ワールドベースボール・クラシック

 このエントリーはミーハーで統一がとれてない感じがしますけど・・・まあいいか。 (^_^;) でも確かにだらだら長過ぎますね。今後もっとコンパクトな書き方をこころがけたいと思います。

 もう既に少し前の話になりますが、ワールドベースボール・クラシック、最終的にすごい盛り上がりでした。(^_^)
 なんだか日本のためにやったような大会になりましたね。
 ストーリー的に出来すぎ。まるでマンガ。 (^_^;) 苦しいスタート、依怙贔屓判定によってより逆境へ。しかし天網恢恢疎にして漏らさず、おごれるア○リカチームは罪現れて(?)準決勝に残れない。3度目の正直で日本は韓国に見事リベンジ。最後は世界最強のキューバに一点差まで追い上げられてハラハラさせられながら見事勝利。
 このオハナシに日本国民が完全に乗っちゃってるんですから、「物語」の力の強力なこと、これをうまく利用するのがどれだけ有効であることか分かろうと言うものです。
 
 いろいろ感想を持ちました。

○ワールドベースボール・クラシックの「クラシック」ってなんなんですかね? ひょっとしてここにもアメリカの隠し隠謀とかありませんかね? 3年後に「第二回」をやろうとしたらアメリカが「ちょっとタンマ。ミッキ。3年前のやつは、あれは練習。あれは無し。ちゃら。流れ。今度のがホントのやつ。今度こそ第一回の WBC = World Baseball CHAMPIONSHIP」とか言いだすなんてこと、ないですかね? それでやっぱりアメリカが負けたら、また別のものが始まることにする、というのをアメリカが優勝するまで延々と続ける、とか・・・ (^_^;)

○あの例の「問題審判」さんですが、これだけ日本で有名になったんだからTVコマーシャルに使わない手はない。わたしだったら萩本欽一と組ませます。設定:欽ちゃん球団の試合でこの審判に頓珍漢な判定をさせる。当然監督の欽ちゃんが「なんでそうなるの?」と (^_^;) 帽子を叩きつけて抗議。ここで「ガム噛んで頭冷やそ」と・・・ロッテガムの宣伝になりますか。それにしてもロッテはいい選手持ってますね。

○イチロー選手はいつの間にかサラーム海上さんに顔が似てきてますね。 (^_^)

○『週刊文春』が日本チーム褒めちぎり、『週刊新潮』がぼろくそで好対照を見せているのは、暗黙の役割分担でもしてるんでしょうかね?

○決勝戦で一番大切なシーンというと、9回オモテにイチロー選手が放ったヒットのとき、ーーイチローはこういうところで観客の期待通りに打てるんですからさすがですーー川崎選手が右手でホームにタッチしたところでしょうね。既に「神の右手」という名前がついてましたね。マラドーナみたいですね。(^_^) だけどキューバ捕手のブロックも絶妙でした。そしてさらにあのホームインを、ここからしか見えないという的確な位置に体を持っていって裁いた主審にも敬礼。彼は名前覚えられてませんね。「デービッドソン」さんはみんな覚えてるのにね。「悪事は千里を走る」のに、良いことは人に知られないというのはこのことです。・・・あのあと、そのえらい主審さんから、日本チームの選手がダグアウトからはみ出て応援している行儀の悪さをたしなめられてましたが・・・

さて、それで・・・
○日本の人の危ないところというのは、不公平審判ひとりの存在のおかげでなんとなく「アメリカ人みんな不公平」みたいな印象を多くの人が持ってしまっている恐れがある、ということではないかと思うんです。つまり「日本の審判は技術も低く、精神力も劣る。アメリカ偉い。アメリカを見習うべきである」という認識からこの事件で一瞬にして「アメリカは不公平である」という認識に、完全に、全体的に、移行してる人がかなりいるんじゃないか、ということです。まあ今回の場合最終的に優勝しちゃったからみんな忘れるかもしれませんが。
 アメリカ人だって一枚岩みたいに全員が問題児でも、また全員が優等生でもないはずなんです(日本人がそうでないように・・・)。「外国」とか「他」とかの正しい認識というのは、このへんの確認、というか自戒から始めるべきかもしれません。
 こういう偏見というのは「アメリカ人」の実物のいろんなタイプに接すればすぐ解消することだと思うのです。ただ、こっちが英語で話せるとか相手が日本語話せるとかでコミュニケーションに問題がないのでなければ実効は薄いかもしれません。日本にはそういう場ってまだまだ少ないのでしょう。それに英語さえ、出来る人の率がはなはだ低いように思えますしね。
 つまり日本の弱点というのは、外国とのある程度知的な人間的接触がみかけのグローバリゼーションに比べてかなり貧弱だということと思うのです。だから意識的に多文化、多言語教育を充実させないといけないんですけど、日本人には「度し難いコスト意識」があるので・・・(X_X)  ずいぶん要職にある人がとんでもない偏見を外国に抱いたままであったりするのです。

 でさらに言うと、日本の人のそういう偏見の餌食になるのはフランス人の方が確率高いように思えるんですが、これはフランス語系人のひがみでしょうか? だってフランス人て実物は本当に日本には少ないし、日仏人が言葉の障害なしにコミュニケートしている場ってさらに少ないですからね・・・ そりゃ同じことは世界の他の全ての国や民族に関して言えることなんですけど、フランスの場合、日本でのプレゼンスが非常に抽象的でそこから妙に強固な固定イメージができあがってしまってますからね。これが困ると思うんです・・・
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光と音

77 Million Paintings by Brian Eno(於ラフォーレミュージアム原宿。4月3日まで)。

 この土曜日の午前、久しぶりに原宿に行きました。
 いいお天気。ありがたいことに花粉もあんまり飛んでません。やっぱりぶらぶら歩きに格好の場所ではあります。
 もっとも、着飾ったーーそしてちょっと気を張った? (^_^)ーーお姉ちゃんたちが竹下通りを歩くのに混ざっていると、自分の場違いさが強く感じられますが。金沢の竪町通りでもそう思います。「ううむ、ここにいる人の中で一番汚い格好してるのは間違いなくわたしだな」って思ってしまうのです・・・ (^_^;) 
 お客の子たちは楽しそうでいいですけど、働いてる人たちは大変です。地下鉄工事やっててますます道が狭くなってますから、商品搬入時の駐車のトラブルとか、多くなっているかもしれません。商品運んできたらしい男性が、交通整理員みたいな人と口論になって「本気で」怒り狂っているのを見ました。動いている車もちょっと流れが停滞すると大きなクラクションをパパっと鳴らしてくるし・・・ こういうシビアな、ギスギスした雰囲気というのは金沢みたいな地方ではみかけません。もちろんパリにはこういうのしっかりありますから、これが首都というものなんだろうなと思います。消費する側の幸福感と、消費させる側のストレスの共存のみせるコントラスト。

 さてそれでわたしは老舗ラフォーレ原宿の一番上の階でやっている Brian Eno, 77 Million Paintingsを見に行ったわけなのですが、これは面白かった。

 ブライアン・イーノというとわたしはもっぱら音楽の方の仕事しか知りませんでした(それもだいたい弟からの情報を聞いてるだけです)。でもイーノは映像の方も興味がないわけではなく、ただ音の方面でのシンセサイザーに相当するものが映像方面ではなかなかできなかったから後回しにしていたらしいのです。
 それで今は高性能のコンピュータが彼のコンセプトを具体化する映像処理を可能にしています。

 最初は分からなかったのですよ。ただの抽象映像がスクリーンみたいなものに映し出されているだけみたいで。なんやこれは。つまらん・・・
 でも見続けていると、それらの映像が、変わるポイントを意識できないほど(ここが肝心なのでしょう)ゆっくりゆっくりゆーっくり変わっていっているのに気づいて、ある時点でハッとします。
 ふーん、こりゃ面白い。うっかりしてるとずうっと見続けてしまう。
 もちろん例のごとき環境音楽も流れていますから、非常に心地よい。
 やっぱり第三室が一番面白いです。いちばん左下のスクリーンにときどき現れるアルファベットは、そのうち単語、文を形成するんだろうか? 「人体」の形象を様式化した映像がひとつだけあるようだが、これは全体の中で特別の意味作用(?)を司っているんだろうか?・・・

 こういうの、美術に詳しい人には「いまさら」なのかもしれません。けれどわたしには割と新鮮な体験でした。
 確かに21世紀の「絵画」というのはこういうものだと言うことは不可能ではないように思います。これだけじゃないでしょうけどね。

(06.03.27.一部字句修正しました)
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rai info/ライ・ニュース 031 追悼

DECES DE REIKO KIDACHI, JOURNALISTE JAPONAISE A PARIS

 木立玲子さんが亡くなられました。[報道]
 お会いしたことはありませんが、フランスやフランスに集う世界の文化の紹介者、一級のライターとして早くから存じ上げておりました。
 お書きになることは常に的を得たものでした。ライに関しても、『ラティーナ』に書かれたリミッティとの貴重なインタビューやハスニ暗殺のころの情勢の報告などは、フランス語文献と並ぶライの基礎的資料の一部をなしています。
 まだまだ何年も一線で活躍して欲しい方でした。まだ52歳というのでは、早すぎるご逝去が惜しまれてなりません。

 謹んでご冥福をお祈りしたく思います。
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お詫び

 風邪を引いて寝込んでおりまして、お詫びが遅れました。
 3つ前のエントリーで予告いたしましたケイジャン、ザディコのビデオですが、結局18日のフランコフォニーの夕べでは見ることができませんでした。
 これはわたくしが今回の進行のコンセプトを了解していなかったためで、わたくしの責任です。
 ごめんなさい。
 これのために来て下さった方がおられましたら、まことに申し訳なく思います。
 できればどこかで埋め合わせができますよう、努力したいと思います。
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・・・と思ったら

 ・・・と思ったらなんとアメリカがメキシコに負けて、日本たなぼたで準決勝進出ですね。いや驚いた。ジーコ監督も運が強いけど、王監督も案外ついてますね。(^_^)
 これでまた日本対韓国ですか。三度目の正直でもし日本が勝ったりしたら、韓国の人はくやしいだろうなあ。
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韓国!

 ワールドベースボール・クラシック、日本は韓国に負けちゃいました。
 オリンピックのメダル争い(わたしメダルメダル言うの嫌いですけど)では個数も獲得率もぜんぜん負けてるし、浅田真央選手は金妍兒選手に負けるし・・・
 きのうの『報道STATION』ではネット化で断然日本より先を行っている韓国のネット犯罪のレポートがありましたね。

 「お隣」にどうしても勝てない、という時代が日本にも来る(来た?)かもしれないな、という感慨を持ちます。

 ところでこういう感じって、フランスが何世紀も前からイギリスに対して持ってきた気持ちだと思いますよ。
 フランス人が英語嫌いだ、という話を面白おかしく語るのがこれまで日本でのよもやまばなしのひとつのパターンでしたが、そろそろ日本人もフランス人の気持ちがわかる時代になるかもしれません。

 将来、韓国語の方が日本語よりも世界で通用する、という大勢になっていったら、日本人はどうするでしょうね? ありえないことではないですよ。英語がフランス語を追い抜いたという例もあるわけで・・・ 日本語の方が韓国語より表記法がはるかに複雑でマスターするのに膨大な時間と労力をかけないといけないですしね。日本語学んでも、日本の人間は魅力がないし、日本語で接することのできる文化もたいしたことない、と外国人に思われるようになってきたら・・・ (^_^;)

 別にわたしは韓国を倒せ、てなナショナリズムを持つ気はないです。両者がよきライバルとしてしのぎを削り、お互いに向上するきっかけになっていけばいいと思います。昔の英仏のライバル関係よりもっとはた迷惑でない形で・・・

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フランコフォニーの夕べ:ケイジャンとザディコ

 18日土曜日、東京は市ヶ谷の東京日仏学院で16時から20時までフランコフォニーの夕べが開かれます。
 この催しにはフランス語圏諸国代表に混じって日本フランス語教育学会も参加しております。そのスタンドに不肖わたくしも入りまして、とてもめずらしい日本特産の飲み物「オサケ」をふるまう係になるんですが、f(^_^;) バックにCajunとZydecoのビデオを流す予定です。これらはご存知の通りアメリカ・ルイジアナのフランス語話者マイノリティに伝わる音楽で、ケイジャン=白人系、ザディコ=黒人系ということになります。
 興味のある方はぜひ覗いてみてください。お待ちしてます。 (^_^)y
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グナワ

 去る10日はアラブ理解講座(於国際交流基金国際会議場)でサラーム海上さんのグナワ・レクチャーがありましたので、ちょっとグナワのことを書きます。
 ちなみにグナワって主にモロッコに伝わる民俗音楽で、最近西欧の音楽シーンからも注目を集めているものです(例の映画『愛より強い旅』の最後の方ででてくる『トランス』という曲でもグナワの楽器が大きく取り入れられていました)。

 CDでも本当にグナワを聞こうと思ったら:時間はいくらでもあると思える時で(もっとも日本にはいったん社会で働きだすと、もうそんな時間ありません、という生活になっちゃう人が多いんですけど)、ゆーったーりとした気分で、音楽に完全に身を委ねてしまえる体制が整っているときだといいんですけどね。
 でも、それでなくてもグナワって素晴らしいものです。

 サラームさんにひとつだけ反論。日本の普通のリスナーにグナワが単調で退屈に聞こえるとは、必ずしも心配しなくていいんじゃないかという気がするんですが。
 単調と言えば、ジェイムズ・ブラウンのファンクだって単調ですし、ラップは常に単調じゃないですか。
 サラームさんはモロッコの現地に行って何日も朝から晩までグナワ漬け、というようなのを経験されているからそう思うのかもしれないですけど、日本で売っているCDに入っているようなグナワ、とくにジャズ等とフュージョンしたグナワなどを聞くぶんには、単調さは問題にならないと思います・・・
 と専門家に反論してしまいました。 m(_ _)m

 鉄製カスタネットのカルカべがチャンカコンチャンカコンと永遠に鳴り続けて頭に充満するのを、ゴミ箱に箒の柄を付けたみたいな楽器ゲンブリの低い音がベベンベンと妙に心のツボに突き刺さってくるのを、皆さんもいちど体験してみて下さい。 (^_^)y
 
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カンボジアのゴング

 「みんぱく映画会:カンボジア少数民族の音の世界」(3月5日、於国立民族学博物館講堂)。

 大阪・吹田(わたしの生まれた町。 (^_^;)y )の万博公園内にある民博の催しです。
 カンボジアの奥地で使われているゴング、つまり例の金属製の丸い板をゴンゴン叩くあれですね、あれを使った音楽の記録映画とお話でした。わたし自身はこんな大変なフィールドワークはできませんが、寺田先生、福岡先生のご努力の性質がいくらか想像できる気はしました。

(わたしもカンボジア方面にまもなく出かける人を約一名知ってます。いってらっしゃい。気をつけて。 (^_^)y )

(以下、面白かったですから内容をこうやってブログに書かせていただきますが、こういうのは差し障りはないんでしょうね? もし問題があるのでしたら、ご指摘いただければすぐに取り下げ、謝罪させていただきます)

 場所は国の北東部ラッタナキリ県の、クルン人という人たちの映像が多かったように思います。
 何人もの男性がひとつづつゴングを持って無表情につったって写っている映像は、なんだか北野武の映画を思わせました。 (^_^;)
 金属製のゴングは、70年前くらいにはまだカンボジアに行き渡ってはいなかったようです。そのまえは竹を割ったような楽器(?)でやっていたのですね。金属製のゴングはヴェトナム人が売りにくるのを買うのです。だから「物」は完全に外国のものです。
 クルン人の現地コーディネートの人のお話も興味深かったです。
 普通のゴングは水牛2頭と交換くらいの値段なのに、水牛12頭分もした素晴らしいゴングがあったんだそうです。それが大虐殺時代にポルポト派の連中に没収され失われてしまったのを、彼はいまも悲しく思っているんですね。

 夢枕獏+岡野玲子『陰陽師』に「玄象」(げんじょう)って名前をもった琵琶の名器が出てきていたのを思い出しました。あれはたぶん実在の、そして歴史のいつかの時点で滅んでしまった楽器なんでしょうね。玄象も唐渡りの外国製品でした。買うときずいぶん値段ははったでしょうね。

 上映会が始まる前に、何年ぶりかで民博を見て回りました。面白いところですから、行ったことない方はぜひ一度見に行かれることをお勧めします。
 この博物館の中の文字の解説が全部日本語だけというのは、ある思想の存在を物語っているんだと思います。
 他方、ツタンカーメンの黄金マスクとかがあるエジプト、カイロの考古学博物館(何千年も前に作られたでかいミイラの棺があきれるほどたくさんガラクタみたいに積み上げてあるのが壮観)の解説は、茶色くなった古い紙の上に、アラブ語がなくて、「英語とフランス語」です。
 この二つの事例を対比してじっくり考えるというのが、現在の世界のありのままの姿に肉薄するためのよいとっかかりの一つかなという気がします。
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Yallah ! Yallah ! 2

 このCDについて語るのが、大変大変遅れてしまいました。
 いまさらという感じですが、サラ―ム海上さんの作ったコンピレーション Yallah! Yallah! 2 はいいですよー。 (^_^)

 でも今頃これについて語るというのも、意義のあることと思ってます。
 コンピレーションというのは、いろんな曲が入っていて便利である反面、全体としてのまとまったイメージを抱きにくい難点があると思います。あまりCD持ってない人がこのCDだけずっと聞き込むんだったらまだいいです。しかしかなりの数の新譜をとっかえひっかえ聴くような生活をしていると、コンピというのは忘却のなかに埋もれて行くパターンに一番はまりやすいものとも言えると思います。まして聞き慣れない長い名前のアーチストの意味不明のタイトルの曲が16も入っているCDなど、かなり危ういです。
 しかし「好きになること」というのはかなり微妙な過程でして、なんかの「とっかかり」があると、ある特定の作品にたいして「ストン」とくるというかピンと来る率がぐんとあがるのでしょうね。
 このYallah! Yallah! 2 に関する限り、わたしは9番目の My Heart My Life -- 今は亡きNusrat Fateh Ali Khanと Michael Brookによるすばらしい、優しいコラボレーション -- というとっかかり、「馴染み」を持ちましたから、これに再会するためにこのCDをしまい込むことができず、繰り返し聞くうちにまた周囲の曲たちにも「馴染み」が広がって行く、そんな体験をしたように思います。
 他の人では冒頭のRachid Taha, Rock the CasbahやREG Project, Lela Lela など他の曲が「馴染み」となって、周りの曲に愛好が広がるかもしれません。

 なおこのコンピの姉妹盤にShanti Shanti というのがありまして、こっちは Spiritual chill compilation となっています。Yallah! Yallah! のアンビエント盤てことでしょうか。ベースになっているのはインド、チベット、パキスタン等々の神聖な音楽です。坊さんたちはこういう風に自分の声にシンセサイザー音がぶわーっとかぶさるみたいなのが非常に快感で、そのノリで勝手にトランスしとるらしい、という話がありますね。
 5番のLama Gyurme のOffering Chant は、意味分からないはずの歌詞(?)がなんとなくフランス語に聞こえて(ひょっとしたらほんとにフランス語なのかもしれない・・・)、なんとも珍妙です。
 「いわゆる、子供が怖がりそうな音楽やね」と言いながらも「でもこういうの、たまらん」と言って喜んで聞いているのは、うちの弟です。 (^_^)
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