21世紀の「教養」


 教養教育を守れ、みたいな声は根強いし、わたしも基本的に賛成ではあります。

 でも、それじゃ、その「教養」の中身は?と言われたら、わたしが答えるなら、たぶん多くのひととはかなり違った内容のものをあげることになるでしょう。

 現在は文科省も全大協も、文系の学問の意義がよくわからん、という時代のようですから、わたしが少し言いたいことをいっても悪くはないと思います。
 今の大学で教えている内容の枠組みは、とくに確かに文系では、日本で「大学」というものができてからさして変わってはないと思いますが、21世紀には21世紀型の「教養」というものがあるので、文系のひとはそういうものこそ勉強すべきだし、理系のひとも基礎的なところは知っておいてほしいと思うわけです。

 たぶん、わたしのいうこと、間違ってないと思います。

 それで、わたしの考える21世紀型の「教養」――この言葉は「鑑賞」と同じで、実は何語にも訳せないですね――というと、一番最初に思い浮かぶのが・・・「レゲエ」なんですよね。

 「レゲエ? 知りませんな、何ですかそれは?・・・ああ、そのような下賤なものは大学では・・・」というようなことしか言えないのでは「グローバル人材」としてはなはだ心もとない人にしかなれない、と思うのですよ。

 旧国立大の現役教員がこんなこと言っちゃいけないですかね?

 (でも、いつもおんなじことをわたしは言ってるんですが。ここもご覧になってください)

 この議論は長くなりますんでここではこのくらいにしておきますけどね。とにかく時間がなくって。でもわたくしは全くマジです。

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Wissenschaft


Wissenschaftにこだわられたら、アフリカは立つ瀬がないです。

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イタリア


 ここを参照してください。

 ヤマザキマリ氏が

「イタリア人は、古代ローマ帝国の1000年の歴史、その後のベネチア共和国の1000年の歴史を持っています。この二つの1000年の歴史の中で、人間がやれること、やるべきことはすべてやってきたという感覚をたいていの人々は持っています。」

って言ってますね。至言です。

 加えてイタリア人は神の代理人と称するローマ法王の世俗にまで及ぶ支配、それから銀行、複式簿記の発明による経済支配も経験しているし、あと航海術とかルネサンスとかボナパルト家(元来トスカナの家系らしい)まで考えたら、世界はイタリアが作ったんじゃないの?という気がしてきますね。

[追記] ダンテと俗語論を忘れてました。(汗)

[追追記] フランコ・モレッティと文学の不平等、それと「遠読」も入れておきましょう。



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きちゃない


 つまり標準日本語的、標準正書法的には「汚い」ということですが・・・



 どこそこの国の政府が汚職で倒れた。きちゃない。

 どこそこの国でテロがあった。きちゃない。
 (こういうときひとは、ウェストファリア以後世界的に、国単位でものごとをとらえてしまう(これは別に日本に限ったことではないですが)。アルジェリアのはずれの方でテロが起こったら、日本の新聞ではアルジェリア全体がべちゃっと「テロリストのいる国」として塗りつぶされた地図が提示される。これではアルジェリア全土にテロリストがうようよいるように思えてしまう。アルジェリア全体が、きちゃないものにされてしまう)
 
 どこそこの国の中で内戦をやっている。きちゃない。

 どこそこの国とどこそこの国で戦争をやっている。きちゃない。

 今の日本でいちばん困ることは、政治的に問題のあるところ、紛争のあるところ、テロのあるところに「関与しなければいけない」と主張する側も、「関与するのは正しくない」と主張する側も、どちらも問題の地を、ひどい場合にはそこに生きる人々を基本的に、暗に「きちゃない」とみなし続けているらしいということです。


 ・・・申し訳ないですが、日本経済新聞さんに書いてある文化関係以外の記事というのは、なんかそういう印象を受けるものが多いように思うんですが。これは日経に限らず、日本のマスコミが共通して持っている悪弊とも思うんですが。

 きちゃないから、上から目線のことしか言えない。そういう態度しかひとに教えられない。おれの真似をしろ、なんで真似られない、という話しかできない。相手の事情に対する理解がないし、相手の人間性への共感がない。


 でもそういうのは、その「きちゃない」とみなされたひとに対して開陳すべき「日本の、わたしの信条」ではないし、そういうひとたちに対してとるべき態度でもないです。
 また21世紀の世界に飛び立つ日本育ちの、日本語育ちの若者にふさわしい「教育」にもならないんです。とくに「ゆとり教育」の犠牲者と馬鹿にされている世代、日本語ができない、メールに答えないとして簡単に人格を否定される、サバルタン世代の日本の若者には、全くふさわしくないです。



 ついでに言っておきますが、Wissenschaftにならない知は知ではなく、大学で教えたり学んだりするべきものではない、というのも、今後持つべき教育観としては不適切なところがあるんじゃないでしょうか。
 たとえば、それだと「アフリカ」は、どうにもならないです。
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心理小説


 Frantextで調べてみるといい。フランス語でーーおそらく十九世紀後半以降ーー"roman psychologique"という言葉自体には、いい共示的意味、connotationはない。十八世紀のフランス貴族、金持ちが誇った「繊細な心理」に対して、第三共和制以降の、連帯を国是とするフランス人は、へん、繊細でようござんしたねと、悪意をもっているのだ。(それでもカルフールは国外に出れば「おフランス」的な付加価値を身にまとって市場に相対するのだーーナショナル・イメージを販売戦略に利用するというのは当然のことではあるが)。

 だが、広い意味での「心理」、というより「ひとのこころ」というものは、フランス文学の中心的関心でありつづけている。バルトがピカール教授を難ずるのも、いま権力をもって強制されている読み方というのがいかにも陳腐な、人間というものを知らぬとしか言いようのない、「ひとのこころ」の読み方だーーとバルトには見えたーーからだ(Grains de la Voix)。

 文学は、生きることに寄り添ってはじめて真価を発揮する。むかしベルチエ先生がクルゼさんを揶揄って、何年も国立図書館にこもって勉強するより、二週間ばかりイタリアに遊びに行ったほうが、スタンダールはよくわかるのではないか、と書いていた。文学研究の大教授は、それだけ勉強したわけで、それだけ「生きる」ことをパスしてしまったわけで、そのことによって文学を扱うことに関してより不適ということになる。

 三島由紀夫は少年期のもっとも強烈な本は彼にとってラディゲの『ドルジェル伯』だと言っていた(『葉隠入門』)。日本文学がメインストリームの世界文学に繋がる典型例がここにある。そこーーつまり三島の少年時代の日本ということだがーーにおいて、「心理」はmodernなものであった。これはかなりユニヴァーサルな意味をもつことだと思う。アルジェリアではどうだったか。ヴェトナムではどうだったか。またドミニカ共和国ではどうだったか。それぞれメインストリーム参入の時期、様態がみな違うわけだが・・・


 フランス古典主義の密室志向ーー三単一とか言ってたらどうしてもそういうことになるーーはひととの繋がり、交わりについて考える方向性を進んだ。自然に、「ひととはなにか」についての考察を黙示する形態の思想・芸術が発達することになった・・・


 ひとが「考える」なら、「こころ」がそこにあることだけは疑いえなくなる。この「こころ」が「ひと」と同一視されるなら、これすなわちデカルトということになる、のかなと思う。
 「考えつく」ということが、ひとが自分を広げるということと等価だということに気づかなければならない。


 「フランス文学が役に立つ」というのは、こういうことが明らかになるから、のように思います。
 いま「人間」自体があやういーーAIの急速な発展がますますそれを実感させるーーのだから、なおさら。




 
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精神的高みは横方向にもある


 ゲーテはすべてのことを言った、というくらいでたくさん言葉を残している――のですが、なんとかわたしもひとつくらいは後世に言葉を残したいなあと思ってます。このブログでも何度も繰り返しているこれ、精神的高みは横方向にもある、というやつ。

 とくに日本語で思考するひとは上の方の高みを思ってうっとりするのが好きなので、これは警句として、残ってほしいです。

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日本の使命


 たぶん、わたしの思うかぎり、やるべきことというのは世界のすべての人が幸せで有意義な生をもてるようにするという方向性に沿った行動をすること、なので

 日本の、そして日本に学びにやってくる若い、これから来る世代のひとには、そのことを「教える」ーーというより「理解して」もらうようにもっていくことが、正しいことだ。

 ――アクティブ・ラーニングですか?

 かもしれない。

 日本内でも、アラブ内でも、その中だけで完結したお話、ものがたりに閉じこもることは、神――あえて神と呼ぶ、なぜなら・・・――の心にかなうことではない。

 日本は、世界にあるものがたりがひとつだけだという世界観を打破するために、ここにいるのに。

 ――その、ひとつにしか見えていないものがたりって、「経済」のものがたりのこと?

 そうかもしれない。アメリカの国のありかたと関連した、それ。
 ベンラディンのものがたり、のことも考えよ。スタンダールの作ったものがたりのことも考えよ。

 ――それって、ものがたりですか? 「詩」あるいは「うた」ではないのですか?

 かもしれない。
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