激に充実しました――必要部分をコピーすればよいのです。「持つ」「所有する」必要はありません。「持つ」ことをすればそれだけ場所をとるわけで厄介です。
そういう時代になっています。
でも、わたくしのように「大学」周辺にいる人間は、何かもう少し考えるべきではないか、という引っかかりがあります。
わたくしの世代は修士論文をタイプライターで打った最後の世代でした。これまで数百年、基本的に変わらなかった「研究」と「発信」のあり方が根本から変わるのを、またその変わり方がどんどん加速して止まる気配がないのを、見てきました。
そういう意味では、数ならぬ身ながら以下のようなことを言い出すのにはふさわしい世代の者であるかもしれません。
***
つい「最近」まで「研究」にいちばん大切だった紙媒体の「本」「書籍」というものは、「大学」周辺にいる者にとって、「大学」という制度との関わりにおいて、自分の退職後、死後にどのように扱われるように配慮すべきでしょうか。
何も考えずに放置しておいて玉石混交で全部あとの人たちに処分される、捨てられる、ということを甘受する、というのがいちばん合理的で面倒がない、でしょう。ただそこでいつも頭をよぎるのは、たとえ全ての本の内容がデジタル化されてネット上に存在するようになってもこの日本列島の上に万人が使える状態にある「もの」としての本が一冊もなくなったら、やっぱりまずいだろう、と思わせる著作がたしかにある、ということです。「長い間には、何があるか分からない」のですから、完全滅失の回避は常に考えておくべきことだと思われます。
日本語の本ならともかく、外国語の本であれば日本になくても「本国」――「フランス本」でいえばフランス(「英語本」は別として・・・)――にあればいいではないかという考え方は、しないほうがいいと思われます。日本語使用地域に紙媒体の本、「もの」があるということは、これに関心をもったフランス語使用者で日本語使用者である人が確かにいたというしるし、あかしであり、それは意味のあることだと思われるからです。これだけではまだまだ根拠薄弱ですが。
たとえば、現時点でCiNiiで検索してみて三冊以上、地理的にある程度分散して公的図書館に所蔵があれば、これは決然と捨てることにして、それ以下なら手持ちの一部を大学に寄贈しよう――寄贈を受けてもらえればの話ですが――と、こころに決める、というスタンスがありえます。それでも本を捨てるのは嫌だという心の叫びはどうしても出てきますが(何かのジャンルでまとまったものは特別コレクション的にどこかにかためて保存してもらう道もかんがえられなくはないです(個人的なところで申し上げるなら、松原雅典先生とわたくしと二人スタンダール研究者が出たおかげで金沢大学にはスタンダール関係書籍がかなりまとまってある、ということは利用できます。紙媒体書籍を物理的に「まとまって」存在させるということから当該作家が残されるべきものとして周知され、フォーカルポイントのような機能が発生するのを狙うということは考えられます)。
「図書館が引き取ってくれるならありがたいことで、どんどん引き取ってもらえばいいではないですか」という考え方もありますが、それは日本列島全体からみて「死蔵」が多くなるのではという心配を生みます。新しい、喫緊の問題・課題を扱った書籍を入れにくく、また見えにくくしてしまうことは避けた方がいいです。これについて、次に考えます。
補足:音素材についての私見・私的思いを申しますと:わたくし所蔵の、いとしのライのCD、カセット、ビデオ等の音源群は、わたくしの死後どうなるようにしておくのが「よい」のか。こんなものはどこの機関も引き取ってはくれないでしょう。ただこの問題は実際に処理が必要になる時期が不定で、あるいは大学退職より何年もあとになるかもしれないので、もう少し音楽受容・保存形態がどうなっているかを見てもいいだろう、なにしろ音楽伝播の方もSP, LP, CD, カセット, ダウンロード, vinylなどなど、一人の人間の生命のスパンの間に根本的変更が何度もなされたからには・・・というようなことを考えて、自分の死のことはあんまり考えないようにしてしまうのは、やっぱり人間の本能的ミブリかもしれません。
***
知の領域、関心領域、需要のある領域もどんどん広がって、変わっていきます。それに伴って、読まれるに値する紙媒体の本、定期刊行物も変わっていくので、喫緊の問題・課題を扱った紙媒体書籍をだれでもが使える形にして、また見えやすい形にして後世に資するようにしておきたいではないですか。
今関心の中心を外れている領域の本が公的な書架の前面にあり続け、また定期刊行物がかなり惰性的に買い続けられ、書庫を埋めていくというのは、それ自体ほんとうに悪いことかどうかは分かりませんが、それによって新しい関心が人の、とくに若い人の視野に入ってくるのを妨げかねない状態というのはいかがなものか、と思われます。事情を知らない人に、意味のない本を買いつづけているのではないか、という疑問をもたれてしまうのは、避けた方がよいでしょう。
そこで、こんなことも考えられるかと思います:
①広い分野の重要と認められる単行本(新刊かどうかを問わず)が、もれないように、不必要に重複しすぎないようにして公共図書館に所蔵されるように、公費を使って購入したり、私費購入したものを寄贈したりする意志のあるひとが率先して連携をこころがけてはいかがでしょうか。
②広い分野の重要と認められる定期刊行物が、もれないように(少なくとも二、三箇所で定期購読されるように)、不必要に重複し過ぎないようにして公共図書館に所蔵されるように、公費を使って購入したり、私費購入したものを定期的に寄贈したりするつてのあるひとが率先して連携をこころがけてはいかがでしょうか。
③これまで日本の知的営みの中で馴染みのなかった領域を扱う定期刊行物がひとびとに可視的であるように、そのような領域の存在を意識したことのない人の視野に入るように、紙媒体のものが公共の図書館の開架図書として存在し、手にとって読める状態におかれるよう関係機関にはたらきかけてはいかがでしょうか。
という三点です。
②について私的に補足しますと、わたくしの念頭にあるのはAfriculturesとかMigrations-sociétéとかBanipalとかの定期刊行物です。
Africulturesの紙媒体は、Ciniiで出てくるものとしては一か所、つまり金沢大学です。わたくしの研究室の、本棚の上に積みあがってますから、あんまり若い人に可視的とは言えないです。とにかく現代のアフリカの文化を知るための貴重な文献です(CiNiiのデータはちょっと変です。最新号まであるはずです。2019.5.22.)。
Migrations-société は三か所ありましたが、しつこく今も取り続けているのはわたくしのところだけのようです。これは世界の移民状況について教えてくれる有益な論文集です。・・・日本がどういう政策をとることになるにせよ、今後こそ必要度のあがってくる領域であるのは疑いないように思うのですが。
Banipalは一冊一万円以上するとんでもない雑誌ですが、アラブ語圏の文学をせっせと英語に訳して紹介してくれる貴重な定期刊行物です。わたくしも実はほとんど読む時間がないのですが、半分は、これの紙媒体版を定期購読しているところが日本にある、という「事実を作っている」感覚で買い込んでいます。
どれも、わたくしが大学を離れれば誰も続けて取ってはくれないと思うので――ふさわしいひとが金沢大学にはいないと思うので――なんとかしなければ、と思っております。
もっとも心配するより以前に、雑誌がつぶれるかもしれませんが。最近どちらも刊行が不安定です。
③についてはなによりもまずJeune Afriqueを、もっと多くのところで目に見えるように置いてほしい、置くといい、というのを切に訴えたいと思います。
補足:「電子ジャーナルに入ってるのがあるのじゃないか」と言われるかもしれませんが:
電子ジャーナルに入っている分にはデジタル媒体の致命的弱点、つまり、たとえその雑誌が入っていてもしょせん「もの」ではなく「可視的」でないと、そういう領域があることを知っている人には使えても、そもそもそういう領域があることを知らないひとには気づかれないというハードルがあります。これを乗り越えられるような工夫が必要だと思います
それに電子ジャーナルは、突然値段が高騰して大騒ぎになる、そういうものであることは最近多くの機関が痛感しておられることだと思います。こういう状況はやがて落ち着きをみせるようになるかもしれませんが、いつのことでしょうか・・・
以上のようなとりとめのない夢想について、どんなふうにお考えになるでしょうか?
これを思索、連帯、行動のきっかけにしていただけましたら幸いです。
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国名からヴを消すというのは・・・
意図のよく見えないこの法案ですが・・・
わたくしは、本当はこの法案は「ベトナム」を念頭においているのではないか、と思うんです。
ベトナムはベトナム語で Việt Namですから最初の音はどうしても「ヴ」になる国名です。英語やフランス語でもそうですね。
「ベトナムは日本語では、元からベトナムじゃないか」というのは、確かにそうなんですけど・・・ これからベトナムのひとが今まで以上に正式にたくさん日本に入ってくるというときに、
日本語ネイティブのひとが「ベトナム」betonamuと発音し続けることで、つまり「ヴェトナム」というより外国語を意識した発音をしないことを続ける、ということに意義を見るか、
あるいはベトナムのひとが「betonamuじゃ違和感あるなー、日本語の発音体系の制約は理解したうえで、Vetonamuに替えて欲しいなー」という希望が、あらかじめ出ないようにすることに意義を見るか、
かなと思うんです。
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Album Sukiyaki "Yotaka" "Sukiyaki vu du haut"
「あんどんどーん! 360年続く福野夜高祭を知ろう」(25日11時、アートスペース)。
いまではスキヤキは南砺市の、そして日本の、世界のスキヤキですが、ヘリオスのお膝元福野では5月の夜高祭こそ重要なお祭なのだと思います。
伝統ある福野の夜高祭。説明してくださった方(すみません、お名前忘れました・・・)は、祭りになると「体に鳳凰が入る」感じがすると言っておられました(夜高行灯には鳳凰の飾りがついているのです)。
貴重な、かけがえのない感覚だと思います。
このポスターは、お風呂屋さんに貼ってあったものです。
さて今回のスキヤキには、フランスからランディゴを撮りに来こられた3人をはじめ撮影のチームの方がたくさん入っていましたね。彼らについてヘリオスのベランダから見たお店と、月。
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講義ノートは、講義そのものとは違うと思います。
Est-ce que le cahier d'un prof est "équivalent" de son cours ? Cas d'une université japonaise (pas la mienne!).
ここをごらんください。
学生の無礼にぶち切れて教室を出て行ってしまった教授の講義ノートを数人の学生がスマホで撮影した、という事件が物議を醸しています。
うちの学生さんに感想を聞いてみたら「先生が帰ってしまったので、本来受けられるはずの授業が受けられなかったわけですから、学生たちはその内容が知りたかったんじゃないですか」と言われて、なるほどと思いました。
わたくしの感想は、この学生さんの感想とはちょっと違って、世間のひとが授業用ノートと授業そのものが等価物と思っているんだったらそれは嫌だな、というものです。
ウェブには教員の頭なんか比較にならないほど圧倒的情報量があるということに加えて、ウェブ上の資料公開やらMOOCやらがどんどん存在感を増すなか、「教室で授業する」というしきたりの妥当性、教室に「教員という人間が居る」意味、というのは常に考えていたいところです。
ここをごらんください。
学生の無礼にぶち切れて教室を出て行ってしまった教授の講義ノートを数人の学生がスマホで撮影した、という事件が物議を醸しています。
うちの学生さんに感想を聞いてみたら「先生が帰ってしまったので、本来受けられるはずの授業が受けられなかったわけですから、学生たちはその内容が知りたかったんじゃないですか」と言われて、なるほどと思いました。
わたくしの感想は、この学生さんの感想とはちょっと違って、世間のひとが授業用ノートと授業そのものが等価物と思っているんだったらそれは嫌だな、というものです。
ウェブには教員の頭なんか比較にならないほど圧倒的情報量があるということに加えて、ウェブ上の資料公開やらMOOCやらがどんどん存在感を増すなか、「教室で授業する」というしきたりの妥当性、教室に「教員という人間が居る」意味、というのは常に考えていたいところです。
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マクロンさんにそこまでの大変革が可能なのでしょうか On va voir.
Francafrique フランサフリックって、フランスと旧植民地のアフリカ諸国との独特の、いわば「腐れ縁」みたいなものを指す言葉だと思います。今日手元に届いたJeune Afriqueが、マクロンさんのフランス大統領就任一年を振り返り、彼の対アフリカ政策を検討しています。
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日本における西洋の学問は
堀井憲一郎師が久しぶりに本を出されました。
いや、『週間文春』からは急に降板されるし、桂米朝関係のご著書は発売寸前で刊行中止になったみたいだし、心配しておりました。
『愛と狂瀾のメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』
これは実に意義深いことが書いてある本です。
クリスマスの乱痴気騒ぎは戦後のアメリカ占領時代どころか、戦前のずっと以前からあったこと。
そしてその扱いは日本の「開国」のあり方、あるいは日本のあり方そのものに関わること。
わたくしにとって意味深いことは、日本における西洋の学問、いわゆる文系、人文学を中心とする「学」のほとんどは、この「クリスマス」と同じようなものだ、と気づかされたことです。
けっして受け入れられてはいないし、いつでも消してしまえるものながら、体面上、とりあえず存在を許されているもの、ということです。
でも、わたくしはあえて「それでいい」と言います。
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日本はこれでいけばいいのではないでしょうか?
経済もそんなに調子よいとはいえないし、内向きとか少子化とか、また原発事故のこととか、いろいろ日本は問題をかかえています。
新興国がどんどんグローバル市場に参入してくる接戦の時代、とくに超大国中国が経済面でもどんどん伸びていく現在、日本はこれから凋落するしかないのか、と絶望する人も多いかもしれません。
悲観的になるのでなければ根拠のない自信、夜郎自大な自己過信をもつ人ばかりとなって、やっぱり没落が待っている、と見えるかもしれません。
でもわたくしはこんな風に考えます。
「経済的パワーは他の国には及ばないかもしれませんが、日本はお互いの文化を理解しあった、息の長いお付き合いをしたいと思います。資源が枯渇するとか、人件費が高騰して工場を作るメリットが無くなるとか、これからいろいろあるかもしれませんが、それは短期的なことで、些細なことです。国民同士が敬意を持ち合って、相手を尊重しあう、そういうお付き合いを続けたいものです」
こういう姿勢で世界の国々と接していくのが日本にとって一番よいやり方ではないでしょうか。
またこういう姿勢をとることが、とくに日本人には可能ではないでしょうか。
「先進国」の文化ばかり追っていればよかった時代も、もう終わっていると思います。今は先進国もそう先進ではないし、途上国もそんなに途上ではない時代です。
日本のひとはある程度分担し合って、お互いに敬意を、リスペクトを持って、世界のひとびととその文化に接していけばいいのではないでしょうか。
ノーベル賞を取るばかりが偉くはないです。
精神的高みは横方向にもあります。あるはずです。
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