日本人はフランス語を誤解している!・・・と思うけどなあ・・・
フランス語系人のBO-YA-KI
移民の言語教育
「公開国際研究会:移民の言語教育と教師の役割/フランス語、日本語教育の現場からの発信」(主催:アジア・ヨーロッパにおける移住者と受け入れ住民の共通言語教育研究会。6月27日、於京都大学)。
フランスと日本では現状も、規模も、これまでの経緯も、そしてこの問題に関する基本思想、国民的コンセンサスもずいぶん違うのですが、移民や外国人労働者、その子供たちの教育がたいへん重要な問題であることには変わりはありません。
この問題意識でフランスと日本が絡むのを見るのは、たいへんエキサイティングなことです。
この研究会をとりしきったのはまたまた京大の西山さんです。まあ一人でやったわけではありませんが、ほんとに彼はエネルギッシュです。
フランス語関係では他に、カナダ・ケベック州政府事務所からエチエさん、京大の西山さんのところに客員教授で来ているトゥール大学の言語教育専門家カステロッティさん(↑ 見えないですね)、われらがSJDF幹事長、古石さんが参加しておられました。
実はわたしはこの主題に関連してもうすぐやらなければならない仕事があるのでそのためもあって、時間の余裕のない時期ですががんばって京都まで行ってきました。
この学会にもでましたし、わたしも日本語教育とは少し馴染みになれた感じです。これはめでたいことです。松岡洋子先生をはじめ、日本語教育専門の先生方ともお近づきになれましたし。
でも西山さんからある知的刺激を受けたのは懇親会の席でした。(つづく)
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マイケル・ジャクソン
・・・亡くなったマイケル・ジャクソンは生涯かけて自分の体を痛めつけ、ゆっくり、緩慢に自殺していったのかな、という気がします。
なまじ莫大な富を得たために、それができることになっちゃった。
Que son ame se repose en paix.
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初夏、だな
5限目の授業終わって徳光ハイウェイオアシスまで行ってみましたが、この時間は車が混むし、日没に間に合いませんでした。
夏至―― 音楽の祭典 Fete de la Musiqueの日――は越えてしまったので、あとは日が短くなるばかり。
でも夏はこれから。
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すがすがしい
めちゃ忙しい今日この頃。疲労困憊。
でも今朝はほんとにすがすがしかったので、ちょっと元気がでました。
上は、今日の青空と金沢大学の天文台(だと思います。中はいったことないですけど。まさかプラネタリウムってことはないはず・・・)です。
もうすぐ6月も終わりです。
そんでもって気持ちよく学校に来てみたら、道の真ん中に事故車がでんと残ってるわ、マイケル・ジャクソンが死んだって言うわ、人の運命のはかなさに溜息をついたものでした。
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遊牧
(二つ前のエントリーに続きます)
石田昌隆さんが『オルタナティヴ・ミュージック』(↑)のニティン・ソーニーについて語られている項で、「音楽とは、人間のなかに本来内包されているノマド性を掘り起こすことによって成り立つ表現ではないか」ということを言っておられます。
これは、まさに著者が言うとおり、長年音楽を(それを愛しながら、まじめに)聴き続けてはじめて持てる種類の確信だと思いますので、自分勝手に安易に解釈してしまうのは申し訳ないのですが、それでもやっぱり反射的直感的に、うんこれそうだよな、と思ってしまいました。
ジル・ドゥルーズの説いた「ノマド」(遊牧性と訳せるでしょうか)もまた21世紀のキー概念のひとつのはずです。ドゥルーズとかいうとおふらんすの現代思想として実にムード的に「これからはこういう人間が時勢に乗れます」みたいな発言として扱われているように見えるんですが、本当は「ほんとは人間とはもともとこうじゃないだろうか」という人間性の本質への肉薄に他ならないと思いますよ。
ちなみにわたしにとってノマド性とはまず、人間というのは音楽感性的にもドリフトしていくもので固定したアイデンティティというのはないと言っていい、という意味としてたちあらわれます。
石田さんのいいたいこととは違うかもしれませんが・・・
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なにをかけるか(2)
(このエントリーとこのエントリーから続きます)
7月10日の金澤巴里祭のDJで何をかけるか、悩みに悩んで・・・ということもありませんが、毎年やっているライ・ゼミ(ライ歌手の活躍を追いながら日本から馴染みの薄い地域の文化や社会を見ていこうという趣向の授業です)の受講生にどういうのがいいか聞いてみました。
今年は登録16名ですが、他の授業とのかねあいで出られなくなった一人を除いてここまで脱落もなしに続けてきてくれてます。こうなると教員も張り合いがでるわけで。
いまのところKhaled, Faudel, Nancy Ajram, Samira Said(↑), Gnawa Diffusionから選曲してますが(彼らのどの曲かは内緒にしておきますね)、ひととおり聞いてもらってどれが一番気に入ったか尋ねたら、ナンシーとサミラに人気が集中したので、ライ大好きのわたしとしてはちょっと残念。
だけど:
「ラシード・タハを何か入れたらいいのでは」
「『アブデル・カデル』(アン・ドゥ・トロワ・ソレイユ)をかけたら受けると思います」
「シェブ=マミが聞きたいです」
と名指しでリクエストしてくる子が出て、頼もしく思いました。
それじゃ、上記の5組にタハ、マミと『アブデル・カデル』を加えることにしましょう(全部かけられるとは限りませんが)。
当日をお楽しみに。
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オルタナティヴ・ミュージック!
写真家の石田昌隆さんが『ミュージック・マガジン』で長く続けておられる「音楽の発火点」はいつも世界のミュージシャンの魅力的ポートレートを紹介してくれるコーナーですが、石田さんはこのたび「音楽の発火点」発表分を中心に数々のポートレート、文を一つにまとめ、「全体がひとつの長編として焦点を結ぶように書き下ろした」本を出されました。
『オルタナティヴ・ミュージック』(ミュージック・マガジン7月増刊号)です。
文はこれからゆっくり読み直させていただきますが、とりあえず鮮明な写真だけでも値打です、これ。
89年、日本に来たときのハレドは今みたいに顔がふくれてなくて髪もふさふさしていて皮ジャンで・・・どんな雰囲気の男だったか、よくわかる気がします。
よくわかるといえば・・・ 表紙はリントン・クウェシ・ジョンソンですが、裏表紙がラシード・タハになっていて、このポートレートはわたしも何度も見たものですが、拡大されるとサングラスの下の彼の目ん玉がさらによく見えて、表情がわかるのです(↑ よく見えないところは、サングラス自体の汚れでした)。
音楽のプロの人って、他のどんな職業の人よりも自分の人間的なところを表にさらけ出す運命にある人たちだと思います。
人間本体が可視的になるわけで、それだけ写真の被写体となるのが得意といえるでしょう。
石田さんの写真セレクトの基準は「パンクとレゲエの時代以降に革新的な音楽を奏でていたミュージシャン」なのですが、「これらのミュージシャンによる音楽をひと括りにする言葉はないので『オルターナティヴ・ミュージック』と総称する」ことにしたそうです。
わたしの言語感覚では「ワールドミュージック」というのが「それについて現在語るに値する世界の音楽」という意味であってくれたならこの言葉でくくってしまえるのにと思えます。ニルヴァーナもデヴィッド・バーンも含めてしまって・・・やっぱり無理ですかね?
[追記] 誤字がありましたが、文の方を修正して、誤字でなくしました。にひひ。09.06.21.
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南仏の繁栄
南フランスはトゥールーズでいまRio Locoフェスティバルが開かれています。
このフェスティバル、ずいぶんたくさんアルジェリアのアーチストが出てますね。Khaled, Rachid Taha, Amazigh Kateb, Maurice Medioni, Boutaiba Sghir, Bouteldja Belkacem, Kamal El Harrachi, Idir, Akli D, Biyounaまで ...
南フランスというのはハイテク産業のもたらす経済効果のおかげで、中世以来久しぶりにパリと拮抗する存在感を持ちつつあるようです。
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ザフアニア!
(前のエントリーに続きます)
対するはこの15日で満50歳になったザフアニア。
まあこの「ライの女王」を、まだ20代のナンシーと比べる方がおかしいといえばおかしいですが。
彼女が去年出した最新アルバムYa Hajaj Heya Naoulou(↑)。
ジャケット写真、相変わらずあか抜けないですね。
そしてこれまた相変わらずドスの聞いただみ声です。女らしいって感じは全然しない。
そんでもって相変わらず曲作りは単調だし、国際的マーケットで売れる音とは思えません。
やっぱり7月10日にDJでかけられる音ではないです。
でもねー・・・ ザフアニアうまいんです! ほれぼれするほどうまい!
歌手というのは、こういうことができる人のことを言うはず。
ちなみにこれ最新アルバムって書きましたが、彼女はアルジェリアに帰ったら数日でばーっと何曲も録音してしまいそれがCDになって市場にすぐ出回ってしまうので、つまり従来のアルジェリア音楽業界のやり方をなんのためらいもなしにそのままやってしまうので、フランスで綿密に作った音源を「新アルバム!」といって出したってあんまりインパクトをもたないのです(ちなみにナビル(リミッティのデルブッカ奏者として来日したとき知り合いました)の話では、彼女がフランスで去年から録っている「新アルバム」は遅れに遅れて、今年中に出せるかどうか・・・だそうです)。
でも「ライ」はこうやって、というかこのようにしてこそ、生き続けているわけです。
ザフアニアはけっして古いタイプのライに固執するタイプではありません。むしろトレンドに合わせすぎの感があるくらいです。
ただ彼女が合わせているのが国際的トレンドじゃなくて、アルジェリアのライのトレンドだというだけです。
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アメリカ:イギリス=エジプト:アルジェリア?
さて、むかしロックを聴いていたころよく思ったのは、アメリカのロックとイギリスのロックの性格の違いでした。
前者の音がいつもどことなくあっけらかんとしたところがあるのに対して、後者にはどこかに陰鬱な響きが感じられるなあ、という感覚です。
まあもちろんアメリカにもいろいろあるんですがわたしのイメージとしてカリフォルニアの青い空、ヒッピーたち、もうもうと立ち上るマリファナの煙、という感じのアメリカの音と、どんより曇った霧の英国、ロンドン・パブっていう感じの英国の音が対照的に感じられるのです。
それで、アラブ世界ではエジプトとアルジェリアというのが、なんか同じようなイメージの一対をなしているような気がします。
エジプトのものは明るくて軽い感じがするんです(ジールの隆盛以降の話ですが)。それに対してアルジェリアは不器用で重いけれど、深さがあるような。
ここで乱暴にもレバノンをエジプトにくっつけてしまって去年出たナンシー・アジュラムのアルバムBitfakar fee eh『何を考えているの?』(↑ やっと彼女の美貌がわかるジャケットができましたね。既にライス・レコードから日本盤が出てます)をご紹介しておきます。これ7月10日にかけようと思いますが、明るくて垢抜けしたいい音です。
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