やったずら! 『かくかくしかじか』第五巻発表。完結。


 東村アキコ畢生の名作『かくかくしかじか』は、Cocohana連載は3月号、つまり1月に出た号で完結していましたが、予告通り単行本が3月に出ました。きのう、3月25日の発売です。(これもご覧になっておいてください)

 予想どおり、「先生」の死まで一直線でした(これはネタバレということにもならないと思います)。
 そして予想どおり、泣かされました。
 弟子の皆さんが泣かれたという、そのところでわたしも泣きました(ここはバラしません)。

 ひとつ、発見がありました。
 「先生」が亡くなる直前に「今ちゃん」さんがやったライブペインティングを見に来られたのだそうです。そのことを聞いたお弟子さんのひとり(東村さん自身?)が「えーっ最悪 先生一番嫌いそう そーゆーの」と言っています。
 
 「先生」は、そういうのがお嫌いだったんですね。

 わたしもまた、ライブペインティングとかアクションペインティングとかいう考え方には、危険なものを感じるものです。
 「ゲージュツ作品」というのは膨大な労苦の集積で崇高な存在であるかもしれませんが、にんげんのこころからしたら、ある意味「うんこ」みたいなもの、「自分」「自己の肉体」とは切り離してしまわないといけないものかと思うのです。
 自らを、自らの肉体をゲージュツ作品の構成要素そのものにしてしまうというのは・・・

 ・・・ジャクソン・ポロックはほんとうに可哀想なことをしました。彼が必死になって断っていたお酒をまた飲み始めてしまったのは、彼の製作――アクションペインティング――の現場を録画する仕事の直後だった話を知ったときには、なんと酷なことをするのかと慨嘆しました。しかもポロックは死ぬときに、自分だけでなく若い人を道連れにすることになってしまった。そして地元の新聞ではこの事件を芸術家気取りのろくでなしが若い女性と悲惨な死を遂げたという報道を、懲罰の文体で報じる、ということになったわけです。
 これがアメリカ、というか現代なのか。
 
 音楽界のスターは当然のごとく生身の姿をさらされる。マイケル・ジャクソン――彼の場合は踊りを見せるのが重要だったからなおさら肉体性が大きなウェイトを占めていました――の晩年の奇行はどうだろう。ホイットニー・ヒューストンは・・・

 一方、文学の方では、徹底的にひきこもって「自分」の生身の存在を必死で隠そうとする人が出ますね。サリンジャーとか、ピンチョンとか・・・

 『かくかくしかじか』は、その危険な考えを拒絶しているように思います。 

 「先生」は自らの肉体が滅びゆくのをそのままにして、制作を続けられたのですから。

 第二巻100ページあたりにでてくる某フランス語教員 (^o^) が「コミュニカティブ・アプローチ」をやっておらず、伝統的というかオーソドックスというか、いわゆる「文法」をやってるのも(「えーと、ここの助動詞は・・・」とか言っています)、まあ低いレベルの話ではありますがこの『かくかくしかじか』という作品の志向するところに合致していると言えるかもしれません。


 ただ芸術家の自己、芸術家の肉体のインスタレーションの仕方によっては、危険は回避できるものでもあるでしょう。

 と思ってこの第五巻の表紙の「先生」――最後のページに「先生」の写った写真が載せてありますが、あまりにも小さいし不鮮明だし、よく見えないのです――を見ると、やっぱりこれは筆者東村さんがこれ、先生の姿を描いている――他の四巻の表紙はご自分自身です――というアクションそのもの、そしてその背後にある筆者のこころ――先生への敬愛――を意識させられるものだな、と思います。
 表紙の先生は、いい表情だな。

 これで、よいのでしょう。


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やったずら! ハリルホジッチ伝~その1~


 「やった!」と思ったときは、つい殿馬くんになってしまう殿馬症候群のわたし。
 たのんでいたハリルホジッチ本が届きました。
 2006年の出版ですから、ここ10年のことは書いてないわけですが・・・

 第四章「幸福から戦争へ」から読んでみました・・・


 1987年、ヴァイッド* は国に帰る。寄り道はなし、ためらいもなし。父が重病だった。・・・
 
 ヴァイッドはモスタールMostarでは幸福だった。まったくこの町は人を喜ばせる全てを備えている。町を歩いていると、なんだかトスカナか南フランスにいるような気がするのだ。・・・ モスタールは人を受け入れ、活気に満ち、暑くて色彩に富むと言われている。そのころはクロアチア人とボスニア人は混じり合っていた。宗教の話をする者はいなかった。カトリック教徒、イスラム教徒、正教徒、ユダヤ教徒。緊張はなく、差別もなかった。混じり合うことは誰にも、なんの問題も起こさなかった。この錬金術の最良の実例がハリルホジッチ夫妻だったのだ。奥さんは母方がクロアチア、父方がセルビアの人、ご主人はボスニア人。誰もそれを気にはしていなかった。
 戦争が終わるころには、形容しがたい水の色をもつネレトヴァ川を挟んで、町は二つに割られていた。一方の側はボスニア人が、もう一方の側はクロアチア人に占められている。架け替えられたばかりの橋を渡る者は誰もいない。・・・



*この表記を採用します。既に日本のマスコミにも採用されている表記法です。つまり、フランス語流に h を抜くんですね。
それなら「ハリルホジッチ」も「アリロジッチ」に近くなるはずですが、こっちは仕方がない。既に「ハリル・ジャパン」とかも言ってますし。
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ハリルホジッチ監督の国籍って


 フランスなんですが、マスコミではそういうことは言わないことになってるんでしょうかね。
 かといってボスニア紛争のころの監督の御苦労も報道されてないし(こっちの方はそのうち報道されるような気もしますが)。

 あ~あ。フランス語系人としてはボヤキたくもなりますよ。なんでそんなに嫌がられないといけないのか・・・

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バルド博物館


 バルド博物館で日本人の死者が出るとは。
 世も末だ・・・

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English, yes, but,... とイスラム国とかなんやかんや


 せっかく出てきたブログを書く気力が委えないうちにひとつ大きな話を書いておきます。

 日本で英語教育をもっと推進して日本のひとの英語能力をあげることは最重要課題で急務である、というのはその通りです。そのために国や大学や他の教育の場が努力をすべきだというのは、全くその通りだと思います。

 ただわたしはだからといって、日本の人たちを二流のアメリカ人にするべきではないし、また世界のアメリカ以外のひとたちを二流のアメリカ人にする手助けをするべきではないと思います。

 さらに言うと、「アメリカ」はここでは「資本主義の、市場の、グローバル経済の都合」ということと密接に関わりあっていると思います。

 ここでわたしが立ち戻りたいのは、マルクスより前の、フランス革命の理念です。「自由」と、「平等」と、それから後から付け加わった「兄弟意識」というやつです(「博愛」とか「友愛」とか言うより、わたしはこの訳を提案します。このことについてはまた別のところで書きたいです)。

 「またフランス語系人が革命ごっこを称揚しおって」という声が聞こえそうですが、いや、そうでもないと思います。なぜなら2015年の現時点で日本にとって最大の問題は「中国」なのであり、中国に思想的に対抗するには、「自由」を追求する精神を補完する「平等」追及の精神まで立ち戻らざるをえないから。中国から日本を理念的に護ってくれるのは、マルクスじゃなくて平等の精神のはずだと思うのです。

 平等の精神を失うということは強者に、「他のものはわたしたちに従うことが正しいことだ」と、漠然と、一般的に、信じさせるということを意味します。
 パレスチナにユダヤ人国家を作っても、アラブ人たちはその文明の威光に、自然に従って、まつろっていくだろうという漠然とした思いがイスラエル建国時に西洋にありはしなかったか?
 「アラブの春」だからとある種「浮かれた」気分で(「見ろ、最終的には西洋的価値観が勝ちをおさめるのだ」というわけなので)、シリアの「独裁者」アサドが倒れるに任せるのは結局いいことだ、という思いが西洋に一般的になっていなかったか?

 人間としての尊厳、ひととしての平等が多くのひとにとって脅かされている状態を放置したからこそ、「ISIL」みたいな怪物が生まれてしまったのではないでしょうか。

 知る人はまだあまり多くはないですが、フランスも一昨年あたりから方向転換して、「英語の世の中」に合わせて行く方針をとっています。
 でも、なんとかフランスの尊厳の確保を模索しながら、です。
 カナダのケベックだと、それはもっと切実で、徹底していると思います。

 日本は、英語の世の中に合わせると同時に自らの尊厳と世界諸民族の平等を模索するフランス、ケベックに合わせるべきであって、やみくもに英語とアメリカ合衆国Estados Unidosとある種の資本主義に盲従するべきではないのです。

 最後に、フランス語の学習って、実に英語学習に役立つもの、1066年以来の英仏の言語と、文学の歴史を勉強すれば、そのことは明白なのだ、ということを付けくわえます。

 問題は日本人が英語をできるようになることであって、フランス語教育を潰すことではないでしょう?

 というようなことを言うとまた「フランス語だけ延命をはかりおって」と言われそうなんですが、フランス語が諸言語の平等、諸民族の尊厳の擁護ということを言わなかったら、どこが言うんですか、と言いたいです。

 反論のある方は、おっしゃってください。できれば匿名でなく。
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ハリルホジッチ監督って


 いい面構えでしょう?  (^o^)  今日の新聞に写真が載ってます。

 このブログの「カテゴリー」に「ハリルホジッチ」を追加しました。

 なんか久しぶりにブログ書く気力がでてきました。(^_^)
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二人目?


 ハリルホジッチ監督は、サッカー日本代表の監督としては二人目のフランス国籍のひと、二人目のイスラム教徒になるんでしょうか?
 もっともトルシエさんがイスラム教徒になったのは、日本代表監督を辞めてずいぶんしてからだったですが。
 しっかりたしかめていないので、もし違ったら訂正してください。

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ハリルホジッチ前アルジェリア・ナショナル・チーム監督が日本へ


 ボスニア紛争で家を失い、ゼロから徒手空拳で世界のサッカー界を這い上がった男、ハリルホジッチさんが日本に来るんです。
 監督、日本チームをどうかよろしくおねがいいたします。

このエントリーを見て下さい。
 
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これは、言わせていただきます


 日本の大学はこれからどういう方向に向かうべきか、見定めるのがなかなか難しい時期です。
 「大学」というものが一体なんのためにあるのか、よくは分からない時代になっています。

 わたくしは「おそらく、何らかの様態で『細分化された知、情報を「『理解』し、自らのものとし、さらにそれを表現・発信できるように」後の世代に「託す」』役割を(カッコだらけで申し訳ありません)担うのがこれからの大学かと思うのですが、そのことは別の機会に触れることにして。

 具体的問題はこれだと思います:これまで日本で「なじみがなく」教えられることの少なかった領域は、これからもやっぱり教えられることなく、したがって大多数の日本の人になじみがないままでこれからもずるずる行ってしまうのが必至ということになってしまうだろう、たとえその「なじみがない」領域がいま、そしてこれから勃興しようという地域、あるいは世界的な重要度を持ち、また持とうとしている地域と関わるものだとしても――ということです。
 ひとつには少子化その他の理由により大学の教授陣の数が増えないということがありますし、もうひとつにはビジネスの、資本主義の、マーケットの論理が「人気のない」領域の拡充を許容しないということがあるからです。

 そういう「人気のない」領域を今の日本で地理的に特定するならば、アフリカ、インドとインド洋、南米・・・などになるでしょうか。

 いちばん問題となるのがイスラム教の優勢なアラブ地域です。
 この地域がいま、そして将来的に世界的な重要性をもっていることは疑いありません。この地域の人たち、文化、政治、もろもろのものを知り、それに対処して自らと周囲をどのように導こうとしたらいいかを考えることは、喫緊の課題と言ってもいいでしょう。
 
 しかしどうみてもいまこの地域は日本でイメージがいいとは言い難いです。「危険」「遅れている」「綺麗でない」などなど・・・そして「何を考えているのか分からない」。
 これだけでもこの地域について苦労して勉強、研究しようという若者の数が限られてしまうのに、しっかり学べるところ自体がないというのでは、若者の側に動機ができたとしても受け皿がないことになります。
 さらに若者の親御さんが「そんな危ないところにうちの娘、息子は行かせられない」という断固とした意志を持ってしまえば、現地で勉強しようというのもままならないことになります。この障壁を砕くのは容易ではありません。
 日本は、国家あるいは別の権威が若者に「あなたはこれを勉強しなさい」と強制できるところではありません。そういう政体ではないのです。

 放っておけば次の世代も、また次の世代も、いつまでも日本の無知状態は続くことになります。

 世界的に重要な領域に関して「事情が良く分からないし、できたらあんまり触りたくない」という人間ばかり作るのでは、結局くにの取るべき方向性が誤るとともに、世界経済の場における「たたかい」に負け続け、くには疲弊し、何十年かのスパンののちにはくにの人々全体が貧困のなかに沈んでいくでしょう。

 大学というもの、あるいはそれを構成する個々のインテリゲンチャには本質的特性として、自分が苦労して築きあげた「学」を、「専門」を永続化したい、後世に伝えたいという欲望があるわけで、既存の学問領域は、現在もっている権限、権力をもって既得権を永続化しようとします。たとえ時代の推移その他によってその領域に実質的価値がもはやあまりなくなっていたとしても。パーキンソンの法則はアカデミックな世界にもあてはまります。

 既得権をもっている学問領域は、なんとか年齢の若いうちに若者を「とりこんで」しまうのが正しいことになります。人生の初期の段階にであった「好ましい」ものに関して、「脇目をふらずにストイックに追求すること」――幸か不幸かこういうのが日本文化は大好きで、基本的に肯定されます――が正しいことであると若い人の心に刷り込んでしまえばよいのです。その若い人たちが「自らの意志として」その「道」に進むことを表明するとすれば、これは日本の今のあり方においては、否定される契機はありません。日本の若者の人生の早いうちに自らの肯定的産物に接する機会を与えるという機会を与えられていない、独占から排除されている領域には、勝ち目がありません。ましてや「危険」で「遅れていて」「綺麗でない」と「思われている」領域には(ほんとうは日本のジャンクフードみたいな文化よりよっぽどましなものがそういう領域には豊かに息づいているわけなのですが。日本の「平均的」人間のレベルをはるかに凌駕した――という言い方が許されるかどうか分かりませんが――素晴らしい人々がそういう領域には生きているわけなのですが)。

 こうふうにすることが、ある既成の「学」の専門家にとって合目的的行為であることは明らかだと思います。

 そうやってある領域に安住した人々は年月を経るうち「わたしは正しいことを一生懸命やったのに、なぜくには落ち込んでいくばかりなのだろう?」と内心いぶかしがるかもしれませんが、そのまま老い、そして死んでいくでしょう。あるいはもっと悪いのは周りおよび後世のことには知らん顔で「わたしはわたしの好きなことがやれたのだからそれでいい」と自己正当化しながら老い、死んでいくことですが。常にある種の小さなサークル、クラブが存在してその内輪でその人の生き方が肯定され続けるなら、そういう生き方の否定的側面にはあまり目をやらずに生を全うすることができるでしょう。

 結局のところ、日本の大学が思想的に危機に陥っているのは、悪いことではないと思います。特に今は、明治以来自明のものとしてあった「西洋」を最重要視する学のあり方が、西洋自身の地盤沈下、および中国を代表とする非西洋(しかも中華人民共和国はまぎれもなく西洋起源の思想、マルクス主義をまがりなりにも「中心に持っている」国家だというのが興味深いパラドクスですが)の勃興との否応なき対処の必要性によって再検討されなければならなくなっている時代ですから。
 自ら起こしたものではないけれども、とにかく変革を余儀なくされたからには、日本の大学は現在、そして将来の世代が自ら時代と、世界に対処できるような学の創成を託するように努力を重ねていけばよいのです。

 そうしましょう。
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