日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
かなだはなかなかだ~その21 荷車のペラジー Pelagie-la-Charrette
間にいくつもエントリーが入りましたが、こっちも全然わすれてはいません。
(このエントリーから続きます)
Gallantという家名に出会ったのはアントニーヌ・マイエ Antonine Maillet、『荷車のペラジー』Pelagie-la-Charretteの中でした。これはゴンクール賞をとった数少ない「フランス以外の作家の作品」でした。
1755年、フランスとの戦いに勝利したイギリスは、現在のNova Scotia、かつてのAcadieからフランス系の住民を追放しました。これを"le Grand Derangement"(「大艱難」という定訳がありますが大矢タカヤス先生は「大騒動」とされています)というわけですが、追放された民の中には、のちになってたいへんな苦労を重ねて再びアカディーに――ひそかに――帰還した人達がいたのです。
『荷車のペラジー』はそういうフランス語系マイノリティの叙事詩です。
ジャニーヌさんによると、Gallantという姓はAcadiensには多いそうで、それを踏まえてマイエはその作品の中にこの名前を書き込んだのだろう、ということでした。
この作品は、何代にもわたる、似たような名前の人々の行状と声が重なり合う、非常に複雑な、現代的な構造を持っています。読む方としては、これは何代目のペラジーだ? どのベロニーBelonieだ?と必死で考えて読まないといけません。そしてその労力が、この作品を読者に親しくするために有効に働いていると思います(世の中には有効でないただのややこしさだけの作品もあることは認めた上で)。
このAcadiens――これがアメリカにわたってCajunケイジャンとなるわけですね、音楽も料理も有名な人々です――の叙事詩としては、その昔アメリカのロングフェローが書いた詩、Evangeline『エヴァンジェリンヌ』がありました。これはイギリス人の非道により引き裂かれた恋人たちが再びあいまみえたとき既に男性は死の床にあった、という悲恋物語であり、ロマンチックですがやっぱり大時代的かもしれません。ヒロインはなによりも「同情の対象」なのです。
マイエのペラジー(たち)は実にたくましい「おばはん」です。プロローグで彼女たちのうちのひとりである語り手がこう言い放ちます。
...venez me dire a moi, qui fourbis chaque matin mes seize quartiers de charrette, qu'un peuple qui ne sait pas lire ne saurait avoir d'Histoire.
あたしに、毎朝十六台分の荷車を磨き続けているこのあたしに、読み書きできない民に歴史はない、などと言えるものなら言ってごらんよ。
(fourbirというのはどうもアカディー固有の語彙のようですね)
彼女たちはAcadieの「最初の人間」として、超たくましく、なんとしても生き続けるのです。これが民族の叙事詩というものでしょう。マイエはきっとエヴァンジェリン(女主人公の名前でもあります)のイメージを「弱い」と感じて、意識的に力ある、主体的に運命を切り開いていく女主人公(たち)のモノガタリを創造したんだなと思います。
いまの日本の地方人はなかなかそうはいかないと思います。あまりたくましい物語は作りようがないから。
でもモノガタリは、文学は、地域を育てる核として機能する、大事なもののはずです。
日本の諸地方を生き生きさせるために、金沢大学地域創造学類の方々、文学の活用をよろしくご考慮くださいね。
(上記の訳文は大矢タカヤス先生のものです。大矢先生は1987年の志賀高原スタージュ(研修)でお世話になった方で、わたしの第一印象「プロゴルファーみたいな人だな」というものだった方です。スポーツマンの印象を持った仏文学者ということではラガーマンの三好郁朗先生と双璧でした。ちなみに『エヴァンジェリン』の方も大矢先生が邦訳を出されています↓)
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人間を大切にしなければ
どーんとことを大局的に見て・・・
やっぱり「人間」を大事にしないといけないと思います。
現代はそれを意識的に行わないといけないです。市場があり、グローバルがあり、ネットがあってしまい、それらの進展がどんどん加速して人間の一生のスパンのあいだに消化しきれないほど変貌をとげる現代では。
ローマ法王の交代、オランダの王位継承をみるに、世襲で成り立っていたシステムももうひとりの人間が人間の寿命のスパンをずっと担当することができなくなってきたことを意味すると解せます。
それでも、人間はだれも、発生から死にいたるプロセスをたどることはかわりないのです。
「作者の死」はいいのですが、これから文学を読み、映画や漫画を見て、それらについて考え育つ人たち、
そして文学その他の営みについて考えた人たち、についても考えながら育つ人たち
も、やっぱり発生から成長して成熟し、やがて死に至ることではいかなる「作者」とも変わりはないです。
Memento moriもいいですが、人間には死ぬまでにいろいろすることが「ある」はず、というか、することが「あってしまう」わけで。
デュラスのお母さんみたいに「なにもしないでいる」能力は尊いです。なにもしないのも、なにもしないことによって人生を描くことに変わりはないのですから。
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Amour
ミヒャエル・ハネケの話題の作品。見ました。
前にも述べたと思いますが、わたしは映画の邦題に「愛」という言葉が入っているとみんな同じに見えて区別がつかなくなってしまうという悲しい運命のもとに生きている人間です。ただこれは邦題が『愛 アムール』と愛×2であるとはいえ、原題はフランス語で"Amour"でそのものずばりです。唐突にエンドロールを出して観客を「え?」と思わせて終わるのが大好きなハネケ監督のことだからなんらかの意味で皮肉か、逆説をはらんだネーミングだろうと思って見に行きました・・・
<極力避けてますが、以下ネタバレの恐れあり。映画を見てからお読みになることをお勧めします!>
・・・うーんまあハネケにしてはかなりストレートだと思いました。
わたしは、『カッコーの巣の上で』を思い出しました。あの作品では、一種の「思想」を繋いでいく形のエンディングだったと思いますが、こちらは、やっぱりある種の「愛」の完遂を追求しているのでしょうね。ヨーロッパの現状と日本の現状で差があるかもな、という気はしますが。
でも、「男女間の愛の完遂」というのはひとつの世代に関するもので、べつに次にくる世代のことを考えてはいないのですが、まさに「自分たちのことしか考えていない」ことによって、かえって次世代に何かを伝えているようにも思えます。娘役のイザベル・ユッペールがなにげなく、両親のセックスをたち聞きするのが安らぎを与える行為だったともらしていましたが、これが後で意味が深いセリフのように思えてきました。だってラストはユッペールがひとりのシーンにしてあるんですから。
それともうひとつ。最初の方を見ていて、これはひょっとしたらエンディングで、異常が起こったのは奥さんのリヴァの方ではなくて夫のトランティニヤンの方だった、のかも、という形にするのかな?と思いました。
最後まで見てみて・・・そういう解釈は別に提起されているわけではないと思いますが、そう見たって別に構わないというか、見ている方でそういう物語を紡ぎ出すのは、ありだと思います。
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ミャーク Myahk
もうひとつ音楽映画。『スケッチ・オブ・ミャーク』。
宮古島諸島にのこる「アーグ」(古謡)と「かみうた」(神歌)のゼロ年代後半の状況が久保田麻琴さんの尽力で映像にも定着して残りました。
2009年の「東京の夏」に皆さんいらしてたのですか。シェイハ=リミッティ登場の5年後ですね。やっぱり金沢は遠いから、なかなか縁がないと東京のこういう公演には行きそびれます。残念なことです。
映画にでてきた譜久島雄太さんは、平成11年のお生まれということですが、この方がなんとか次世代に、なんらかの形で宮古のうたを伝えていってほしいですね。
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Don't stop believin'
経済は数字だけじゃない。人と、その信条、心情も大事なはず。
それが何の意味もなくなったらいよいよ「人間の死」が完徹したことになるのでしょうが・・・
たぶん「人間」は、完全には死なないだろうと思ってます。希望的観測に過ぎないかもしれませんが。
さて昨日は映画を見ました。
どんなに忙しくても、映画というのは見ておくものですね。
話題の『ジャーニー/ドント・ストップ・ビリーヴィン』。
中身は見ないでも分かるかな、と思ってました。
ジャーニーというバンドは、申し訳ないですがわたしはまったく興味ありませんでした。
彼らのヒット曲は、ひとつも知りません。
今回映画の中でいくつも曲を聴きました。どれもよくできた曲ですが、「だから?」というのがわたしの感想です。
だけど、このバンドが大掛かりなメンバーチェンジを繰り返しながら、人気バンドとして存続しているということには、興味を覚えます。Led Zeppelinだとこうはいかなかった。ツェッペリンはペイジ、プラント、ボンゾにジョン=ポール「のこと」だったから、ボンゾが死んだときグループも死ぬしかなかったのでしょう。このグループはこの四人の「ひと」のことだったんですね。
ジャーニーはそうではなかったというのは、なんかありますね・・・
映画に出てきた歌の、どれもあっけらかんとポジティブな歌詞が、そのヒントかもしれません・・・
このバンドはリードヴォーカル役を、グループの顔と言ってもよかったスティーヴ・ペリー脱退後、フィリピンの無名歌手アーネル・ピネダに委ねたのですね。もちろんペリーそっくりに歌える歌手です。
映画の最初の方で誰だったか関係者が、「フィリピン」人を違和感なく受け入れられるかというのが問題だった、と言っている字幕があった箇所が、原語ではたしかに「フィリピン」じゃなくて「Third World」と言っているのが聞こえて、はっとしました。
まったくもう、しようがないなあ・・・
ファンは、ピネダが人気バンド、ジャーニーの顔となるのを受け入れたわけですが、さて、その受け入れは、心の中では、本当は、どうなっているものなのでしょう?
実はこの映画、わたしは影の主役は、ピネダさんの奥さんだと思いました。
実に可憐な、美しい方なのですが、ステージ上を駆け巡り、力いっぱい歌いまくる夫の姿を、踊るでもなく、笑うでもなく、じっと見つめておられました。
彼女の心には、一体なにがあるのでしょう?
ここに、なんか、21世紀のキモがあるような気がしました・・・ 20世紀の初頭に『精神の危機』を書いたポール・ヴァレリーだったら、21世紀のピネダを見て、彼の奥さんを見て、なんと言うだろう?
こんなものを見て、考えさせられるとは思ってなかったので、やっぱり映画というのは見ておくものでした。はい。
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初の、って・・・
新聞記事ついでにもうひとつ。
同じく日経の16日付けですが、天皇皇后両陛下が長野県に「初の私的旅行」をされたという記事が、実に小さく載ってました。
あの、「初の」って、いつからの「初」なんでしょう?
ご結婚以来ということ?
それとも天皇即位されてからということ?
これは「お二人では初」という意味だと思いますが、そもそもこれまで歴代の天皇に「私的旅行」ってあったことになるのか・・・わたしはよくわからないです。
ひょっとして「初」って、神武天皇以来とかいうことないでしょうね。それだったら怖い・・・
要するに陛下はこれまで「奥さん」とプライベートで旅行することすら「できなかった」のを、今回敢然と行った、ということです。
天皇制とは何か、と知識人はこれまで膨大な議論を重ねてきたのに、ある意味非常に画期的なこのご旅行に、みんな何も言わないとは。
日本も、おかしな国だな・・・
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アフリカ、中国、日本
フリーメイソンとアフリカの興味深い関係についてはまたいずれ書きます・・・
今日、4月21日の日経新聞に「アフリカ経済の未来」という記事が出ていました。
「国連人口局の世界人口予測を見ると、22世紀前半、世界の人口分布は、アフリカが40億人、アジアが40億人、その他が20億人になるようだ」
「中国やインドを含むアジア社会は、これから高齢化社会に向かっていく。しかし、百年後のアフリカ社会の担い手は、なお青壮年時代である」
ということです。それなのに、ああわがニッポンは:
「アフリカ在住の日本人は数千人にすぎないが、中国人はすでに百万人に達したともいわれる。外交官から労働者まで、その層は厚い」
ということですね。ああ、もう中国にはかなわない、ニッポンは没落するしかないか・・・
という状態のまま「そんじゃ、あと洪水来るかもしれんけどわたし知らんけん、頑張ってちょうだいね」と、ルイ十五世かポンパドゥール夫人みたいなこと言って若者に疲弊した日本を渡すだけ、というのじゃちょっと無責任。
ここは考えどころ。
金がないなら知恵を出せ、知恵がないなら汗を出せ、それも嫌なら・・・
やめてしまうわけにはいかないので、知恵と汗を出しましょう。
「ただし、アフリカに深く食い込んでいる分だけ、中国資本は反中感情の広がりを含む投資リスクにも直面している」
のはたしかです。今の中国はたしかにパワフルですが、身から湧き出るパワーをどこかに向けないと自分が爆発してしまうようなところがあるのだと思います。そういうパワーは、コントロールする気があっても、なかなかコントロールはきかないものだと思います。
そういう中国、あるいは韓国の進出の仕方をよく見据えて、自分にできることをよく考え、真にアフリカのためになることを考えるなら、日本はアフリカでまだまだ真っ当な競争ができるはずです。
しかし、中国を、韓国を、そして日本を知るのは大事ですが、日本の人がアフリカで活躍しようとするなら当然ながらアフリカそのものをよく知らなければならないでしょう。
そういうのが、少なくとも日本の「グローバル人材」と目される人々に求められるところだと思うのですが、
「自覚的に英語情報にアクセスしない限り、広大なアフリカ大陸で何が起きているかわからないという現状のままでは、グローバル人材の裾野も広がらないだろう」
と日経は言っています。
わたしとしては、アフリカの半分はフランス語国なのだから「英語、フランス語情報にアクセスしない限り」と訂正して欲しいところですね。
たしかにフランス語国といっても経済情報は英語でずいぶん取れますが、より人間が絡む領域ではやっぱりフランス語できないとダメだと思いますよ。
この記事は:
「『アフリカは遠いよ』と傍観し続けることの機会費用は大きい」
と締めくくられているので、「機会費用」ってなんだ?とネットで検索したら、ウィキペディアで「選択されなかった選択肢のうちで最善の価値のことである。法学では、逸失利益とも呼ばれる」と説明されているのが分かりました。
やっぱりウィキペディアは偉大ですね。
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フリーメイソンを知らずしてアフリカは語れない
(前のエントリーから続きます)
そうですね、熱心な会員ではなかったですがスタンダールもフリーメイソンには入っていたはずですから、デル=リットさんが同じであってなんら不思議なことはない。むしろ当然のことですね。
こういうの、ムーア先生みたいなヨーロッパの方はすぐぴーんとくるんですね。なるほどなるほど。
で、そのフリーメイソンですが、わたしの関心はむしろアフリカにおけるその存在感です。
多くの国の指導者がフリーメイソンのお仲間なのです。
たしかにその仲間意識、思想信条を共有するという意識だけで指導者たちが友好を守り国家間の紛争が回避できる、というわけではないのですが、それでもたしかに存在し影響を与え続けていて、アフリカ情勢の底流に厳然として存在するのですね。
Jeune Afrique誌がときたまフリーメイソン(フランス流に言うと「フラン=マソン」franc-macon)特集を組む所以です。↑
日本の人みんながみんなこういうことを知っている必要はないのでしょうが、知っている人があまりに少ないというのは、たしかに問題です。
安倍首相の言っていた日本の「危機管理」のためには、サハラ砂漠のはずれで時ならぬスパイごっこをすることよりも、日本でできるだけ多くの人がアフリカの人々の心情を知り、国の成り立ちをよく理解することにより重点をおくべきではないでしょうか。
こういうのがあるから、Jeune Afriqueって、ほんとに面白いんです。時間さえあれば、全号一ページ目から最後のページまでくまなく読みたいくらいです。
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あ、そうか
最近はなんとなくカナダづいてます。
先週はカナダの名門、サイモン・フレイザー大学からDaniele Moore先生を金沢大学にお招きしてご講演をお願いしました。内容はなかなかひとことで言いにくいものですが、カナダ(や日本や・・・)の街角で見られる多言語メッセージについて、という趣のものでした。こういうところからその土地の民族、言語構成や、特定の言語にまといつくイメージなどが問題になるものでした。
さてこのムーア先生(フランス人ですが)は、たいへんチャーミングな方で、学生さんは男子も女子もたぶん魅了されていたと思います。
ムーア先生とお食事を一緒にしたのですが、お話をしていて話題がスタンダールに及び、かの大スタンダリヤン、デル=リットさんのお葬式の話になりました。
式を取り仕切っていたのが女性で、主の祈りを唱えたという話をしたら・・・
「それはたぶん、フリーメイソン式ではないですか」
とムーアさんに言われて、あっと思いました。
カトリックだったら、まだ女性が葬式を仕切ることはないはずだそうです。それでも主の祈りを唱えたということはプロテスタントではない。だから、ということなのですね。
これは蒙をひらかれました。そうか、フリーメイソンというのがあった。
たぶん、そうです。
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