日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
Mort de Ishihara Shintaro, écrivain 石原慎太郎氏逝去
Écrivain et homme politique, ISHIHARA Shintaro, célèbre pour ses propos blasphamatoires à l'égard de la langue de Molière, des femmes ayant dépassé certain âge, des certains pays étrangers, etc., est décédé à l'âge de 88 ans. Il se sympathisait tout de même avec André Gide, des Nourritures terrestres. Je cite ci-dessous le passage favori du défunt. Toutes nos condoléances.
ふりかえってみるとこのブログは2005年4月に始めています。始めて間もなく例の石原都知事(当時)のフランス語中傷事件(フランス語は数が数えられない云々、だったかな? もう忘れてる・・・)がありました。そのころの投稿です。
これ
その石原慎太郎氏が亡くなりました。ご冥福をお祈りします。
当時の投稿を見てみると、今と全然違いますね・・・ 「ライ」にまだ活気がありました。
以下はわたくしがアルジェリア・モスタガネム大学で学生さんにお話ししたときの投稿です。石原氏についてお話ししたんですね。
これ
この投稿のころはアクサン出すのに難儀してたみたいですね。もう一度引用してみましょう・・・
Agir sans juger si l'action est bonne ou mauvaise. Aimer sans s'inquiéter si c'est le bien ou le mal.
Nathanaël, je t'enseignerai la ferveur.
Une existence pathétique, Nathanaël, plutôt que la tranquillité. Je ne souhaite pas d'autre repos que celui du sommeil de la mort. J'ai peur que tout désir, toute énergie que je n'aurais pas satisfaits durant ma vie, pour leur survie ne me tourmentent. J'espère, après avoir exprimé sur cette terre tout ce qui attendait en moi, satisfait, mourir complètement désesperé.
ジッドが『地の糧』で望んでいたことは疑いなく、全ての欲望を満たし、尽き果てた境地で死にたいものだ、ということだったと思います。
そういう境地に達したなら、死んでもいいと。
それって『パルムの僧院』でブラネス師がVincenzo Montiの句 :
Come al mancar dell'alimento
(ランプの)油が尽きたように
を引いて、自らの死を語ったのと同じこころですね。
スタンダールもそう願っていたでしょう。
ここだけ詩の引用になっているのは、そういう死を称えているのだと思います。
石原氏はそういう死を迎えることができたでしょうか。
ところでわたくしはまだ生きてますし、おかげさまでそこそこ元気ですので、別にこのブログを閉めたりはしません。
全く開店休業でしたが、そろそろ時間もできるし、生活の中心になる出来事がブログに書いていって差し支えないようなものになる時が再び来るように思います。喪失の気持ちもわたしのなかで落ち着いたように思いますし。
ふりかえってみるとこのブログは2005年4月に始めています。始めて間もなく例の石原都知事(当時)のフランス語中傷事件(フランス語は数が数えられない云々、だったかな? もう忘れてる・・・)がありました。そのころの投稿です。
これ
その石原慎太郎氏が亡くなりました。ご冥福をお祈りします。
当時の投稿を見てみると、今と全然違いますね・・・ 「ライ」にまだ活気がありました。
以下はわたくしがアルジェリア・モスタガネム大学で学生さんにお話ししたときの投稿です。石原氏についてお話ししたんですね。
これ
この投稿のころはアクサン出すのに難儀してたみたいですね。もう一度引用してみましょう・・・
Agir sans juger si l'action est bonne ou mauvaise. Aimer sans s'inquiéter si c'est le bien ou le mal.
Nathanaël, je t'enseignerai la ferveur.
Une existence pathétique, Nathanaël, plutôt que la tranquillité. Je ne souhaite pas d'autre repos que celui du sommeil de la mort. J'ai peur que tout désir, toute énergie que je n'aurais pas satisfaits durant ma vie, pour leur survie ne me tourmentent. J'espère, après avoir exprimé sur cette terre tout ce qui attendait en moi, satisfait, mourir complètement désesperé.
ジッドが『地の糧』で望んでいたことは疑いなく、全ての欲望を満たし、尽き果てた境地で死にたいものだ、ということだったと思います。
そういう境地に達したなら、死んでもいいと。
それって『パルムの僧院』でブラネス師がVincenzo Montiの句 :
Come al mancar dell'alimento
(ランプの)油が尽きたように
を引いて、自らの死を語ったのと同じこころですね。
スタンダールもそう願っていたでしょう。
ここだけ詩の引用になっているのは、そういう死を称えているのだと思います。
石原氏はそういう死を迎えることができたでしょうか。
ところでわたくしはまだ生きてますし、おかげさまでそこそこ元気ですので、別にこのブログを閉めたりはしません。
全く開店休業でしたが、そろそろ時間もできるし、生活の中心になる出来事がブログに書いていって差し支えないようなものになる時が再び来るように思います。喪失の気持ちもわたしのなかで落ち着いたように思いますし。
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