このブログ

 このブログは実質5月から初めていますから、もう半年をこえます。
 いろんなことをむきになって書いてきました。中身の薄さも目立ちますが、ずいぶん統一感のないものになっているのは明らかです。わたしの人生みたいです。 (^_^;)
 最初のエントリーに書きましたとおり、いちおう半年くらい経ったらその先を考える、としていましたから、ここでお休みをいただこうと思います。
 わたくし個人的にも人生を考え直さなければならない時期が来ているみたいですし。(^_^;)
 再開するのは早くても1月1日になるみこみです。その頃になりましたら、また覗いてみてください。  (^_^)y m(_ _)m

PS その間、これまでのエントリーについてご感想をいただければ幸いです。今後の参考にさせていただきます。

PS トニー・ガトリフ監督の歴史的意義のところに三匹の迷える羊たちさんから興味あるTBをいただきました。コメントはさせていただきましたが、こちらが休業中ですので本格的議論はまたいつかさせてください、とお願いしました。

PS ホームページ「RAI大好き」も12月5日から休業いたしますが、RAI INFO/ライ・ニュースのコーナーだけは随時必要ができしだいニュースを掲載いたします。ガトリフ監督、『愛より強い旅』情報もそっちに載せていますのでご参照ください。
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マグレブ・アラブこぶしナイト

エル=スールさんのサイトの下の方に「マグレブ・アラブこぶしナイト」のご案内がのっております。12月2日金曜日夜、場所は東横線都立大学駅近く悠久庵というところに不肖わたくしが出現、ライのDJをつとめさせていただきますので、ご興味がありましたらいらしてください。 (^_^)y

PS  飛び入り歓迎ですが、できればお名前をあらかじめいただけましたら幸いです。(^_^)y
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つまり、その

 猫屋さんのご指摘(前のエントリーのコメント)はたいへん妥当なもので、異を唱える気はありません。
 しかしなんかわたしの言いたいこととズレがあるように思いましたので、前エントリーの文言を訂正した上で、すこしわたくしの考えたことを述べさせて頂きたく思いました。以下分かりにくいとは思いますが、どうかご勘弁ください。

 わたしは、過去に雇用の実態がない会社から自分が受けていた便宜について国会で問いつめられた首相が「人生いろいろです」という答弁でひとまず逃れることができ、失脚どころか次の選挙で記録的な大勝をするという国に住んでいます。このことについて別に現首相を責める気はありませんし、日本人に絶望するというようなこともしません。ただなんか言葉の機能の仕方が特殊だな、と思うだけです。
 これについては、幼稚なものながら「教養主義」についての議論でずいぶん書きました。「選挙、ニッポンの政治と教養主義」という9月4日のエントリーで変なことを書いています。

 今回の「フランスの暴動」事件がなければブログで扱おうと思っていた山本七平著『日本はなぜ敗れるのか』の中に紹介してある小松真一氏の指摘する「日本の敗因21か条」で、「精兵主義の軍隊に精兵がいなかった事」というのが真っ先にあげられているのは実に印象的です。
 全然話が別なのかもしれませんが、わたしはここから日本語のことを連想します。日本語は教養主義がないと本当の意味では機能しないのだと思います。そして教養とは、けっして万人のものにはならないはずのものです。
 それで大多数の人は、言葉より、心の中の世界像で動くのです。
 これはどんな国の人間にも多かれ少なかれあてはまることでしょう。しかし日本はそれが少々度をこえている気がします。その原因はこのような日本語という言葉のあり方、たたずまいにあるように思うのです。

 今回のサルコジ内相のracailles発言は、言うまでもなくフランスで発せられたものです。フランスでなら話し手にも聞き手にもさまざまな前提が共有されています。公の場で内相という立場にある人がなんの留保もなく人種差別というpolitically correctの基本中の基本を公然と侵した言葉を発するとは想像しにくいことです。サルコジ内相は、猫屋さんのおっしゃるとおり「それらの“言葉”の持つ“幅”にまかせて、かつその言葉の持つ効果をある程度理解したうえで」言っているはずです。ある特定の枠内で、微妙な言葉の駆け引きをやっているのです。

 しかしこれが、言葉の理解の前提条件のぜんぜん違う日本でどう受け取られるか。フランスで一般に共有されている前提、politically correctの感覚について知らず、またそういうものがフランスにあることすら知らない人々がどう受け取るか。これを考えると日経のアンケートの質問にある

「仏内相が移民系の若者を『社会のくず』と呼んだ」

という表現では、フランスでは公の場でも「公然と」人種差別的言辞がなされるのだなと了解するのが必至のように思えるのです。そしてその前提のもとに「移民系=一枚岩的にクズ」、「それ以外(つまり移民系でない「非行少年」もこっちに入ります)=一枚岩的にクズでない」と断定しているとしか見えない発言がなされたと、イメージするように思うのです。そして言葉の論理レベルではなく、このイメージを参照してフランスを理解し、行動すると思うのです。

 われわれは、自分の教えている日本の大学生が年々いわゆる「教養」と呼ばれるものをなくしていっている状況を目のあたりにしています。それが良いこととは彼等自身思っていないようですから、この状況を招いたのはやはり日本の大人たちなのです。
 しかし教養、知識が十分なくとも、彼等は将来の日本を担う人々なのですから、彼等が現時点で少しでも状況を正確に理解できるよう、ものごとは懇切丁寧に、噛んで含めるように、相手の教養、教養主義に期待せず言わなければいけないと思うのです。
 その意味で、日経のアンケートの質問は表現が単純すぎたのではないかとわたくしは危惧した次第です。

 以上がわたくしの真意ですが、やっぱりなかなか分かっていただけないかもしれません。あるいは「考え過ぎだよ」てことかもしれません。そのあたりご意見いただければ幸いです。


 やれやれ、またムキになってしまいました。 (^_^;)
 ごめんなさい。 m(_ _)m
 これがわたしの悪い癖です。性格ですから、なおらないと思います。
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このくらいにしておきますけど

 Googleアラートで飛幡祐規さんの「先見日記」(11月22日付)の存在を知りました(今わたしは他の方のブログをチェックしている時間がほとんどないです。ずいぶん失礼をしていることと思います。 m(_ _)m もっともこちらからコメントやTBを送れるほどわたしの投稿は自慢できるほどのものでないと思うので、まあいいんですけど)。
 飛幡さんの分析は Jeune Afrique l'IntelligentのSoudan記者の書くところとほぼ一致していると思います。Jeune Afrique l'Intelligent にもこれ以上紹介するに値する興味深い指摘もないように思いますので、このあたりで止めておきます。

 しかし飛幡さんのブログがどこまで読まれ。理解され、定着するか。前の投稿に書きましたが、こういう事実の指摘は、大多数の日本の人の先入見にはあてはまらないので、読まれても頭の中に残らないのでは、と危惧しています。

 日本経済新聞11月21日「クイックサーベイ」のコラム(太田泰彦編集委員の署名入り記事)に日経のおこなったアンケートの結果が載っているのをみつけました。質問のされ方が気になります。「サルコジ仏内相が移民系の若者を「社会のくず」と呼んだことをどう思いますか?」となってます。これではサルコジが移民系全体を人種的に全部まとめて貶めたとしかみえない問い方のようですけど・・・
結果は:
 許せない−−45.8%、政治家が自らの責任を棚に上げた発言でおかしい−−38.9%、若者にも責任がある−−9.4%、その他4.9%
となってますが、問われた人たちはサルコジ内相が、形の上では破壊行為を行う者を非難しているのであって、上から見ても下から見ても人種差別としかとりようがない言葉を吐いたのではないことを、はたして皆了解していたのでしょうか・・・ (^_^;)  日経さんに確かめてみたい気がします。

[以上の箇所については重要な指摘がありましたので、下のコメントのところを御覧下さい。「上から見ても下から見ても人種差別としかとりようがない言葉を吐いたのではない」のところは最初「人種差別を行ったのではない」と書いていましたが、これはいかにもなまくら、稚拙で、それこそ誤解をまねく表現でした。おわびして訂正いたします]

 ところで、わたしのブログは単に自分の経験、読書から書いているだけで、しっかり提示できる裏付けはありません。だからたとえば本にしようとしたら資料をそろえないといけないので、そのままでは本になりません(その気もないですし)。 というか、ブログとはそういうジャンルだと思います。それだけに現象のいちばん下にありそうな、それだけに証明は難しいような何かを「こういうものではないか」という形で言ってみたいのです。
 前のエントリー「なぜこう読んでしまうか」はその一例です。

 このブログに「フランス語系人のBO-YA-KI」という名前をつけたのは、ボヤキレベルの指摘がこの領域に必要に思えたからです。証明可能な、まじめな話にとどまっていると、今回のような大事件のとき、偏見がすごいスピードで広がってしまうのをどうすることもできないように感じます。

 
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なぜこう読んでしまうか

 前のエントリーの最後に出て来た指摘は重要だと思います。これはたぶんあたってます。移民層だけしか見ていなくてはダメで、フランス全体の階層分化が背景にあることを理解しないといけないということですね。

 またJeune Afrique l'Intelligentの記事を読むまでもなく、郊外の低所得者用住宅が「移民のために」つまり隔離するために作られた、というような一部の報道における理解は間違っていますね。それなら「元からのフランス人」の低所得者層はそこに住めないことになるわけですから。

 先に「同化主義」という言葉の危険について述べましたが(黒猫亭主人さんのご指摘によるとフランス大使のブログでもこの日本語が使われているとのことです。フランス人には、この言葉が日本人にどう受け取られるかがピンと来ないんでしょうね)、ここに出て来た「隔離」とでは方向性が全然違うはずですね。でも、なんだか「同化主義」も「隔離」もフランスに併存してあるかのように見てしまう心理が多くの日本人にはあるようにわたしには感じられるのですが、みなさんはどう思われますか?

 事態をついそういう風に見させてしまうのは、われわれ日本人がフランスに対して持っている偏見のせいではないでしょうかね・・・

 こんなことを言うのは、わたし自身フランスのことを特に勉強していなかったならおそらくこのような見方を採用した可能性が高い、と思うからです(考えてみると、わたしはそんなに「フランス好き」でこの業界に入って来たわけではない人でした。単に英語の次はフランス語でもやってみようと思っただけでした。でも「アルジェリア好き」になれたのは、これはまったくわたしのフランス語能力のおかげでした)。

 「植民地主義」をやっていた国で、「旧宗主国」であり、未だに「海外、特に北アフリカにおけるフランスの存在の積極的役割」le role positif de la presence francaise outre-mer et notamment en Afrique du Nord などということを言っていて、なんの反省もしていないらしい。日本人はかつての植民地主義を深く反省しているのに。結局自分達の価値観の押しつけが「良い」ことだったと思っているのだ。「普遍主義」とか「文化国家」とか難しげなきれいごとを言うが、それらはまやかしで汚い現実を隠すためのものだ、臭いものに蓋をするのが性の人たちだ・・・というような・・・。

 だから移民労働者という「臭いもの」に蓋をするために、「彼等を押し込む目的の」住宅を都市郊外の、ハイソな人の目には入らないところに作った、というオハナシが頭の中で出来上がってしまうのでは・・・

 フランスは、そんなに大多数の日本人(とあえて言ってしまっていいように思えます・・・)の想像に都合よくぴたりあてはまるような姿は、たぶんしていません。まあ100%違うとは言いませんけど、 (X_X;) でも少なくとも全てのフランス人が一枚岩的になってこういうフランスを形成しているわけではありません。それは絶対に違います。

 それにまたフランスはどんどん変わって行く国でもあるのです。
 日本ではアカデミーフランセーズみたいな「ものめずらしい」存在ばかりスポットが当てられて報道され、反芻されるので、ついこれは数百年なにも変わらん国なのだ、と思わされてしまいますが。

 本当は、報道機関はそういう一般の偏見を正しながら報道しなければならないはずです。しかし日本のマスコミは(と一枚岩にくくるとやっぱり間違いになりますが)あまりそういう役割を果たしているように思えません。大多数の人の持つ偏見に乗っかるような報道が大半を占めていると言えるのではないでしょうか。

 これってやっぱり、新聞は売れなきゃいけない、テレビは視聴率を上げなきゃいけない、という資本主義の大原則から帰結する現象なのでしょうか・・・

 フランスは対日直接投資が米国についで世界二位の国ですよ。そんな重要な国の実情は商売のネタにされるより先に、もっと正確に分析され、周知されてしかるべきだと思うのですが。
 ・・・ニッポン大丈夫か?


 今日はなんだか書き過ぎたかもしれません。
 ご批判、ご意見たまわりたく思います。


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Jeune Afrique l'Intelligentの報道(3)

 Jeune Afrique l'Intelligent記事紹介の続きです。この雑誌ももちろん公正中立なわけではないことは分かっているつもりですが、紹介される価値は十分あると思います。しかしわたしに正確に紹介できる知識、能力があるかなあ。みなさん間違いがありましたらご遠慮なくコメントして下さい。(全訳ではない以上、本当は重要な指摘でもわたしの無知のおかげで落とされるものがたくさんありそうなのは、ご勘弁いただくしかありませんが)
 
「都市の問題地域 ZUS(Zones Urbaines sensibles)にあるのは悲惨さ misere ではない。1980年代の tout-social の政策がまがりなりにもよい効果をもたらして、最悪の場合を避けるための公共援助ネットワークがつくられているからだ」

これはフランス語の良い勉強になる文ですね。 misereとは金銭的貧困とイコールではないということなのでしょう。心理的ケア、相互援助のシステムはミッテラン時代の施策でできたものの、その効果も限界だということですか。"tout-social"はなんて訳すべきでしょう。抑圧的手段を極力避けるということでしょうが。

 あと、Soudan記者の執筆部分でいくつか興味をひかれた箇所のレジュメ。

 免税地域 des zones franches の利点に引き付けられた企業群が低所得者用住宅のそばにやってきて、雇用時には名字、出身地区による陰険な差別を行ったのだ。また言葉が満足にできず学校によりつかなくなった少年たちは行動(多くの場合破壊的な)で自己主張するようになった。

 アメリカだったらギャングのボスや不良グループのリーダーが貧しい地区の若者を引き寄せるのだが、フランスでそれにあたりそうな(イスラムの)イマームやカイドは今回の暴動はまったく指導役を果たしていない。彼等の平静を求める呼びかけもなんの効果ももたらさなかった。今回の暴動に宗教色は皆無であるelle n'a jamais pris de connotation religieuse。

 犯罪組織は警察を招いてしまうような無秩序を本能的に嫌うものであるから、元からいちばん犯罪率の高かった地区が今回の暴動に無関係だったのは当然である。
 暴動は自然発生的だった。彼等は、組織も、政治的背景もなく、自分達の住んでいる地区で破壊行為を行ったのだ。
 
 1960年代、70年代に低所得者用に建てられたこれらの住宅は次第に分離・分裂の場と化している。それは:
「特にアフリカ系の外国にルーツをもつ住民が自分達のアイデンティティに退行的に排他的に閉じこもったからだという解釈をよく聞くが、これは誤りである。おもに元からのフランス人 Francais de souche で形成されていた定職を持っていた階層の崩壊が進行して最近作られた郊外、より近代的で soft な郊外地域に流れたからだ。これらの郊外地域は何の成功モデルもないアパルトヘイト社会と化した」

(つづく)
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養子?

 「族長意識を持った男子がたくさん子供を作り、それを国が無償、あるいは廉価で初等教育を引き受け、優秀な者はできるだけ廉価で高等教育を授ける」というのはひとつのモデルで、貧しい移民層が勉強に精を出すようになったらという条件つきですが、これに世界で一番近いのはほかならぬフランスということになると思います。たしかにすごいお金が要りますから、国家に忠誠を尽くす優秀な人材が多数でないと元がとれません。まあでも、これが機能し始めれば親たちがだんだん族長意識を失って、少数の子供を大事に育てる志向を持つようになるでしょう。・・・ そしたらまた新たにたくさん子供を産んでくれる移民を受け入れないといけないですけどね。 (^_^;)

 日本ではどういうシステムが可能か、たとえば高等教育はどうでしょうか。
 日本は高等教育にたいへんお金が要ります。日本人はもともと教育好きの人たち(「教養好き」かな? (^_^;) )、子供を大切にする傾向の強い人たちなのでこれまではなんとかいけてましたが、上の学校にやろうにも「ない袖は振れぬ」という家庭が社会の大半という時代がまた来るかもしれません。
 アメリカの大学みたいに寄付をもらうのも限界があるでしょう。日本ではそういう行為にはほとんどメリットがないのだし。
 といって日本政府に、国が責任を持って理想に近い教育を父兄の負担をできるだけ軽くしてほどこす力があるかというと、それは・・・ (^_^;)

 すると昔のシステム、「養子制度」をまた活性化させるのが伝統もあって現実的なのかな、と思いました。
 日本史はあんまり知らないので申し訳ないのですが、江戸期、明治期の人は実に頻繁に養子のやりとりをしてますね。血のつながりの重みが希薄になって、「家」の形が存続すればよい、という感じだったわけです。これは西洋と非常に違った日本の特質だな、と前から思ってました。こういうのが西洋にあったなら階級はあんなにガチガチにならず、たとえばフランス革命みたいな大爆発は起こらなかったのじゃないかな、と思うくらいです。
 伸びる子を伸ばさないのは本人も不幸だし、社会にとっても不幸です。貧しい家に優秀な子がでたら、その子に教育を与える余裕のある裕福な家に養子に入れる。こういう例ばかりではないですが、この種の融通をきかせて日本社会は機能してました。
 みながこういう意識を再びもつ必要がこれから出てくるかもしれません。

 ただそうなると当然自分の意志に関わらず養子としてたらい回しにされる不幸な人もでるでしょうね。漱石みたいに(ちなみに漱石の作品でわたしが一番印象を受けたのは『道草』でした)。
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赤ちゃんに微笑もう (^o^)

 日本人には「族長」精神というのは歴史的にも馴染みのないもののように思いますから (^_^;) 少なくとも当面の間少子化対策としては、できるだけ子供を産み育てやすくする環境を整えることを考えるしかないように思います。
 物質面、制度面でいろいろやらなければならないことはわんさかありますが、われわれにとりあえずできることはしておいたほうがいい、と思います。

 わたしが最初に提案したいのは、「赤ん坊に微笑もう」ってことです。 (^o^)

 日本ではよく乗り物の中で赤ん坊を連れたお母さんが、その子が泣き出したときに周りに「すみませんねえ」とほんとにすまなさそうにして必死で子供を黙らせにかかるのを見かけますよね。そんでもって周りの人たちはだいたいむすっとしているのです。

 こんなに子供を産み育てるのが難しい時代に、よくぞ子供を産んでくれたと我々はお母さんたちに感謝すべきなのだと思いますよ。
 赤ん坊が泣きわめくのはこのうえなく自然なことなのに、なぜお母さんが謝って小さくなっていなければならないんでしょうか。

 赤ん坊の顔はいかなる敵意をも武装解除する力を持っている、というようなことを心理学関係の何かの本で読んだように思います。
 その心に身を委ねて、どんなに忙しい人も、居眠りを赤ん坊にやぶられた人も、少しその子に微笑んであげてはいかがでしょうか?

 子供というものに対する好意が基本的に社会合意として存在すると了解すれば、お母さんたちはもっと堂々としていられるだろうし、お母さんたちが堂々としているところを見るなら、お母さん予備軍たちも勇気づけられて子供を世に送り出すようになるのではないでしょうか。

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Jeune Afrique l'Intelligentの報道(2)

 Jeune Afrique l'Intelligentの記事(執筆者はFrancois Soudan)の続きです。この記事から、日本であまり報道されていない事実、指摘(といってもわたしは日本でテレビをほとんど見ない生活をしているのですが)、あるいはわたしが特に注目したいことについてご紹介します。

 この記事では、今回の事件のショックは「気息奄々となった共和的、社会的、同化的な『フランス・モデル』の衰退と、おそらくはその終焉を明らかに示した」met a nu le declin et peut-etre la fin d'un << modele francais >>, republicain, social et assimilateur, a bout de souffle とされています。
(問題の「同化」が出てきましたが、この形容詞のassimilateurは、日本語の「同化主義」という言葉によって理解されるものとは別物であろうということを繰り返しておきます)

 暴動の主体については、男子で、半数が未成年であり、学業に失敗しているか失業中かであり、大人数の家族、それも多くの場合崩壊している eclatees 家族の一員であるとしています。

 失業に関して。これらフランス都市郊外では失業率は50%近くに達し、バカロレア(大学入学資格)をとっていても(つまり日本で言えば高卒に相当します)せいぜいマクドナルドの店員くらいしか職はない。
 (職がなくて金がなければ住居が得られず)住居がなければ結婚はできないし、家庭を持つことができない。「何にもなし」le videである。
(これはアラブ系の男性たちの悩み方で非常によく聞くものですね。彼等にとって「家庭」はすごく大事なものらしいんです。日本で男性が「身を固めて」一人前に見られなければならないと思うよりはるかに強く、家族をもって、子供をたくさん作って、「族長」みたいにならないといけないと思うようなんです・・・)



 この記事の中に含まれる小囲み記事(筆者 Abdallah Ben Ali)ではFlorian Chardes, La France multiethnique de 2040 : force ou faiblesse geopolitique という去年出た本を紹介しながらフランスがこれから向かって行く多民族社会を素描しています。ここから三か所興味を引く文を引用しておきます。

「日本のように均質ながら老いていく社会モデルと、アメリカ合衆国のようにずっと若いが民族的に種々雑多な社会モデルの間で、フランスは後者を選ぶ以外にないのである」
Entre le modele d'une societe vieillissante mais homogene comme le Japon et celui d'une societe beaucoup plus jeune mais ethniquement disparate comme les Etats-Unis, la France ne pourra echapper a la deuxieme solution.
「人口を現在の水準に保つためには、フランスは毎年15万人の移民を受け入れなければならない」
「今回の『郊外の暴動』の出発点となったセーヌ=サンドニは、フランス本土ではじめて非欧州系の子供の誕生数が欧州系の子供の誕生数を上回った県である」


 フランスは、問題はものすごくたくさんあるものの、「若い」社会モデルを選べるだけいいのかもしれません。多民族社会を志向しようにも、物や制度面での準備も心の準備もまるでなくてとてもできそうもない日本は・・・ (^_^;)

 う〜ん少子化をくいとめて人口を維持するためには、日本人男性も「族長」を志向するアラブ男性の心を少し見習った方がいいわけなのですが、そんなことがもし可能だったとしても、経済が停滞すればいっぺんに失業のおかげで、「族長」の心だけあって「族長」になれない男性が多数でてきて、社会の不安定要因になるのが必至なのですね・・・ すくなくとも無料の公教育がきちんと機能して、どれだけ子供が増えても、どれだけ子供の教育に注意を払わない家庭が増えても(「族長」というのは子供ひとりひとりに注意を行き届かせはしませんから。「族長」とは「子供の方が自分に従い奉仕するべきで、逆ではない」と考える存在のはずです)教育失敗者(嫌な言葉ですが)の数を最小限に抑えられるように、そしてできるだけ多くの若者が、家庭にお金がなくても最高の教育水準まで到達できるように(結局アズズ・ベガグみたいに、ということですか)しないと今回のフランスの二の舞いになります。

 うわーこりゃ他にもファクターが山のようにあるし、問題が大きすぎて、一介のフランス語教員にはとても手にあまりますねー。 f(^_^;;)
 でもこの問題は避けて通れません。日本人は考えないわけにはいきません。
 考えましょう。
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Jeune Afrique l'Intelligentの報道(1)

 わたしの定期購読している Jeune Afrique l'Intelligent(上。これはフランス語圏アフリカ、アラブを中心にしながら世界のニュースを報道する週刊誌です)の11月13ー19日号が届きまして、今回の暴動がかなり詳細に報道されています。

 発端となった感電死事件の犠牲者はチュニジア人の職人の息子ジヤッド・ベンナZyad Benna(17歳)とその友人でモーリタニア人のブーナBouna le Mauritanien。3人の友人のうち生き残ったのはトルコ人のミュッタンMuttin le Turc ということです。こう書いてありますがチュニジア系、モーリタニア系、トルコ系ということでフランス国籍はあるのでしょう。移民系の人は、たとえば「チュニジア系フランス人」の人のことを(当然ながら)T(t)unisien と言いますから(これは言葉の問題というのか、つまりtunisienを「チュニジア人」と日本語で機械的に訳してしまうのが悪いのか、または同胞意識のなせるわざでナショナリスムの問題なのか、どうでしょう?)。以前わたしがパリの例の常宿に泊まっている時、食堂(といっても朝ご飯食べるためだけのものですが)のテレビにフォーデルが出ていたので、従業員がにこにこして「知ってるか?(知らいでか! (^_^)v) こいつは『アルジェリア人』だぜ Il est Algerien!」とのたもうたのを覚えています。

 でもこれでもよく分かりますね、フランスの都市郊外というところは、人が出自の国別、民族別のコミュニティーでこり固まって生活しているという感じではないのです。だから貧しい(いわゆる元からの)フランス人も住んでいておかしくはないのです。

 彼ら3人はサッカーの試合の帰りに警察のoperationに出会い、別に後ろめたいこともないのに動揺して(panique's, alors meme qu'ils ne se reprochent rien)、おそらくは追われて逃げた(s'enfuient, vraisemblablement poursuivis)のだと報じられています。Jeune Afrique l'Intelligentは、彼らは警官が怖く、警察署が怖く、青年裁判所裁判官が怖く、父親に叱られるのが怖かった(peur de flics, peur du commissariat, peur du juge pour enfants, peur de l'engueulade paternelle)のだろうと推測しています。・・・

 残念ながら今日はひとまずここで切ります。報道の紹介の続きと感想は明日にさせてください。今日は朝から会議と授業のアラシで、途切れることがありません。 (X_X) 夕方まで生き延びれたらバンザイです。 (;_;)
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