複言語主義とフランス語の未来

1年以上も投稿しておりませんでしたね。ご無沙汰お詫びいたします。
以下はRENCONTRES no.35 (2021, pp.80-84)所収の拙稿です。

21世紀初頭の日本において、また世界において、フランス語教育の勝利とはなんでしょうか。「フランスの本がよく売れること」ではないと思います。
2021年現在、老年期を迎える意識のある筆者のような世代は、世界のどこにあっても、知的活動をめぐる環境の激変をいちばん切実に経験した世代と言えるように思えます。コピー機、コンピュータ、インターネットの出現、およびそれらの急激な発達、社会のシステム化のおかげで、知的活動に従事する者は仕事の飛躍的な効率化を達成することができましたが、その反面、それまで慣れ親しんだ方法論、ツールを否応なしに変更、放棄させられたという潜在的な喪失感に強くさいなまれているはずです。放棄とはならないまでもそのステイタスが大きく変わった最重要のものは、「本」でしょう。
この技術革新の嵐の時代以前、パピルスの昔からとまでは言わなくとも、少なくとも活版印刷発明以降、多数の、しかし限られた数が流布する書籍の持っていた「知」そのものが、物理的に存在しているかのような感覚を抱かせる「本」の威光は日に日に失われつつあります。かつて大量の本をモノとして所有していることは、知識人を自負する者として「美徳」であり、たとえその所有者がすべてを読んでいるわけではないとしても、すべての内容を有機的に活用できる状態にないとしても、それらの本の可視的な存在自体が表現する知の量、情報の量の威圧感は、世人が直感的に自らの知性、自らの人生の長さと比して本能的に覚える畏怖の感情を形成するのに十分でした。そして本の値打ちはその価格、金銭との交換価値の高さにも裏打ちされていました。しかし変化の時代が、本の中の価値の中核であるものをその基底材である紙のかたまりから決定的に引きはがしたとき、本は空間を占領する厄介もの、邪魔ものと見え始め、同時に金銭的価値も急落していったのです。
いまや紙媒体の本は、買わずもがなのものとなっています。それが含んでいる「知」「情報」が正当に得られるならば、基本的にモノとして所有したくないものになっています。またそういう本のあり方はたとえば、著作権というものへの顧慮が形骸化したといえる領域で一般化した複写利用や、図書館の充実、コピーや現物の貸借がスムーズに行えるシステムの発達などを促進し、その中で定着していきます。なかでも事態の本質的変化を感じさせるのは、googleの試みが代表するインターネットにおけるテキストの拡散です。この試みはもはや紙媒体だけでなく電子書籍のような形態さえも乗り越えて、対価なしで文字テキストを一瞬にして利用者がアクセスできる状況に置いていきます。既に紙媒体の本はgoogleの提供するテキストの「担保」のようなもの、インターネットという改竄されやすいメディアの弱点を補う、「元の、不動のテキスト」として図書館の奥深くに保管され必要なときだけ参照できればよいものになりつつあると言って過言ではないでしょう。新しい学術論文などは既にほとんどそうなっていますし、古い論文や本も遡行して随時ネットに大事なものから載せていくでしょう。
以上のことは、あらゆる言語について共通に起こっている不可避的で必然的な現象です。
いわゆる「新刊書」が変わらず紙媒体のものとして本屋で扱われるのは、その「知」「情報」を世に存在させ始めるシステムとして、ある特定の地域で支配的な言語によって表現された本を売り買いするという従来のプロセスが有効なためでしょう。しかし「新刊書」というのは本という存在の特殊な、一時的なあり方でしかないのです。
ひとことで言って、本は全般的に「売れない」ものになっていきます。
それはどういう言語で書かれていても同じことです。
したがって「いま、フランス語の本が日本で売れない」というのが事実であっても、それだけでは世を憂う理由はなりません。本は所有されることも避けられるし、必要なら「本を買う」以外の様態で利用されるようになったのですから。フランス語の誇る古典は、googleがきれいな誤植もないデジタルテキストとしてどんどんwikisourceに載せ、買わなくてもいつでも無料で利用できるものになっています。高い洋書を受講生が教科書として購入することを強制される授業はどんどん支持を失っていきます。本が売れないことはフランス語の伝える「知」、「情報」に対する興味の低下と直結するものではありません。それをもってフランス語を教育する側が「フランス語はもうだめだ」的な、短絡的で黙示録的な言辞を弄する理由にはならないのです。
むろん日本においてフランス語教育が心配すべきことがないわけではありません。それどころか問題は山積しています。しかし求められているのは悲観論的な決定論の世界を指し示すことではなく、人間の変え得る世界を提示して、望ましい変化に導くことではないでしょうか。時代の変化に対応して、新しい状況で求められるものは何かを見定め、それをアピールすることが必要ではないでしょうか。
そしてその新しい状況で求められているものは、あえて言えば諸々の言語教育の中でとくにフランス語教育に求められるものは複言語主義的なものであって、教育言語として既得権をもつ特定の言語教育の寡頭制を恒久化しようとするものではないということを、よく心にとめたいと思います。フランス語教育はフランス語の性質、あえて「良いところ」と端的に言ってしまいたい、ある普遍的な平等志向に沿うべきなのです。
たとえば、語学教育の選択肢が増えることは語学同士のシェアの奪い合いになるという発想は、気づかぬうちに最悪の資本主義的発想に陥る愚を犯していることになります。全語学の「パイ」が一定でけっして増えないものという前提などおくことなく、やり方次第でパイは大きくなると考えればいいのですし、実際大きくなるのです。真に複言語主義を標榜する方なら、これは自然に納得できるのではないでしょうか。
それは望ましいかもしれないが現状はその逆で、英語一極集中が進むばかりではないかという反論はあろうかと思います。たしかにそういうところはありますが、800年来、「武」に頼り、対外的コミュニケーション力に長けた者を警戒するのが日本の指導層の基本姿勢と考えられますから、語学教育は英語に集中しながらその英語力も国民全体的に低いレベルでとどめるというのが利となるはずと考えるなら、とくに英語一極集中が望ましくない局面を見定めること、人工的な英語重視姿勢にはのらないようにすることが、これからこの国で育つ若いひとたちのためを本当に気遣うことになるのではないでしょうか。
フランス語教育に関する現行の悲観的な言辞は、既存の価値観への望みのない固執に端を発しているように見えます。まさしく「本」という既存の価値観が捨てられず固執してしまうのと同様に、その「本」の含んでいる中味、「知」と「情報」についても、そろそろ過ぎ去ろうとする世代が拠って立っていたもののそのままの姿に固執が残ることに最大の問題があるように見えるのです。そういうとき、教える立場にある人はそれを利用して、若い世代に自分たちの価値観をうまく刷り込んで、それが旧弊なものでないことを証明したい誘惑にかられることがあると思います。どうしても新しい価値観がある特定の「言語」では代表できないと感じたとき、余計ひとはそういう業に手を染めてしまうように思われます。言うまでもなくそれは卑劣なことであり、自分だけではなくまだ知的に幼いひとたちを、日本の男性の心の古層にある若者組的なメンタリティに寄りかかって逃げられないサークルの中に置こうとするのは罪深いことであるだけでなく、冗談と思われるのを覚悟で申せば、2021年時点の自由民主党の老幹部さえもはやあきらめかかっていると見える方法論だと考えます。
幸いにしてフランス語教育は、そのような出口のない状況にはいません。フランス語教育にも滓のようにこびりついた旧弊なものが厳然としてたくさんあるわけですが、未来に向かっていく道にも必ず開口しているのです。
では本の売り上げのことはともかく、現時点でフランス語教育の報いは、勝利はどこに求めるべきでしょうか。
芸術諸分野で強いフランス語ですが、造形芸術や映画等の領域でのフランス語の存在感、学習者を惹きつける力の養成等々、そしてそこから得られる経済的、政治的利益に関してはマルロー以来のフランスの文化行政にまかせることにして、ここでは文学と音楽という、フランスから日本の状況の実態がよく見えているとは思えない領域において考えてみたいと思います。
伝統的にフランス語が強い分野である文学は、先述の「本」というものにいちばん密接に繋がっているジャンルと言えますが、フランス語教育としてはやはり引き続き大事にしていくべきものです。なぜなら、同時代のスター的なフランス作家が乏しくなったのは残念ですが、文学を文学として、世界の諸文学、大昔から現代にいたる全ての文学を複言語による「文学」としてアピールするならば、その中でフランス語文学の存在は絶対に無視できるものにはならないはずだからです。繰り返しますが、フランス文学ではなくて文学をアピールする、その内側でフランス(語)文学をアピールするということです。自分だけよかれ、というのでは絶対に一般社会の支持は得られません。それでは植民地主義時代と同じであり、悪しき資本主義の論理、市場論理を振り回すことになります。
文学を越えた領域においてもフランス語教育は、言語政策の面で複言語主義的姿勢をとるべきです。複言語主義の理念をのべるだけでなく、それが具体化する状況自体を作るべきです。そういうあり方のほうが真っ当なあり方、心ある人々の支持を集めるやり方です。普遍を志向しているということがフランス語の強みです。だからこそフランス語は存続の労をとるに値するのであり、将来を悲観して自らを滅ぼすようなことはするべきでない世界的責任を持っているのです。
世界の文学の研究法について言えば、たしかにフランスにはフランス固有の弊害があります。しかし、あえて言ってしまえば自文化中心主義の弊害はアングロ=サクソン系の文学と批評により当てはまることであり、フランス系はどこよりも普遍志向、つまり研究において「自国文化」最優先にしないという利点をもっているのです。
もうひとつ、音楽のジャンルについて考察します。
だいたい1970年を境にしてフランスの大衆歌曲は、他の文化のジャンル同様、米英文化の伝播力、音楽では米英のロックの圧倒的伝播力に屈することになりました。植民地で運を試せる時代が終わって行き場を失いangry young menとなっていたイギリスの若年層が大衆音楽の領域でなら世界を制覇でき、巨万の富を積むことができるという夢を抱く時代になりました。そしてフランス歌曲は、のちにできた「ワールドミュージック」というカテゴリーの片隅の一ジャンルとして分類されることになりました。端的に言ってフランス歌曲は音楽としては弱いところがあり、世界の諸ジャンルの中で特権的地位を占めなければならないという理由は存在しないのですからこれ自体は残念なこととも言い難いと思います。歌詞の文学性に依存しがちで純粋に音楽的な魅力作りにいまひとつ消極的な印象を与えるのがフランス歌謡界の特質でした。
現在は、長らく続いた米英大衆歌曲の世界支配に陰りが見えているように思われます。アメリカ合衆国の歌謡界は、気が付いてみるとラテン系歌手のオンパレードという状況になっています。アメリカ音楽のパワーの源泉となっていたblack musicがついに行き詰まりをみせているということではないかと思います。ならば、今なら北米英語圏の外からスターを出すことも、努力して工夫を重ねれば可能かもしれません。少なくともフランス語圏の歌謡に日本で支持を集めるくらいのことはできそうです。ただフランスの音楽業界は日本のリスナーが本当は何を求めているのかを理解することに明らかに成功していませんから最初の工夫、最初の努力は日本側が独自にする必要があります。
そもそも音楽の分野ではレコードやCDという基底材の存在が不可欠ではなくなったのと同時に超弩級の大富豪スターというのが出ない時代に入っています。どうやっても中程度スターくらいが望みうる最高のものと割り切るならば、たとえば大学などで受講生を何人かかかえる先生が複数で協力して、フランス現地の業界関係者と連携し、特定のアーチストを共同でアピールして、好印象を受けた学生さんにそれをネット上でアピールしてもらうように促す、ということができればいいし、またそれは現時点で十分可能なことではないでしょうか。フランス語の場合、フランス語圏という大きな文化的多様性をもった広大な領域を持っているのですから、言語の統一性が西洋文化偏重に見えたりしないことは大きな強みのはずです。むしろ諸々の文化を横断する形でフランス語が存在感をもっていることが、この言葉の逞しさを若者に印象付け、学習意欲を喚起させることが期待できるでしょう。こういう試みがある程度大きな規模で実施されれば、どうでしょうか。フランス語の本は売れなくても、フランス語歌曲がヒットして大量にダウンロードされる状況が到来すればどうでしょうか。
ちなみに複言語主義ということからは、フランス語がとくに英語と密接な関係にある言語であることを前面に出してフランス語教育支持へのアピールをさまざまな手段で試みるという発想も生まれます。その試みの多様さについてはここでは触れないことにしますが、ただこの種の試みに関しては、英語が伝統的に持っているフランス語への警戒心のことを常に念頭におかなければならないことだけは指摘しておきたいと思います。現代では英語話者、英語教育関係者の大部分は、英語がフランス語に大きな影響を受けた過去、フランス語に後れをとっていた過去のことは触れたくないということをしっかり念頭に置かねばなりません。
だからそれだけ、フランス語教育はへりくだり過去の、あるいは現在のメジャーな言語、およびマイナーな言語と自らを同列におく複言語主義を標榜すべきなのです。
複言語主義は、経済的な見返りには直結しないもの、させない方がよいものです。わざわざ資本主義の悪弊に跳びこんでいくことはないと思います。中途半端な金銭的利益、政治的利益等は考えない方が身のためです。
複言語主義の大義は、世界のひととの心の繋がりだと考えられます。
観光の領域における外国語教育について、筆者は以下のように書いたことがあります。
「ある外国人観光客に向かって、その人の言葉を学習者、ガイドが発声するならば、そのガイドは限りある人生の一期間を自分とのコミュニケーション能力を培うためにささげたのだということを観光客は即座に理解します。そこにこそ『おもてなし』の原点があります。自らの身体性を意識し、行為としての芸術を実践するアーチストと同様に、観光するひとびとに接するもてなし側のひとは、自らの存在そのものをもって『あなたのことを思っています。わたしが楽しく思うことをあなたに伝えます』というメッセージを発しているのです」*
人間の繋がりを作る仕事をAIがどんどん肩代わりしていくならば、複言語をあやつるひととして自らを形成する活動そのものが最高のおもてなし、ひとの繋がりを作る営みとして最上のものとなるでしょう。そして文学も音楽も、芸術家と読者群、観衆との人間的繋がり作りの営みなのです。
フランス語教育の「勝利」はこの繋がりの形成で十分のように思われます。
経済的、政治的等々、「利益」が発生してくるとしたら、この「勝利」から、一番大事な「ひとの繋がり」から、自然に発生してくるはずです。

*粕谷雄一「複言語主義的教育の現代的意義」、『国際学への扉三訂版』所収、鹿島・倉田・古畑編、風行社、2020年、p.37.








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文法というものについて

 教養重視結構。ただその「教養」なるものは、21世紀の今の教養でなくてはならない。マシュー・アーノルドにとっての「教養」みたいなものでもないし、日本国が大学制度を作ったとき、ウェストファリア的秩序の中で重きをなした「国」別対抗戦のネタでもない。
 そこにはレゲエも、ハイチも、カナダも、欲しい。

 話が全然それるが、「文法」もまたそうだろう。21世紀型の文法でなければならない。

 そういう文法であれば、今も、今こそ必要とされる知の重要な構成要素のひとつであるはずのものだ。

 わたしが個人的に作っている「文法の道具箱」が、「文法の玉手箱」となるように、努力を重ねたい。

 2020年6月11日。実に今期は、今クオーターは異常なものだった。そしてこの異常な体験はまぎれもなく世界のひとと共有するものだった。コロナウィルス禍のことを、後世のひとはどのようにイメージするだろうか。

 今日わたしは4コマフランス語クラスをもった。オンラインで。2,3,4,5限ともフランス語の語学クラスだった。他の曜日も詰まっているが、これほど語学オンリーではない。月曜は語学ひとつ、いまのところもうひとつは卒論指導だし、次のクオーターからグローバル時代の文学のわたしのクラスが始まる。火曜日はカナダ文学だ。水曜日はベトナム文学とシティカレッジ。金曜日はフランス語科教育法とプラテーロをすくなくとも西仏独英で読んでスペイン文学、西仏比較文法だをする。歴史が二コマある。
 とにかく木曜は、今日の木曜も朝から晩の6時過ぎまで、フランス語を教えることしか考えなかった。
 こういうのが一クオーター続いた。

 ここで思ったのは、文法クラスにある定まった限界をおけるのではということだ。これだけおさめれば「完成」といえるような限界。
 もしそういう限界を設けることが可能なら、そこを基盤に合理的な教育プランを作ってみせることができる。
 コミュニカティブ=アプローチは限界づくりが希薄だ。少なくとも日本の大学で許容されるようなレベルの「限界」を設置することができない。
 畢竟、警戒され、縮め、壊されるのが当然となる。

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Ça commence, l'enseignement obligatoire de deuxième langue étrangère au collège japonais


Pourra-t-on un jour apprendre le francais dans beaucoup de collèges japonais ?

東京の、新設の小中高一貫校ということですが、英語教育を小1で始めるなら当然中学くらいで第二外国語を、という発想になってきますね。この日経の記事(4月28日)には中国語、フランス語というのがあがってますが、中国語は経済的にも隣語という意味でも重要だし、フランス語は国際的な使いで、日本との深い関係、英語教育との相乗効果というとことからも教育言語候補として順当だと思います。こういう学校が多くなってきたら、センター試験の後継テストの「外国語」をフランス語で受けたいひとも出てくるかも、ですね。
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英訳からの重訳でも・・・


・・・表紙には輝かしくフランス語原題が刻まれているというのは、やっぱりその方がかっこいいとみなされたからでしょうか?
 
 日本語訳、出たばっかしです。たしかに読みやすいですね。
 大学で経済学の授業に一回でてみて「あ、これはわたしは向いてないや」と思ってその後ずうっと経済学には無縁だったわたしでも読めそうです。

 フランス語原本は、いま注文中です。



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英語によるフランス語授業。やっと始まった。


 「英語を使って、フランス語を教える」という機会を前から模索していたのですが、金沢大学のKUSEPプログラムに正式登録して、留学生が7人も履修登録してくれたので、突然本格的に開始、これに突進することになりました。

 日本側学生は、正式履修2人に、単位は要らないけど出てくれるという人が1人いますから、この人たちと留学生たちとの関係をうまく作らなければ。

 このクラス、ぜひとも成功させたく思いますが、なにせ全然フランス語やったことないという人と、6年やったという人がいっしょくたなわけで・・・



 
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途中からしかしっかり見られなかった映画は


 しこたまお酒を飲んでから見に行った映画。やっぱりすぐに寝てしまって、ちょっと起きてはすぐ寝る、というパターンを繰り返し、それでも後半はなんとか目が覚めてみてました。

 それでも不思議に違和感がなく、全部見たのと同じような気になった映画、『マダム・イン・ニューヨーク』。インド映画。一家のなかでひとりだけ英語ができない主婦のはなし。

 これ、すごい。
 なぜなら、各場面各状況が「現代」の「アレゴリー」になっているから。

 アメリカ合衆国の価値観、Sex and the city、摩天楼の林立するニューヨーク・・・そして言語=英語が世界を覆う時代。
 その周縁の人間、英語のできない人。しかし、インド人は自分たち固有の価値観というのはしっかりあるのです。

 主人公の主婦、二児の母に愛を覚え、愛をささやくのが・・・フランス人なんだなあ! いろんな国の、いろんな人種の人がでてくる映画ですが、このポジションは、やっぱりフランス人。既成の秩序に動揺を与えてくる。そして、英語+ヒンディー語の映画の中にフランス語をシンボリックな形で聞かせるのです。
 主人公は英語も苦手だから、フランス語が分かるわけではないのですが、それでも、だからこそ。

 フランス語って、こういう位置にあるのですね。おそらく、昔も今も。

 それでいいのかも、って思ってしまいました。

 この映画に日本人は出てこないと思います(見逃した前半にも、たぶん出てないと思う)。これこそ、わたしが「日本というのは究極のアンチであるかも」という理由に繋がってくるのですが。
 日本人は今はここに場を持ってないと言えそうなんです。今のところは、ね。


[追記] 売り切れだったこの映画のパンフレットを金沢・シネモンドさんにしつこく頼んで(すみません)、やっと手にいれました。「フランス人」の役のひとはMehdi Nebbou、父がアルジェリア人、母がドイツ人という人ですね。まさに「フランス人」です(これは皮肉とか、そういうのでないことに注意してください)。

 監督のGaouri Shinde(女性)も、素敵なひとですね。

 今のインドは、こんなキラキラ輝く映画が作れるんですね。

[2012年/インド/ヒンディー語・英語/スコープサイズ/134分/英語:English Version]ですか。言語のところには[フランス語]も入っていいところですね。


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無題


 消滅を危惧される言語をなぜ守らなければならないか。

 そこには人とのつながり方があるから。ひとつの言語は独自のつながり方をたくさんもっているから。

 ルクレジオが使った"partager deux souvenirs personnels"ということばを見て、そう思った(フランス語は消滅危惧言語というわけではないけれど)。

 翻訳は――原文というものが存在するという前提があるから翻訳というのだ。だから翻訳に違和感があり、ごつごつしていてもかまわない、という考え方はできる。

 ・・・という、「2013.11.26.」の日付が入った走り書き。
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来年はフランス語が来ると思います。


 ブログお休み中ですが手短にひとこと。
 滝川クリステルさんのIOCスピーチは効いたみたいです。
 来年はフランス語が来ますよ、これは。

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フランス語教育の大義


 これから世界がどういう方向に向かっていくか、細かいところは分かりませんが、さしあたり21世紀に関して言えば、中国という存在がキーになることは明らか。

 これから事態がどう進展するか、細かいところは分かりませんが、もし「西洋的」価値を奉ずる勢力とほぼ今の状態のままの中国がのっぴきならない形で対峙して、日本が二者択一をせまられることになるならば、日本は人権、民主主義、自由、平等等の近代的価値すなわち――かなりいまいましいことであるかもしれませんが――西洋的価値の側につくしかないでしょう。

 つまりアメリカの側ということですが、思想的にはフランスの側ということもできるでしょう(ドイツの側ということはないと思います)。

 しかし――22年前のアルジェリア、現在のエジプトを前にしてフランスは建前しか言えない。自由な選挙による民意を尊重する、というのが結局イスラム原理主義を支持することを意味することになってしまうとしても。
 こういう立場を、日本はとるべきではないでしょう。

 そこが、日本が究極のアンチというゆえんかも、と思います。

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ドイツ語を学ぶ学生さんについて。縁ということ。


 これまでわたしは日本におけるドイツ語教育についていくつかエントリーをしてきましたが、ドイツ語教育には意味がないとか、ドイツ語を学ぶ学生さんに「ドイツ語なんてやめてしまえ」と言っているかのような理解をされる方がおられるようで、本当に悲しく思います。

 「縁があって」ドイツ語を学んでドイツ語によるコミュニケーション能力を身に付け、またドイツやその文化について他のひとよりも深い知識を得た方には、幸せな人生を送るとともに、その能力・知識を活かしてよりよき日本や世界のためにいくらかでも貢献していただきたい、とわたしは願っております。
 これは何語を勉強される方についても同じことです。まずはその方の幸せな人生を祈り、そしてその上でその言語との関わりを活かしてできる限り社会へ貢献していただくことを望む、というのがわたくしの基本的立場です。
 どの言語を勉強する人にも、分け隔てなく接し、勉強を励ましているつもりです。



 ただ、言語との「縁を作る」側においては、19世紀に日本で定められた英独仏語に特権的な地位を与える学校制度にこだわらず、21世紀の世界の現実にあった「言語との縁作り」を考えたほうが、学ぶ側の幸せのためにも、日本や世界への貢献のためにも益があるはずだ、とは考えます。

 たとえば、本来ならアラビア語を学ぶことで幸せな人生にアクセスしやすくなり、この言葉との関わりを通じて日本や世界への貢献をしてくれるはずの人というのは、いるはずだと思います。なのに現状では学校がこの言語の教育に興味を示さないため、人々がこの言語との縁を持つのが大変難しい状態になっています。
 言語教育に携わるひとが人々とこの言語とが縁を結ぶ機会を育てることを考えないというのはまったく褒められたことではない、と言いたく思うのです。

 ひとつの学校に世界の全言語が学べるシステムを作ることはあきらかに不可能ですが、うまく分担して、できるだけ多くの人々と深いコミュニケーションができる人間を育てられるために、有効に多くの言語が学べるように――「人」とのコミュニケーションこそ大事なものなのですからここで「ポイントとなる言語」というのを考えるのは悪いこととは思いません――日本の言語教育をデザインしていくというのは、できないことではないと思います。

 英語ができる人はドイツ語ができる人より偉い、というわけはないです。
 またドイツ語ができる人はアラビア語ができる人より偉い、というわけでもないです。
 各言語教育関係者はお互いにリスペクトをもちあって、よりよき未来の創造のために協力すべきだと思うのです。そしてそれぞれの言語を学ぶ人たちの幸せで有意義な人生の下ごしらえをしてもらえれば、と思うのです。


 昨日、わたしの大学のオープンキャンパスのあるセッションで、例のアラビア語講座で習ったアラビア語の挨拶をしてくれた学生さんがいたとききました。
 これだけでも、いろいろ面倒を乗り越えてこの講座を開講したかいがあったものだと、感慨にふけりました。
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