滅失絵画

 いま日経新聞の最終面で「滅失絵画十選」というのをやってます。

 「滅失絵画」というのは、要するに災害などにあって今は存在しなくなってしまった作品のことですね。

 この言葉、なんというか現実の裂け目みたいなものを感じさせる言葉のように思います。だって絵画というのは物理的に存在するものであって、ひとは現実に存在するものについて語るのだから、存在しない絵画に関してはほんらい語りえないものであるような感じがするからです。それでも人が語るということは、すでにその絵画に関して言説が営まれはじめてしまっていて、たとえそれらの言説を支える元の作品が滅失しても言説は自らのメカニスムで生き続けるからです。

 それに写真というものがある。ダヴィドが『マラーの死』と対で描いたルペルチエの絵、政治的嫌悪感から王党派の人が買い取って自ら破壊してしまった絵みたいに跡形もなくなってしまった絵というのは名しか残っていないわけですが、19世紀半ばからこちらは写真が残っていて、最小限の視覚映像を残している可能性がある。するとなんだか、滅びてしまった作品の切ない声が冥土から聞こえるような気がしますね。ちゃちな白黒写真であればあるほど・・・

 わたしの家には角川(だったかな? こんなことも覚えてない・・・)の『世界美術全集』がありました。子供のころはよくこれを眺めていたものです・・・
 この全集の日本・平安時代の部の巻頭に、金剛峰寺の塔頭旧蔵の「金剛吼菩薩」が載せられていました。なかなか迫力のある絵なんですが、解説を読んでいると一番最後に:

「焼失」

と書いてあって、なんだか特異な印象をわたしに与えたものでした。今はもう存在しない絵の写真をあえて巻頭に載せるとは、編者に強い思い入れ、哀惜の念があったのでしょう。

 それでその日経のシリーズ、7月3日号ではマチスが自ら破壊した自作が載っていました。それまでに紹介された日本の滅失絵画は震災や空襲で焼けて消滅してしまったんですが、これは作者が、こういう作品を自分のものとして後世に残すまいという意志をもって廃棄したわけです。日本は災害国で、フランスみたいなアーカイヴ国にはなかなかなりにくいというのはこんなところにも見えますね。

 でもこうやってずっと考えたら、やっぱりすべての絵画は、別に滅失しなくてもどんどん失われていくものなんだな、と分かっていくように思います。
「人間と同じで、絵画も死ぬものだと思います」てなことをマルセル・デュシャンが言ってました。絵画の側も時間とともに必ず変質するわけですし、見方のわかっている人の方だってどんどん死んでいくわけですから。

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