あんたがおれへんから


(このエントリーから続きます)

 民衆の音楽ということでもうひとつだけ。

 わたしはときどきプチ整体やってもらうのですが、揉んでもらう場所ではバックグラウンド音楽がかかってます。でもこの音楽は売れ線狙いのJ-ポップばっかりで、まともに聞く価値のないつまらないものばかりと思ってました。

 ところが先日、「あんたがおれへんから」という歌詞が出てくる歌が、なんとなく心に残りました。あんたがおれへんから楽しないし、あんたがおれへんから独り言も多なるし、って言うんです。これ、わりといい歌だな・・・ 売れ線狙いでないとは言えないけど。でもなんとなく。関西弁使っていて、それがわざとでない感じだからかな・・・

 こんなことがあるんだな。これまでこのプチ整体で何時間過ごしたかわかりませんが、そこで聞こえた音楽がほんのチョビっとでも心に残ったことは一度もなかったのに。音楽って奥が深い。

 調べてみるとこの曲は、ティーナ・カリーナの『あんた』っていうそうですね。ティーナさんが自分で作詞作曲やってます。
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同平面


 9月29日、Kocani Orkestarコチャニ・オーケスター + Queen Harish クイーン・ハリシュの踊り(於富山県南砺市福野・円形劇場ヘリオス)。

 マケドニアのジプシー・ブラスのバンドです。
 正直言って、わたしはこの種の音楽はあまり興味がないです。だからコンサート自体はあまり面白いとは思えなかったんですが・・・

 しかし、あっと驚いたのは有料のコンサートが終わったあと。

 かれらが会場のヘリオス・ホールの外にでばってきて演奏してくれたのです。ひと月まえスキヤキ・シンポジウムの会場、わたしがコーディネータとかいってつまんないことをぐだぐだ言って皆様を退屈させていたあのアートスペースのあたりで、マジの演奏をやりました。

 これは、素晴らしかった! 
 客席からステージを見上げて聞くのとは全然違う!
 この違いには、あっけにとられました。

 要するにこの音楽は大道芸――クイーン・ハリシュさんの踊りも入る――なのですよ。だからまさしく、聴衆と同平面になって初めて威力を発揮するんです。あの大型金管楽器群のぶかぶかいう音の振動が同平面で触覚的に感じられてこそ、この音楽は効果を発揮するんですね。

 こういうの、まさしく民衆の音楽ですよね。
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天皇制? 補足


 つまり、天皇陛下は国民の安寧、「国土」の安全を「祈る」ことをしておられるのだから、大変重労働である祭祀をしておられるのだから、それがマジのお仕事なのだから、国土が損傷――「損害」というより「損傷」だと思います――を受けたこの事故において、天皇陛下はマジの意味で一番の当事者と考えたっておかしくないのでは、と思うのです。震災・津波は天災だから仕方がないとも言えますが、原発の方はどう考えたって人災なのですから・・・
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天皇制?


 カテゴリーは「よもやまよもやま」なんですが・・・

 あの大地震、津波、そして原発事故で、おびただしい命が失われ、日本――地球?――の運命も危うく感じられていたあのころ。
 天皇陛下のメッセージがラジオ放送された日がありましたね。
 朝、車の中でラジオをつけたら突然天皇陛下の声が聞こえて、あのときはもうわたし、ぞーっと背筋が凍りました。

 こんなことを言われるのじゃないかって。

 「実は、福島原発四号機の使用済み燃料プールが極めて危険な状態にあるということをわたしは知りました。
 このまま手をこまねいていて水が失われ使用済み燃料が露出してしまうと、破滅的状況となることが確実です。

 専門技術は要りません。
 プールにホースを突っ込んでくれるだけでいいです。
 でも、それをやってくれた人は、ほぼ確実に死ぬと考えられます。

 どなたかやっていただけませんか。国のために」

というようなことを。

 幸い?陛下のお言葉は震災の犠牲者への哀悼の念と復興にむけて国民が元気を出すためのお言葉でした。

 そして原発の方は幸いホースとかそんな単純な話ですむ状況にはならなかったのですが(たぶん・・・)・・・
 上の言葉は菅さんが言おうが誰が言おうが、実効力はない。たとえ命と引き換えにそういう作業をやろうという人がいたとしても、それは状況を理解してその作業を誰がやることがたしかに必要だとその人が考えたからであって、菅さんに言われたからではない、はず。
 しかし天皇陛下が言われたら、実際に、「その言葉で」動く、という人がいたかもしれないと思うんです・・・
 
 またその志願者がビデオカメラに向かって「天皇陛下万歳!」を――ギャグまたはマジで――叫んで、ホース持って使用済み燃料プールに突進していく映像がYoutubeなどで世界に流れる、ということもあったかもしれない。そうなれば・・・

 こういうの、加藤典洋さんあたりが何か言ってないでしょうかね・・・

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スキヤキ2012をふりかえる -11- nuke


 さて、OKIさんから出た原発問題への言及ですが。
 わたしが札幌のタワレコで「北海道っぽいもの」を探してOKIさんと出会ったように(こじつけかな)、問題は土地だと思います。人間と結びついた土地です。
 OKIさんは、事故後に子供の世代を危険にさらす無責任な行為のお話に続けて、土地を奪われた民族の被る喪失の計り知れない甚大さを熱っぽく語っておられました。

 原発の問題は、事故の影響を受けた土地が非常に長いあいだ使えなくなった、人間にとって失われてしまったというところに重大さがあるように、わたしには思えます。

 シンポの場ではあとで客席から、「祈り」というところに日本式の原発反対運動の性格があって、これはこれですごいものだ、という注目すべきご意見もとびだしていましたね・・・

 「原発事故」「土地」「祈り」ということになると・・・わたくしのもった個人的意見で、他の方がげっ、とくるかもしれないお話をしないといられなくなりました。スキヤキのお話とは別のものとして、次のエントリーに書いてみます・・・

(スキヤキのシンポの場では、コーディネータとしてOKIさんにも他の方々にも自由にお話ししていただきました。そのことについて全責任はわたくしにあります。言うまでもないことですがスキヤキは特定の政治的、宗教的信条を支持するものではありません)
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スキヤキ2012をふりかえる -10- だぶだぶ


 OKIさんのCDで最初に買ったものが、これ↑。
 学会で札幌に行った時にタワーレコード行って「えーと、なんか北海道っぽいものって」と思ったらこれを大きく売り出していたんですね。やっぱりこれもそういうタイミング、そういう運、そういうシンクロニシティ(ユングの)なんでしょうね。

 スキヤキでのオキさんのステージ(8月26日)は、ほとんどトンコリのソロでしたね。
 あの夢幻的な感じは、素晴らしかった。

 この2004年のアルバムDub Ainuも、短いですが聴き応えのあるものでした。
 女声コーラス、今をときめく?マレウレウの原型も聞けますしね。

 そのマレウレウですが、当然ながら忘れてならないのは、OKIがマレウレウを生むのであって、マレウレウがOKIを生めるわけはないということですね(「マレウレウいいじゃん!」という強い印象からアイヌ音楽に入っていくのは一向に構わないというか、むしろそれがホント、常道だと思う、というお話はここでは繰り返しません)。
 このアルバムを聞いていると、ダブがOKIにマレウレウを産ませてくれたんだなというのが理解されます。

 ダブというのは、そういう産出力を持たせてくれる何かであると思います。
 どなただったか、このダブのことを「貧乏人の現代音楽」と定義されている方がいて、言い得て妙だと思ったことがありました。
 どんなに完璧に設備の行き届いたスタジオででも、ダブを録音するとなるとそれらを「貧乏人的」――という言葉が悪ければ「民衆的」と言いたいです――に使う必要があります。
 そしてそれは、まさしく「現代」音楽なんですね。
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シンポジウム「日本に於ける外国語・外来思想の受容」


 ウェブページの紹介もないささやかなものですが、上の題のシンポジウムがあさって9月29日土曜日14時20分より17時まで、金沢の「石川四高記念文化交流館」で開催されます。
 わたくしがコメンテータのひとりをつとめます。いちおうフランス語教育代表という感じです。パネラーの方々をご紹介しますと:

14:20 清水邦彦(金沢大学准教授)「趣旨説明」
14:30 榎本剛士(金沢大学准教授)「日本に於ける『英語教育』の黎明」
15:00 巖錫仁(オム・ソギン。八州学園大学准教授)「日本・韓国に
    於ける漢字・中国思想の受容」
15:30 田頭慎一郎「近代日本に於けるドイツ語・ドイツ思想の受容
    ――加藤弘之から西田幾多郎へ」(学習院大学非常勤講師)
16:10 総合討論。コメンテータ:三川智央(金沢大学人間社会環境研究科
    客員研究員)+わたくしです。
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スキヤキ2012をふりかえる -9- だぶ


 このあたりで、伝統アイヌ音楽のCDの数は少ないが「アイヌ・ダブ」ならかなりでてきた、というお話が一瞬出ました。

 今回のシンポのお三方に「レゲエ」reggae、「ラガ」ragga、「ダブ」dubというあたりの接点があることは意識しておりました。現在の世界である程度意識的に音楽を実践しようとする場合、レゲエに対するスタンスというのは誰しも確認が必要であるように思います。レゲエとそれにまつわる諸ジャンル、思想、歴史等というのは21世紀人の基礎教養と言うべきでしょう。学校でちゃんと教えるべきだ。うん、そうだそうだ・・・
 でも教育って権威、権力ということと表裏一体ですから、結局それも難しいですね。学ぶなら、反抗して、学ばなければならない。レゲエはレベル・ミュージックrebel musicの中核なのです(ラシード・タハも指摘する通りレゲエには原理主義的なものも繋がっているから一筋縄ではいかないけれど)。

 Gnawa DiffusionとOKIがレベル・ミュージックなのはわりと自明ですが、さてキウィ、パパイヤ・マンゴーズはどうか・・・ いわゆる「音楽」という言葉で日本の人が反射的に連想する種類の音楽――日本のポップス、でなければ西洋クラシック――に対するアンチテーゼ?

 とにかくレゲエのあたりをうまく掘り下げればアマジーグ・カテブ、オキ、廣瀬拓音の音楽的ルーツ――のひとつ――を聴衆に示すことができて、シンポを別の展開にできただろうと思います。この重要な音楽ジャンルをあまりご存知でない方には非常に啓蒙的内容になったでしょう。
 でもわたし、そうはしなかったな・・・

 レゲエ等についてはこのエントリー、そしてその中からリンクの貼られているエントリーをたどっていただければ、わたくしのレゲエ観はお分かりになると思うので、それに対してできるだけ批判的なご意見がいただけましたら幸いです。

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スキヤキ2012をふりかえる -8-

このエントリーから続きます)

 例によってのったりくったり、わたくしの日々の仕事の中、人生という織物の中でスキヤキでの議論を熟成させ、刺激を受けた体験のことを織り込みながら進めてますが・・・

 さてOKIさんのお話を反芻してみると、彼の音楽への信頼は、かつてのアイヌの素晴らしい歌い手たちの残した痕跡に基盤を置いているように思われます。

 プロでない歌い手による、天然の音楽。研究資料としてしか録音されず、音楽として佳境に入る前でもサンプルとして十分と判断された時点でぶっちぎられた形でしか残っていない音楽。それでも驚異的しぶとさで残っている音楽。ジョン・コルトレーンとマイルス・デイヴィスのセッションにも比肩する、素晴らしいレベルの音楽。OKIさん自身が、自分には乗り越え不可能という音楽。
 (わたしのまとめで順番が前後していてOKIさんの真意を歪めていないことを祈ります・・・)

 昔のアイヌのおばちゃんの歌(わたしは恥ずかしいことにそういう録音に接したことがありません)は、なぜそんなに素晴らしいのだろう?
 アイヌは国家を作らなかった。だからたいていの「国家」が持っていた、いまでも持っている階級、貴族と平民みたいな分け隔てが希薄な場が圧倒的に多かったのではないか。
 貴族と貴族意識があれば、そこにハイカルチャーとそれ以外、純粋と不純という分離の意識が派生する。
 民衆とは、これまで自分が接した全てのものから「良いもの」を自然に取り出し吸収して再生産する、そういう人たちのことではないか?

 わたしには今のところそんな風に思えます。

――待て。それじゃ「民衆」にはナショナリストはいない、と言いたいのか、おまえは?

 そうではないはずなんだけど・・・ なんというか・・・

 また廣瀬さんの言われたことに逃げちゃいますが:

 出来上がったショーをみるとか、「鑑賞」するとかだけじゃなくて、そこの小さい社会に生活している人だったら理屈抜きではっきりわかるもの、そういうものがある。どうしてやるの? みんなわかっている。どうしてだかはいえないけど。

 という音楽の核みたいなものはある。廣瀬さんはそれを盆踊りや鼻歌とかに探し求めるのですが、オキさんにとってはそれがいったん失われたものになっているためにそれを再興、再構成、再生・・・させようと試行錯誤を繰り返す、そういうことではないかなと思います。

 答えになってないか・・・

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観音さま、それって


 観音さまがバレンタインデーじゃ違和感がありますが、だけど観音様の御胎内にはお釈迦様や大日如来だけでなく、インドの神様で仏教にとりこまれた鬼子母神とかも当然お祭りしてありますし、聖徳太子や弘法大師みたいな日本の聖人もいらっしゃるわけなので、ここに

 聖バレンタイン

が入ったって、たいしておかしくないのかも。

 なんでもあり。
 でもなんか、うっすらと取り込みの論理が見えるような気もする。
 なんだかライみたいなはなし。
 少なくとも、ある種のワールドミュージックとはこういうものという気もいたします。
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