ありがとうございました!


 本日首都に出現しまして、ハレドのお話をお噺させていただきました。

 東京渋谷、ダイニングバーLi-Poでの第44回新音楽夜噺には多数の方にお集まりいただき、まことにありがとうございました。

 みなさまに興味深い音源にも触れていただけたかな、と思います。

 真保さん、的確に司会していただき、まことにありがとうございました。
 みなさま、わざわざおいでいただきまことにありがとうございました。

 でも、話してて思いますけど、ライについて語りだすと、どこまでも続いていく、際限のない話になりそうですね。

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世界はハイチ(ハイティ)に何を負っているか


 ご存知の通りハイチを大地震が襲いました。

 先日のJournee de decouverte de la Francophonieでご一緒したハイチ大使(御名刺の肩書には「ハイティ大使」とありましたので、あとはこの表記にします。もっともホントのホントには「アイティ」なわけですが)にはお見舞いの手紙をお送りしておきました。この国は今でもフランス語を公用語とする国です(先のイベントについてわたしは「アメリカ地域」と書いてしまってますが、実際には「北米・カリブ地域」であり、ハイティはそのトップでした)。

 この国、というかハイティ系、より巨視的に見ればハイティを通過したルーツを持つ人々は、ずいぶん世界に貢献していると思います。

 まずなにより、世界で初めて黒人共和国を建国するという快挙を成し遂げたということがあります。
 この国がフランスへの賠償金支払いにあえぎ、アメリカに占領され、現在に至るまで苦難の歴史をたどっているのを目のあたりにすると、どうしてもそこに「みせしめ」みたいなものを感じてしまいます。

 アメリカ合衆国の黒人、アフリカ系の人たちというと「黒人」というカテゴリーでひとまとめにされる傾向があると思いますが、実際はかなりの多様性を持っています。ご存知の通りアメリカ合衆国にはフランス語系アフリカ人の人々がいて今も細々ながらフランス語文化を伝えています。
 ハイティ系の人が現在どの程度フランス語文化と関わりがあると言えるか分かりませんが、ともかく彼らはいったんフランス語文化を通過したルーツを持つ人たちであり、アメリカ合衆国にかなりの数の人がいます。
 たとえばニューオーリンズでジャズを誕生させた人の中には、フランス、スペイン統治時代に住みつき、裕福で教養を持ったアフリカ系の人々がいましたが(ジャズの最初の巨人といっていいJelly Roll Mortonは本名Fernand Joseph Lamotheといういかにもフランス語という名前のクリオール系の人であり、西洋クラシック音楽の素養を生かしてこのジャンルの発展に大変貢献しました)、そこにもすでに西インド諸島、とくにハイティから渡ってきた人たちも相当いたはずなのです。
 どうもこのあたりの歴史はわたしの目に触れる範囲の資料では簡単なことしか書いてなくてはっきりしたことが分からないのです。詳しいことの分かる方は教えてください。

 ニューオーリンズのジャズというのは、その後アメリカが文化的武器の最強のものとして持つことができたアメリカ音楽(その最後の巨星がマイケル・ジャクソンということになるでしょう)の原点だと思います。

 バスキアみたいなハイティ系アーティストもたくさんいます。アレクサンドル・デュマは祖母がハイティ(まだそのころはサン=ドマングですが)の人です。

 近代黒人解放運動の父DuBoisもハイティ出身の父を持つ人でした。
 彼自身は自分の名をデュボイスと呼ばせたがったところからも、フランス語的アイデンティティは持ち合わせなかったようですが。

 しかし国際連合の公用語を決めるとき、英語だけでなくフランス語と二言語ということに決まったのはハイティ代表の貢献が決定的だった、という逸話もあります(これまた裏付けになる信頼できる情報をわたしはまだ見つけていないのですが)。いまでもハイティはまぎれもなくフランコフォニーの積極的な一員となっているのです。

[追記] もちろんトゥーサン・ルヴェルチュールがいますね。
 ヴォ―ドゥー教とその音楽がありますね・・・ 10.01.29.

[追追記] ハイティのクレオール語はルイジアナのクレオール語に非常によく似ているという興味深い話もありますね・・・ 10.01.29.
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フォーデルのニューアルバム:ヴァリエテ=ライ?


 フォーデルのニューアルバム、Bled Memory入手しました。

 さて音の方ですが。

 ハスニの『バイダ・モナムール』から始まってライ(とその周辺)のスタンダード(CDのセロファン袋の上には「ライの最大のスタンダード・ナンバーのカバー」Les Plus grands standards du rai reinterpretesとあります)を並べてありますが、やっぱりフォーデルは今回も正真正銘のライというものにはならなかったように思います。

 ライというのはいろんな歌い方、演奏の仕方があるから理論的にはなんでもあり、なんでもライに聞こえてもいいはずなんですが、やっぱりそれでもこんな風にはしない、というものがあります。

 別にけなしているわけではありません。
 「フランスの歌謡曲」であるヴァリエテを聞いているリスナーにライを聞かせたいというときは、こういう音が向くかな、という気がします。

 まあもう少し聞きこんでみますね。

 ところでCDの謝辞のところの冒頭に:

 Choukrane a : Ma femme Anissa et mon fils Enzy qui m'apportent beaucoup de serenite et de bonheur.
 大きな平穏と幸福をもたらしてくれるわが妻アニッサ、わが息子エンズィにシュクラン(ありがとう)。

 と現在形で書いてあるんですが、息子を連れて彼から去って行った奥さんがまた戻ってきたという話は聞いてませんね。フォーデルの心の中で、という話なんでしょうか。

 痛いですね。相変わらず・・・

[追記]  上の「もたらしてくれた」を「もたらしてくれる」に修正しました。現在形ですもんね。
 さて、聞き続けてみると、フォーデルはフォーデルなりにずいぶん頑張ってると思えてきました。とにかくBaida mon amourやAna ma hlali ennoum、Zinaなどのフォーデル・バージョンがスタジオ録音盤で出たということにすでに意義がある、というところでしょうか。2010.01.27.
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アンヌ・ローヴェルジョンの「反白人・差別発言」

(このエントリーをご参照ください)

 仏原子力企業AREVA総帥、フランスでもっともパワフルな女性、アンヌ・ローヴェルジョンが「人種差別」発言をしたという報道をみてびっくりしたのですが、よく見たらこれは去年の10月16日の話なのですね。
 まあでもわたしが知ったのは今日なのでブログに書いておきます。

A compétence égale, et bien, désolé, on choisira la femme, ou l’on choisira la personne venant d’autre chose que le mâle blanc, pour être clair.
 「能力が同じなら、申し訳ないけど女性を採用しますね。もしくは、はっきり言えば『白人男性』でない人をね」

と彼女が発言しているところがテレビで放映されてしまい、激しい反発を買ったということです。そんなこと言うならすぐ辞任してアフリカ女性に職を譲れ、等々・・・

 フランスって基本的にマッチョな国なんです。

 彼女も女性であることでずいぶん苦労させられてきたのでしょうね。そんなところからついこういう発言をしてしまったんでしょうけど・・・
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 今日、駅のトイレに入ろうとしたとき、例の黄色い看板が見えました。

 隣を歩いていた人たちが、「あ、清掃中ですがご利用になれます系かな?」と言っているのが聞こえました(聞き違いでなければ)。

 そうですね。これ、清掃中だから利用できない、というのと場合が二つありますね。

 しかしこういうときに「系」って言葉を使うとは。この言葉ほんとによく使われるようになりました。たぶんそのうちすたれるでしょうけど。

 このフレーズ、意味内容だけならフランス語に移せるでしょうが、そこに含まれている「気持ち」を過不足なく移す、というのはできそうもない気がします・・・
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コミュニケーション力

 ふう。
 週末で一息ついてます。でも今週は大変です。(あ、土曜日の新音楽夜噺はなんとか準備できてますから、当日は気合いれてがんばりますので乞ご期待です。できましたらLi-Poさんに予約などを入れておいていただけると幸いです)

 注文していた『あずまんが大王』のフランス語版が届きました(もっとも第四巻が品切れで欠けてますが)。

 四コマ漫画の翻訳というのは、かなり骨の折れるものだという感じがします。笑いが成立するためにテキスト外の文化的コンテクストに頼っているところが大きい、というのが理由としてあげられるでしょうか。
 また、これでフランス人、笑えるのかしら? 笑えるとしても、日本語を読んで笑っているひとと「同じ笑い」を笑っているかしら・・・と考えると、たいへん趣き深いものがありますね。

 ところで今わたしは、同じマンガの日仏バージョンを並べて教える、というやり方をやってるのですが、このやり方の最大の利点のひとつは「日本語の構文をそのまま移し変えなければならない、という意識を捨てさせられる」ということだと思います。

 わたしの同僚の阪上さんの関心が最近「受身表現」に向いてまして、日本の学生は「~られる」という受身形を見ると自動的にetre (be動詞です) + 過去分詞という形にしたがるが、こういうオートマチスムは解消しないといけない、というようなことを言っておられます(と思います)。構文を自動的に移し変えてしまうと、往々にして不自然なフランス語になってしまうのです。

 こういう状況下でこういうことが言いたいとき、フランス人の口に自然に出てくるのは、(たとえば)どういうフレーズか、というのが日本マンガの仏訳だとはっきりわかる気がします。

 体育祭で、自分のせいでクラスが負けてしまうのではないかと泣き出してしまったチヨちゃんの頭にポンと手を置いて、「・・・大丈夫・・・まかせろ・・・」とだけつぶやいて競技場に向かっていく榊。
 それを見ていたカオリン(この人は榊に惚れてます)が「くぁー!! かっこいーっ!!」と叫ぶわけですが、この心の底からの叫びを外国語で過不足なく、自然に、的確に表現できることーーこのあたりにわたしは、大げさかもしれませんがコミュニケーション力の原点があるように思うのです。

 ・・・ただ、こんなことが次に気になりますね。
 ここはフランス語(Eve Chauvire' 訳、Tsukasa K.協力とクレジットされてます)では Ouah ! Elle est trop geniaaal !! となっているのですが、「くぁー!! かっこいーっ!!」とOuah ! Elle est trop geniaaal !! が完全に同じ「こと」、同じ「思い」を表現しているかというと、先にも述べたとおり、なかなかそうと断定できないでしょう。
 そこにあるある種の「気持ちの偏差」のようなものが授業で伝えられればいいのですが、これ、なかなか難しいですね。

 
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眠い


忙しいのでめちゃくちゃな時間に起きて仕事してます。これでもおっつかないや。
眠い、眠い・・・
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坂本龍馬とフランス


 「ニッポンと世界をどないしましょう?」にふさわしいタイトルのエントリーですね。

 最近、坂本龍馬にはまってます。

 NHK大河ドラマ、昨日は最後の15分しか見られませんでしたが、続けて見てます。福山雅治は相変わらず男前です。

 ところで坂本龍馬というとわたしは、彼のイメージには虚構部分が大きいのだろうなとずっと思ってました。業績の扱われ方が実証的でないまま逸話的なものが一般にどんどん流布していている、という感じなのだろうと。
 とくに、龍馬の生涯を非常にうまく書いたのがあの司馬遼太郎なので、ますますその印象が強かったのです。

 「司馬遼太郎は、プロレスである」

という名言がありますね(と言っても知っている人はほとんどいないでしょうが)。脚色がきつすぎるという意味ですね。

 ただでさえ文学、モノガタリというのは強力なものなのに(『赤と黒』のモノガタリとしての力について前に書きました)、特にこれが読ませる力をもった「歴史小説」となると、書いてあることが「本当にあったこと」「本当に人間がなしたこと」としての重みをもって、人の人生を文字通り左右します・・・ 

 というか、これこそ文学の一番の社会的機能と言うべきかもしれません。
 叙事詩『アエネイアス』を以てローマ帝国の礎にしようとしたアウグストゥスも、人々が輝かしいローマ建国モノガタリを信じて、ローマ人としての一体感とプライドを持つようにしたかったのです。

 たぶん、今の時期にNHK大河ドラマで龍馬を扱う、というのにも誰かの政治的意思が影響しているのでしょう・・・

 ところでその司馬遼さんの『竜馬がゆく』は、文庫本の第八巻からはじめて逆に読んでます。わたし、白状しますが小説を第一ページから読み進むというのは苦手なのです。「冒頭」、文学理論でいういわゆる「incipit」というもののわざとらしさが、わたし嫌なんです。適当なところから読み始めるのが好きです。
 ただこのたびはそれだけでなく、第八巻に司馬遼太郎のあとがきがまとめてあるということがありました。意外と(?)司馬遼太郎が自分の仕事の虚構性をよく意識していて、それをそんなに隠そうともしていなかったのではないか、という気がしました。

 わたしとしては、かのメリメが『カルメン』にわざわざあとから妙な蘊蓄を傾けただけの第四章を付け加えたのを思い出します。
 メリメはおそらく「わたし、プロの作家として当然ながら読者に受けるように技巧を凝らして書いちゃったけど、これは虚構なんですよ。ジプシー=ロマって美女はいないし、迷信深くもないし、カルメンみたいなキャラクターは、ほんとはいないんです」と言いたいんだと思います。作家的良心から言っているんです。
 だから、この第四章の後付けの真意が分からない文学研究者があれやこれや言っているのはまことにおかしいことだと思ってます。

 それやこれやあって、わたしは坂本龍馬はやっぱりほんとうに偉かったのだろう、と思い始めてます。

 ところで龍馬のモノガタリの中では、フランスはどうみても悪役の方ですね。だって軍事援助から始めて国を乗っ取ろうとする外患、日本が警戒しなければならない危険な外国ナンバーワンですもん。
 幕府側についたフランスは龍馬にとって、倒幕側についたイギリスよりイメージ悪かったでしょうね。
 そのうち大河ドラマにもロッシュが出てくるだろうな。きっと老獪で、憎さげな顔した俳優が演じるんでしょうね・・・

 もっとも司馬遼太郎は竜馬がフランス製の香水好きだったという話を書いてますが、これはほんとですかね?

 
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センター試験と震災15年


 今年も金沢大学はセンター試験の会場となりました。

 わたしは常より、悪天候の可能性も高いし、寒くて風邪をひきやすい冬の季節に、人の一生を左右しかねない重要な試験を全国規模でやるのはいかがなものかと考えている人ですが、室温がしっかり温かく確保できるなら、陽光に輝く雪景色の中で試験を受けるのもまたよいかな・・・と思ったりします。

 上は、キャンパスの駐車場の方を撮ったものです。左に見える温室みたいなのは屋内プールですね。

 なんかスキー場みたいでしょ?

 
 ところで今年センター試験の二日目だった17日は、あの神戸淡路震災から15年目の日でした。
 わたくしは関西を離れていて被災はしなかったのですが、あの震災からずいぶん運命が変わったような感じがしています。
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キング・ハレド


 このエントリーで予告いたしましたが、新音楽夜噺でハレドのお話をさせていただく日が、だんだん近づいてきました。1月30日です。ちょっとプレッシャー感じますね。今回は「ライ」じゃなくて「ライの王様」を扱うわけなので。

 当日聞く曲を選ぶために、いま彼のアルバムを聞き直しています。

 やっぱりうまいですね。ほんとにうまい。
 結局、ライの"KING"は彼の他にはいないのです。全盛期のマミでもハレドを抜くことはなかったな、というのが今にして分かります。

 とにかく1月30日はこれまでの名曲、いわくつきの曲、試みの曲、いろいろ取り交ぜることにいたしますが、また昨年彼が発表した『リベルテ』(↑)の意義についてもお話しさせていただきましょう。

 ナビルからの最新情報で、ハレドは最近ステージのスタイルも大きく変えたことが分かりました。

 このあたりもご覧になっていただきたいと思ってます。

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