いそがしいいそがしい


 書くことがないのではなくて書く時間がないです。ううむ。

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フランコフォニーに関するわたしの見解(1)


 フランス語圏、「フランコフォニー」に関するわたしの見解はレーモン・ルナールRaymond Renard氏の著 Pour une laicite universalisable の書評にかなりはっきり表れていると思いますので、かなり難しいものですが転写いたします(このルナール先生はたしかベルギーの方だったと思います)。
 これはわたしが日本フランス語教育学会の学会誌 Revue japonaise de didactique du francais(しゃらくせーことにこの刊行物はフランス語のタイトルしかないのです)の2009年号に書いたものです。

 「フランコフォニーはフランス語を中核とした概念であり、フランス語が現代世界を成り立たせている諸価値の生成、育成に大きく関与した以上、また著者が指摘するような客観的事情が現代にも存在する以上、フランコフォニーがそれを望むなら、多かれ少なかれライシテ(注:簡単に言うと「政教分離」ですが、たしかにフランスで発達した、難しい概念)もまたフランコフォニーによって普遍化されうるだろう。」

 「ただ同時に、現行のフランコフォニーがその成立をかつてのフランス植民地主義に負っているという歴史的経緯が消えることはない。フランコフォニーの活躍を無邪気に期待し、諸手をあげて賛同するだけというのは、フランスをはじめとするフランコフォニーの内部でさえはばかられることではないか。ましてやフランコフォニーの外部ではどうだろうか。英語圏がフランコフォニーに投げかける視線の皮肉に満ちていることは明白である(言うまでもなく本書はアングロ=サクソン的「共同体主義」を否定的に扱う、全くフランス的な著作である)。また第二次世界大戦の敗者ドイツや日本の思想傾向に従う人々は19世紀の世界での植民地化競争での出遅れが21世紀の今、そしてもっと将来にまでハンデキャップとなってしまうことに限りないせつなさ、割り切れなさを覚えるのではないか。前世紀(注:19世紀のことです)において文明化の使命という美名でフランス語による文化の画一化を推し進めたと言われても仕方がないフランスが、いま精密な理論的装いのもとに文化的多様性の旗手を自負することに抵抗を覚える向きも少ないとは言えまい。」

 「昨年来日した著者は、京都外国語大学で行われた日本フランス語教育学会の秋季大会で講演をおこなったが、その折に評者(注:わたしのことです)は実際に彼と議論をかわす機会があった。筆者(注:ちょっとまずい書き方でしたね。これもわたしのことです)はフランス語のみに特権的地位を与えることへの疑義を表明したのだが、著者の答えは英語の対抗馬がフランス語だけなのが問題なのであり、日本語やドイツ語などもそれなりに頑張ってほしい、というような趣旨のものだったと記憶している。
 これもまた理論上はそれでよくても、世界の現状からみて日本語やドイツ語が本書でフランス語に担わせているような華々しく重要な役割を演じることは歴史的経緯からして「許されていない」のではないか。だいいちフランコフォニーに相当するような日本語圏、ドイツ語圏というものが現実に存在しない以上、それはあまり意味のない議論と思われる。」(つづく)





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「フランスは言葉を大切にする」で話を終わりにするべきではないです


 今月の『日経』の「私の履歴書」を書いておられるのは元野村証券の寺澤芳男氏です。この寺澤氏が多国間投資保証機関の長官に就任された話が19日号に載っておりました。

 ところで設立の際に、この機関の憲章にフランス語を使わないと参加しないぞと「ごねた」話が出てきます。
 このことに関する寺澤氏の述懐は「(フランスは)言葉を大切にする国だという強い印象を受けた」というものなのですが、これは日本の多くの方がフランスのこういう行為を目にするときに持つ一番多い反応だと思います。
 おそらくこれには例のドーデの『最後の授業』みたいなのが多くの日本の人の記憶に刷り込まれているということが影響しているのかもしれません(あの短編は端的にいって「やばい」というのが現在の文学研究界ではもはや一般通念といえるものになっていると思います。ただ今度は逆にあれをヒステリックに弾劾する向きが出てきますが、わたしはこれもあまり適切なことではないと思います。歴史的にフランスで非常に排外的-というかはっきり言って対独復讐の怨念に燃えた-ナショナリスムが力を持った時期の文学作品であり、少なくともこれをそのまま今現在のフランス、フランス人にあてはめてもあまり意味はないと思います)。

 寺澤氏のような偉い方に難癖をつけるようで申し訳ないのですがあえて申します。わたしは、フランスは確かに言葉は大事にするかもしれませんが、そこで話を終わりにすべきではないと思います。
 さらにフランスがいつもフランス語擁護を言いたてるのは、いわゆるナショナリスム、日本の一般通念における「ナショナリスム」の発現ともちょっと違うように思います。

 またいつものお話の繰り返しになるかもしれませんが、要するにフランスは「万年二位」の国なので、昔はイギリス、今はアメリカに対して対抗するために、なんか「普遍」みたいなものを持ち出して三位以下を糾合して一位に対抗しようとする。それの繰り返しだということがここにも関わっていると思うのです。
 
 オリンピックって、フランス人のクーベルタンが作ったんじゃなかったですか?
 ワールドカップの優勝杯って、ジュール・リメというフランス人の名前が冠してあるのじゃなかったですか?
 万国博覧会って、パリの万国博覧会協会のお墨付きをもらわないと万国博覧会って名乗れないことにしてあるのじゃなかったですか?(この最後のに関してはさすがにわたしもどうかと思いますけど)

 昔はともかく(という書き方をすると四方八方から、特にドイツ語関係からは「何をいまさら・・・」という反感を、口に出さずとも抱かれるかもしれません。これはまったくもっともなことです。これについては次に書かせていただきます)、今はフランスは「多言語主義」擁護なのです。「フランス語を入れろ」というのは「英語とフランス語にしろ」というのではなくて「英語だけにするな」ということであり、フランスがいま言っていることをほんとに真に受けるなら「フランス語に続いて、他の言語ももっと傲然と自己主張して、上層部に割り込んできていい」ということなんですね。

 事実上他の言葉がフランス語と並ぶことはほとんど無理なので苦笑するしかないですが、でも一応名目がたつことはたつのです・・・ (つづく)

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おや


 2年生がフランス語「読め始めてる」。

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おかしいな


 Wikipediaが表示されない・・・

[追記] ああ、元に戻ってますね。

 もしWikipediaが突然消えるようなことがあったら、これからの世界の人々の知的活動の形が変わるなあ、と一瞬思った次第です。2011.11.19.

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オジサン力も


 名古屋の町では、やっぱりこういうものも見れますね。

 うわ、街角で1974年の優勝当時の応援歌が聞こえてきました。

 「一番高木が塁に出て」って、そのころのクリーンアップの選手名が織り込まれたやつ。
 今はどういう歌詞になってるのかな?・・・

 その高木守道さんが70歳で監督になられるそうなんですが・・・

 さすがにわたしも思います。アイソは悪いかもしれないけど監督としての有能さは疑いのない落合さんを辞めさせるというのは、いろいろ他の事情があるのかもしれませんが、やっぱり「愚行」に見えるんですが。
 経済的には「優勝」することで十分すぎるほど見返りはあると思うんですがね・・・

 日本は若者に仕事をまかす勇気がないだけじゃなくて、オジサン力もあんまり生かしてないんじゃないんでしょうか。

 ただ勝つだけじゃ不満だ、「こういう人、こういう世界観のおかげで勝った、という神話を楽しみたい」というワガママが日本の再興を阻んでいる、ってことはないでしょうかね・・・


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南山


 名古屋の南山大学。

 きのうは金沢三時起きでなんとか九時の会議に間に合いました。
 電車の中ではひたすら寝てました。

 あわただしいけど旅は旅。

 今日は「現代フランス社会を考える」シンポジウムで、つまらないお話をします。

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ふー

疲れた。疲れ切った。
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今日は


 「すっげーポッキー」

な日だそうです。学生さんが言ってました。なるほど。
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もう、若い人たちに任せちゃったら?


 ↑サークルSのチラシです。

 右上に 総合教育棟「裏」 と書いてあるのが泣かせました。
 わたしは、車をつけるのはこっちだからこっちが「オモテ」だと思ってますよ。たしかに学生さんが普通入っていくのは逆の側だけど。
 それにやる気、進取の精神は十分こっちがメインだった。

 お天気には恵まれませんでしたが、屋内で、また雨中決行で、ヒップホップダンスやらエアーギターやら、それからわたしにはジャンル名さえ分からないパーフォマンスいろいろ、「今現在のもの」を見せてくれてました。元気いっぱい。
 学内中央のメインステージの方はちょっと聞いただけでしたが、The WhoのMagic Busだけわたしにも曲名が分かりました。これってもう40年前の曲ですよ。伝統を守ってくれてますね。それにしても大学生が、よく知ってるよなこんなもん。

 さて。

 日本は震災だ、原発事故だで国内は喪失感と不安でいっぱい、外を見れば勃興する新興国にどんどん追い越されていきます。G20だとかいってもウチの野田首相は知名度もなく、全体写真でも第二列で人に埋もれて所在なさそうでしたね。あれが今の日本の姿か。

 わたし思うんですが。
 もう若い人に全部まかせちゃったらどうなんでしょう?
 今の大人が若い人になにか教えるものを持ってると思う方が、というか強弁する方が間違ってるのでは?
 いまの日本の大人が持ってるものはだいたいネットスラングで言う「オワコン」、つまり終わっちゃったコンテンツなんじゃないでしょうか?

 日本の若い人は十分元気あるし、能力もありますよ。
 金沢大学の学生さん見ている限り、わたしはそれ、確信します。

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