フェラ・クティは、みんなが知っておくように努力しておいた方がいい、と思います



 問題のフェラ・クティを知らなかったフジテレビ事件(←こういうの割と早く消えてしまうと思うので、消えたらもっと恒常的なサイトに差し替えますが)。


 なにはともあれ、わたしはいま日本にいる人たちはどこかでフェラ・クティのことを知る機会が持てるように努力しておいた方がよいと思います。

 「知ろうと思う人はなんとかして知るはずであり、とくにみな――というのが難しければできるだけ多数――が知るように、『知っている』わたしやあなたが努力するというような必要はない」というのは、ちょっと「のんきすぎる」と思います。現代の資本主義社会はそんな牧歌的なものではありません。

 「世界のすべての音楽を知る機会がもてるわけがないではないですか」というのは、一見もっともな反論ではあるのですが、それではというので何もしなければ・・・ 音楽の世界に限定するならば、強力な広報の力を持っている地元日本の音楽(と韓国あたり)とアメリカを中心とする西洋発信の音楽、および「教養」の世界を押さえている西洋古典音楽(日本ではこれを「クラシック」と言っているわけですが、この言い方は危険なのでわたしは採用していません。たしかに世界音楽のメインストリームのクラシックclassicではあるんですが)以外の音楽は、ほとんどひとに知ってもらう機会が与えられていないと言っていい。なにより「そういうものは取るに足らないもの、遅れた文化のものよ」という「見下す」感覚が教えられ、素直で正当な評価・受容が阻まれていると言うべきです。「ほんとうなら」そんなことを思うはずのないひとたち、とくに若者たちにおいて。
 そうやって「そういう音楽は聞かなくても、買わなくてもいいです。わたしたちの売っているこの音楽を買いなさい。それで喜んで、おれの感性はモダンだ、とかなんとか自己満足してなさい」というのが「業界」の本音ではないですか。
 そうやってマーケットを囲い込んで独占して利潤をあげるシステムは強力ですし、資本主義的にはそれが正しいわけです。
 グローバリゼーションとやらが進行して、資本主義からの逃げ道がどこにもなくなってしまい、もう音楽に関してまじめに語れる場さえどんどん消えていくというのが現状ではないですか。音楽について真面目に語ろうとする者を支える経済的基盤がなくなっていってます。
 現に、世界音楽の評論家の方々は四苦八苦しているじゃありませんか。

 しかし、ひとはすべての音楽のプッシュに専念できるわけもない。それはむしろ必要ないし、考えるべきでもない。

 「愛」を基準にしましょう。

 わが愛する「ライ」の真価は、ぜひとも多くのひとに知ってほしいと思ってます。
 わたしは「ライ大好き」なので、そして愛は排他的であんまり合理的でないものなので、フェラ・クティの音楽はなぜかそんなに好きというわけではない、というのは白状しておきます。ただ聞く価値、知っておく価値がある、よい音楽であるとは思っていますが。
 フェラ・クティの方は、「まず」彼を愛するひとに、その素晴らしさ、価値を多くのひとに知ってもらえるように、努力してほしいです。


 ということで、あけましておめでとうございます。(^o^)









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