おっ


 堀井憲一郎師が単行本を出しておられますね。
 『ねじれの国、日本』という新潮新書です。

 さっそく読んでみましょう。

 よく見てみたら堀井師はこれだけでなく『いつだって大変な時代』『いますぐ書け、の文章法』と三つ、本をやつぎばやに出しておられますね。全部書き下ろしってことはないと思いますが、たぶんこの時点でいったんお仕事をまとめてみられたかったのだと思います。

[追記] 『ねじれの国』ですが、まあこれは申し訳ないですけど普通の本でした。「若者を殺す」ような国になぜなってしまったかというのを突き詰めて考えると、やっぱりこの国の成り立ち自体がねじれているという話になるのは必定ということでしょう。2011.11.03.

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山あい


 フランス語に限らず、外国語学習の効用なんか一切認めないひとというのはいるものです。英語さえ一種のツール以上のものには見えない、ということで。

 そういう人は、なんか山あいに住んでいて、その山あいが一番いい、と言って動かない人であるような気はします。
 峠を越えれば見える新しい景色は、それを見るだけで意味があることは見てみれば明白なのですが、見てみないと明白にならないですね。というか、全然わからないでしょうね。

 だから自分は峠を越えて外を見てみる気は金輪際ないと言い張る人には、いくら山の向こうを見てみるといいよと言っても、詮ないことなのですね。

 またそういう拒否反応に、一種「自尊心の傷」のようなものが関わっているということはありえます。特に日本の人の場合、これは意外に大きな、大きな、決定的要素かも。

 外国語好きな人というのはそういう傷に鈍感なひとと定義できるかもしれないな、と思ったりします・・・
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精神的高みは横方向にもあり


 「かなざわ・だいがく」に入れたい話ですし、また「フランス語教育」の話でもありますけど、普遍性があるのでカテゴリーはこれに。

 文法知識を高く、こまかく積み上げて行っても、それだけではフランス語はできるようにならないです。というか、そういう姿勢ではある点を越えればむしろ弊害の方が多いです。
 ひとが論理的合理性を追求することが必要であることは論を待ちません。しかし論理の過度の追及は―― わたしはデリダが「現象学的声」と言っていたのは簡単に言ってしまえば、まず最初はひとりで必死にものを考えているとき頭の中で鳴っている「声」のことであったように思いますから、「音声中心主義を批判した」という表現のみでデリダの思想をまとめてしまうのはミスリーディングだと思ってます―― は、目の前にいる人間が何を考え、感じ、求めているかを理解することとイコールにはなりません。
 
 コミュニケーションというのは横方向の営みです。知的にも文化的にも、あらゆる面で相手と合わせなければならない。合わせたく思わなくてはならない。

 学び手に、知識を上へ上へと積み上げることにのみ精神的高さを感じさせる教育には、わたくしは反対です。それは現代の趨勢にすらあっていません。

 ヨーロッパは経済的に危機的状況ですが、その言語教育思想、欧州言語共通参照枠の底流を流れる精神は見習わなければなりません。
 「もし、相手がゆっくり、はっきりと話して、助け船を出してくれるなら簡単なやり取りをすることができる」"Peut communiquer de façon simple si l'interlocuteur parle lentement et distinctement et se montre coopératif" レベルを、最初のレベル、A1レベルの尺度としようという思想です。
 これこそ最終的に欧州の強さを形成する思想になることでしょう。

 このような、横方向にも精神的高みを見る思想、姿勢に敬意を覚えてこそ、世界の現勢に疎くなり、もとから苦手だったコミュニケーション能力の向上も進まず、ずいぶん世界での存在感を希薄にしてしまった日本が、米欧の旧勢力に互し、中国、韓国や新興国の追随にフェアに対抗して世界に貢献しながら発展するという将来的展望も開けるというものではないですか。

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モーパッサン


 去年に続いて今年も、恥ずかしながらわたくしが金沢市読書会主催「まちなかライブラリー」講師をつとめさせていただきます。

 11月27日日曜日13時半より、金沢の史跡、旧高峰家・旧検事正官舎―― ここはさすがに「品格」と風情があっていいところなんですよね――でモーパッサンのお話をさせていただきます。
 漱石がけなし、荷風が讃えたモーパッサンです。

 これは基本的に読書会の方向けの催しですが、若者は何人か入れてくれるそうなので、教え子には宣伝しています。



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ふう

疲れた。
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言いがかり


アルカイダの幹部(と称する人?)がアルジェリア国民に対して、国民を貧窮の状態に置いているアルジェリア政府を打倒するように呼びかけたそうです。アラビア語紙ですがAl-qudsに載ってます。

 チュニジアでもエジプトでも革命が起こり、モロッコだって憲法改正したのに、アルジェリアは何もやってない、というんですね。

 アルジェリア人は既に1988年に十分血を流して曲がりなりにも改革を実現し、しかし90年代にはその代償のような塗炭の苦しみを味わったという記憶があります。

 だから、何もやってないというのは言いがかり以外の何物でもないです。

 賢明なる読者諸兄は、アルジェリアが遅れを取っているなどという誤った認識をお信じになられませんように。

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梟雄の最後


 さんざん蛮行を重ねた一代の梟雄でしたが、逃げることなく自国に踏みとどまり、最後まで闘って死に、文字通り屍を曝しました。
 もっとも逃げて受け入れてくれるところもなかったのでしょうが。

 悪行は全て非難したうえで、この人物もかつては第三世界の輝けるリーダーのひとりと目されていたことも記憶しておきたく思います。

 ムアンマール・カダフィ、亨年69才。
 
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Gerald Toto, au New Morning


 ぐずぐずしているうちにこのブログでのエントリーが当日になっちゃいました。GTごめん!

 ジェラルド・トト、パリはNew Morning でのライブです。彼のオフィシャル・サイトをご覧になってください。

 パリ在住の方はぜひともぜひともお越しください。

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セザリア・エヴォラの引退


 知りませんでした。カーポ・ヴェルデ第一の歌手といっていいセザリア・エヴォラが9月23日に引退を表明していました。たしかに彼女の公式サイト―― 英仏葡語ですね ―― にもその旨書かれています。

 わたしは Jeune Afrique No.2647 の記事で初めてそれを知りました。

 もう彼女も70歳で、去年は心臓手術もしていて健康は思わしくありませんでした。
 もうツアーはやめるようにというドクターストップに従ったそうです。
 
 カーポヴェルデという国の存在自体を知らしめた偉大な歌手に休息の日々をお返ししましょう。
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アメリカとフランス


 「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展 印象派・ポスト印象派 奇跡のコレクション」(於京都市美術館。11月27日まで)。

 同時に同館でやってる「フェルメールからのラブレター展」―― あ、これ今日(10月16日)までですね ―― の方は待ち時間30分、40分で長蛇の列なのに、どうも目玉はゴッホの自画像であるらしいワシントンの方は即入れました。
 今は「炎の人」ゴッホではなく静謐なフェルメールが受ける、そういう時代なんですかね。

 もうひとつ、アメリカ合衆国の首都ワシントンの美術館の至宝がフランスの印象派だというねじれ感覚も違和感があったのでしょう。

 しかし、そういうものなのです。アメリカとフランスというのは、そういう関係なのでしょう。
 とにかくこのコレクションは素晴らしい。モネの「日傘をさす婦人」は同題材のものがいくつかありますが、これがベストのように思えます。
 アメリカ人コレクターの眼力と財力が、印象派の最良の絵画に大西洋を渡らせています。
 アメリカの画家とフランス印象派の画家の関係も非常に興味深いものがありますね。

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