Merci.


Afrique Magazine, numéro du novembre 2008.

S'il n'était pas président, l'Afrique serait-elle aussi tolérante vis-à-vis des USA ?
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2016年のベストアルバムはちょっとたんま+年末のご挨拶


 本年のベストアルバム発表は、ちょっとお待ちください。土壇場で傑作が出たみたいですが、まだ聞いてないのです。(汗)

 一月中には発表いたしますね!


 2015年は、ベストアルバムなどという話自体絵空事めいた感じのするひどい年でした。

 それに比べて、2016年はまことに激動の年でしたが(テロももちろんありました。2015年より酷いのが・・・)、新時代の予兆も感じられる年ではなかったかと思います。
 そうでなくても、そう思いましょう!

 たぶん来年は新しい時代の本格的スタートみたいな年になるのだと思いますから
 過ぎ去った時代にあまりこだわり過ぎず、前向きにがんばりたいと思います。(^_^)

 それではみなさま、良いお年をお過ごしください。
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本とのつきあいについて~To the happy fewプロジェクト 1


 さてわたしのところにはかなりスタンダール関係の研究書や、それに類する「もの」があります(グルノーブルの地元新聞 Dauphiné libéré のスタンダール関係の記事とか、スタンダールについての学会のスケジュールとか、展覧会の案内とか・・・)。

 御多分にもれず、わたくしも蔵書の扱いには困っております。トランクルームに入れていた本も多いのですが、たしかにこれは全然生産的なことではありません。

 「昔」と違うこと。日本国内でなら、どの大学図書館の本でもほとんど障害なしに貸し借りできる状況になったこと、コピーというものがあって、文字情報だけならコピーして手元にずっとおいておけること。

 だからまず:

①あんまり使われなくなった本は、全国に分散して数冊残すだけにして、あとは・・・

②できるだけその本を活用してくれる外国の人を探して、その人が使える図書館に寄贈・あるいは委託する、

というのはどうかな、と思います。


 全国に分散させて、というのは大事です。戦争、大災害、大事故で本が破壊され、湮滅するということは長い年月の間には十分考えられることです――1258年という年にバグダードがフラグ率いるモンゴル軍によって徹底的に破壊されたというのが、現代におけるアラブ人の置かれた状況に深くかかわっている、と言えるのかもしれません――。ヴァレリーは西洋文明の不死ならざることを予感しました(そういう語り方だったからヴァレリーは西洋中心主義に見えて嫌な感じがするのですが、非西洋人も謹聴すべきことに違いないです)。それは精神的な意味でも、物質的な意味でもありうると思います。

 ②で「委託」という言葉を使っていますが、それは、世代が変わって使いたいひとが別の土地に出てきたとき、そちらの土地の図書館にすみやかに移譲することができるようにしておく、ということです。だから:

③かなり特殊な興味をもつひとにしか意味のない本(たとえばスタンダール研究のある特殊な部分にしか関係しないフランス語の本などで、図書館に置いておいても一般の読者が触れそうにないもの)や、「ちゃんとした」書籍の要件をそろえてもっていないもの(上記の新聞記事とかパンフレットとか)は、いろいろなひとの持っていたものをまとめて「○○研究会」みたいな団体名で、どこかの図書館に「委託」できる体制を作る。そして、世代が変わって使いたいひとが別の土地に出てきたとき、そちらの土地にすみやかに移譲することができるようにしておく。複数の使いたいひとがほぼ同時に複数の土地にできたときは、資料を二つに分けてもち、自らの方に引き取れなかった分のコピーを作って、お互いに「ミラーサイト」のようにしておく。

 以上は最初の考え、荒書きです。

 こういうの、「To the happy few プロジェクト」と呼んだら面白いと思います。

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『パルムの僧院』La Chartreuse de Parmeのタイトル


 「わたしは、問題を待たせておくのが好きだ」というのは、アランの言葉だったか、それともヴァレリーだったか・・・

 人の問題、文学の問題は、その大きなものは、待たせておくべきなのです。
 「業績をあげなければならない」とか思って「理屈」で武装しよう、相手を圧倒しようなどと考えるのが、人生を失敗に導くのだと思います。いったん自分が言ってしまった言葉は、たとえ多くのひとが聞いていなくても、自分を拘束しますから。

 わたしは、それはやらなかった。
 あんまり人と喧嘩するのが好きではない、ということもありますがそれよりも、幸せなことに天がそれを許してくれたから、です。

 ナチス占領下のパリで、とつぜんユダヤ人の友人が家の戸をノックして、かくまってくれ、でないとつかまって収容所に送られる、と言われたりしたら、これは問題を待たせておくわけにいかない。即座に、決めなければならない。サルトルみたいに、選ぶわけです。

 そこまで切迫した選択を迫られる状況は、わたしは持たなかった。これだけでもありがたいことです。

 でも、なんか自分の中に「確信」ができたら、それは言うべきですね。
 それで自分の生きた証を、伝えるのです。Happy fewに。


 先日、スタンダール研究会で、『パルムの僧院』の「主人公」はファブリスではなく、「経済」だ、というお話をしました。みなさん、ポカンと聞いていたと思いますが・・・
 あとun coup de pistolet au milieu d'un concertとかゲーテと世界文学とか、ずいぶんにぎやかな発表でした。
 ついでみたいな感じでしたが、La Chartreuse de Parmeというのがなんでこんなタイトルなのか、ということにも触れました(読まれた方は分かると思います。いったいこれがなんでこの作品のタイトルなのか、作者スタンダールの意図は分からないです。スタンダール研究専門家にも分からなかったと思います。2016年12月にYuichi Kasuyaがひとつの説を披露したわけです。これはかなり蓋然性が高いと自分では思っています)。

 研究発表のタイトルは、「スタンダールで始める世界文学史」というものでした。(^o^)

 まあわたくしにまだいくらか寿命があるなら、少しずつ世に問うていきたいと思います。
 Happy fewがそれを受け止めてくれるでしょう。



 
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本とのつきあいについて


 わたしの生涯のあいだに多くの技術革新、とくにコンピュータ、およびインターネットの飛躍的発達という事件が起こって、それまで何百年も基本的に同質のものだった知的営みが根本から変わってしまったように思います。

 わたしの教えている学生さんたちに対して、わたしの若いころと同じことをしなさい、と教えることはもはや到底できないことのように思います。「世の中には変わらないものがある。変わるべきでないものがある」というのは確かですが、今の時代は「変わるべきでないものを守る」ためにも、変化をよく見据えて対応しなければならないでしょう。
 でなければ潰されるだけです。

 さて、そういう「変わるべきでないもの」の中に「紙媒体の本」があると思います。
 わたくし個人的には、紙媒体の本がこれからも存続すべきであることは疑いないように思えます。ただそのためにも扱い方は時代に応じたものにしていく必要があると思います。

 まず、紙媒体の本を買うべきか、つまり「所有する」べき、「もつ」べきかという問題があります。

 かつては、ある程度の、あるいは大量の蔵書を「所有する」こと、「もつ」ことが褒められるべきこと、そのひとの知的レベル、向上心の高さを客観的に示すものとして推奨されるはずのことだったと思います。
 今は、おそらくそうではないと思います。

 本というモノばかりを重視して現場の経験を相対的に軽んじているあらわれ(「彼/彼女の知識はブッキッシュなものだ」と言うのは、どう解釈しても批判していることになりますね)、とも見えますし、
 それだけ本を買い込む資産があったということは、それだけ上の「階級」にいた、ということでもありますし、
 「上の階級」としての自らを差異化しようとするいやらしい?心持のあらわれということも言えるかもしれません。

 ある種の本を持ってそれを読む、あるいは読んだふりをする、ということは、「若者組」的心性の集団(それ自体は日本ではどんどん力を失っていますが。なぜなら全世界的にものすごいスピードで変化しているために、父性的、先輩的権威を守るすべがないから。そこで逆上するとイスラム国みたいなことになってしまう)への帰属の証明を表すかもしれません。

 ということは、ある種の本を持つ、あるいは読んだふりをするということは、ある一定分野への「閉じこもり」を意味するとも言えるでしょう。その外の分野は知らなくてもいい、なぜなら他人の縄張りに立ち入るべきではないから、という論理も、特に日本のような場においては、かつては成り立っていたと思います。

 ウィキペディア的なものが存在する世界においては、それはもう通用しない。
 いかなる「専門家」も、「全体」を見ずにはいられない。

 そういう時代でしょう。

 ――うーん、まだまだ全然実のある考察に入れていない感じですね。まあいいか。


 この記事のほとんどは先月(2016年11月)に書いたものですが、今日は別の面から本の問題を扱いたいと思います。





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