複言語主義とフランス語の未来

1年以上も投稿しておりませんでしたね。ご無沙汰お詫びいたします。
以下はRENCONTRES no.35 (2021, pp.80-84)所収の拙稿です。

21世紀初頭の日本において、また世界において、フランス語教育の勝利とはなんでしょうか。「フランスの本がよく売れること」ではないと思います。
2021年現在、老年期を迎える意識のある筆者のような世代は、世界のどこにあっても、知的活動をめぐる環境の激変をいちばん切実に経験した世代と言えるように思えます。コピー機、コンピュータ、インターネットの出現、およびそれらの急激な発達、社会のシステム化のおかげで、知的活動に従事する者は仕事の飛躍的な効率化を達成することができましたが、その反面、それまで慣れ親しんだ方法論、ツールを否応なしに変更、放棄させられたという潜在的な喪失感に強くさいなまれているはずです。放棄とはならないまでもそのステイタスが大きく変わった最重要のものは、「本」でしょう。
この技術革新の嵐の時代以前、パピルスの昔からとまでは言わなくとも、少なくとも活版印刷発明以降、多数の、しかし限られた数が流布する書籍の持っていた「知」そのものが、物理的に存在しているかのような感覚を抱かせる「本」の威光は日に日に失われつつあります。かつて大量の本をモノとして所有していることは、知識人を自負する者として「美徳」であり、たとえその所有者がすべてを読んでいるわけではないとしても、すべての内容を有機的に活用できる状態にないとしても、それらの本の可視的な存在自体が表現する知の量、情報の量の威圧感は、世人が直感的に自らの知性、自らの人生の長さと比して本能的に覚える畏怖の感情を形成するのに十分でした。そして本の値打ちはその価格、金銭との交換価値の高さにも裏打ちされていました。しかし変化の時代が、本の中の価値の中核であるものをその基底材である紙のかたまりから決定的に引きはがしたとき、本は空間を占領する厄介もの、邪魔ものと見え始め、同時に金銭的価値も急落していったのです。
いまや紙媒体の本は、買わずもがなのものとなっています。それが含んでいる「知」「情報」が正当に得られるならば、基本的にモノとして所有したくないものになっています。またそういう本のあり方はたとえば、著作権というものへの顧慮が形骸化したといえる領域で一般化した複写利用や、図書館の充実、コピーや現物の貸借がスムーズに行えるシステムの発達などを促進し、その中で定着していきます。なかでも事態の本質的変化を感じさせるのは、googleの試みが代表するインターネットにおけるテキストの拡散です。この試みはもはや紙媒体だけでなく電子書籍のような形態さえも乗り越えて、対価なしで文字テキストを一瞬にして利用者がアクセスできる状況に置いていきます。既に紙媒体の本はgoogleの提供するテキストの「担保」のようなもの、インターネットという改竄されやすいメディアの弱点を補う、「元の、不動のテキスト」として図書館の奥深くに保管され必要なときだけ参照できればよいものになりつつあると言って過言ではないでしょう。新しい学術論文などは既にほとんどそうなっていますし、古い論文や本も遡行して随時ネットに大事なものから載せていくでしょう。
以上のことは、あらゆる言語について共通に起こっている不可避的で必然的な現象です。
いわゆる「新刊書」が変わらず紙媒体のものとして本屋で扱われるのは、その「知」「情報」を世に存在させ始めるシステムとして、ある特定の地域で支配的な言語によって表現された本を売り買いするという従来のプロセスが有効なためでしょう。しかし「新刊書」というのは本という存在の特殊な、一時的なあり方でしかないのです。
ひとことで言って、本は全般的に「売れない」ものになっていきます。
それはどういう言語で書かれていても同じことです。
したがって「いま、フランス語の本が日本で売れない」というのが事実であっても、それだけでは世を憂う理由はなりません。本は所有されることも避けられるし、必要なら「本を買う」以外の様態で利用されるようになったのですから。フランス語の誇る古典は、googleがきれいな誤植もないデジタルテキストとしてどんどんwikisourceに載せ、買わなくてもいつでも無料で利用できるものになっています。高い洋書を受講生が教科書として購入することを強制される授業はどんどん支持を失っていきます。本が売れないことはフランス語の伝える「知」、「情報」に対する興味の低下と直結するものではありません。それをもってフランス語を教育する側が「フランス語はもうだめだ」的な、短絡的で黙示録的な言辞を弄する理由にはならないのです。
むろん日本においてフランス語教育が心配すべきことがないわけではありません。それどころか問題は山積しています。しかし求められているのは悲観論的な決定論の世界を指し示すことではなく、人間の変え得る世界を提示して、望ましい変化に導くことではないでしょうか。時代の変化に対応して、新しい状況で求められるものは何かを見定め、それをアピールすることが必要ではないでしょうか。
そしてその新しい状況で求められているものは、あえて言えば諸々の言語教育の中でとくにフランス語教育に求められるものは複言語主義的なものであって、教育言語として既得権をもつ特定の言語教育の寡頭制を恒久化しようとするものではないということを、よく心にとめたいと思います。フランス語教育はフランス語の性質、あえて「良いところ」と端的に言ってしまいたい、ある普遍的な平等志向に沿うべきなのです。
たとえば、語学教育の選択肢が増えることは語学同士のシェアの奪い合いになるという発想は、気づかぬうちに最悪の資本主義的発想に陥る愚を犯していることになります。全語学の「パイ」が一定でけっして増えないものという前提などおくことなく、やり方次第でパイは大きくなると考えればいいのですし、実際大きくなるのです。真に複言語主義を標榜する方なら、これは自然に納得できるのではないでしょうか。
それは望ましいかもしれないが現状はその逆で、英語一極集中が進むばかりではないかという反論はあろうかと思います。たしかにそういうところはありますが、800年来、「武」に頼り、対外的コミュニケーション力に長けた者を警戒するのが日本の指導層の基本姿勢と考えられますから、語学教育は英語に集中しながらその英語力も国民全体的に低いレベルでとどめるというのが利となるはずと考えるなら、とくに英語一極集中が望ましくない局面を見定めること、人工的な英語重視姿勢にはのらないようにすることが、これからこの国で育つ若いひとたちのためを本当に気遣うことになるのではないでしょうか。
フランス語教育に関する現行の悲観的な言辞は、既存の価値観への望みのない固執に端を発しているように見えます。まさしく「本」という既存の価値観が捨てられず固執してしまうのと同様に、その「本」の含んでいる中味、「知」と「情報」についても、そろそろ過ぎ去ろうとする世代が拠って立っていたもののそのままの姿に固執が残ることに最大の問題があるように見えるのです。そういうとき、教える立場にある人はそれを利用して、若い世代に自分たちの価値観をうまく刷り込んで、それが旧弊なものでないことを証明したい誘惑にかられることがあると思います。どうしても新しい価値観がある特定の「言語」では代表できないと感じたとき、余計ひとはそういう業に手を染めてしまうように思われます。言うまでもなくそれは卑劣なことであり、自分だけではなくまだ知的に幼いひとたちを、日本の男性の心の古層にある若者組的なメンタリティに寄りかかって逃げられないサークルの中に置こうとするのは罪深いことであるだけでなく、冗談と思われるのを覚悟で申せば、2021年時点の自由民主党の老幹部さえもはやあきらめかかっていると見える方法論だと考えます。
幸いにしてフランス語教育は、そのような出口のない状況にはいません。フランス語教育にも滓のようにこびりついた旧弊なものが厳然としてたくさんあるわけですが、未来に向かっていく道にも必ず開口しているのです。
では本の売り上げのことはともかく、現時点でフランス語教育の報いは、勝利はどこに求めるべきでしょうか。
芸術諸分野で強いフランス語ですが、造形芸術や映画等の領域でのフランス語の存在感、学習者を惹きつける力の養成等々、そしてそこから得られる経済的、政治的利益に関してはマルロー以来のフランスの文化行政にまかせることにして、ここでは文学と音楽という、フランスから日本の状況の実態がよく見えているとは思えない領域において考えてみたいと思います。
伝統的にフランス語が強い分野である文学は、先述の「本」というものにいちばん密接に繋がっているジャンルと言えますが、フランス語教育としてはやはり引き続き大事にしていくべきものです。なぜなら、同時代のスター的なフランス作家が乏しくなったのは残念ですが、文学を文学として、世界の諸文学、大昔から現代にいたる全ての文学を複言語による「文学」としてアピールするならば、その中でフランス語文学の存在は絶対に無視できるものにはならないはずだからです。繰り返しますが、フランス文学ではなくて文学をアピールする、その内側でフランス(語)文学をアピールするということです。自分だけよかれ、というのでは絶対に一般社会の支持は得られません。それでは植民地主義時代と同じであり、悪しき資本主義の論理、市場論理を振り回すことになります。
文学を越えた領域においてもフランス語教育は、言語政策の面で複言語主義的姿勢をとるべきです。複言語主義の理念をのべるだけでなく、それが具体化する状況自体を作るべきです。そういうあり方のほうが真っ当なあり方、心ある人々の支持を集めるやり方です。普遍を志向しているということがフランス語の強みです。だからこそフランス語は存続の労をとるに値するのであり、将来を悲観して自らを滅ぼすようなことはするべきでない世界的責任を持っているのです。
世界の文学の研究法について言えば、たしかにフランスにはフランス固有の弊害があります。しかし、あえて言ってしまえば自文化中心主義の弊害はアングロ=サクソン系の文学と批評により当てはまることであり、フランス系はどこよりも普遍志向、つまり研究において「自国文化」最優先にしないという利点をもっているのです。
もうひとつ、音楽のジャンルについて考察します。
だいたい1970年を境にしてフランスの大衆歌曲は、他の文化のジャンル同様、米英文化の伝播力、音楽では米英のロックの圧倒的伝播力に屈することになりました。植民地で運を試せる時代が終わって行き場を失いangry young menとなっていたイギリスの若年層が大衆音楽の領域でなら世界を制覇でき、巨万の富を積むことができるという夢を抱く時代になりました。そしてフランス歌曲は、のちにできた「ワールドミュージック」というカテゴリーの片隅の一ジャンルとして分類されることになりました。端的に言ってフランス歌曲は音楽としては弱いところがあり、世界の諸ジャンルの中で特権的地位を占めなければならないという理由は存在しないのですからこれ自体は残念なこととも言い難いと思います。歌詞の文学性に依存しがちで純粋に音楽的な魅力作りにいまひとつ消極的な印象を与えるのがフランス歌謡界の特質でした。
現在は、長らく続いた米英大衆歌曲の世界支配に陰りが見えているように思われます。アメリカ合衆国の歌謡界は、気が付いてみるとラテン系歌手のオンパレードという状況になっています。アメリカ音楽のパワーの源泉となっていたblack musicがついに行き詰まりをみせているということではないかと思います。ならば、今なら北米英語圏の外からスターを出すことも、努力して工夫を重ねれば可能かもしれません。少なくともフランス語圏の歌謡に日本で支持を集めるくらいのことはできそうです。ただフランスの音楽業界は日本のリスナーが本当は何を求めているのかを理解することに明らかに成功していませんから最初の工夫、最初の努力は日本側が独自にする必要があります。
そもそも音楽の分野ではレコードやCDという基底材の存在が不可欠ではなくなったのと同時に超弩級の大富豪スターというのが出ない時代に入っています。どうやっても中程度スターくらいが望みうる最高のものと割り切るならば、たとえば大学などで受講生を何人かかかえる先生が複数で協力して、フランス現地の業界関係者と連携し、特定のアーチストを共同でアピールして、好印象を受けた学生さんにそれをネット上でアピールしてもらうように促す、ということができればいいし、またそれは現時点で十分可能なことではないでしょうか。フランス語の場合、フランス語圏という大きな文化的多様性をもった広大な領域を持っているのですから、言語の統一性が西洋文化偏重に見えたりしないことは大きな強みのはずです。むしろ諸々の文化を横断する形でフランス語が存在感をもっていることが、この言葉の逞しさを若者に印象付け、学習意欲を喚起させることが期待できるでしょう。こういう試みがある程度大きな規模で実施されれば、どうでしょうか。フランス語の本は売れなくても、フランス語歌曲がヒットして大量にダウンロードされる状況が到来すればどうでしょうか。
ちなみに複言語主義ということからは、フランス語がとくに英語と密接な関係にある言語であることを前面に出してフランス語教育支持へのアピールをさまざまな手段で試みるという発想も生まれます。その試みの多様さについてはここでは触れないことにしますが、ただこの種の試みに関しては、英語が伝統的に持っているフランス語への警戒心のことを常に念頭におかなければならないことだけは指摘しておきたいと思います。現代では英語話者、英語教育関係者の大部分は、英語がフランス語に大きな影響を受けた過去、フランス語に後れをとっていた過去のことは触れたくないということをしっかり念頭に置かねばなりません。
だからそれだけ、フランス語教育はへりくだり過去の、あるいは現在のメジャーな言語、およびマイナーな言語と自らを同列におく複言語主義を標榜すべきなのです。
複言語主義は、経済的な見返りには直結しないもの、させない方がよいものです。わざわざ資本主義の悪弊に跳びこんでいくことはないと思います。中途半端な金銭的利益、政治的利益等は考えない方が身のためです。
複言語主義の大義は、世界のひととの心の繋がりだと考えられます。
観光の領域における外国語教育について、筆者は以下のように書いたことがあります。
「ある外国人観光客に向かって、その人の言葉を学習者、ガイドが発声するならば、そのガイドは限りある人生の一期間を自分とのコミュニケーション能力を培うためにささげたのだということを観光客は即座に理解します。そこにこそ『おもてなし』の原点があります。自らの身体性を意識し、行為としての芸術を実践するアーチストと同様に、観光するひとびとに接するもてなし側のひとは、自らの存在そのものをもって『あなたのことを思っています。わたしが楽しく思うことをあなたに伝えます』というメッセージを発しているのです」*
人間の繋がりを作る仕事をAIがどんどん肩代わりしていくならば、複言語をあやつるひととして自らを形成する活動そのものが最高のおもてなし、ひとの繋がりを作る営みとして最上のものとなるでしょう。そして文学も音楽も、芸術家と読者群、観衆との人間的繋がり作りの営みなのです。
フランス語教育の「勝利」はこの繋がりの形成で十分のように思われます。
経済的、政治的等々、「利益」が発生してくるとしたら、この「勝利」から、一番大事な「ひとの繋がり」から、自然に発生してくるはずです。

*粕谷雄一「複言語主義的教育の現代的意義」、『国際学への扉三訂版』所収、鹿島・倉田・古畑編、風行社、2020年、p.37.








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