プルートー アングーレームで受賞


 アングーレーム国際マンガ祭の今年の受賞作が決まりました。
 大賞はArt SpiegelmanのMausです。ずいぶん古いのを選ぶんですね。

 日本からは浦沢直樹×手塚治虫の『プルートー』 Pluto が"Prix intergenerations"というのを取ってます。世代を超えた支持を集めた賞、ってことですか。なんて訳したらいいんでしょうか?

 この作品については何か書く、って宣言したままになってました。また読み返してなんか書きます・・・

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 わたしが金沢に来て20年くらいになりますが、こんなに雪が降り続いたのは記憶にないです。
 右も左も前も後も、下も上もみんな雪。
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カイロのサラームさーん!


 皆様もご存知のとおり、チュニジアの自由化運動はエジプトに飛び火しました。アラブ世界の中心を自認するエジプトです。その影響は計り知れないものがあると思います。

 ところでこのブログのブックマークにあるChez Salamはサラーム海上さんのブログですが、彼はいまなんとあのカイロにいるんですね。
 世界史の動く瞬間の現場にいあわせています。

 十分安全には気をつけて無事に帰国してほしいです。そしてわれわれに現地の息遣いを伝えてほしいです。

 皆さんも彼を応援してください。
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アフリカに関心を持てったって

 きのうテレビ見てましたら、バレンタインデーを前にチョコレートの原料であるカカオの価格が高騰しているというニュースがありました。

 もちろんコートディヴォワールでローラン・バボとアラサン・ワタラが二人とも大統領選での勝利を宣言して、国際社会が支持している後者が前者の資金源を抑えるためにカカオ輸出を禁止させたせいなんですが、せっかくの機会なんだから、なんで大統領が二人もできちゃったのか少し解説してくれてもいいように思いますが、わたしの見ていた局では何も解説がありませんでした。そういう報道をした局はあったんでしょうか・・・?
 
 この大統領並存問題は、当然ながら大きな意味での「移民問題」に絡んでいるんですよ。ワタラは旧オートヴォルタ、現ブルキナファソの系統だから「コートディヴォワール性」ivoirite'に問題ありということで大統領の被選挙権自体が長く認められてなかったんですからね。で、なんでコートディヴォワールにたくさん移民がいるかというと・・・

 これがフランスとかの話だったら、少しは論説が入るでしょう(もっともフランスで大統領が二人できるという事態はちょっと非現実的ですが)。

 これでは、アフリカの国はわけがわからない、という印象を日本の人に植え付けるだけではないですか。
 バレンタインにうつつを抜かすばかりで、アフリカは遠いまま、というのはもうやめときましょうよ。

Jeune Afriqueとかの毎号の記事の「見出し」だけ学生に訳させるみたいなの、授業の課題でやってみようかな・・・と思いつきました。あの雑誌なら毎号コートディヴォワール情勢のことがじゃんじゃん載ってます。はなはだ面白いです。全部読む時間ないですけど)

(それにしてもローラン・バボって、前から思ってるんですが金沢の前市長山出さんに似てるんですよね。山出さん、去年6選を目指して立候補して、盤石の体制と言われたんですが山野候補に負けてしまいました)

[追記] 問題の山出さん、じゃなかったバボさんの写真の載ったJeune Afriqueの表紙です。↑ 
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ラビア、自伝を準備中


 久しぶりにライの話題が出ましたんで、小さいニュースもついでに。

 リミッティ流の伝統ライを歌う最後の歌手といっていいCheikha Rabiaが、新アルバムとともに自伝も発表する予定らしいです。
 アルジェリアの女性歌手の軌跡のひとつの典型を知ることができると思います。
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シェブ=マミ、シャバの空気を吸う

 しょうもないしゃれのタイトルで申し訳ありません。
 Echorouk紙の伝えるところでは、喜ばしいことにシェブ=マミが仮釈放で、5日間だけですが娑婆に出てきました。最近のことでしょうが、正確な日付はEchoroukにも書いてありません。

 実はひそかに2010年12月24日から29日にも弁護士に付き添われて仮釈放されていたそうです。全然報道がありませんでしたから気づきませんでした。
 でも親族と会い、外を歩くこともできたのは二年前の収監以来初めてのことのようです。

 条件付きながら来月には完全釈放されるという情報も伝わっています。

 さあマミよ、いまこそ「ライ」を歌う時だ。ライは傷だらけの男や女こそが歌うべきものだから・・・

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ワールドミュージック振興協会?

 今日、古新聞を整理してましたら、『北國新聞』2010年12月16日号に、金沢市立木曳野小学校というところの校長さんが、児童に昼食時にクラシック音楽を聞かせている、という記事が載っているのを見つけました。
 勝田徹先生といわれるこの校長先生は、「時を超えて聞き継がれている本物の音楽のすばらしさを知ってほしい」ということで、ご自身が所蔵されているCDを活用してこの試みを始められたそうです。

 勝田先生の善意は、疑う余地もありません。以前にこの学校で給食の時間に流していたのはアニメ主題歌や流行歌、クイズなどのプログラムだということですから「こういう音楽もある」ということを子どもたちに知らしめるという意味で、たしかに「良い」面はあると思います。

 でも。

 わたくしのこのブログをずっと読んでくださっている方には、わたしが何を言いたいかもうお分かりだと思います。

 若い「クラシック」ファンを増すということには、弊害もあるということです。小さい頃に、音楽嗜好を持った子の大部分が西洋古典音楽に馴染む機会をもって西洋古典音楽ファンになってリスナー市場でかっさらわれてしまうので、いま世界に実際に息づいている音楽を愛好する方にまわる日本人が極端に少なくなることにつながっている、ということです。
 これ、困ったことなんです。
 西洋古典音楽というのは「高いところ」にあるものとみなされているので、それ以外の音楽ジャンルを「本当の音楽ではない」みたいに「見下す」傾向を植え付けてしまう危険を、明らかに現状の日本では、もっていると思うのです。

 現代、21世紀には、明治期みたいに上を向いて、「欧米先進諸国」だけ見つめていればいいわけではないのです。勃興するアジア、南米、そしてアフリカの人々の心に気を配っていかなければならない時代のはずです。
 今の世界の人々の心を魅了する音楽を知ること、そしてそういう音楽に自らも魅了されることを実感することは、200年前のヨーロッパ音楽を微に入り細に入り研究、熟達することと、少なくとも同じくらいは大事なことなんじゃないでしょうか。

 だから、「クラシック」を導入するなら、「ワールドミュージック」の存在意義にも少し目を向けて、小学生たちに世界への目を開く機会を作っていただきたいなあ、とか思ったりするのです。

 というようなことを申し上げたら、勝田校長さんはびっくりされるでしょうか? どう思われるでしょう? この方はむかし音楽担当の教員でいらしたということですが・・・

 「ワールドミュージック振興協会」みたいなのを立ち上げて、その協会の代表を名のって、そういうことを言いに行ってみようかしら。
 「クラシック」を振興するために一肌脱ごうという善意の方は日本にたくさんおられそうですが、ワールドを振興するために一肌脱ごうなどというモノ好きはあまり多くなさそうなので・・・
 わたくしの言うことに一理あることは分かっていただけるかなと思うのですが・・・ 甘いですかね・・・

 わたしも人生でそれなりにいろんな経験をしてきましたから、そういう変なことやっても、たぶん変な結果しかでないだろう、というのは思うんですが。
 でもカンバセーションさんの倒産などということが起こる時代ですから、日本の人の心がどんどん鎖国状態になってしまうのを阻止するために、なんかしないといけないかなあ、そういうのが時代に対する責任というものではないかなあ、と思う今日この頃です。

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横積み


(前のエントリーから続きます)

 昨年、2010年12月12日、日経の「ニッポンこの20年 長期停滞から何を学ぶ」コラムには:

 新興国で敗れた企業--「世界一」ブランドに安住

というタイトルが掲げてあるのですが、記事の内容を読んで、うーんと考えてしまいました。
 記事にはたしかに新興国で敗れた日本企業のことが書いてあるのですが、その敗れ方というのは、日本の人が普通に「『世界一』ブランドに安住」という言葉を見て反射的に理解する原因と、かけ離れている、というかむしろ反対であるところがあるように感じたからです。

(以下、とんでもない事実誤認があるのでしたら、ぜひ教えて下さい。謝罪とともに撤回いたしますから。それでわたくしもひとつ賢くなれるというものです・・・)

 ジャカルタの家電売り場で日本製品が、品ぞろえの数が多くて選択幅のひろい韓国製に負けている、という話についてこんなことが書かれていました。

「(韓国の)サムスンの液晶テレビの輸送マニュアルでは横積みOK。一方、多くの日本企業は安全策を取り、いまだ縦積み指定だ。
 『横に積んで故障したという話は聞いたことがない。そもそも縦積みは運びにくい。品質に差がなくなった今、問屋や小売店がサムスンを扱いたがるのは当然だ』」

 この記事にはこれだけではなくいろんな例が出てきます。会社の意思決定の際に必要なハンコが多すぎるとか、経営者が現場を歩かないとかは、たしかに奢りや油断の問題だと思います。
 またこの「縦積み横積み」の例だって、記事の字数制限に収めるために話を単純化しているかもしれないし、こんな材料だけでものをいうべきではないのですが、それでもあえて何か言いたくなるような気持ちにさせられるんですね。

 縦積み指定は、別に世界一ブランドに「安住」したおごりから来る、というわけではないのではないでしょうか?
 むしろ必死で世界一を護ろうとして、「万が一にも故障のないように」しようと思って念には念を入れたつもりが、かえって墓穴を掘っちゃった、ということではないでしょうか。 
 本来なら日本でもどこでも当然ほめられる高度な配慮の心が行きすぎてしまって、「労働の自己疎外」みたいな話になっちゃって、世界一ブランドを守る努力が品質管理の洗練とマニュアル化に向かってしまったところから来ているのではないでしょうか?

 そういうことが起こる場の光景というのは、他にもいろいろ考えられます。
 「工場の人たちが心をこめて作ったものだ。粗末に扱ってはならない」という先輩、上司の言葉、日本的心には実に快く響いてしまう言葉が、大多数の社員たちの心の中に鳴り響くままになっているとか?
 あるいはもっとゲスに「『商品はこれだけ大事に扱ってるんです』といえるほど頑張っているなら、クレームがきたとき自信をもって対応できる」、こんな心が日本企業の社員の人たちの心にかかっているかも・・・

 こういうのは、クレームをつけてくる人とのコミュニケーションの煩わしさを逃げるために品質管理という自分の得意な領域の洗練の方ばかり向く、ということかも、と言ったら意地が悪すぎるでしょうか・・・

 わたしがこのごろ「精神的高みは横方向にもあるのでは」とよく言うのは、このあたりに動機があります。
 いま要るのは、上ばっかり見るのではなく、横のコミュニケーション、人と人とのコミュニケーションのネットワークの方も大事にする心なのじゃないでしょうか。

 『のだめ』にはまってその気になって、西洋クラシック音楽の奥義を極めるという縦方向の研ぎ澄ましのみに価値を認める人間など、今の日本に量産してどうするんですか。いまだって日本の地方では音楽向けの文化予算を「クラシック」にほとんど全部つぎ込んでるのに、それでもクラシックの人たちはぜんぜん食えてないのですよ。そして世界のほかのすべての音楽に回る文化予算はすずめの涙、ということになってしまって世界の他の地域を楽しく知るためのきっかけ作りはなされないままなのです。
 これって、おかしいですよ。

 『神の雫』にはまってワインのソムリエになりたい人はなったらいいですけど、酒文化は世界に無数にあるのです。たしかにフランスのワインは美味いですけど、それが世界最高でほかのすべての酒文化には従属的価値しかない、というわけじゃない。それでは、なんだかかえってフランスの酒文化の洗練を愚弄するような感じがわたしにはするくらいです。

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フランス大使館の年賀状


 ことしフランス大使館からもらった年賀状にはオキモト・シュウ『神の雫』のキャラクターが描いてあって、ちょっと驚きました。

 文面にはこうあります:

 「フランスはマンガ販売部数が年間2000万部に上る世界最大のマンガ輸入国です。[...]
 わが国で『レディー・オスカー』の題で知られる『ベルサイユのばら』のヒットから数年後、『神の雫』が数カ月で売り上げ40万部を記録し、マンガの代表作として認められたのも偶然ではありません。フランス人が「マンガ精神」をもつ一方、マンガもフランスオマージュを捧げてやまないからです。」(ベルサイユのばらと神の雫じゃ「数年」差ってことはないと思いますが、フランス語原文はplusieurs anneesですから、順当です)

 フランスで40万部売ったんですか。それはまたよろしおしたなあ・・・

 日本マンガ、またそのマンガのフランスにおける評価を云々するのはいいんですが、うーん率直に言ってわたしこの『神の雫』ってマンガはぜんぜん好きじゃないです。

 『のだめ』とおんなじです。「西洋クラシック音楽」とか「フランス高級ワイン」とか、いかにも「高いところ」にありそうな、日本でありがたげなものとして評価が定まったものの権威によっかかって売る、というタイプの作品に私はあんまり価値を認めませんし、そういう作品世界に浸かってなんとなく高級感に浸って悦に入ろう、みたいな態度で本当の--というのは「本当に楽しい」という意味です--芸術体験はできないんじゃないかなーと思ってます。

 「なんで? そういうのあっていいじゃん」という声も聞こえそうですが、わたしは「横方向の高み」に、とくに日本の人たちが鈍感になっては困ると思うんですよ。次のエントリーをごらんになってください。

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チュニジアの新聞

 わたしはアルジェリアとフランスの新聞でジャスミン革命をフォローしてます。チュニジア自体の新聞はネットでは現在見にくい状態になってます。
 これらが読めるようになったとき、チュニジア人たちの肉声がはっきり聞こえてくるでしょう。

 アラビア語とフランス語で。

 これをご覧ください。言うまでもないことなのですが、チュニジア国内にはアラビア語紙でなければフランス語紙しかないです。

 だから英語だけじゃだめだ、と言ってるんです。


[追記] Le Temps紙が声をあげました。

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