カナダ文学~金沢大学2020年第一クオーター終了おつかれさま


Mi-temps de ma classe de la littérature canadienne. Émile Nelligan, symboliste. T’inquiète pas, on a aussi la lecture du texte original en français.

日本の大学制度が整いつつあった19世紀末から20世紀初頭にかけてのころ、カナダは総人口500万をこえるくらい、同時期イギリス本国は3千数百万くらいです。ウェストミンスター条約以前はどうみてもイギリスの下にある国というしかなかったでしょう。文学の面でもまだ成果はそんなに多くはないし、日本の大学に「カナダ文学」の存在がなかったのも仕方がなかったと思います。
しかし21世紀の今、カナダは人口も3800万と、ちょうど100年前のイギリス並みになり、G7にも入る世界の重要国に成長しています。文学だってかつてはボルヘスにけなされるほど何もなかった?ところですが、ノーベル賞受賞者も出たし、もう力量十分、カナダ文学科創設は無理というかやりすぎでも、カナダ文学の授業くらいは、日本の大学に全然無い、という方がおかしいと言うべきかと思います。
カナダにはカナダ語というのがあるわけではなく、英語系と仏語系の緊張関係の上に成り立っているという事情がありますが、仏語系人、ケベック人が全てカナダからの分離独立志向かというと、そういうこともないわけです。ひとつの偉大な国家カナダを創り上げようという意思は厳然と存在し、英系仏系その他を合わせたひとつのカナダ文学を創ろうという意思もしっかり存在します。
ならば、もう21世紀もずいぶん中に入ってきたことだし、「カナダ」というくくりで文学の授業をやったっていいんじゃないですか。去年大学院のクラスでわたしを入れて三人でやった授業では、日本語教育の院生Aくんとブラジル留学生とわたしで、三人とも仏英日本語が行き来できる状況だったので、これはなかなか楽しい授業になり、Aくんからは「この授業はカナダ留学する前に受けたかった」と言われたのが動機で、それじゃ学部授業でやろう、と思ったわけです。今のところ受講生の支持は受けていると思います。
カナダ文学ったって英語文学の方はあなた、専門じゃないでしょう、と言われたら、うん、それはそうですけどわたし、世界文学の観点からお話してます、と返したく思います。それに第二クオーター最終回に扱おうと思ってますRobbie Robertson, Joni Mitchell, Neil Youngとわたしは少しの差のほとんど同時代を生きた者としての専門性を主張します。世界文学ったって科研の審査の先生はそんな分け方は知らないかもしれないですけど。
ジュスタン・トリュドー首相はBLMへの自らの姿勢を見事に演説しました。あれは彼の成長を如実に示すとともに、また世界内でのカナダの存在感を弥増しに高めることになりました。
世界はまだコロナ禍の中にありますが、モントリオール大は世界の大学の中でも先頭を切って、早期の国際交流の復活に向けて奮闘してますよ。

遠隔授業で開始した今期のカナダ文学の授業。第一クオーター終わりがカナダ最大の詩人エミール・ネリガンで、ネット環境に悩まされた割には中間点が区切りのいいところになりました。この授業は仏英日でやるのがミソ。資料作りは大変だったけど、なかなか充実しました。

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文法というものについて

 教養重視結構。ただその「教養」なるものは、21世紀の今の教養でなくてはならない。マシュー・アーノルドにとっての「教養」みたいなものでもないし、日本国が大学制度を作ったとき、ウェストファリア的秩序の中で重きをなした「国」別対抗戦のネタでもない。
 そこにはレゲエも、ハイチも、カナダも、欲しい。

 話が全然それるが、「文法」もまたそうだろう。21世紀型の文法でなければならない。

 そういう文法であれば、今も、今こそ必要とされる知の重要な構成要素のひとつであるはずのものだ。

 わたしが個人的に作っている「文法の道具箱」が、「文法の玉手箱」となるように、努力を重ねたい。

 2020年6月11日。実に今期は、今クオーターは異常なものだった。そしてこの異常な体験はまぎれもなく世界のひとと共有するものだった。コロナウィルス禍のことを、後世のひとはどのようにイメージするだろうか。

 今日わたしは4コマフランス語クラスをもった。オンラインで。2,3,4,5限ともフランス語の語学クラスだった。他の曜日も詰まっているが、これほど語学オンリーではない。月曜は語学ひとつ、いまのところもうひとつは卒論指導だし、次のクオーターからグローバル時代の文学のわたしのクラスが始まる。火曜日はカナダ文学だ。水曜日はベトナム文学とシティカレッジ。金曜日はフランス語科教育法とプラテーロをすくなくとも西仏独英で読んでスペイン文学、西仏比較文法だをする。歴史が二コマある。
 とにかく木曜は、今日の木曜も朝から晩の6時過ぎまで、フランス語を教えることしか考えなかった。
 こういうのが一クオーター続いた。

 ここで思ったのは、文法クラスにある定まった限界をおけるのではということだ。これだけおさめれば「完成」といえるような限界。
 もしそういう限界を設けることが可能なら、そこを基盤に合理的な教育プランを作ってみせることができる。
 コミュニカティブ=アプローチは限界づくりが希薄だ。少なくとも日本の大学で許容されるようなレベルの「限界」を設置することができない。
 畢竟、警戒され、縮め、壊されるのが当然となる。

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