地中海


 アルジェ風景は、懐かしいとか美しいとか、かなりの反響をいただいています。
 ということで、写真をもうひとつだけ載せておきます。
 先に載せた独立記念塔ですが、これも青空に美しく映えてますね。

 ところでアルジェの美しさについて、「青と白の街といえばギリシャのエーゲ海を思い浮かべるのですが」ということを言われた方がいて、興味深く思いました。
 日本の人のイメージとしてはそうなんだと思います。
 でもギリシャとアルジェリアは、地中海の北か南かだけの違いです。
 とくに青空、青い海自体は変わらない、共有物なんだと思います(わたしギリシャ行ったことないのですけど)。

 地中海というのは古代から周辺に住む人々の共有物、mare nostrum、われらが海、だったわけです。
 この地中海の中の方に位置するアルジェリアは、四方からいろんな文化が入ってくる交差点になる運命にありました。
 それだけ文化が混交して新しい文化を生む土地でもあり、またとくにものつくりしなくてもよそから面白い文化が流入してきて周りと文化を共有する、という感じの土地でもあったわけです。

 大陸の外れの島国で、心が内向きになってしまうと外の文化から簡単に遮断されてしまう日本とは、ずいぶん人の成り立ち自体が違うのかもしれません。
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ものつくり


 ライは車でガンガンかけるのに適した音楽でしょう。
 わたしも、いつもCDを買ってきたらまずは車の中で聞いてみます。

 でもこのアルバムは、走行中に聞いていてもなんかよく分かりません。車を止めて、静かになってみると、すっと耳へ、耳から心へ、音が入り込んでいくのが感じられます。

 これは、このエントリーでも御紹介したパレスチナのウード兄弟ユニット、トリオ・ジュブランの新作A l'ombre des mots 『言葉の影で』です。ここでもマハムード・デルヴィッシュの詩の朗読に合わせて演奏していますが、これは詩人の死後40日にパレスチナで開かれた追悼演奏会のライブで、亡き詩人の声の録音にトリオの演奏がかぶさる形になっています。
 この詩人とトリオ・ジュブランは、ずいぶん長く共演で活動していたのですね。

 このジュブラン兄弟トリオには興味が出てきました。田中昌さんの解説によると、兄弟のひとりウィッサムWissamはかのイタリア、クレモーナでストラディヴァリの伝統を伝える楽器製作学校を、アラブ人としてはじめて卒業した人で、このトリオの使用するウードはすべて彼が作ったものなのだそうです。

 アラブ、というかイスラムの人たちは、教祖のムハマドが商人だったことが影響しているのか、あまり「ものづくり」には強くないかな、という印象を持っています。偏見かもしれませんが。
 いろんな面でアラブ、イスラムの土地の中でいちばん厳しい状況下にあるといえるパレスチナからこういうものづくりの人が出てきた、というのはなにか示唆的であるような気がします。

 この作品のほかにライスレコードさんから旧作も2つリリースされていますから、聞いてみようと思います。
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もうひとつの美しい海


 アルジェの海は美しいですが、日本だったら七尾の海がいいです。
 能登島を前にした七尾湾の内海ですから波が荒れることもなく静かで、なだらかで、限りなく落ち着きます。

 これが目の前にあるから、日本に数ある温泉の中でも和倉温泉はトップクラスに入るのだと思います。
 金沢から七尾まで能登半島を車で行くと、しっぽりと水気を含んだ森が独特の風土を作っていて格別の味わいが感じられます(このエントリーも参照してください)。

 さあ能登へ、七尾へまいりましょう(地元宣伝したのって生まれて初めてかもしれません)。

 ところで今日の日経をみたら、先日倒産した和倉温泉・金波荘(去年老母と泊まったところでした・・・)を湯快リゾートさんが買い取って来月28日から一泊二食で7800円で営業開始する、というのが載ってました。

 価格破壊ですね。折をみて行ってみようと思ってます。

 こりゃさすがの「泊まりたい宿ナンバーワン」加賀屋さんもうかうかしてられないでしょうね。加賀屋さんはたしかにすごいおもてなしのところですが(泊まったことないけど)、値段も半端じゃないですからね。

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おお、エルハラシ!


 アルジェ市中心から空港に向かう道は、町を横断する形になります。

 途中、こういう標識が出てたりすると、思わず Ya rayah でも歌いたくなりますね。

 「くにを出ていく者よ、おまえがどこに行こうと、いつかは元のところに帰ってくるんだ・・・」

 あいにくタクシーのおっちゃんはそんなに音楽は詳しくなかったですけど、もちろんダフマン・エル=ハラシのことは知ってました。知らないわけがない。

 この有名なシャアビの歌手は自分の出身地、アルジェの一地区の名前をつけてDahmane El Harrachiと名のりました。名前の最後の「i」は「○○出身の」ということですね。

 ・・・ところで、オランで市内から空港まで乗せてくれた若いタクシードライバーは、ずうっとHouari Manarがんがんかけっぱなしでした。
 ライです。
 それ聞いてたら、ほんとにライってオランにびたーっとくっついたジャンルだなあ、って感心しました。

(ところで前から疑問に思ってたので「Manarって、なんのことよ?」と彼に聞いてみたら「ビールだ」って言うんです・・・ どういう意味だ?)
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「公用語」


このエントリーから続きます)

 郵便局のお話に戻って・・・

 郵便局から小包を発送したんですが、そのとき受取人の宛先をこんな小さい紙に書かされました。

 この紙に書いてあったのがアラブ語だけでフランス語がなかったのでよく分からず、隣の人に書き方をたずねてなんとか書きこみました。

 アルジェリアに一週間近くいましたが、書き言葉関係で、フランス語だけで用がたせなかったのは、このときだけ。過去の2回の滞在でもそういうことはなかったように思います。

 要するに「郵便局」というのが非常に「公」のものだからでしょう。こういうところは「公用語」であるアラブ語でなければ、アラブ語だけでなければいけない、ということなんだと思います。
 あれだけ通じるのに、フランス語はアルジェリアでは「公的」ステイタスは持ってませんから。

 エジプトのカイロで空港降りてバスを待っているときにも似たようなことを考えたのを思い出しました。
 カイロのバスは、路線番号があのアラブ独特の数字で、それも手書きで書かれていて、分かりにくいんです。
 タクシーのナンバーとかは普通に算用数字(これのことをアラビア数字とも言うから話がややこしいですね。「アラブ独特の数字」というのはたとえば「5」が「○」みたいなのを書くやつです)なのに。
 これも「バス」は「公的」なものでタクシーはそうではないから、ではないでしょうか。

 「公用語」というのは、象徴的なものでもあるわけです。
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独立記念塔


 でっかいモニュメントです。
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アルジェ 海辺


 ここでは見えてませんが右手が海です。
 ・・・どうです、アルジェは地中海の空の青を背景に、細かいところにも色の統一が配慮してあるでしょう?

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アルジェのとある広場


 アルジェの街の建築の基本的姿です。
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アルジェ中央郵便局


 今回が二回目のアルジェ。かなり街を歩くことができました。

 中央郵便局は、建物の白が地中海の青空に映えて美しいです。

 ここで15日に投函した絵葉書は、日本にいつ届くでしょうね? (23日現在まだ届いてません)

[追記] 29日現在、まだ届きません。ううむ。

[追追記] 29日に届きました! ちょうど二週間かかりましたね。
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transferable

 さて今回のアルジェリアは、日本の金沢大学に留学したい学生さんを求めての旅だったのですが、最初に訪れたオランでかなり本質的な問題にぶちあたりました。
 
 オラン大学経済学部でマネジメントを教えている先生とお話をしていて、「日本の記憶はアルジェリアにtransferable(移し変え可能。これが彼の使った言葉です。英仏語同形ですね)であるか?」ということが問題になったんですね。

 むかしアルジェリアでも「日本に学べ」みたいなことを言って発展を目指していた時代もあっそうです(チュニジアのベンアリ大統領なども同じようなこと言ってましたね)。
 しかし日本の歴史、社会、その他もろもろの条件というのは、アルジェリアと違いすぎて、モデルにしようと思っても無理なのではないか、というわけです。
 特にアルジェリアには、他国に植民地化されたという記憶とその残滓があるわけで、これが日本人の成功体験をそのままアルジェリアに移し変えることを不可能にしているのではないか、というんですね。

 そうすると、留学して国づくりの仕方を考えるなら、日本にするより、たとえば同じ被植民地化の記憶がある韓国などに留学した方がアルジェリア人にとって現実的な発展モデルを探るためには有効ということになります・・・

 このノルディンさんという人はさすがマネジメントやってるだけあって、「カンバン」とか「オモイヤリ」とか「ギリ」とかいう日本語起源の概念を熟知していて、なかなか強力な論者なんです。
 そして、まったくまともなアルジェリア人、まともな人間です。

 非常に一般的な話ですが、こういうまじめな突っ込み方をされたとき、有効な切り返しのできる論理をはたしていまの日本の人は持っているんでしょうか。

 どうもこのへんにひとつ大問題があるように思います。


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