全部は無理、なので・・・


 マルローが生涯の最後に書いたのが L'homme précaire et la littérature という「文学論」だというのは意味深です。

 あの波乱万丈の生涯を送り、美術の分野では Le musée imaginaire という、けっして完成することはないけれど常にまぎれもない「全体性」「完結性」をもった作品、テクストを世に吐き出した彼は、文学に関しては「思ったほど読めなかった、もっと読みたかった」と慨嘆しているのです。それがこのタイトル、「はかなき人間と文学」と訳せるこの句をタイトルにしたマルローの真意なのだと思うのです。

 既にフランコ・モレッティ――なぜ彼の名前を出さないといけないのか、わたくしにはいつも不思議に思われますが―― がしっかり宣言しました。誰しもが分かっていることながら、それを言ってしまうと全ての前提が崩れてしまうと恐れて言わなかったこと、「全ての、読まれる価値のある文学作品を全て読むことは、不可能である」ということを。
 それに、文学は一回読んだだけではよく分からない、熟読、味読しなければならない、という考えを真面目に採用するなら・・・


 音楽もまた、時間をとるものですけれども一回の体験でかなり「わかる」度合いは文学よりずっと高いかもしれないです。
 ならば、90分授業のなかで、1分くらいのサンプルのみ聴くことを原則として、たくさん聴けるようにすれば・・・


 文学の90分授業のなかで文学体験をするにはどうするか。
 朗読はたしかにいい手でしょう。
 でもそれ以前にテキストに接する、つまり多くの、多様なテキ(ク)ストに接する、意「義」理解とともに接することを目指すべきです。
 それはMOOCではできないです。著作権のことがあるから。

 映画もまた同じことだと思います。まともに見ていたら120分かかるので――だいたいそれが映画の古典的名作が作られていたころの標準だと思いますが――ハイライトシーンを、前後の解説とともに見る。そのやり方で、何本も見る。

それが過去の「必読書」「必聴『盤』(ん?)」「必見作」つまりは「名作」に対して、ほかにたくさんやらなければならないこと、あるいは、たくさんたのしいこと、がある現代が取ることのできる、むしろ「正当な」態度なのではないか・・・

 以上は、『フランス映画 名画集DVD』が2000円程度で売られているのを見て、思ったことでした。
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そもそも


 なんで昔のロックのスターたち――嗚呼、若くしてみまかりしロックの英雄たちよ――のことなんか思いだしたかと考えたら。

 このお二人の活動50周年、40周年記念出版物を続けて読んだからですね。

 山上たつひこといしいひさいち、両氏。


 この話をし出したら長いので、それはまたいつかにしておきます。(ひとつだけ言っておきたいことは「わたしは『光る風』は認めんぞ!」ということです)。


 だって、明日からスキヤキだもん。今の音楽を聴いて、前を向いて進まなくては。


 さあ、スキヤキだ!!!

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白隠は現代マンガの始祖ではないだろうか?


 ぜんぜん話は変わる、はずですがやっぱりあんまり変わんないかも、と変なこと言いますが、まあその母の日の前の日に京都の母のところにいて、帰りに国立博物館『禅』展みてきました。これは面白かった。

 日本美術史の全体の流れからすると、ここでひとつ、マルローの言うメタモルフォーズが起こっているか、と思います。つまりその、描く方の立場から言うと人間を超越したほとけさまを描いたり彫ったりするミッションが、以心伝心で教えを伝えてくれる師の人間的なところをリアリズム?をもって追究するミッションに変化したかと思うのです。

 ほとけに限りなく近いかもしれないけど、まぎれもなく人間である師。人間であるから、その顔のウラには底しれない何かがありそう・・・
 そのウラをも映し出すために、画家はその顔の真実に肉薄する。

 でもね、厳密に言うとこれ、リアリズム、ですかね? しいのき迎賓館と違って展示物の写真をこのブログに載せるわけにはいかないので残念なのですが、わたくしの言葉で言うと、なんだか禅の坊さんたちはみんなちょっと変な顔をしています・・・というか変な顔に描かれていると思うんですよ。ひょっとしてそこに誇張、カリカチュア化みたいなものがあるとしたら。

 白隠は達磨さん本人なんか見たことなかったはずですが、彼は入場券に印刷された、こんな(↑)肖像を描くわけですね。

 この目のでっかさ・・・ほとんど現代のマンガではないですか。
 もっともそういうこと、既に指摘している人、言っている人いそうな気がしますけどね・・・

 北斎が『北斎漫画』とか描いているので、また浮世絵というのが世界に知られた民衆ジャンル――あれは複製をその本質とする版画であり、最初から「アウラ」がない――だからそっちの方に気をとられますが、禅の高僧の肖像というのもひとつの源流ではないかと思ったりして。

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スキヤキ2015の収穫~5 なんでゴッホさまピカソさまは○億円でティンガティンガは<○万円なのか


 ワークショップの会場のアートスペース。今回、アートスペースの壁には「ティンガティンガ」派?の絵?が飾られていました。だから常に見張りをたてておかないといけなかったんですが。
 わたしの所属するワークショップ班班員はこれらをなんとはなしに見れてましたが、わたしは入口奥右隅にあったGeorge Lilangaの作品に唖然としてしまいました。すばらしい絵だな・・・   BKOカンテットについた書いたエントリーで「あっちの世界」と書いてしまったんですが、これはリランガの絵に出てくる「シャターニ(精霊)」みたいなものの世界、と言った方がいいのかもしれないと思い直しています。BKOはマリ、リランガはタンザニアですけどね。

 二日目、22日にタマビの小林宏道先生の解説がありました。DVDでドキュメンタリー・フィルムを少し見たのですが、これの製作者のひとりのYves Goscinyというのが、あの『アステリクス』などで有名なフランス語マンガの大家ゴシニーの身内と小林先生からうかがって、世界は狭いと思ったりして。

 わたしもリランガの絵を、これまで数十年眺めてきた日本やヨーロッパのさまざまな絵画体験の積み重ねの上で見て、評価しているわけで、それじゃ「真の価値」がどこにあるか、と言われたら、これは難しい気がします。おそらく、そういう「真の価値」というのは、ないんじゃないかと思います。

 フロベールもウエルベックもフェルディナン・オヨノも小説一冊は○ユーロの世界です。バッハもアルベニスもグールドも(こんな並べ方あるか?)ジェイムズ・ブラウンもシェブ=ハレドもCD一枚は驚くほど均一価格で2千○○円の世界です。でも絵画の世界では、ゴッホさま、ピカソさまは○億円して、ティンガティンガの絵は○万円(営業妨害になったら悪いですから私の聞いた価格は言いませんが、とにかく一億円よりずっと安い)なんですよね。
 これって、どういう意味があるのか? まあ芸術の話で、金のことはどうでもいい、と言えばそれまでなんだけど。

 多摩美術大学には白石顕二アフリカコレクションというすばらしいアフリカ美術の宝庫があって、今回の展示はそのコレクションの展覧会をヘリオスで開催したのを、展示品を少し残して開催した、ということでした。
 
 これら↑はそのコレクションの展覧会のカタログです。
 金沢大学国際学類ヨーロッパコース(アフリカコースもアラブコースも、まだ無い! これは恥ずべきだ!)研究室においておくことにします。学生さんたち、よく見て虚心坦懐に鑑賞?してね。

 何百年か経って、レオナルド・ダ・ヴィンチもジョージ・リランガも世界のひとにとって同じような重さの存在になっていたらいいですね。
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やったずら! 『かくかくしかじか』第五巻発表。完結。


 東村アキコ畢生の名作『かくかくしかじか』は、Cocohana連載は3月号、つまり1月に出た号で完結していましたが、予告通り単行本が3月に出ました。きのう、3月25日の発売です。(これもご覧になっておいてください)

 予想どおり、「先生」の死まで一直線でした(これはネタバレということにもならないと思います)。
 そして予想どおり、泣かされました。
 弟子の皆さんが泣かれたという、そのところでわたしも泣きました(ここはバラしません)。

 ひとつ、発見がありました。
 「先生」が亡くなる直前に「今ちゃん」さんがやったライブペインティングを見に来られたのだそうです。そのことを聞いたお弟子さんのひとり(東村さん自身?)が「えーっ最悪 先生一番嫌いそう そーゆーの」と言っています。
 
 「先生」は、そういうのがお嫌いだったんですね。

 わたしもまた、ライブペインティングとかアクションペインティングとかいう考え方には、危険なものを感じるものです。
 「ゲージュツ作品」というのは膨大な労苦の集積で崇高な存在であるかもしれませんが、にんげんのこころからしたら、ある意味「うんこ」みたいなもの、「自分」「自己の肉体」とは切り離してしまわないといけないものかと思うのです。
 自らを、自らの肉体をゲージュツ作品の構成要素そのものにしてしまうというのは・・・

 ・・・ジャクソン・ポロックはほんとうに可哀想なことをしました。彼が必死になって断っていたお酒をまた飲み始めてしまったのは、彼の製作――アクションペインティング――の現場を録画する仕事の直後だった話を知ったときには、なんと酷なことをするのかと慨嘆しました。しかもポロックは死ぬときに、自分だけでなく若い人を道連れにすることになってしまった。そして地元の新聞ではこの事件を芸術家気取りのろくでなしが若い女性と悲惨な死を遂げたという報道を、懲罰の文体で報じる、ということになったわけです。
 これがアメリカ、というか現代なのか。
 
 音楽界のスターは当然のごとく生身の姿をさらされる。マイケル・ジャクソン――彼の場合は踊りを見せるのが重要だったからなおさら肉体性が大きなウェイトを占めていました――の晩年の奇行はどうだろう。ホイットニー・ヒューストンは・・・

 一方、文学の方では、徹底的にひきこもって「自分」の生身の存在を必死で隠そうとする人が出ますね。サリンジャーとか、ピンチョンとか・・・

 『かくかくしかじか』は、その危険な考えを拒絶しているように思います。 

 「先生」は自らの肉体が滅びゆくのをそのままにして、制作を続けられたのですから。

 第二巻100ページあたりにでてくる某フランス語教員 (^o^) が「コミュニカティブ・アプローチ」をやっておらず、伝統的というかオーソドックスというか、いわゆる「文法」をやってるのも(「えーと、ここの助動詞は・・・」とか言っています)、まあ低いレベルの話ではありますがこの『かくかくしかじか』という作品の志向するところに合致していると言えるかもしれません。


 ただ芸術家の自己、芸術家の肉体のインスタレーションの仕方によっては、危険は回避できるものでもあるでしょう。

 と思ってこの第五巻の表紙の「先生」――最後のページに「先生」の写った写真が載せてありますが、あまりにも小さいし不鮮明だし、よく見えないのです――を見ると、やっぱりこれは筆者東村さんがこれ、先生の姿を描いている――他の四巻の表紙はご自分自身です――というアクションそのもの、そしてその背後にある筆者のこころ――先生への敬愛――を意識させられるものだな、と思います。
 表紙の先生は、いい表情だな。

 これで、よいのでしょう。


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Amour


 ミヒャエル・ハネケの話題の作品。見ました。
 前にも述べたと思いますが、わたしは映画の邦題に「愛」という言葉が入っているとみんな同じに見えて区別がつかなくなってしまうという悲しい運命のもとに生きている人間です。ただこれは邦題が『愛 アムール』と愛×2であるとはいえ、原題はフランス語で"Amour"でそのものずばりです。唐突にエンドロールを出して観客を「え?」と思わせて終わるのが大好きなハネケ監督のことだからなんらかの意味で皮肉か、逆説をはらんだネーミングだろうと思って見に行きました・・・



 <極力避けてますが、以下ネタバレの恐れあり。映画を見てからお読みになることをお勧めします!>




・・・うーんまあハネケにしてはかなりストレートだと思いました。

 わたしは、『カッコーの巣の上で』を思い出しました。あの作品では、一種の「思想」を繋いでいく形のエンディングだったと思いますが、こちらは、やっぱりある種の「愛」の完遂を追求しているのでしょうね。ヨーロッパの現状と日本の現状で差があるかもな、という気はしますが。
 でも、「男女間の愛の完遂」というのはひとつの世代に関するもので、べつに次にくる世代のことを考えてはいないのですが、まさに「自分たちのことしか考えていない」ことによって、かえって次世代に何かを伝えているようにも思えます。娘役のイザベル・ユッペールがなにげなく、両親のセックスをたち聞きするのが安らぎを与える行為だったともらしていましたが、これが後で意味が深いセリフのように思えてきました。だってラストはユッペールがひとりのシーンにしてあるんですから。

 それともうひとつ。最初の方を見ていて、これはひょっとしたらエンディングで、異常が起こったのは奥さんのリヴァの方ではなくて夫のトランティニヤンの方だった、のかも、という形にするのかな?と思いました。
 最後まで見てみて・・・そういう解釈は別に提起されているわけではないと思いますが、そう見たって別に構わないというか、見ている方でそういう物語を紡ぎ出すのは、ありだと思います。
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ルーヴル=ランス、あきましておめでとうございます


 あけましておめでとうございます。

 もう去年の12月12日に一般公開してるんだそうですが、この間そのニュースを聞いたばかりなので本年の最初のエントリーは「ルーヴル=ランス開館」です。

 完成した姿をテレビで初めて見ましたが、さすが日本のSANAAが作っているだけに、金沢在住の身としては、やっぱり「二十一世紀美術館」に似てるなーという印象です。

 Lensなんて、そこそこフランスに詳しい人でも知らないような町ですね。観光資源がない――なかった――ですからね。
 鉱業で栄えて、その後さびれてしまったところです。
 こういうところは労働者が外から大量に入っているのですが、アイデンティティのよすがとなる伝統がないので、サッカークラブがその役割を果たしたりします。
 ランスもかなりの強豪チームを持っていますね。

 ここに今度は「文化」を持ってきて根付かせようというわけですね。

 目玉として、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』がランスに移されたんですね(日本語Wikipediaのこの絵の項にはまだ書いてないですが)。やっぱり、「民衆」だからかな。

 そのうちルーヴル=アブダビ分館もできるし、いよいよフランスの文化政策も地域創造とグローバル化の両方を見据えて進んでいきますね。
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ライクサムワンインラヴ


 いやーこいつにはまいりました。

 キアロスタミが日本で撮って、カンヌで評判をとった『ライク・サムワン・イン・ラヴ』。

 筋は単純。でもこれほど複雑な映画もない。細部が意味深い。


 ・・・あのおばあちゃんが待っていたロータリーって、静岡駅なんですってね。
 するとあの映画、舞台は日本だけど、東京ってわけでもなく、どこでもない空間なわけですか。ということは、どこでもありうる空間ですね。

 キアロスタミ監督がこの映画を、日本の街角にみた「ウェディングドレスを着た若い女性」から着想したらしいというのは、なんだかすごいことです。

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エミレーツ初のマンガ、らしいです


 週末は京都。例によってマンガミュージアムも行きました。

 ガイナックス流っていう特別展をやってましたが(もう終わってますけど)、そんなに面白いものではなかったように思います。アニメ制作の職場って女性はあんまりいないんだろうか、ということの方が気になりました。

 売店で「アラブ首長国連邦初のマンガ」という触れ込みのを売ってました。1000円。
 こういうものを、つい買ってしまう、いけないわたし。

 原作がアラブの人で、作画が日本の人ですね。

 アラブの人は、えーと、きーしゅ、むはまど、さどきー、かな? 
 日本のひとは、えーと、あーきーらー、ひーみーかーわー、かな? あそうか、これは姫川明ですね。

 さどきーさんの方は、すっきりした顔の写真が載ってます。メガネかけて、例の白い布に輪っか二つ巻いた頭で。

 なかみは、鷹匠のコンクールのはなしみたい。スポコンではないけど(そういえばインドで『巨人の星』のリメイクを、野球をクリケットに振り替えて作るらしいですね。おー星飛雄馬がインドの山奥で修行するか)、Bildungsroman的かな。

 試合は近代的なスタジアムでやってます。ノートパソコンもったアラブの人がそのへん歩いていたり。
 こういう現代社会的インフラがないところでは、「マンガ」ジャンルは発展しないのかも、とふと思いました。なぜだかわかんないけど。


 問題はこの作品が現地でどういう流通形態の中にあるかということですね。展示会みたいなところでキレイに飾られているだけだったら、なんも意味ない。
 そのへん、わたしにはわかりません・・・
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メインのジャンル


 前のエントリーからの続きですが。

 世界のゲイジュツトレンド(ほんとにグローバル化したのは最近とすれば、それ以前はヨーロッパ、アメリカ合衆国のトレンドということですが)、「メインのジャンル」というのは、

 19世紀まではずっと「おしばい」。

 バルザックのころから「小説」。

 第一次大戦終わるあたりから「映画」。

 そんでもって、映画のヌーヴェルヴァーグ流行の頃からは「テレビ」、かと思いきやテレビはテキストの定まったゲイジュツというわけではないので、ゲイジュツのメインジャンルは「記録音楽」になってたんでは、という見方はどうでしょうか。

 「記録音楽」って、つまりレコード、CDなどの媒体で流通する、固定化した音のゲイジュツのことですね。その隆盛というのは、簡単に言ってビートルズ以降ということになると思います。

 それでそれで、「記録音楽」が衰退した2010年代以降、なにがくるんだろう。

 「マンガ」かな?

 でも「マンガ」が世界を席巻するほどパワーを持ち得るだろうか。

 
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