故郷


17. (↑これもボケボケですが、まあないよりましか。グルノーブルの建物の間から山を見たところだったんですが)

 図書館からジャン=イヴの友達のベルナールさんのやってる古本屋にいつもどおり寄って、二人でちょっと回り道していると、ばったりディディエさんに会いました。グルネット広場から公園に抜ける道のところです。

 スタンダールだけでなく18世紀・19世紀文学研究の権威、パリ高等師範学校元校長、偉い偉いベアトリス・ディディエさんですが、この日は年末のお買い物。「○○をどこかで売ってませんかねー」とジャン=イヴに聞いてました(何が買いたかったのか忘れてしまった)。

 知らなかったんですが、ディディエさんはドーフィネ、つまりグルノーブルを中心とする地方の出身なんだそうです。老後はやっぱり故郷に隠退するつもりなんでしょうね。

 ジャン=イヴやディディエさんにとっては、スタンダールというのは生まれた土地の輩出した傑物なのです。彼を愛し、研究することはごく自然なことなのですね。
 そうやって続いていくものが「伝統」「文化」だと思います。
 これを一生続けるなら、たとえそこから金銭や名誉を得ることが一度もなくても、その人生は確実に意味のあるものになると思います。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

図書館


16.グルノーブル市立図書館では、ちょうど旧スタンダール博物館の所蔵品展をやってました。新しい場所に移転する引っ越し途中なんです。『アンリ・ブリュラール』の一部を映画化した短編も上映してました。

 ここの上の階にスタンダールの手稿のほとんどが保管されてます。今回国家が買い上げた日記もここに加えられるわけですね。
 今回は上まで行きませんでしたが、ここでスタンダール手稿の現物を見せてもらったのは数年前です。パリの国立図書館閲覧の煩雑な手続きに比べれば、グルノーブル図書館の扱いがずいぶん簡単であるのに驚いたものです。基本的にはパスポートだけで見せてもらえましたからね。もっともジャン=イヴの紹介はあったんですが。それにそろそろ紙がやばいですから、今はもう閲覧制限が厳しくなってるかもしれません。

 パリの国立図書館は、手稿部門だけ移転せずにリシュリュー街の旧館に残ってるはずですね。
 ここは全然別の調べもので二、三度行きましたが、中世修道院的静寂が支配する場所かと思っていたら、そうではなかったです。床が嵌め木になっているので、司書や閲覧者が行き交うとキュッキュッと音が出てかなりやかましいんです。それだけ意外な活動的雰囲気があります。

 上の写真は図書館横から南の山を撮ったもの。雪が少ししかない(あれ、これだけなぜか携帯のカメラで撮ってますね。ボケボケでぜんぜんわかりませんね。 (^_^;) )。
 やっぱり地球温暖化なんでしょうね。里がこれだけ暖かくて山にこんなに雪がないというのは。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

"bouton d'or"

15.リュックに水とパンとチーズを入れて、市場で紙袋一杯サクランボを買って、それを持ってくちゃくちゃ食べながら山歩きする、というのはDominiqueのスタイルでした。

 そうね、彼女と会ったのもこのヴィラール・ド・ランスのあたりだったです。もう20年以上も前のことですが。わたしはグルノーブル大の語学講座に行ってました。ジャン=イヴと知り合うよりずっとずっと前のことです。

 パリ近郊生まれだという彼女は植物に詳しい人で(たぶん周囲を山に囲まれたグルノーブルは彼女のような人には理想郷なのでしょう)、いろいろ教えてくれました。
 ヴェルコールの植物相は地中海性だけど、イゼール川を越えたシャルトルーズ山塊は前アルプスに入るのだ、とか。
 たくさんたくさん咲いている黄色い花の名前を聞くと、それは"bouton d'or"というのだ、とか。
  
 探してみたら、ありましたね --ネットは偉大だ!--、これこれ。

http://www.allopix.com/details-824.html

これがヴェルコールには一面に咲いてるんです。

 ドミニクはパリ人なのに素晴らしく発音に趣きのある人でした。いまでもわたしは o の鼻母音をしっかり発音しようとするとき、彼女が bouton d'or と言うときの深い深い on の音を意識してるみたいです。

 残念ながら彼女とのラブストーリーってのはなかったんですが (^_^;) ときどき家には遊びに行きました。でも行ってみると、彼女と部屋をシェアしている女の子から「ドミニクはまた一人で山歩きに行ってるよ」と言われることがありました(そんなことをやっていたということは、あのころ彼女のところは電話がなかったんですね。そういえばわたしのところにもなかったな)。
 それと、あのころの彼女はどういう生活状況だったのか、よく分からなかった。これからどこだかの学校に行く、とか言っていたような気はしますが・・・

 グルノーブルを離れたあと、それっきりドミニクとは音信不通になっちゃいましたが、いまごろどうしているだろうか。

 きっと一人で山歩きしてるんだろうね。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

和む


14.ジャン=イヴと市立図書館にお出かけです。こごえる身構えをして外へ出たら・・・
 あれ? 暖かい・・・

 年末のグルノーブルでこれほど大気が柔らかいことはなかったです。
 陽光もきらきら。

 地球温暖化とかいろいろ頭をよぎりますが、ともかく和やかな気候にすなおに喜びを覚えないわけにはいきませんでした。

 上は市内から遥かに見えるヴェルコール Vercors 山塊(ん? 本体はもうちょっと左かな?)。むかし対独レジスタンスの闘士の隠れがとなっていたことで有名です。作家で、秀逸なスタンダール論を書いたジャン・プレヴォー Jean Prevostはレジスタンスに参加して、ここで命を落としたんですね。

 でもヴェルコールはほんとに楽しい遠足のできるところですよ。
 久しく行ってないな。
 山の上は、浸食が進んだ地形ということなのか、丸くてなだらかなのです。
 春は花が咲き乱れます。
 バスでVillard de Lansというところまで行って、そこから歩いて降りてくるんです。
 水と、パンと、チーズと、サクランボだけ持って。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

署名

13.で、その落札のことですが、ジャン=イヴは当日、Drouotの現場にいたんです。で、彼の目撃談。

 80万ユーロ! というところで落札。価格が決まると間髪を入れずに政府関係者が「先買権を行使します」と宣言するんだそうです。あまり落札価格が高くなると政府もお金が出せなくてこれが言えなくなっちゃう、ということなんでしょうね。

 スタンダールの自筆日記の国家買い上げが決まった瞬間、これまたアマチュアだけどスタンダール好きのお爺ちゃん、ウーベール Houbertさんがケータイの向こうにいるジェラルド・ラノー Gerald Rannaudさん(グルノーブル大の元先生です)にむかって、

「ジェラルド、聞こえるか? 取れた! 取れた!」Gerald, tu m'entends ? On l'a, on l'a !!!

とどなりつづけ、ひとりで騒いでまわりの顰蹙を買ってたそうです。 (^_^;) ウーベールさんのはしゃぎぶりが目に見えるようだな。
 思うんですが、スタンダールみたいな昔の作家の研究家、とくにウーベールさんみたいな定年後に趣味的に研究やってる人たちというのは、フランスでも一番お上品な人たちでしょうなあ。その彼が顰蹙買ってる図というのはなんともユーモラス。 (^_^)

 ところで今回の競売でフランス国家にスタンダール日記を買ってもらえるよう請願した人々の署名がここにあります。へへ、わたしの名前も入ってます(わたしは外国人だけど、やっぱりこういうものはグルノーブル市立図書館に置いて研究の便に資するべきだと思います)。

 しかしジャン=イヴの家ではじめて気がついたんですが、署名のなかに

Jacques RIVETTE (Cineaste)

というのを見つけたのにはびっくりしました。(*o*) CrouzetさんやBerthierさん、Didierさんの名前があるのはまあ研究者だから当然なわけですが、スタンダールの日記の行方にジャック・リヴェットが関心を持つとは。誰かに誘われたのかなあ。

 ともかく、わたしの名前がこの高名な映画監督の名前と同じリストの上に載るという栄誉を、この件のおかげで得ることが出来たわけです。 (^_^)y

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

本の値打ち


12.本というのは Ernest Abravanel 未亡人が夫の蔵書を、例のスタンダール日記と自筆注入り『パルムの僧院』の落札のために少しでもたしになれば、ということで寄贈してくれたものでした。

 エルネスト・アブラヴァネルというと有名なスタンダール研究者でグラン・シェーヌ Grand-Chene (大きな樫の木)という趣きある名前の本屋・出版社をスイスでやってました。有名なスタンダール研究家のアンリ・マルチノー Henri Martineauもパリの本屋さんですから、作家研究ってだいたいそうなのかもしれませんが、創成期のスタンダール研究も本屋さんに支えられていたところがあります(そのへん、れっきとした大学人のデル=リットさんはちょっと気に入らないところがあったみたい)。
 
 本は段ボール箱十数個分ありました。
 でもわたしが来た時にはもうめぼしいものも買い尽くされてたいしたものは残ってなかったです。残りをこうやってジャン=イヴが管理してるわけなんですが、彼が一冊一冊わたしに見せながら、そのうちの何冊か、こんなのはどうせ二束三文だからユイシに(Yuichiがフランス語読みではそうなるんです)タダであげるよと言ってくれるのです。でも、ううむ、わたしも荷物が増えるばかりでちょっと困った。 f(^_^;)

 結局もって帰ったのは上の写真のものです。
 右側の2つだけお金出して買いました(1冊5ユーロ)。

 右から2番目のものはアメリカにおけるスタンダール愛好の変遷をたどった Maud S. Walther のLa Presence de Stendhal aux Etats-Unis で、これは昔は興味なかったんですが、今はちょっと読んでみたいところもある本になりました。結局「アメリカにおけるフランス観の推移」という大テーマの一事例なわけですからね。

 右端は La Revue Fontaine版 Armance というものです。
 これは結局小説『アルマンス』の本ですから、テクスト自体は他の版ともちろん同じです。ただジョルジュ・ブラン Georges Blin の書いた重要な序文と注がついているので研究者の間では有名なのですが、単発の本で、フランスの大きな図書館以外は置いてなくて(ふつうの図書館は当然ながら全集単位、叢書単位でぼんと買ってしまったら単発のちまちました版までは買わないです)、目にするのが難しい本でもあったのです。だから昔は、こういうのを本として持つというのは意味のあることだったのです。

 コピーが自由にとれる時代になってからは事情が変わったと思います。ブランの序文だけならコピーで持ってればいい。本を買うのは金がかかるし、家に置いておくのは場所をとってしまう。
 コピーさえ急いで取る必要はないです。今ではインターネットもあるし、スタンダール研究者のネットワークも日本単位、世界単位で存在します。必要があるときに「だれかあれ持ってない?」とネットワークに聞いたら、よっぽど嫌われてない限り (^_^;) たいてい「うちにあるよ、コピーを送る」という答えが返ってきます。

(ちなみに日本にはスタンダール研、バルザック研、フロベール研、プルースト研、カミュ研などなど、主要なフランス作家の研究会はだいたい存在します。面白いのはそれらのほとんど全てが関西で生まれたものだということですね。東京の人はどうも対抗意識が強いのか、一緒になにかしようという気運が生まれにくい。関西人はすぐ「おもろいやんけ、みんなでやろやろ」てなノリになっていくんですね。このへんフランス人がすぐ世界に声をかけてオリンピックとかワールドカップとかパリダカとかいったものを作ろうとするのと良く似てます。関西人は日本のラテン系人ね。(^_^)y )

 文学研究の日々の仕事のやり方自体もずいぶん変わりました。
 ここ数百年の間は、調べたり考えたりしたことを紙に、カードに書き綴って行く、という仕事のやり方が続きました。つまりパスカルも若い頃のわたしも基本的に同じことをやっていたのです。
 パソコン、データベースの時代に入ると、このやり方が一気に過去のものになっちゃいました。
 インターネットの時代になるとさらに仕事の質が変わりました。自分の部屋にいながらにして大量の情報が、昔なら個人が一生かけて蓄積したような情報が、一瞬にして手元に来てしまうのです。そこでは大事なのは蓄積能力より取捨選択能力です。

 そういう変化が起こるたびに、研究者も発想をいれかえて、別のやり方をすることを強いられてしまうのですね。
 現代というのは、仕事のやり方が人の一生のうちに何度も根本的に改変されうる時代と言える気がします。

 同時に本屋さんにとってはほんとうに難しい時代だと思いますが、でも「もう数百年のビジネスモデルは捨ててでも新しい時代に適応したやり方、さらに先を見たやり方をしないとたちゆかない」といったんはっきり踏ん切りをつけたら、いろいろ活路はあるように個人的には思えるんですけど(無責任に大きなことを言って申し訳ありません・・・ f(^_^;) m(_ _)m )。

 というわけで La Revue Fontaine版 Armance は、特に今わたしに必要ということもないのですが、そういう歴史の思い出として手元に置いています。

 たくさんの本がいまもジャン=イヴの家のカーヴに眠り続けています。いまさらお金を出してまで欲しいという人もいないのですが、捨てるには忍びない。これらを作るためにどれだけの人が汗を流し、長い長い時間、ときには一生を費やしたことか、その思いがわれわれの世代にはまだ切実に感じられてしまうので。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

収納スペース


11.グルノーブルに着いてみると、ジャン=イヴはわざわざ駅まで出迎えてくれてました。一年三ヶ月ぶり、というのは我々にしては久しぶり、という感じがします。いや、彼は変わりがないな。 (^_^)
 家にはポーリーヌちゃんもバルセロナから帰省していてお久しぶり! でした。もう立派な女性だから、さん付けにしなきゃいけませんね。大学を出たら、やっぱり地元グルノーブルで生活するつもりみたいです。よく親と子の住居は「スープの冷めない距離」がいいって言いますが、それになりそうですね。 (^_^)
 夕食は boudin (腸詰)をいただきましたね。これも美味しかった。 (^_^)y

 ところで翌日ジャン=イヴが「本を分けてくれる」というので cave (地下の収納スペース)にもぐりました。彼のところはかなり大きいマンションなんですが、その上地下にこれがあるもんだから、滅多にモノを捨てる必要には迫られないですね。
 上はこのカーヴの窓。採光のために歩道と同じ高さにちょっと付いてるだけですが。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

INDIGENES そもそも


10.それじゃまたフランス旅行記に戻りますね。 (^_^)y

 29日に例によってグルノーブルに向かう直前、パリのリヨン駅近くで、映画評論家の佐藤久理子さんのお話を聞きました(わたしはお会いした方々の名前をブログなどで公開するのははばかってしまう方ですが、佐藤さんは実名をだしてもたぶんお許し下さると思います)。

 そもそも『INDIGENES』のことを調べだしたのは、フランスで大評判の映画なのだからいずれ日本公開されるだろうと楽観していたのが、そうでもないらしいということを『ふらんす』12月号掲載の佐藤さんの記事の雰囲気で知ったからでした。

 佐藤さんはこの映画を「『ホテル・ルワンダ』同様、「日本公開を求める会」を作ってでも、公開されるに値する作品だと思う」と、たいへん強い表現で推奨しておられたのです。
 
 これには少しおや、と思いました。時事性とかジャメルが出ているからとかいうことを越えて「作品」としての出来をほめておられるのと同時に、「公開を求める会」でも作らないかぎりただ待っているだけでは日本公開は望み薄なのかな、というニュアンスも感じられたので。

 それで日活の方とか白水社の方とかともご相談しまして、とにかくパリで映画を見て、パリ在住の佐藤さんにこの映画をめぐる状況のお話をうかがおうと思ったわけです。
 わたしのお願いを佐藤さんは面倒がらずに受け入れて下さいましてご面談となりました。

 さて、わたしは書いておられる記事から受けた印象で、なんとなく佐藤さんはメガネをかけた方で、久理子さんといわれるんだからクリクリっとした(なんちゅうしょうもない貧困な連想! (^_^;))人かと思ってたのですが、実際の佐藤さんはメガネはかけておられないし、実にしとやか、控えめで聡明な方でしたよ。 (^_^)y

 何よりも(失礼な言い方になりますが)素直な感性をお持ちのところが佐藤さんのいいところだと思います。『INDIGENES』の中でも、感動すべきところで素直に感動を覚えて、それで正当に評価しておられるんですね。そのことがお話からよく分かりました。こういう方こそ評論家としてふさわしいと思いますよ。

 省みてわたしの方は実にひねくれた性格で、人が気にしないようなところにことさら注目するたちですね。ここはこういう狙いだろう、と分かった気がしたら、それはそういうものとしてかなり意識を素通りしちゃうんです。常識とか定説とかはとりあえず疑ってかかってしまいます。ときどき自分は他人とは別の世界を生きてんじゃないか、という気がすることがあります(ただ人生におけるこういう姿勢はスタンダールと同じかなとも思います・・・)。
 とはいえ意表をつくやり方はわりと単純に気に入ってしまうところもありますね。ミヒャエル・ハネケ監督の『ピアニスト』のラストシーンみたいなのが心に残るんです(mauvaismouvementさんに勧められたハネケ監督の新作、まだ見てないですね。なんかもっと分かりにくいラストらしいです)。もっとも『ピアニスト』はラストシーンに至るまでのところもすごく良かったですが。

(『INDIGENES』の細部についてのお話はネタバレになっちゃうので省略します。もっとも日本公開がなかったら、そんな遠慮は無用になるわけですけど・・・ そうは思いたくない)

 佐藤さんのお話から、現状把握はだいたいわたしが想像していたことで正しいだろうと思いました。あとは様子見で、公開から時間が経つと映画は値段が下がってくるのでわたしとしては、どこか買ってくる会社が出そうなタイミングというのを注視していよう、という姿勢です。

 佐藤さんとお別れして、年末のフランスをパリからグルノーブルへ。 (^_^)

追記:少し書き足しました。07.01.26.
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

グラン・コール・マラードとアブダルマリーク


アマジーグの教えてくれたスラムのグラン・コール・マラードGrand Corps Malade とアブダルマリーク Abd Al Malik は、早くも日本でも注目を集めているようです。

グラン・コール・マラードは、低い美しい声でかっこいいですね。「伴奏」のピアノとかもいい味出してます。

ここでほんのさわりだけですが訳をしてみますね。 (^_^)y  あとでちょこちょこ付け足したり手直ししたりすると思います。

日本盤が本当に出るころには、もう一度ご紹介しようと思ってます。(ローカルミュージックさん、オルサさん、お待たせしたうえにこの程度のものでごめんなさい。m(_ _)m )



○グラン・コール・マラド Grand Corps Malade

『日が昇る』Le Jour se leve

...ぼくらの未来は不確かだ。「未来」と「不確か」という言葉はたしかにいつもペアになっている。でもぼくらの日はたしかに昇った。だからもうぼくらを黙らせるのは難しい。


『サン=ドニ』Saint-Denis

パリの北、郊外の町サン=ドニのスラムを作りたい。RERのD線に乗り、個性溢れた町の、飾り気のない街角を彷徨ってごらん。メトロ13番線に乗り、いい女たちや大柄なモグリの労働者たちで一杯の町のマクドやビストロでものを食べてごらん。


『昼の12時20分』Midi 20

ぼくの一日がカーブを切ったのは11時08分。予期しなかったことで、転がって、ぼくは怒りに満ちた。電気ショックのような閃光を感じた。回復はしたが、体の自由は少し失われた。ぼくの板チョコはママレードみたいになった。ぼくはそういうものすべてに慣れた。ぼくを大きな病身Grand Corps Maladeと呼んでほしい。

(この作品では、彼が障害者になった事故を含め、28年の人生を振り返っています)


『第六の感覚』6eme sens

「息子さんはもう歩けないでしょう」と彼らはぼくの親たちに言った。するとぼくは自分の中から、もうひとつ別の世界をみつけた。そこでは人々が気詰まりなように、哀れむように人を見る世界だ。自律しているということが非現実的目標となった世界だ。


『朝のパリを知ってはいなかった』Je connaissais pas Paris le matin

ぼくはぼくの周りに、足を速めるたくさんの人を見る。彼らは急いでいる。ぼくは急いでない。だから微笑む。ぼくは朝のパリを、歩道の上の春を知ってはいなかった。ぼくの人生は再び始まる。ぼくが参っているとは誰もいえない。


『この瞬間を探す者」Chercheur de phase

君はこの瞬間から遅れてしまう感じがするかもしれないけど、それでもぼくは君にフレーズで侵入したい。ぼくの値打ちと言えるものは言葉遊びで出るんじゃない。ましてやジェニファー・ロペズをひっかけられそうだから出るんじゃない。君がぼくを聞いてくれるなら、それがもうひとつの勝利だ。


『ぼくの部屋の窓から見えるもの』Vu de ma fenetre

一緒に飲んでいる二人の男が笑いながらも、お互い違っていると称している。一方は「シャローム」と、もう一方は「サラーム」と挨拶するから。それでもやっぱり彼らは握手している。これがぼくのスラムの魂。

(追記:「シャローム」はヘブライ語の、「サラーム」はアラブ語の挨拶ですから国際的には対立しているユダヤ人とアラブ人の融和を示していますね。そしてこの二つの挨拶語と「スラム」というジャンル名とが類似音になっているところがミソです。グラン・コール・マラードはこういう類似音の使い方がうまい気がします。 07.01.25)


『瞬間に触れる』Toucher l'instant

書いているecriture間にはある瞬間があって、そのときには白い紙を忘れ、訂正が消える。本物の夢遊状態、一種のトランスと言うべき瞬間。それは神秘的に現れ、沈黙のうちに去っていく。ラップをしようがスラムをしようが、ひとはこの瞬間を追い求める。



○アブダルマリーク Abd Al Malik

『ジブラルタル』Gibraltar

ジブラルタルの海峡でひとりの黒人青年が
ジブラルタルを越えれば実現する夢を思って泣く

ジブラルタルの海峡でひとりの黒人青年が
この山の名前を持っていた男のように
歴史が彼をとどめおくだろうかと自らに問いかける
・・・

(「この山の名前を持っていた男」というのはかつてこの海峡を越えてイベリア半島、ヨーロッパに攻め入ったサラセン軍の首領ターリクのことでしょう。Gibraltar という地名は「ターリクの山」というアラブ語に由来しています)



『セリーヌ』Celine

庶民の使う言葉を使うときは、
路上の話し言葉を使うときは、気をつけないといけない
美しいものから最悪の醜悪さが噴き出すこともあるから
・・・

路になろうとしていると、ドブにもなってしまう
ドブが要らないというわけじゃないけど
つまり美しくないものになってしまうということだ

(タイトルの「セリーヌ」は作家 Louis-Ferdinand Celineのことでしょうか? 彼は口語をふんだんに使った力強い言語表現でフランス散文を革新した人ですが、反ユダヤ主義で有名で、第二次大戦終結時には外国に亡命していました)

[追記] 『昼の12時20分』の訳を修正しました。これについてはこのエントリーもご参照ください。08.01.31.

コメント ( 6 ) | Trackback ( 0 )

操作


 ここでちょっと旅行記はお休みします。ひとつ前のエントリーにフランスにおける「上からの操作」ということを書きましたが、それに関してひとつ思い出があります。

 1998年、ライの大フェスティバル、「アン・ドゥ・トロワ・ソレイユ」1,2,3 Soleilsがパリで開かれました。9月26日のことで、わたしが留学から帰国する直前のことでした(思えばライは、わたしのパリ留学を待っていたかのように史上空前の隆盛をみせ、帰国する前にその史上最大のコンサートをやってくれたのです。やっぱりライとわたしは、なにか特別な運が結んでいるとしか思えないです・・・ 人間は往々にしてこういう印象で人生を決めるのでしょう)。

 どんなコンサートだったか詳細はこのページを見てください。

 ところでその年の年末またフランスを訪れたわたしは、シャンゼリゼのヴァージンメガ・ストアでこのコンサートのライブ録音CDとビデオ(↑)を大々的に売り出しているのを見て唖然としてしまいました。

 このときは普通の棚で売っていたわけではないです。平積みでもなかった。
 「山積み」で売ってたのです。
 年末商戦の主力商品然として。

 (しばらくはシャンゼリゼのヴァージンメガでは、普通のライの棚のところにも、普通はバルベスのアラブ人街でしか売ってないようなカセットがたくさん突っ込んでありました。いっときのブームが去るとまた消えましたけどね)

 あのころはたしかにフランスが移民層文化への好意をいちばん持っていたころだったし、当然ライ人気も最高潮を迎えていたころでした。

 しかし一般のフランス人がシャンゼリゼで買い物するときに争って買い求めるほどのものすごい人気、ではなかった。それはわたしが肌で感じたことで、間違いないと思います。

 だからこのCD、ビデオを山積みにさせているのは明らかに「操作」があるのだな、と思ったものです。 

 だからアマジーグ・カテブも講演会で、それが操作があることがわかってしまったと言っているわけです。それは間違いではないです。

 ただその「操作」は、すでにある傾向を「助長」するものであったはずです。移民層文化への好意が何もないところに操作だけやっても、人々はしらけるばかりでしょう。政治的操作とはそういうものだと思います。それに、そういう操作の存在は、よっぽど鈍感な人でない限りすぐ分かることだと思います。

 そして、たとえ操作であっても、フランスでライ文化にスポットが当てられたことは、けっして無駄ではなかったはず。雇用状況はそれだけではさして変わりはしなかったかもしれないけれど、そもそもそういうことは一朝一夕に変わるものではない。人々がこの文化を知り、好意を覚えることは、無知にとどまっているよりずっといいことであったと思いますよ。


 以上フランスの話ばかりしてますが、日本の音楽界に政治的操作がないかというと、そうとも言えないと思います。 
 日本でことさらに「洋楽」はアングロ=サクソン系しかないようにしているというのは、そこに政治の作為があると言えることかもしれません。少なくとも国際メジャーのレコード会社の市場戦略は厳然としてあるのです。
 こっちの方が救いのない「操作」だと思いますよ。フランスのは、フランスの文化指導層がフランス国内の諸民族の宥和を願って「操作」しているのです(言葉は悪いですが)。
 文化面だけではない、フランス国内に存在する不平等を解消するための人々の草の根レベルでの努力は、世界に知られなくても綿々と続けられているはずです。

  


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ