これ、いけないの、残念

 今週末、5月2日19時からUplink Factoryで開かれる音楽夜噺に、長い間フランスでフレンチ・ポップスの日本紹介に尽力されている向風三郎さんが登場します(聞き手は松山晋也さん)。

 わたし、向風さんとはメールは交わしたことありますけど、面識はないのです。今回も別用があるので、すれ違いになっちゃいます。この世界の大VIPなんですけどね。残念です。

(宣伝ぽくなりますが、東京在住の方でとくに連休どこもいかないよという方はちょっと覗いてみられてはいかがでしょう。向風さんのお話を聞かれれば、少なくともわたしなんかよりはフレンチポップスに詳しくなれること請け合いです) 

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いぬやしゃ


29 ホテルで寝ながらぼんやりテレビを眺めてたら「犬夜叉」が出てきました。ははは。フランス語吹き替えのをそのまま放送してます。

 ところで、このホテルで見られる各チャンネルの言語はこうなってました。

フランス語 6 (TF1, France2, M6, euronews, TV5monde, NT1)
アラブ語 2 (国営テレビとマンガ)
英語(アラブ語字幕) 3 (aljazeeraなど)

 ただしこれは時間帯によって同じ「チャンネル」で別のソースを流したりしているようですから、流動的です。

 それに、以前きたときはエジプト、チュニジア、レバノンの局も見た覚えがありますから、このホテルではこれらを見せているということで、実際にオランで聴視できる局は非常に多いのだと思います。

 今の時代この「衛星放送」の存在感というのは非常に大きいと思います。日本語をもっと世界に広めたく思うなら、日本語局をなんとか地中海諸国、アフリカでよく見られる局にしていかないと。

 とにかくアルジェリアではフランス語局の存在感が圧倒的で、これではこの国がフランス語を忘れることができないはずだと納得です。
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醜態


28 かつて毎年、ライ・フェスティバルが行われていたオランの野外劇場。ライのカリスマ歌手で原理主義者に暗殺されたハスニを記念して「ハスニ・シュクルン野外劇場」Theatre de Verdure Hasni Chkrounと名付けられています。

 右手は城塞です。山の頂きにはSanta Cruzの要塞も見えますね。

 左手に、建てかけで放置されている高いビルがあります。外枠だけで中なにもないですから、上の方の階は空がすけて見えてます。

 アルジェリア経済が傾いたときに工事が継続できなくなった建物です。
 こういうの、オランの町にいくつもあります(今ドバイあたりにも増えているでしょうね)。

 これほど「景観を損ねる」ものもありませんね。かりそめの好況に浮かれた人間の愚かさ、経済的苦境を思い出させずにはおかないですから。
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日本人の正念場


27 というわけで、オランでは寝込んでいる時間が長くて、あんまり探索とかはできてません。もっとも2004年に既に来てますから、そんなに一生懸命探索しなくてもよいわけだったのですが。

 少し気分の回復したとき、町中に出てみました。ホテルは少し郊外にありますから、町の中心への移動はタクシーです。
 主な用事は、インターネットのできるところを探すことでした。

 オランは人も多く活気のある街ですが、歩道は凸凹で大穴があいていたりしていることもあり、かなり歩きにくいです。この後に訪れた首都のアルジェが立派な町並みだったので、差が印象的でした。
 首都に美化の予算が集中しているのでしょう。よくあるケースですね。

 それでもオランで、あちこち新しくビルを建ててました。郊外では大きなモスクも建ててました。
 いずれも建てているのは中国企業、働いているのは中国人労働者です。
 上の写真は、市立図書館のはす向かいに建築中のビルです。

 これら中国の人と現地の人の通婚も始まっていて、ほどなくオランにもチャイナタウンができるでしょう。
 アルジェリア人の監督員と談笑している中国人労働者の人たちを見ていると、彼らのようなたくましさが今の日本の人には欠けがちかなあ、というのを痛感します。

 全体的にいって、ちょっと今の日本の人は内向きすぎです(・・・ひょっとしてこれ、日本でフランス語が冷遇されているのと関係があるのかもしれないと思います)。

 そもそも日本は、史上長い間、十九世紀まで、「東洋」の中心は中国という感覚で生きてきたと思います。
 十九世紀後半からいちはやく近代化に向かった日本は、東洋の主役は日本だ、という感覚になったと思います。第二次大戦敗戦以前はもちろん、戦後もたとえば、アジアで初のオリンピックは当然東京で開かれるもの、という感覚があったでしょうね。中国は一定の政治的見地から称揚され、もとより疑いなく大国ではありましたが、それだけにライバルというものではなかったと言っていいでしょう。資本主義市場経済の同じ土俵には乗っていなかったですから。

 二十一世紀は、史上はじめて日本が、中国や韓国を同じ土俵に乗った「同等のライバルとして」意識し、競争する時代になったと思います。
 この慣れない感覚、あえていえば違和感が、日本の人を引っ込み思案にさせているのかな、という気がします。

 現在はむしろ、日本人が日本人としてその真価をしめすことを求められた初めての正念場だと思うのです。

 日本の若い人たちにはそのあたりをよく自覚してほしいと思います。


 柄にもなくナショナリスティックなこと書いてしまいましたね・・・

 でも、いろいろ考えさせられることが、アルジェリアでありました。

 泊まっていたホテルのレストランにあるコンピュータは音声操作指示が中国語になっていて、アルジェリア人が分からん、とぼやいてました。

 でもいまでもオランのナイトクラブでライの伴奏を奏でるシンセサイザーはYAMAHAであり、ROLANDなのでした。
 
 あとでアルジェでお話を聞いたところでは、アルジェリアではフランス車のシェアがだいぶん落ちて日本車とドイツ車が高級車で伸び、韓国車が中クラスを押さえている、というような状況のようです。
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お掃除おばさん


26 やっと、アルジェリアの旅の続きです。

 オランを車で東に出て海岸沿いに30分ほど行ったところ、住宅街の中にナイトクラブの集合体みたいなところがあります。これがCanastelです。

 伝説のナイトクラブLe CasinoとLa Guinguette(↑)と、二軒はしごしました。

 入口で見張っているvideurs(中で喧嘩が起ったとき、その連中を排除するviderする役目の男たち)の間を抜けて中へ。
 どちらも普通の椅子とソファーとダンスフロアで、さて、詰め込んだら100人くらいははいるような構えです。

 そして、ライをやってました。本物のライを。

 さて、ここはオーラに包まれた場所ではありますが、ぶっちゃけた話ただのナイトクラブ。かつてのライのスター達の幻影がそこに浮かぶのでなければ、日本の人が来て面白いとは言えないでしょう。

 この夜、Le Casinoではシェブ=ハリド、La Guinguetteではシェブ=ソフィエンというのが歌ってました。彼等は、いったんひとつのクラブに出るようになると、他所に移ることはないのだそうです。契約にしばられているんですね(ライの王様ハレドも「生涯契約」にずいぶん悩まされました)。

 わたしは結局体調がよくなくて早々に引き揚げました。早々に、と言っても一時半です。ミリアニさんたちは「これからが人が集まってくる時間なのに」と残念がってました。夜が進むにつれて有名歌手が出てきて、トリは午前四時ころにならないと出てこないそうな。

 車の中で(車を運転してくれたアブデルカデルさんに感謝したいと思います。カナステルみたいなところに来るには案内の人も必要ですが、車を運転してくれる人が絶対に要ります。他に交通機関は全くないですから)ベルムーの音楽的傾向はとか、リミッティがオランに来たのはいつごろかとか、ライの歴史に関するポイントをいくつもミリアニさんに質問しながら、オランに帰りました。

 ホテルに帰って床につくと悪寒と高熱が出て、ひどい状態になりました・・・


 伝説のナイトクラブの思い出ですが、いまでも一番印象的に覚えているのがLa Guinguetteでほうきとチリトリを持ってのそのそ歩いていたお掃除のおばさんでした。

 トイレに行ってみたら彼女がトイレ管理おばさんもやっていました。ほんとに「どうせあたしはおしっこおばさんよ」と言いたげな、疲れた顔で。

 歓楽を求めてやってきて、酒と踊りで上気した顔の人々の中で、唯一人さめきった顔をみせていたおばちゃん。
 一晩でどのくらいの稼ぎになるのでしょうね。


 
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いそがしい!


 学期初めですごい忙しいです。
 国際学類の各コースも本格的に学生さんが分属してきてますし。
 例年以上に手探り状態です。

 授業の試みとしては、『よつばと!』フランス語版を使って日本語との表現の違いを見るというのを導入してます(これで授業全部ということにはしませんが)。ぜったい日本語話者では考えつかないフランス語会話表現というのがあるのがよく分かります。

 ところで、ついに完結した『PLUTO』『よつばと!』という、わたしの関心を引いた二つの作品の間に、最近なんとなく類縁関係をみたくなってます。
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葉桜ハレド。ん? あ、いや。


 ハレドの新作、というと以前だったらライ界の大ニュースで、このブログでもまっさきに取り上げたところですが、最近はどうもそういう気になりません。

 ニューアルバムLiberte『リベルテ(自由)』は3月30日発売ということでしたが、ネットにはその1か月以上前から全曲が聞けてましたし。

 そのことをミリアニさんたちに言ってみたら「あーあれはね、ハレドの兄弟が横流ししたんだよ」というお答え。
 ハレドはアルジェリアの親族ともあんまりいい関係でなさそうですね。

 あっしは古い人間でござんすので、未発表アルバムをネットで聞いてすぐ論評というのは好きじゃないです。CDを買って、付随してくるジャケットや文字情報を眺めながら音を吟味したいです。
 ということで、やっとCDを入手、聞いてみました。

 これはライとしては「葉桜」ですね。それなりに聞かせはしますが、アルジェリア的な、オラン的な活力を感じさせるところがないような。
 去年にはこんな情報も流れていたので、こんどこそバリバリのライを聞けると思っていたわたしとしては、がっかりでした。

 ただ伴奏、アレンジを意識的に取り去ってハレドの声だけに注意を集中して聞けば、そのうまさは相変わらず。こぶしの回し方の絶妙さは全く健在です(プランクトンの社長さんもそう思ったんだと思います)。
 それに、録っているのがちょうど20年前、ハレドと共に記念碑的アルバムKutche『クッシェ』を作って、一気にライをワールドミュージックの代表的ジャンルに高めたマルタン・メソニエなのです。この『リベルテ』でもなにか考えがあってこういう形に仕立てたのかなと思います。

 そのへん、少し聞き込んでみたいです。

[追記] 何回か聞いてみるとさすがになんか見えてきた(聞こえてきた?)感じです。いずれまたまとめて書きますね。
 むかしグナワ・ディフュージョンの『スークシステム』のライナーを書かせていただいたときに思ったんですが、あのアルバムは最初あんまり気にいってなくて、解説を書くために何度か聞いてみてはじめてアマジーグたちの(音楽的)意図とその良さが「分かった」気がしたものでした。それがどういうものかって、言葉では言えない感じなんですが・・・
少なくとも数回は聞いてくれる固定ファンのいるアーチストはそういうことができます。ふつうはCDなんて一回聞いて「あ、これダメ」となればもう二度と聞かれず、押入れの場所をとるばかりになっていくんです(まさしくこれがCD等の物理的媒体の弱点ですね)。09.04.19.
 
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トルコとドイツ(2)


 新学期で忙しいです。アルジェリアのナイトクラブの思い出話は明日あさってゆっくりしながら書きます。

 忙しい中、映画ひとつ、見てきました。これは学生たちに「見とくといいよ」と言った手前があって、見ないといけなかったんです。

 さて、前にも書きましたが、わたし、映画のタイトルに「愛」という字が入っていると区別不能になってしまうという悲しい定めのもとに生きています。

 ファティア・アキン監督の『そして、私たちは愛に帰る』(原題はThe Edge of Heavenと書いてあります。ドイツ語題はAuf der anderen Seite、トルコ語題はYaşamın Kıyısında)というのもまさにそれです。悪いことにこの監督には『愛より強く』というのもあって、『愛より強い旅』というトニー・ガトリフの作品もあることだし、紛らわしいことこの上ない。あああ~。

 タイトルはともかく、これはなかなか佳作でした。

 ドイツ在住のトルコ移民を扱ったものですが、移民問題を大上段に振りかざすという感じではなくて、むしろ親子の絆というようなものを描いていい味を出している映画というべきでしょう。それでもドイツとトルコを生者と死者が行き来するわけで・・・ Anderen Seiteってそういう意味なんですかね。

 とにかく、フランスにおけるマグレブ(北アフリカ)移民のことに関心が集中しているわたしとしては、移民といってもドイツのトルコ移民はあり方がかなり違う感じがします。

 クールなんだと思います。おたがい別個の存在であるのが前提の上でのつきあいのような。

 たとえばフランス人とアルジェリア人だったらこうはいかないことが多いんじゃないでしょうか。愛するのも憎み合うのも、骨がぶつかり合うような距離でぼこぼこやり合ってる感じがします・・・

 歴史の展開上、ドイツとトルコは結びつくことになりましたが、イスラム世界で長く征服者の立場にいたトルコ人のもつ矜持のようなものがあって、それが結局かなりドイツ人と合うところがあるように思いました。こういうの思ったの、今回がはじめてだな。

 「ドイツ人の几帳面さについていけるのは(イスラム圏では)トルコ人くらいのもの」と誰かが書いているのを読んだ気がします。

 それはとにかく、使用されている音楽はなかなかいいですよ。さすが『クロッシング・ザ・ブリッジ』のアキン監督です。

(一部内容削除いたしました。2009.4.19)
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犀川の桜


 あやしげなアルジェリアのナイトクラブの話の前に、ちょっと金沢・犀川沿いの桜を。

 ほんとうに美しいです。

 花のお江戸のいかなる桜名所もここには及ばない、と言ってくれた人がいます。
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ライ伝説のクラブへ

25 アルジェリア滞在実質第一日目は大変有意義だったのですが、先に書きましたように風邪をひいてしまい、あとはかなり苦しい滞在になりました。

 二日目はほとんど寝た切りで、三日目の夜。
 少し回復したつもりで、ミリアニさんたちに連れて行かれた店は、表になんの看板も目印もないところ。ミリアニさんが呼び鈴を鳴らしてしばらく待つと、木の頑丈な扉が開いて、中へ入れてもらいます。
 まるで秘密の集会場みたい。天井低い二階建てのレストラン。
 たぶん、独立戦争のころの秘密会合みたいな形がいまも続いているのでしょう。

 中で賑やかに飲んで食べている人たちは、一見ただのおっさんたちですが、みなかなりのインテリなのだそうです。馬鹿な冗談を飛ばしている人がいましたが、後であれは某政党のオラン地区リーダーという肩書の人だと聞いたりして。

 さて夕食なのですが(エスカロップ頼んだ。ちなみに一日目の晩はパエージャ)、わたしはお酒も大丈夫だろうと思ってワイン飲んでたら突然、あっという間に気分が悪くなり、「あれーっ、だめ!」と思った瞬間、頭から血が抜けて意識が消えてしまいました。
 
・・・

 少したってはっと目を覚ましました。気分はかなりよくなってましたが、ミリアニさんたちが、半分心配げに、半分にやにやと笑ってみてました。それで:

 「ここにいるのがわたしじゃなくてナスロだったら、あんた日本に帰れてないよ」

って言うんですね。
 金もパスポートも、みんなナスロに取られちゃうだろう、っていうんです。

 ナスロってこの人ですね。でっぷり太った人らしいです。
 アルジェリアの新聞報道を見ていて、かなりいかがわしい人物だろうと思ってましたが、やっぱりいかがわしかったですね。
 ほとんど教育も受けてない人だけど、何をどうやったのかオラン民衆歌謡協会APICOのボスの座につき、オラン・ライ・フェスティバルの興業権を握って、やりたい放題。
 でも彼が実権を奪われてしまうと(だれも彼のことをかわいそうとは言いませんね)とたんにライ・フェスティバル自体がわけわからなくなって、去年からオランでの開催さえなくなってしまいました。なんとか言ってもコンプライアンス・ゼロ、運営の透明性ゼロのナスロがやっていたフェスティバルの方が活気があって、ライらしいフェスティバルをやっていたように思います。
 そういうもんですね・・・

 さて食事が終わると、大丈夫かなあと心配されながら、いや、行く。行く行く行く行く行く!!! と言い張って、ライのスター達がみなここから始めたという伝説のナイトクラブの集積地、カナステルに向いました。

 たとえ心臓が止まってもカナステルまでついていくつもりでした。
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